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やそじま みのる【八十島稔】『鶯』1942


鶯 

『鶯』

八十島稔 第三詩集

昭和17年 月 日 青園荘発行

21p 菊倍版 上製帙 35部


  海

白い足跡はいつまでも
海に向かつてつづき
風にも消されず
残つてゐた

ひねもす
雲は浮び
董が匂ひ 春は音もなかつた

がらあきの電車が
軽く走つたあと
松林の中に
啼く鶯がゐた

私はひろげる
ものもなく
すべては微風に
まかせてゐた

岬を曲がる道は
郷愁に
あかるく
大根の花がゆれ

みづいろの
花をすかすと
ちらちらと
海が見えてゐた

  鶯

蓬ののびる
川原に沿つて
風は水脈のやうに
ながれてゐた

遅日について
語るひともなく
私は蝶と
蒼い地勢を潮つた

あ 高い木に
雲が湧き
白く辛夷の花が
匂つてゐた

そこらは
村の牧童が
角のある牝牛を
繋ぐところであつた

私は軽く
道を過ぎた
郷愁がしばらく
つづいた

私は
はるかな思ひに耽り
桑の葉を
まるめた

青い雲が
山の項きにかかると
鶯がしきりに啼いて
降りてきた

  日

いくにちか芭蕉は
苞をほぐし
蒼蒼と日を
ほぐしてゐた

爐を塞ぐ亭は
すでに花も過ぎ
松蝉が騒然と
鳴きめぐつてゐた

私は机に凭れ
はるか遠くの
ひとごゑを
聞いててゐた

あ ふるさとは
川ほりの
ころかも
しれなかつた

私は魚板のくぽみを
侘しくみつめながら
歳老いた母を
はて遠くしたひつづけた

  居

私はかぶらぎの
門をひらき
ひとり身を
光る柱にもたせてゐた

夏が近づくと
庭は森閑として
風も
無かつた

三丈の高校に桐の喬木は
淡紫の花を咲かせたが
日陰をつくる
ほどもなかつた

眼を閉ぢると
筧にひく水音は
遠く雲の中にも
響いてゐた

やがて桐の花は
伽藍のやうに
美しい廂にも
降つてゐた

私は微光を湛へ
幾千年の
営みを寥寥と
おもひおこしてゐた

  夏

沓脱石の上に
柿の若葉は
てらてらと照り返し
夏は来てゐた

昼になると
噴水は
柿の花をぬらし
なめらかな苔にも降つてゐた

私のおもひに
すべては光り
明るい枝を拡げては
満たされてゐた

孔雀のやうに
その蔭はあざやかに漂ひ
ゆれてゐる夏草は
涼しかつた

あ 私はまだ
つめたい朴の葉に
ほととぎすを
聞かなかつた

ひそかに
庭のあたりで
卯の花の香爐を
匂はせてゐた

  蜩

沼の部落は
黄昏になると
水草のやうな
蚊帳を吊るしてゐた

私は雁のやうに
黒いかげをおとし
誰よりも早く
その中にひそんでゐた

野分はむなしく
私のおもひを吹き
沼をわたつて
蘆のなかに消えてゐた

識るひともなく
蘆にもゆれる
舟を
見てゐた

あ 今日も
白萩を見にたつ
妻のうしろで
蜩がないていた

  旅

火の山のふもとは
はてもなく
野分の通ふ
径であつた

古びたいしぶみの
文字は消えさり
わずかに月日の刻が
残つてゐた

あらくれた
叢は
白い蛇のぬけがらにも
ひとしかつた

その径は
そしてふたたび
めぐることもなく
はるかに芒にかくれ

広い野を
女郎花を
漂漂とおもひは
流れて行つた

  菊

暖かな草庵の縁側には
訪れる人もなく
椋の実をつつく
鵙の聲がひぴいてゐた

落葉を吹く
風は過ぎたが
ひとり小春日に菊を作り
一切の不遇もなかつた


白くはりかへた障子に
菊の影がさし
私の影もさしてゐた

私は一椀の茶に
塵もとどめなかつた
しばらく
時雨も開かなかつた

  里

沼の雁が
枯葦の蔭に姿を消すと
夕闇に茶わんのかけらが
白く光つてゐた

私はむなしく
爐に座り
ひとり山草の火に
むせてゐた

霙の木戸は寒く
夜は茶の花のやうに臥せる
母の掌に
柚子の匂ひがしてゐた

いまは落莫と
ふるさとの思ひに
すがる手も
凍えてゐた

風は暗い土間を吹き
竹の弓や芒の矢が
わづかに
散らばつてゐた

  梅

新らしい雪の下に
芥の道が消えると
風のやうに現はれる
白い鶏が

春を告げ
新しい朝の陽を
はてもなく
ひろげて行つた

遠く富士を眺め
朝餉の前
すでに一石の
空気を吸つてゐた

やがて秋は
きらめく雪に肌を清め
頭に巣くふ
一匹の蝶を放つたが

しばらく佇つと
東の方から
凜然と
梅が匂つてきた


【詩人頌】 中嶋康博

 未だ初出の詩集(雑誌)以外には殆どその作品に接することが出来ない、このモダニズム抒情詩人の詩業について、 このたび拙サイト上の論評に関連する参考文献として、 関係する証言とともに詩集テキストを公開させて頂くことにいたしました(詩集を所蔵してゐないため、かつて古書店で書写させて頂いたものから翻刻致しました)。 著作権継承者におかれましては、御諒察を願ひますとともに、御存知の方は御挨拶御連絡を申しあげたいので住所等をお知らせ頂けましたら幸甚です。


【参考】

北園克衛の俳句       『北園克衛とVOU』1988年2月刊行(「北園克衛とVOU」刊行会) 228-232pより

 昭和10年の7月に、雑誌<VOU>は創刊されているが、その創刊号を出して間もないころに、神田鈴蘭通りの書店街を歩きながら、北園克衛は急に話題を転じて、 「古今の俳人で誰れが好きか」ときかれたので「まア凡兆だろうなァ」と答えたら、彼一流の微笑を浮べて、

 天高し一刀帯びて居を移す

という句を見せてくれた。これが北園克衛との出会いの第一句であった。同じ畏友の田中冬二なら、句作品があっても驚かなかったが、前衛詩誌<VOU>を出した直後だったし、 「マダム・ブランシュ」以来の彼の詩業から看ても、彼の句作など夢想だにしてなかったので、雷鳴に似たショックを受けたような気もしたことを覚えている。ところがその年の秋に、 岩佐東一郎と城左門が、編集発行していた文芸汎論社から、詩人と作家ばかりの俳句雑誌「風流陣」を出そうということになったが、とても手数がかかると言うので、 何冊も出さないうちに、私のところに移されてしまった。考えてみると、私の父が俳人だったと言うことで、「門前の小僧に委せておけ」だったのかも知れない。

 さて、詩を共にしていた私が、そのことから俳句の世界でも北園克衛との付合が始まったのである。 「風流陣」には室生犀星夫妻もおられたし佐藤惣之助それに既に荻原井泉水の「層雲」にも、籍を置いていた村野四郎も、同人に参加していたが、俳句文学の展開と言うテオリイでは、 彼とは一番気が合っていて、理論の上でも、一度も交錯したことなどはなかった。そのころの彼は僕は文学としての俳諧の新しさを望むが、感覚の新しさなどは、貝殻のパラソルをさして、 青物市場を散歩する、マダム・バタフライに過ぎないなどとも言った。

 彼はあるとき、<芭蕉、凡兆に告げて曰く、一世のうちに、秀逸の三五あらんは作者、十句に及ぶ人は名人なり。と。せめて一世に9句位は得たいものである。>と壮語したが、 それは北園克衛にして、しかと受止められてもいいのだろうと想起した。彼は私の乞いを受けて、「風流陣」に毎号のように、<ちよいちよい録>とか「糞やけ俳諧道」などと、 タイトルしたエッセイを書いている。その中で

 <俳諧は現実より過去へ溯る思考の一体系である。俳句はこの体系の上に展開する文学であると考える。従って俳句の正統は常に現実より過去へと展開する処に、 俳諧本来の精神があり、かかる処に俳諧の所謂伝統的姿勢がある。僕は此の観点に立って風流、あるいは風雅、寂、等々の情緒に就いて考へる。その時それらの情緒の発生のメカニズムに触れる事が出来るように思う> とも言い切った。それは当時、俳壇では一方に新興俳句というものが、新しい俳句の道として騒がれ出していたことに対する、最も彼らしい比喩でもあったと思う。 ある時期詩誌「VOU」の一つのポエジイ運動として、チェンポエムと言う、いはば鎖で繋ぐ詩を目論み、各人が1行詩を作り、それを繋ぎ合せて1つのポエジイを組立たりしたが、 その詩人の1行詩を真似たような、新しい俳句など、それは詩人の側から見れば、俳句の爰に到達した伝統を、自ら滅す行為に過ぎないと看ていたが、 シュルリアリズム「VOU」の、騎手としての彼だからこそ、その俳論が活々と息吹いていて、面白く且つ真面目とも言い得る。その彼が

<1937年7月1日(昭和12)を期して、いよいよ本格的に雅名を「天鬼」と決定することにした。そもそも「天鬼」とは天邪鬼の系統に発し、天邪鬼より少々邪気を抜いたものである。 芥川籠之介は「我鬼」と号したが、彼の亜流でないことは、天と我との格段の相違に知るべきである。尚晩年には人跡絶えたる山岳に入り、一寺を興すつもりであるが、 その時は山号を遁甲山として寺号を不問寺とするつもりである。従っていずれは、遁甲山不門寺天鬼と書いて貰うことになるであろう>と、彼らしい一刀を振りあげている。

 前にも触れたように彼の句は百句にも充たぬかも知れないが、<詩人の句でも余技だと思われてなるものか>という意識には、彼の真面目がかけてあったから、 思い出しても秀逸のものが多く泛んでくる。毎月1回の拙宅の句会にもよく顔を出したが、

 恙なき旅の終りや初霞

などは、これも出席率の良かった中村千尾、安藤一郎、笹沢美明、城左門、岩佐東一郎、那須辰造、十和田操、等の常連にも喝采を受けたもので、

 瓢箪のくびれて下る暑さかな

など、傑出したものがあり、私が夏になって雲盤におさめる色紙の中には、

 暑さかな朝顔などもはひまわれ

など彼のエッセイ「糞やけ俳諧道」の実験的な作品として、受けとめられていい俳句もある。「風流陣」は風流気の無い者達の集りだからこそ風流であると広言していたために、 巷間私達の俳句運動を、風流陣の侍達と蔭ロをたたくものもいたが、北園克衛の冒頭の句に見るように、日本刀が好きだっただけに銘刀の句も珍らしくはない。

 佩刀の反りのゆくへや梅の影

の一軸は、その傍に、銘、雲生、身長2尺6寸1分、茎6寸3分、鞘 革色、鐸 練革柄 白鮫皮と書添え、昭和17年1月上浣竹々亭居 瓦蘭堂と、誌るされていて、 日本刀の絵を添えたものもあり、瓦蘭堂と署名のあるのを見ると、「天鬼」は数年を経ず払改められていたことになる。「珍品太刀図」定価六百円の紙札が貼ってあり、 いつも悪舌る愉しんだそのころが甦って来る。その返礼に小さななぎなたを贈って、句を返えして貰ったこともある。

 北園克衛の俳句として選んで置きたい句に、

 手には兵書ただ閑にあり夏木立

 葛飾や苧植る野の大傾斜

 鞋売る家も峠も合歓の花

 野路のとある小村や葛の花

 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁

 間道の杉の丸太や日の盛

<不問寺抄>と題する中には、

谿流の淙々たるをききつつ、鬼歯朶しげる峻嶮なる山道の九折つきる処、禅刹遁甲山不問寺あり。石垣を山腹に高みと遶らしまことに要塞の地なり  遥かな頭を西北に転すれば八州を一望の裡に納め、春秋の風光将に絶妙なり。

 山門に傘ならべあり柿の秋

不問寺の糸瓜その長さ9尺 愕然として天涯より垂れ地を払へり。

 僧房に病むひとのあり大糸瓜

 奉納の鞋にほへり山の秋

 大寺の古き庇や萩の花

 初ものの栗くらひけり庫裏の朝

また

 老杉の匂ひきびしく霜の朝

 百舌なくや山狭の霧ふかくして

また

 達磨忌や魚梆はるかに響きなる鳴る

 口きりや寺門に貼りし紙白く

 山茶花のこぼれて広き庭の隅

また

臘月8日は釈尊開悟の日なり、全山夜を徹して果皮を剥ぎ器物を洗ひ糯粟、栗白米、糯米、菱角米、紅江豆、棗、桃仁、杏仁、瓜子、落花生、松子、白砂糖、紅砂糖、 乾葡萄を用ひて臘八粥を作り供養法要を営む。遠近の賓客僧徒集る者三千、将に八洲稀有の盛儀なり。

 役僧の赤き襷や臘八会

と、この一連の不問寺の句は戦争の流れにさえぎられて終っているが、彼はその後も

 南瓜あり茄子あり庫裏に風とほる

などと不問寺の句の詩想楼閣を素材にし乍ら、散文まで書き綴っている。しかし彼の俳句はどこから見透しても、彼の俳諧エッセイを貫き、 余技などとは言うべくもない秀逸ばかりで揃っている。

 喜左衛門井戸にはあらず新茶かな

 古文書をまたよみかへす若葉かな

 ふるき友と門をいづるや柿若菜

 庭帚ささくれたつや年の碁

 かたむきし垣根のはてや冬霞

などの句は、かけがえのない詩才のひらめきと、言うほかなく、その執念は戦争の激化によって「風流陣」の絶刊を強いられるまで続いているが、 私は北園克衛の会心の佳句として、

一巡りしてまた折つや女郎花

の色紙を初秋になるとわが家に懸けて、彼を偲ぶよすがにしている。

 <今日の俳句が写実の客観性を尊重するあまり、単なるスケッチに陥ちたり、都会化してゆくのは寧ろつまらない。ある一部の人々は都会に住むものにとって、 その作品が都会的になるのは当然であると言ひ、俳句に都会の感覚を導入することが現代の俳人の使命であるように考えている。 しかし前者は言うまでもなく単なるリアリストの偏狭さであり、後者は俳句の現代性が素材や技巧のみにあると考えているに過ぎない> と謂う。「風流陣」では、室生犀星の句に隣して北園克衛の句も並んだがその犀星の、

独居

山ざとの暮れのこるままに居りにけり

暮れのこるに明けかかるとは言ひにけり

机にあごつき飯まちにけり

を読んでいると、シュルレアリストの彼もまた、詩人として句作りの玄人であったことが、引例の句から自ら頷けると思う。私は北園克衛の句を反芻していると、 伝統俳句の現代への誘いが眼先にちらついて、彼に別れた哀しみさえ、なんとなく掻き消されしまう。このような句道の達人など、滅多に生れるものではないと今でも思っている。 昭和53年6月7日私は葬儀の行われた、渋谷広尾の、祥雲寺領の泰山木の花に圧倒されながら、句をひそかに彼に献じた。

 合歓や眠れわれうはうはとちちははの歳。


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