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ふの けんじ【布野謙爾】『布野謙爾遺稿集』1941


布野謙爾遺稿集

詩文集『布野謙爾遺稿集』

杉山平一 編

昭和16年8月20日 布野哲爾(祖式村・島根県)発行

並製 18.5×12.9cm 本文392,[3]ページ 頒価3円

刊行数不明


見返し    著者近影  題詩(谷口廻瀾) 悼(百田宗治) 1  2    目次

T詩集

L' Ombre
[承前]  / 黒いリボン
MEMOIRE
海のある村 / 河口
道 / 海浜詩抄
デザイン二つ / 顔
明方 / 懶惰 / 黄昏三章
[承前]
秋の歌 / 雪
[承前] / 愛する
アルバム / カンナ畑
故郷詩篇
脚 / レクイエム
死んだ顔 / 雪の夜
夕暮
明け方 / 手
病間

U拾遺 詩・短歌・翻訳・評論

野いばらの咲く日
[承前] / コクトオの肖像 / 夜のシヤンソン
折に触れて三篇
Rasselgerrausch / 街で拾つた詩篇
[承前]
苜蓿の喪
[承前]
黄昏 / 挽歌・ふらくまん
[承前] / 希臘風な夕暮
たつたひとりで / まどりがる
晩春賦
暮れいろ / 実験室
[承前] / 死の面貌
十月の日記
Qnatrain二章 / 心通はざる日に

短歌

赤山短歌会詠草 / 「浅春傷心章」
昭和七年八月十日

翻訳

若き詩人に与ふる手紙 ライナー・マリヤ・リルケ
[承前]
[承前]
[承前]
[承前]
[承前]
[承前]

評論

詩の困難
[承前]
[承前]
[承前]
非人間的詩と人間的詩
[承前] / ポエジイに就てのフラグメンテ
[承前]
[承前]
[承前]
(白紙)

V日記

104-105p     昭和9年
106-107p
108-109p
110-111p
112-113p
114-115p
116-117p
118-119p
120-121p ポオルエルユアル詩選
122-123p ジョルジュブラック アルプ
124-125p
126-127p
128-129p
130-131p
132-133p
134-135p
136-137p
138-139p 秋
140-141p [このからだのぬくみにふれるものは・・・]
142-143p 月あかり
144-145p
146-147p
148-149p
150-151p
152-153p 十一月 (うえる)
154-155p Nareissus
156-157p [生活]
158-159p     昭和10年 [元旦詠]
160-161p
162-163p
164-165p
166-167p
168-169p 断章
170-171p
172-173p [病院]
174-175p
176-177p
178-179p
180-181p
182-183p 折に触れて ある友に 少女
184-185p
186-187p
188-189p
190-191p [白い馬鈴薯の花のなかを歩みつつ・・・]
192-193p
194-195p
196-197p 旅の便り
198-199p
200-201p
202-203p
204-205p ある夕
203-207p
208-209p
210-211p
212-213p
214-215p
216-217p [彼はヴェルレーヌをあがなひ・・・]
218-219p
220-221p     昭和11年
222-223p
224-225p
226-227p
228-229p
230-231p
232-233p
234-235p
236-237p
238-239p     昭和12年
240-241p
242-243p
244-245p
246-247p
248-249p
250-251p
252-253p
254-255p 近詠五首
256-257p
258-259p 夢の記録
260-261p
262-263p
264-265p
266-267p
268-269p
270-271p
272-273p
274-275p
276-277p
278-279p
280-281p
282-283p Pantheisme亡き妹へ
284-285p
286-287p     昭和13年 詩人K氏
288-289p
290-291p
292-293p
294-295p
296-297p
298-299p
300-301p     昭和14年
302-303p
304-305p 坂    昭和14年病床日誌 五月三日入院
306-307p
308-309p
310-311p
312-313p
314-315p 十六の日よ 労咳の・・・
316-317p ある日は
318-319p     昭和15年 [元日詠]
320-321p
322-323p アンナカレーニナを読む ある風景
324p

W書簡

326-327p     昭和7年 / 昭和8年    矢野道夫×3 杢谷舜造×2
328-329p 杢谷舜造
330-331p 低唱
332-333p     昭和9年    杢谷舜造
334-335p  杉山平一
336-337p 杢谷舜造杢谷舜造
338-339p     昭和10年   平野仁啓 杢谷舜造 平野仁啓 杉山平一 草光まつの
340-341p 勝部真長
342-343p 木戸正 草光まつの
344-345p 草光まつの
346-347p 折にふれて 少女
348-349p 平野仁啓 草光希一
350-351p     昭和11年    杉山平一 平野仁啓
352-353p 杉山平一
354-355p 杉山平一 己は来た(鴎外訳)
356-357p 杢谷舜造 平野仁啓
358-359p 杢谷舜造 平野仁啓×2
360-361p 勝部真長 杉山平一
362-363p     昭和12年    杉山平一×2 平野仁啓×2
364-365p 杉山平一×2 杢谷舜造
366-367p 大矢迪雄
368-369p 杉山平一×2
370-371p     昭和13年 安部一郎
372-373p 安部一郎 杉山平一
374-375p 平野仁啓
376-377p 安部一郎×2
378-379p  杢舜造×2
380-381p 杢舜造 中野富子
382-383p 福田真杉×2 中野富子
384-385p 草光まつの
386-387p    昭和15年 福田真杉 父宛
388-389p 杉山平一 父宛

略歴
[承前] / 後記
[承前]

奥付

 題詩

音容尚憶挟書峙(時?) 音容なほ憶ふ、挟書(蔵書)峙つ (書を挟む時?)
玉折蘭摧何耐悲 玉折蘭摧、何ぞ悲しみに耐へん
宿志青雲空一夢 宿志の青雲、空しく一夢
招魂詩是断魂詩 招魂詩は是れ、断魂の詩

追悼布野謙爾君 賦奠
昭和辛巳 昭和(16年)二月 廻瀾谷口為次

 悼

布野謙爾君とは何度ぐらひ逢ってゐるか。一度はこの詩集の日記や手紙にもある通り東京で逢った。東京では二三度私の家へも来てくれたことがあったやうに記憶する。 一度は松江で逢った。高等学校時代であったらう。あの私の松江行きは布野君等がよんで呉れたのかとも思ふがとにかく大阪まで出向いた序にそこまで足を延ばしたことはハッキリ記憶してゐる。 私の家内の郷国である松江に赴いたのは、あとにもさきにもその時一度切りである。町の中の狭い蕎麦屋の二階に上り、布野君等と蕎麦の箱を幾つか積み上げて食った記憶もある。

京城にゐる頃に、私が一度朝鮮を訪れたいといふやうなことを手紙に書いたら京城の教育会に出かけて行って呉れたり、いろいろ奔走もして呉れたらしかったが、 私め京城行きは実現しなかった。その頃、布野君は妹さんを死なせたり、自分も身体をわるくしたりして、相当内面的に苦しい生活を送ってゐたらしい様子である。 「椎の木」の東京の同人たちの劃策で、あたらしい同人組織で雑誌を経営するためにいろいろの案が考へられ、私が布野君に手紙を書いたりしたのはいつ頃のことであったらうか。

布野君が喪くなったのは、あの時期のわかい日本の詩の精神が喪くなるの と時を同じふした感がある。「闇のなかではにかんでゐる海の内い裾」第三頁――かういふ感覚にも何か時代的なくらい宿命的のものが今では感じられるやうである。 布野君がさういふ時代の詩的精神といふやうなものの中でもがいてゐたことも、今から思へばいたましさのかぎりであるが、 私には死の日に近づいていろいろに彼自身を悩ませた生理的なあえぎの方が一層生々しく、また切実に身にしみて感じられる。 「いつの手紙でも父に対する保健上の注意を必ず書いた程父を案じて呉れて居りましたが、父が平素素人細工に電燈などいぢくりますので、 此の手紙でもオームの法則など公式まで示して・・・」云々のお父さんの註の文字が私にはたまらなく痛い。布野君だけでない、 その後あの当時のわかいともだちの何人かのために追悼の文字をつらねその中の一人は北支の戦塵に消えた、 そして今は私自身この註の中にゐる布野君の厳父の心境に近い年齢にまで来てゐるのである。
 わかい人を見送ることは哭しい、何か私自身罪を犯してでもゐるやうな気持さへする。布野君、私は君のために何をして上げたらいいのだらう。

昭和十六年七月十四日           百田宗治

●日記 と □手紙 より(抄出)

●「弟のゐないお正月。これが初めてである。京都で喉頭結核に類した疾をやってゐるらしい。父は口癖のやうに「俊爾はどうしてゐるだらう」とやってゐる。」(1934.1.1)

●「明日の一番(太田発)で父は京都に行くことに決した。夕方より私の体の具合が変であったが明日立つ父の心持を思って私は黙ってゐたけれど、 ちょっと入れて見た体温計が八度を示したので急に床を取って寝ることになり、遂に父に告白せざるを得ぬやうになった。父は余ほど心配してゐるらしかった。父もであるが、 私もやりきれない。大学の試験を前に一家がこの不幸である。」(1934.1.3)

●「弟の病気は殆ど治療のほどこしやうなく、ただ景山の叔父さんが医者的情熱を以て自分の独創で直してみせると云ってゐる。(中略) 松江についてから草光へ先づ行った。 それから街がなつかしさに、あちこちほっつき歩いた。明治屋、ガルボ、ETC。大槻写真館で彼女が店に出勤してゐないことを聞いて少々不安になった。 休中だってあんなにしてゐた彼女は手紙一本もよこさなかったから、何かが起ったにちがひない」(1934.1.7)

●「日記の意義――たれにも見せぬためのものといふやうな言葉はいやだ。私は少なくともそのやうな意味で書いてない。私の日記は、どこまでも、毎日の遺書である。」(1934.1.29)

□「杢谷君おたよりありがと。私は十五日ころ迄松江にゐようかと思ひましたが、突然十四日に帰ってきました。おかげで十五日の弟の哀れな詩に逢ふことが出来ました。京大の受験日で、 しかも母の命日に死んだ弟は、私の落第にもなにか関係があったやうです。(中略) 下宿はこんど雑賀のかつて井上君のゐた家へ井上君の紹介で入りました。 「また」とうさん臭い目をしないで下さい。あそこのメチ(Mädchen少女)がたとへいかなるアピールを示さうと、私のいまのやうにかなしみ疲れた心には可笑しくみえる位のことだと思ひます。 それでも井上君の言によると、宍道氏 (※宍道達?しんじすすむ:詩人)のフラウになる筈の上のお姉さんが、 ごくやさしいひとださうですから、心地よく家に居ることが出来るかと思ひます。(中略) 詩は相変らず一人でやるつもりです。張り合ひをつけるため、椎の木の同人になりました。 五月ころから私の詩が見たかったら、三条河原町西入の「そろばん屋」の店頭で椎の木を開いて見て下さい。」(1934.4.4 杢谷舜造宛)

●「東郷元帥の国葬日。学校では式があった。かういふ式は嫌ひだ。式そのものではなしに、生徒の態度がいやだ。式場が騒然として、半分野次気分で居り、 然もそれを大人であるといふ証左のごとく振り廻すやつの気が知れぬ。実に気障だ。(中略) 昨日「椎の木」が来た。左川ちか、江間章子の次の方へ載せられて、いささか恐縮した。 すこし本格的に頑張らぬと恥しい。」(1934.6.5)

□「キネマ旬報で頑張ってゐるさうですね。四月以来私のことでもひとくさり語りませう。三日帰省した翌日弟が死んで、あれ以来猛烈な不眠症に襲はれました。 それに酒のたたりで体を毀してゐたので、もうこのままではいかんと思ひました。それでも新学期正直に出て来たのですが、いつの間にか執拗な喉頭カタルに悩まされ、 医者の診察をうけると軽度の気管支音が聞こえるといふ。それからは酒を断ち、薬餌に親しみいまころでは常態に近いです。 (中略) 東京にゐて“椎の木”のこと思ひ出して下さって嬉しく思ひます。」(1934.7.4 杉山平一宛)

●「二十三日からこちらの海岸に来てゐます。(中略) こんな海水浴みたいなことも私のやうに医者の薦めでやるやうでは面白くありません。(中略)  神戸は暑いでせう。君は「青樹」持ってゐませんか。また落ちついて書きます。」(1934.7.8 杢谷舜造宛)

●「朝、百田宗治氏より来信あり。主として“椎の木”経営についてのことであった。新しくアンデパンダン制にしたものの集まった作品のレベルが余りに低く、遂に十名位を 編集委員とし、委員中心の純粋詩誌にするとのことであった。小生もその一員に推されたが、拠出金が余りにその額が大なので、 これを何とか緩和して貰へないかといふやうな意味の便りを出した。」(1934.8.20)

●「宍道氏より通信あり。小生の詩は繊細に過ぎるといふ。その憾みはずっと以前から感じてゐた。しかし、宍道氏の津村、丸山氏を以て至上となされるには、 いささか同感を持ち難い。丸山氏の詩などにいいところはあるが、やはりそれは、大きな岩石の中に、宝石がちらついてゐるに過ぎないやうなものもある。 此等はただ自然を言葉の巧みで感じよく述べた場所が多い。その詩に、対象に対する魂の交流を直接に感じさせるものがない。直ちに返事を書いた。」(1934.8.21)

□「「椎の木」の最新号を見ましたか。九月からアンデパンダン制になります。一昨日百田宗治氏より来信があったのですが、アンデパンダンで集まった作品が意外にレベルが ひくいとこぼしてゐました。旧同人が中心となることは論を俟たぬことでせう。」(1934.8.23 杢谷舜造宛)

●「ボン書店より、レスプリ・ヌボウの同人になってくれと言ってきた。」(1934.8.30)

●「春琴抄に対する保田與重郎氏の評論は面白く読んだ。「章別の空白頁にあるものこそむしろ作家の格闘すべき対象であると考へる。」といふところは実にいい。 人間生活の関心事なる、必然と偶然の二つのカテゴリーにあって、横光は前者、谷崎は後者をとるといふのである。」(1934.9.3)

●「帰途、春山行夫氏の文学評論を求めた。これは勝部、友繁君との共同出金の上で回覧するといふことになった。」(1934.9.9)

●「百田氏の「詩作法」来る。昨日百田氏の来信によれば十一月上旬、春山氏と同行の様子である。十一月号「椎の木」には作品の外に短い感想のやうなものを書いてくれとのことであった。 「詩作法」の読後感でも書かうかと思ってゐる。(中略)  夜、景山(節二)君来り現代詩講座、詩と詩論第十四を持ち来る(返却)グウルモン詩鈔、苑第三回を持ち帰る。」(1934.10.7)

●「夜、京店で 東大仏文にゐる岡田君に出会ふ。同人誌“貨物列車”を一冊いただく。日曜から続いてゐる不可解な発熱を感じつつも今日の悪感情の嫌な面がまへにうちのめされて酒を飲む。 更科食堂で約四時間頑張った。」(1934.10.23)

●「今日は北川冬彦氏に逢へる晩であった。七時半、定刻に森永キャンディ・ストアに集まった。冬彦氏の傲岸な構へは、一脈横光のそれに似たものがあった。
むっつりしてしゃべらない。始め失望した。そして氏の詩集、戦争のことに話を及ぼすと、今日は詩人としてきたのではないといってこれまた放さない。
しかし話は、私がシネ・ポエムから切り出したらうまく詩に向った。ポオル・エルュアールの訳者、北川氏。
私が彼を感嘆すると、北川氏もまた感嘆を久しくして居られた。あのなかに、あの傲岸な構へのなかにうる、はがねのやうなセンシビリテ。私は、北川氏が、限りなく好きになった。
エリュアールの訳詩集の出版を極力すすめて置いた。私が医科へ行かねばならぬことに対しても、何か同情の言葉をもらして居られた。
東大へ来るか?と言はれたとき、とても東京へは行けぬといったらそれはといって、同情してくれた。
東京へ出たら立ちよってくれとのことだった。岸君と、もう得意満面で更科へ行って飲んだ。」(1934.10.26)

●「平野仁啓君の詩について。

平野氏は私が時をり書信を交換する“椎の木”のうちでももっても親しい人のひとりである。といって一面識あるわけではない。 そして書信のうえでさへ詩についてお互に云々することがごく罕である。たいていは空の模様や小鳥が飛んでゐることやお互の健康の注意などで終始してしまふ。
余程以前に平野氏は、私が「椎の木」十月号に発表した詩に斜面的な不安を感じたと言ってよこした。そして、いつか見た私の写真を思ひ出したといふ。私はそこ迄読んで、 私の顔が見られてゐるときと同じやうな羞恥を感じたのを覚えてゐる。
私はつねに平野氏の作品にある種のダンディを見る気がする。それは決して悪い意昧のものではない。ボオドレエルにおいてほ、 彼のダンディがストイシズムに通じてゐるといったやうな意昧においてである。
そして少くともフランス的なそれでほなく、ドイツ的なそれである。氏はいたましいまでに詩のカテゴリシュな追求をする。その結果、一作ある毎に無人の極北へ逃げてゆくやうだ。 彼は孤独である。孤独が彼のダンディでもある。われわれはしかしおしなべてすぐれた芸術には多かれ少かれこのやうなダンディを見て取るではあるまいか。しかし、平野氏は、 詩の後天性を主張するやうな無暴は決してしない。彼は言語の純粋性を口にするが、この純粋性がただちに詩であるとはいはない。
そこが、彼の思索があくまでドイツ的であるに拘ず、雨にも傷つけられる感性の痍痕をわれわれにひたと感じさせる所以である。
彼の詩における後天性とは、あくまでパトスを見えるものとするだけにとどまる。彼はよく口にするやうに、原ポエジイ(彼の造語のやうであるが)の偶然性を信じる。
氏の寡作の原因は思ふにここにあるらしい。氏はいつか「自分は詩を書き慣れることは永久にないだらう」といふやうなことを書いてよこした。若い者たちの知性の活動には全く目かふさぎ、 「いたづらに枝葉の枝にこり」などと簡単にかたづける所謂既製詩人の一部のひとに、私は平野氏のやうなまれにみる良心を見せつけてやり度い気がする。
氏は言語の純粋性を期するために、言語のdie Organische Relation(有機的関聯とでもいふべきか、かって、思想――誌上で中島栄次郎氏が用ひて居られたのをそのまま用ひる)を排して、 die Dialektische Relation弁証法的関聯に向ふ。
氏の原ポエジーは、この後天性にかへって把握されやうとするのである。それ故並列においてみるべき氏のポエジーは、ほとんどつねにその行間の空白から垣間見られる。 氏のフェイタル(運命的)な感情は裸で浮動してゐる。あるときには、底知らぬ虚無へつきおとされたやうな疲労が私をとらへる。
そして直列においてみるとき、一本の太い筋でつらぬかれてゐる。ひたおしにくる内からの律動が、よく私たちを時問と共にいづれかへつれ去る。
そこで氏はひとつの止揚をこころみる。もういつまでたってもふり返らない。われわれはいつまでも、極地に向へる氏の孤独なうしろ姿を見るのみである。
氏の「夏」といふ詩篇の終りの二行(?)に□ないといって友人に叱られたと氏がかって書いたものを記憶する。
私は、これを氏の肉体のせゐにし度い。
平野氏は、この私の無暴な解析をゆるしてくれるだらうか。終りに氏の健康をいのってペンを擱くとする。(この一文は、全く私の記憶をたよって書いたのでまたの機会に訂正する)(1935.1.1)

□「東京にゐます。あへなくも京大を落ちました。どうも当日体の具合悪く小生の実力の半分も出なかった(口実ではなく事実です)やうな気がします。 身体検査で看護婦の検温の結果、熱が八度もあり、その翌日再出頭を命ぜられ、レントゲン室につれてゆかれたり散々な目にあひました。小生落第の原因もいくぶんこのあたりにあるべく、 但しいま一回京大でも受けることになれば、その辺はたしかめるのですけれど、どうなるかいまのところ決心がつきません。 精神的にも肉体的にもまいってしまったので、城大(京城大)医学部をうけに実はこちらに来たのですが、この方は90%まで入れたやうです。 (落ちたときはシャッポぬぎます)しかし朝鮮ゆきはさびしいですね。土地不案内と極度の疲労でまたお逢ひせずに帰ります。残念ですけれど許して下さい。来月の五日ごろ故郷帰へります。 新しい詩雑誌のこと、私も加へて頂きたくあります。また腰が決まったら便りします。本郷追分町にて――今夜東京をたちます」(1935.3.28 平野仁啓宛 全文)

●「夕食のとき父に、□が美濃部博士との面談を拒絶したことで、僕の憤慨してゐる旨を述べ、父がおとなしく僕の意見をそらさうとするに喰ってかかったり、 実さい後から考へると僕は馬鹿なことをする奴だと、あはれになった。なぜ゜こんなことまで言って父を弱らすのだらう。もうこれは神経衰弱のタッチがある証拠だ。
山村酉之助氏より来信。阪本、阿部氏来阪、面談されたとの由。“椎の木”の同人費も払わなきゃと思ふ。この金銭の問題と僕の生活との間にはかなりのヂレムマがあるので、 いつも苦しむ。今日もそのことを考へ胸くるしくなり熱の高くなるのを覚えた。梶井基次郎全集は手放すつもりになる。 今日森脇氏にその旨を報じてまた読み返すと今日のやうな日には泣かされるやうな書簡がある。」(1935.4.3)

●「物理学下巻を註文す。四季を註文す。」(1935.4.17)

●「景山叔父よりレントゲン写真を送り来る。景山節二君より来信。」(1935.4.18)

●「浜田へ行く。サロン白百合で水谷八重子に似た女給を見る。こんなことを真面目な顔をして書いてゐるおれの顔――ちょっと可笑しい。」(1935.4.18)

●「景山君に次のやうな手紙を書き、出すことを止めた。“詩並びに五月号四季、慥に落掌いたしました。あれからどうして居たのやら、毎日ぼんやりして…”ここまで写して 来て書くのがいやになった。書き残すほどの代物ではない。」(1935.4.25)

□「昨年便りして以来全く御無沙汰して居ましたので何から書いていいのやら分かりません。長い便りを書かうと思ったのでありますが、岸君へ長栄館気付で出 したレタが全く梨のつぶてであるために貴兄達ははたして同じ屋根の下なるかと疑はしく思はだし、(中略) 岸兄によろしく。」(1935.4.28 杉山平一宛)

●「朝早く起き上り“独文評論”の顕彰答案を書く。書いてる最中に杉山平一君よりの書簡到る。岸君は指をわづらって閉口してゐるらしい。杉山君の詩、数篇同封しあり。 “感傷について”他。これは四季誌上で三好達治氏がなんとか言ったものなり。
昼寝するといつも熱の出る四時ころは七度にならずにすむ。明日から行儀よく寝ようと思ふ。草光まつの女史よりはさっぱり通信なし。なにかバタバタ活動して居られるのであらう。 それとも小生のわるふざけにフンガイしてか。」(1935.5.6)

●「そろそろ山村(酉之助)氏との約束もはたさなきゃならぬなと思ひ、気があせる。(中略) 実は山村氏から、 同氏の作品について何か言ふことを七月号の私の課題にされたのである。これは私には過ぎた注文であるとも思った。しかし私は、 とにかく思ひ切って謙虚に私の心のうちを語る気になってひきうけた。」(1935.5.12)

●「杉山氏より人生劇場を貰ふ。景山君より来信。」(1935.6.4)

●「萩原朔太郎氏の「純正詩論」の「西洋の詩と東洋の詩」を読む (中略) とにかく詩人の重要視されぬことが、詩不振の原因であり、その原因は西洋の詩を祖とする日本詩が、 日本文壇に相容れぬにありとする。小生思ふに、かならずしもさうであるとは思はない。それよりもむしろ方法との深化により、いちぢるしく詩が専門化したによると思ふ。」(1935.6.17)

□「手紙が面白くなくなるのはつまらぬものです。これはおそらく生活に秘密が出来るからでせう。私なんかこんな男だから、一生青年のやうな手紙を書いて死ぬる直前に悟っ たやうな顔をするじゃないかと思ひます。どうもこれは想像ですが、大学をおっこちても身に沁み方の少ないやうな奴は一生涯この通りかも知れません。近ころ 私の理想とする女性のタイプなんていふものが全く目茶目茶に毀れてしまひました。(中略) だらだら書くことすでに四枚、もう一枚なにか書かぬと終りが変てこです。 私がいつかお手紙を見せて紹介したひと、いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、 なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。 まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、 ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養) やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18 草光まつの宛)

●「椎の木へ「病間」といふ詩を送りました。あくまで忠実に、無技巧に書いたのですが、つまらぬものになりました。とにかく八月号を見て貰ってからあなた (景山節二)の感想を聴取したいと思ひます。ここまで書いたらまたうつすのがいやになった。」(1935.6.25)

●「昨夜ねるとき吐いた端のなかに血があったので気にしてゐたが(これは五月中旬頃にもあった)、今朝はいよいよひどくなった。」(1935.6.28)

□「一昨日朝少量吐血いたし、愕然として大家村のさる医師の門をたたきましたところ性のわるい喉頭カタルとのことで、こいつがまた変なことに熱なく」(1935.6.30 草光まつの(叔母)宛)

●「柏木俊三氏の“椎の木”7月号の詩。(中略) 何にも歪められないひとときの自分をとらへることはなんといってもたのしいことだ。 柏木氏の詩はいい詩だと思ふ。」(1935.7.13)

●「K女史より来信なし。なにによって私が女史をしたひ、また私が愛されてゐたかが疑はしくなった。要するに私は愛の代用物であったのか――などと思ってみる。 (中略) 昨日、岸富造君よりコギトを貰ふ。椎の木の小高根二郎氏の詩も見ゆ」(1935.8.10)

●「吉村冬彦(寺田寅彦)を突然好きになる。これから大小残さず読まんと思ふ。杉山平一氏より昨日、日本浪曼派をうけとる。」(1935.8.10)

●「山村氏、景山叔母、糸井、田淵の二君に便りす。景山君より小生の「病間」といふ詩を賞め来る。意外なり。」(1935.8.10)

□「日本浪曼派うれしく読みました。太宰氏の「物思ふ葦」は美しき悖徳の書。どこか筆者の貪婪なエゴイズムが見えて快適。 檀氏の「花筐」序は川端氏に似たキメの細さありてやはり才筆だと思ひました。後編が見たいと思ひます。小生九月八日ころ京都に出ます、そのころまでアシヤの方に居られるやうだったら、 いちど京都へおいでになりませんか。京都では当分「椹木町通室町東入景山栄三郎方」にゐます。烏丸丸田町で電車を降りるのです。杢氏などと交へて会談したし。 小生はそのころより詩の方とも当分手を切るつもりです。九月“椎の木”には「手」といふ詩篇を発表、どこか店頭でもあったら見て下さい。」(1935.8.31 杉山平一宛)

●「昨日のことを一緒に書く。
一時ころ景山にゐた。そこへ杉山平一、井上の両君来る。しばらく会談。一緒に小生の下宿に来る。夕食を喫すべく四条通へ出る。朝日会館地下室でライスカレーを食べた。 お腹の具合悪くこれが今月はじめての食事なり。杉山君「椎の木」の江間章子氏のことについてちょっとふれた。田所太郎君ちょっと知ってゐるといふ。 田所が仏文なることを告げるとヴァレリが云々と喋ったといふ。(喋ったは小生の誇張か?そんな気持ちを想像した。)長崎屋、フランソアなどへお茶を飲みにゆく。 紅茶二十銭也には田舎者の小生は愕く。帰りの電車が立命館の前を通った。弟のことを思ひ出してかなしくなる。この門のあたりを痩せた体で歩いてゐたのだ。」(1935.9.14)

●「昨夜、杉山、杢谷来り、今日午すぎ再び来る由。宿の方へ告げ帰ったので待ち居る。はたして来る。四人で四条通へ出る。フランソア、正宗ホールなど歴訪。 (中略) 一緒に東京へ発つ杉山を送って駅に出た。雨どしゃ降る。杢谷と一緒に下宿に帰り、深夜まで猥談に時を移す。」(1935.9.17)

●「僕は受験生活にある。街では日記帳が出はじめた。梶井の“冬の日”を読む。また新しい思ひあり。S――ほんとうに私を愛してゐるやうな目つき。 私はいまの生活のせんかたなさから無関心をよそふ。それはSも知ってゐる。」(1935.11.22)

●「昨夜糸井君と別れて帰ってより「椎の木」に詩を出さんものと四時ころまで思案して遂にならず。いささかくさってしまった。閑暇のない小生には無理である。 入学試験のことが気にかかるのでなにも出来ない。この際、すべて諦めて試験準備に没頭するのが賢明な策だと思った。同人費だけ送ってちょっとかるい気もちになった。」(1935.12.6)

●「三好氏は、自然のメカニズムの前で絶望することの美しさをこころへてゐる。私もいくど、この徒労をくりかへしたことか。ひとひねり、 ふたひねりした自分のみぶりの、自然とのコントラストにおいて、いかに見にくいものかをこころへてゐるのは、この「山果集」だ。これはまた抒情精神の欠乏かと見らるるが、 さにあらず。そんな心配がおこる。しかし私は三好氏のなかから「よわひ」を感じる。」(1935.12.6)

●「田所太郎君に電話す。「今夜長栄館へ来る。」と言ってゐたけれど、間もなく正門前の白十字にゐるから直に来るやう今度は田所から電話がかかった。二人で銀座に出た。 東京で正月を過ごしてゐることが、なぜか嘘のやうに思へてならない。」(1936.1.1)

●「七時過ぎより省線で百田氏を訪問すべく出かけた。岸君と同伴であった。“椎の木”の高松章氏などにも逢ふ。 中野界隈のおでん屋、実に汚いおでん屋で呑んだ。百田氏におごっていただいたことになって、いささか気の毒に思った。京都から何か送らうと思ふ。帰途、 長崎謙次郎氏経営するところのおでん屋へゆく。そこへA、N、J(?)など入ってくる。これだからA氏はいかんと思った。実に気障な男だ。こんなふやけた生活をして何がいい小説が書けるものかと、 義憤めいたものを感じた。もう誰にも、殊に小説を書くやくざな男にだまされてはならぬと思った。もう少し立派な態度になれぬものであらうか。 あれだったら文学青年の域を一歩も出ない。(中略)群小のやくざ作家、自らほろぶべし。(中略)“純情ないい子を見つけたんですよ”これがN、Jに言へるAの言葉である。 そしたらN、J氏、みにくい歯をだして、にたにた、いなへらへら笑った。」(1936.1.7)

●「京城行きの準備をする。(中略)夕方墓参。ひとりで墓石のたった丘をあとにするとき、いつもさびしい気持ちになる。死んだ弟もこの道を歩いてゐたのだが。 (中略) 明日はいよいよ玄界灘を渡って京城へ行くのである。」(1936.4.10)

●「鴎外記“みれん”を求む。“四季”も。杉山君の詩もあり。」(1936.4.26)

□「ぼんやりと昨日書店で見た柏木俊三さんの詩や菱山氏の暗愁のエピグラムのことを考へてゐるうちに、あなたにお便りしてみたいと思ひ出しました。 (中略) あれ以来雑誌のこともあまり考へてゐません。なんといっても金の捻出が一大問題なので困ったものです。一ヶ月十円はちょっとつらいです。ほとんど私の方では目算が立ちません。 こちらへ来てから百田先生にも何も便りを差し上げてゐないし“椎の木”の方も全く絶縁状態だし、こちらにはそんなこと話し合ふ人はなし頭から何もかも抜けてしまひさうです。 (中略) 文藝汎論の木下勇さんの小説“現代詩”における高祖(保)荘原(照子)の詩など、みな立ちよみしました。(もっとも木下氏の小説はよんでゐません) しかし両氏の詩も、いまの私のゆきつまりに何の示唆もあたへてくれませんでした。菱山(修三)氏のにしてもまたかと思はせられたにすぎません。(中略)  鴎外全集は必ずとりたいと思ひます。いままでは忙しかったので全集なんか求める元気が出ませんでしたが、これから酒を節して本を買はうと思ってゐます。」(1936.5.20 平野仁啓宛)

□「杉山兄、もうあしやへ帰ってゐますか。朝鮮落ちといふ惨めな姿になってから、とんと御無沙汰してしまひました。(中略)  詩はいつも拝見してゐました。“ボレロ”がいちばんひびきが高いやうに思ひました。我々(といってはよくないが) 無力なもののふんまんを手際よくすくってくださった君を朝鮮のさる書肆の店頭で顔を赧め乍ら読んだ日を思ひ出します。爾後詩を語るときは、いつも友達に示します。 京城にも詩のグループのやうなものがあります。こちらの病院の眼科の人で相当本気でやってゐる人があります。“相当”なんて用ひるのは失礼かも知れません。 森田四郎といふ人です。いつの間にか仲よくなって、おかげで京城のさういふグループはまたたく間に知り合ひになりました。それにしても詩の出来なくなった小生に何のグループぞ、 といふなさけない感慨がこみあげて来ます。椎の木の連中とも殆ど絶縁状態です。柏木(俊三)、高松(章)、平野なき椎の木もさびしいことと思ひます。近ころ見てもゐません。 平野君から雑誌を発行しようか、といふやうな手紙が来てゐました。柏木、高松も加へて出す心算らしいです。」(1936.7.12 杉山平一宛)

□「四季の会に出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。 貨車についてのこと、小生も加はり度いと思ひます。どうしても高校時代の連中が集まらんとうまくいかないやうな気がします。(中略) 京城には詩マニヤのジンゲル(芸者) がゐるさうです。しかしはたして彼女四季を読みあるひはフランスの詩を解するや否や知りません。(中略) 追伸 その後“椎の木”は出てゐますか。江間章子の詩集見ましたか。」 (1936.7.20 杉山平一宛)

□「あれ以来とんだ御無沙汰いたしました。実は下宿捜し(京城の下宿の尠ないことお話になりません。)と死体解剖の実習に追はれて寧日ない有様であったからです。 (中略) 柏木、高松さんは健在ですか。東京のニュースを聞かせてください。」(1936.10.7 平野仁啓宛)

□「ぼくは現在、クラブントの詩集を求めたいと思ってゐます。鴎外さんなどがちょっと紹介したのち誰も紹介者がないやうです。(中略) 追伸 斎藤茂吉氏は私の私かに敬ふ人です。 私は中学のとき国語の教師から“赤光”“あらたま”を借りうけ三嘆したものです。そしてそのうちの秀歌はほとんどそらんじてゐました。」(1936.11.8 平野仁啓宛)

●「十二日の朝血を吐いた。所謂喀血であるか否かは疑はしい、しかしひとまづさう思って養生した方がいい、と佐藤保太郎氏は仰言った。下宿で肺病あつかひにされ、 すべてを白眼視されるのがつらい。(中略) わがひとに與ふる哀歌 伊東静雄(略)」(1936.12.15)

□「今日手紙をうけとった。先便のごとく、この病院に臥床中なり。床のなかで君の詩を読んだらえらさうな言ひ方だけれどいい詩だと思った。少しもモヤモヤしたものがない。 私はそんな詩が欲しいと考へてゐる。おかしな影をつけてみたって大方は頭のなかではびこった観念の雑草の影でしかない。それよりはっきりした詩が書きたい。 君の“ボレロ”を読んだときこれだと思った。世間がかしましく言ふほどに私は津村氏の詩品を愛さない。また最近の丸山氏の作品も余りいいと思はない。立原氏の作品も不満だ。 萩原氏はあれをすぐれた恋愛詩人といふ。私はこんな言葉にはお座なりが大いにあると思ふ。(あふむけになってゐるので書きにくいことおびただしい。) 室生氏は我々の詩に出来ないものを手がるく詩にしてゐる。」(1936.12.19 杉山平一宛)

●「夜は船橋聖一の“藍色の道”を読む。私が考へてゐたよりいい作品だった。船橋氏を食はずきらひにしてゐた。」(1937.1.1)

●「AlainのQuatre-vingt-un chapitres sur l'esprit et lespassions.(精神と情熱とに関する八十一章)の小林氏訳を読む。非常に晦渋。 早く仏蘭西語をうまくなって原書で読みたい。」(1937.1.7)

●「夜、森田(四郎)氏“四季”を持って来て下さる。杉山の“秋晴”といふ詩、岡田の“希望”などのってゐた。杉山の詩、気持ちはいい詩であるが、 屋やテクニックが目に立ちすぎる。いち日ぢうAlainの訳を読み、鴎外の椋鳥通信をよみ、すこし疲れてしまった。熱最高七度一分。」(1937.1.8)

●「杉山より芦屋からLes Fleurs du Mal (悪の華)を送り来る。 巻頭のボオドレエルの写真とてもよかった。杉山の手紙は墨で書かれてゐて、とても味のある字になってゐた。」(1937.1.9)

□「唯今Fleurs du Malをメッセンジャが前の病院からとどけてくれた。パラパラ繰ってみて尚フランス語の不勉強を感じた。なんだか送って貰ったことがすまないやうな気がしてならぬ。 “四季”の君の詩、並びに岡田のもの昨夜ひとから借りて読んだばかりであった。これについては後便でなにかしゃべらして貰ひます。先日鴎外全集の“椋鳥通信”を読んでゐたら、 クラブントの詩がワイセツの廉で御法度にふれたなんていふ一文があった。恐らく清新な詩であると思ふ。なんとかして我々なかまで宣伝の労を取らうではないか。」(1937.1.9 杉山平一宛)

●「看護婦の趙さんが京都大丸発想の荷を持って来てくれた。景山叔母の送って呉れたものだ。いつも叔母には頭が下がる。あの親切さはまったく母のそれだ。 このやうな叔母を持つことはなんといってもうれしい。」(1937.1.17)

●「岩井教授回診。“もう大丈夫だな”といふ声をはっきり耳にした。」(1937.1.19)

●「松崎医師が“どこかへ転地するかな”と仰言って居られた。小生の病気も一段落ついたのではないか。」(1937.1.22)

●「杉山より来信。クラブントの詩集、大阪丸善で手配してくれた由。“悪の華”の三好氏の訳をうつして送らうかといふ。杉山の心つくしには頭が下がる。 友情は一種のstoisismeだ。男同士である場合。」(1937.1.27)

●「いち日、ほとんど本を見なかった。それでも熱がよくならない。内地へ帰って見度くなった。そうするより外、この微熱をさげる方法はない気がする。」(1937.1.31)

●「小生の熱はどうやら復旧した。三時ころは死んだやうになって眠ったらしい。眠ると熱は下がる。(中略) 昨夕、杉山より来信。例の雑誌名がいろいろあげてあった。曰く、天旗、蝙蝠、茜、雪崩、巣、学校、鉛筆、ポアンなど。杉山は“学校”を推す。小生もこの中では賛成の方なり。 田所太郎君は“銅扉”を主張する由。あまり凝り過ぎてゐるきらひあり。
小生の気胸はどうもやらぬらしい。いちど内地へ帰り度い。」(1937.2.6)

●「昨日岩井教授から、内地へ帰っていいといふ許可が出たので、今日はレントゲンにかかりに行った。」(1937.2.10)

●「歯科出診の帰途、眼科再来の前で森田氏によばれたので入って見ると朝鮮詩壇といふ雑誌の発刊案内であった。(中略)  病気したとき位は貧富の差別のないやうな病院がたててみたい。私はまた優越感をそのまま受容するほどの度胸がない。優越感は私にとって苦痛だ。朝鮮民族に対して、 内地人は優越感を持ってゐるといふ。弱者はすべからくむほろぶべしだ。といふやうな非情なつら魂はひょっとしたら崇高なものかもしれない。ただ、その気になれない小生にとっては、 朝鮮の現実は苦痛だ。」(1937.2.12)

●「退院となると、かへってもう少しゐたくなる。」(1937.2.17)

□「本日京城より廻送し来ったハガキ拝見。実は小生も数日前東京あて通信したところであった。期せずして二人とも茂吉のクラブントのことにふれたのは面白い。 (中略) 小生しかし治療のつづきがあるので四月二十日ころ(或ひは十五、六日ころ)京城にゆく。四月末京城に旅行する気はないか?」(1937.4.2 杉山平一宛)

●「東大門小学校の側 を通りつつ、小生の命はなんにしても短かからん、などと思ふ。病に殪れなければ戦争で死ぬるならん。などと思ひ、くらき思ひをする。」(1937.4.24)

●「百田氏より来信ありて、五月末乃至六月初旬、朝鮮へ来たいとのこと。早速その歓迎について森田氏と相談すべく病院へゆく。 (中略) のちK氏と二人でいろいろ詩について討論す。氏が森山啓の詩を見てゐないのに驚いた。そしてエセーニンも知ってゐなかった。(名は知ってゐたが。) 氏の信念はいたってはっきりしてゐる。その点感心するが、そのはっきりしたものがはたしてどれだけの試練を経て来たものであるかが問題だ。 詩についても氏は全く自分の性向にしたがって水の低きにつくやうな歩み方をして居るのではないかと思った。氏は小熊秀雄、中野重治を称賛する。しかしそれらの詩の前に、 フランスサンボリズムの詩を、更に下って処々、シュル・レアリズムの詩を対比させて自己批判すべきではなかったか。 ただ神秘的とかヴェールとかの合言葉で自分の性向に合はぬ詩をけなしてみたって仕方ない。」(1937.5.3)

□「杉山君、小生いま試験なり。クラブントがなかなか来んので張りがぬけちゃった。そんなわけで岸にも辻氏にも手紙を出してをらん。 君のクラスだった村上正二君が総督府の役人様となって、さびしく街を歩いてゐた。旅情を慰めようと飲めぬ酒をくんだが、そのうちこっちが慰めて貰ひ度くなった。 君いつ東京へ行くや。杢谷、中谷にも全く御無沙汰。そのうち落ちついてペンをとる悪しからず。(南窓集はとてもない)」(1937.5.28 杉山平一宛 全文)

●「北支問題悪化。まさに動員下令あるかのごとき雲行きを示す。(中略)いちにち読書は手につかず。」(1937.7.11)

●「母、弟の命日。(中略) 妹病よからず。」(1937.7.15)

●「杉山より雑誌のことを言ってくる。客観的情勢はほとんど絶望的である。早速小生の意見も書いてやる。」(1937.7.25)

●「景山の従弟妹たちが来ておちつかなかったためや、妹の病気に心をとられて、日記を書く余裕もなかった。今朝顔を洗ふとき、喀痰に血あり。 (中略) 熱七度六分出る。(中略) 妹のかたへに臥ってゐると、妹の慰めになるとも思ふたが、妹の方は心配が先に立ったかも知れぬ。熱を計りながら涙が出て仕様なかった。」(1937.8.31)

●「話は以外にも小生のフラウのことについてであった。つまり小生にフラウを貰へといふのである。それを同村のK嬢をといふのである。 それが父の意志であるといふのが問題で、小生としてもはたと困った。(中略) しかし小生としては結婚の意志はいまほとんどない。Kと結婚するなど精神的にいやである。 この故郷の匂ひなんか絶対立てないみ知らぬ女と結婚したいのだ。(中略) 雨の日で陰うつで妹のおとろへた顔がかぎりなくいとしかった。こんなのを見てゐても、いま、 結婚話なんかちゃんちゃら可笑しい。」(1937.9.10)

□「杉山兄、長いこと失礼した。大阪で割り合ひさびしく暮してゐるだらう君に、なんだか済まない思ひでいっぱいだ。(中略) 四季の君の詩見た。文藝汎論の方も見た。 四季の方が好きであった。(中略) 文藝首都の中谷の小説も見てゐない。こちの本屋にあったりなかったりでなかなか手に入らん。いつか見度いものだ。杢谷に休中いちど手紙出した。 それ切り通信はない。学校へつとめることになった由、結構と思ふ。(中略) 山でも屋根でも何と言ってもその詩人独特のあのピアノのポンといふひびきのやうなものがないといけない気がする。 立原氏のものからは、それがだんだんうすれる気がする。妙にひねくれたレトリックがさまたげてゐると思ふ。むしろ立原氏の散文に本当の立原氏の顔の見える気がすることがある。 “萱草に寄す”を見度い。しかし送るのが大変だらう。大切に見るから送られたら見せて下さい。小生もこれからは本当にいい詩をつくり度いと思ふ。お互にしっかりやらう。」 (1937.10.3 杉山平一宛)

●「下宿に帰るに家書来てゐた。衰弱日に日に加はるのみ、といふ文面の趣であった。かつて宝塚少女歌劇を見んとあこがれてゐて、遂に京阪地方はおろか、 わづか松江に出たのみで、いまは死の床にある妹を思ひ、泣く。」(1937.10.15)

●「昨日岩井内科へ注射に行ったとき、松崎氏に血痰を見せたら愕いて命が欲しかったらじっとしとれと、おどかされた。じっとしとるべく小生の条件はわるい。第一、 妹が病気してゐる。父は小生の病気を知ったらどんなに愕くことか知れない。第二、もうこれ以上学校を遅れ度くない。(中略) 安部氏来る。とりとめもないことを言ってゐるうちにまた痰が出る。 血の色を見てびっくりしてゐた。安部氏十時ころ帰る(夜十一時記)(1937.10.26)

●「妹死す。朝来気落ちつかぬままに金氏と駄弁ってゐたら電報来る。弟のときと異り小生としてはベストをつくした。 といっても気の休まるのは自分だけで死んだ妹の救済とはならない。ああ、小生は人間に生れたことがつくづくいやになった。五の日はどうも小生の家の鬼門だ。 父に葉書を書き“デンミタハルカニメイフクヲイノランアトフミ”の電報を打つ。」(1937.12.5)

□「十二月二日こちらに帰ってみたら君と中谷から手紙が来てゐた。小生の愚妹は皮肉にも十二月五日に死んだ。当分くさってしまって、たよりも書けなかった。 四季“十二月号”の君の詩見た。あれだけ素直に書くことはむつかしい。ただその人の徳にまつのみ小生二十四日にこちらをたち島根に帰ります。一月の八日ころまで郷里にゐます。 例の詩集、雑誌それまでに送ります。年が明けたら東上しますか。」(1937.12.18 杉山平一宛)

□「お手紙ありがたう。小生、予定の通り二十四日に京城をたち、途中山口県の方で一泊、二十六日田舎の家に帰った。おやぢと二人きりになったので、 そびしいったらありゃしない。(中略) 例の雑誌のこと、今年は中谷、市川も卒業するし、小生も三年生といふ医科ではいちばんのんびりする年だので、ひとつ積極的にやらうかと思ふ。 (中略) 春山行夫の新領土に翻訳をのせるひとで、杉本長夫(法学専門学校講師)といふ人あれど、詩の創作はほとんど問題にならない。この連中のグループはよく知ってゐる。 文学界の川上喜久子と同人雑誌をやってゐたといふ人もある。君いつころ上京のつもりですか。知らせてください。小生、百田氏に是非会って貰ひたい用件があるのだが、 たのまれないだらうか。あまり長くなるので、ここらで、おきます。 杉山平一様 例の“わすれ草”こちらに持ち帰った。近日中におかへしします。」 (1937.12.30 杉山平一宛)

□「例のエリュアールの詩集のこといささかくさりました。山中(散生)氏がときどき文藝汎論とかその他いろいろの雑誌(椎の木でもいちど見ました)でエリュアールの翻訳をしてゐるのは知ってゐましたが、 まさか例の“人生の内幕/”...(ちょっとおかしい訳ですね)を全訳するとは思ひませんでした。私の落胆、物に譬ふれば恋ひこがれた女が人妻であったときの気持ち、」(1938.1.7 安部一郎宛)

●「帰途、寺田寅彦全集、ゲーテ人生読本、ハンス・カロッサの“指導と信従”を求む。家書あり。妹、弟の法要についてなど。」(1938.3.12)

□「丸善から来たクラブントの本のことについての返信受け取りました。仕方のないことです。(中略) 四季は最近見ないがどうなったのだらう。 ぼくもゆっくりくつろげるのは今年一年だけのやうな気がする。だからあらゆる意味で大いにあばれようと思ふ。ときどき文藝汎論をのぞいて見るが相変らずだね。 実さい日本の詩はなくなるやうな気がする。萩原先生なんか、もうすこし大きな声で詩はほろびないとやってくれないものか知ら。小生は今年は、 もう少し朝鮮人の友達をつくらうと思ってゐる。岸は元気なりや。田所はいまでも三省堂にゐるのですか。小生ももう二年したら、いやでも応でも田舎の藪医になってしまふだらう。 とにかくこの二年がわづかな猶予期間なのだ。もういちど思ひ切り夢でも見てやらうかと思ってゐるが年のせゐで駄目だらう。昔の“椎の木”の連中もなにしてるかわからない。 山村氏はコギト(日本浪曼派?)にでも書いてゐるだらうか。高松章も消息を知らない。柏木氏も。平野君とわづかに通信してゐるのみ。庄原照子、 江間章子は相変らずたのしさうに文藝汎論などに書いてゐるが、感心しない。といふ小生自身、何をしていいのか分からない。百田氏を訪れてみてはいかに。百田氏、 昨年朝鮮に来たいといふので、いろいろ京城の方でばたばた運動したが、妹の病気や事変などで駄目になった。この辺の委曲をうまく百田氏に告げてほしい。」 (1938.4.12 杉山平一宛)

□「お写真ありがたうありました。割合御元気さうなので結構です。よく覚えて置きますから御安心下さい。私のは最近ひとりで撮ったのがなく、 おまけに本年二月の中旬いがぐり頭になってしまって昔の写真ではとても鑑別できないと思ひます。
朝鮮旅行についてこの前ちょっと申上げてをきましたが、またすこし思ひ出したことがあるので書いておきます。(中略) それから手提げの荷の中にあまり本を入れて置かぬことです。 ときどき中を調べることがありますが、なんでもない本に神経を鋭がらし不快な思ひをすることがあります。(中略) 京城ではゆっくりお話しできると思ってたのしみにしてゐます。」 (1938.4.14 平野仁啓宛)

●「帰省してより二日目。(中略) 咳の具合だんだんよくなる。」(1938.7.15)

□「その後例の浮腫の具合はいかがですか。(中略) あのときすぐなんとか申上げるつもりでしたが、丁度おハガキをいただいたころ京城にゐるときからこぢらしてゐた風邪 (?)がまた変になって病床にゐたため何も書くことが出来ず、」(1938.8.9 安部一郎宛)

●「父と炊事をやる。戸を立てたり開けたり、そんな茶飯事のなかにいままで気のつかなかった父と子を見出してはっとする。」(1938.8.12)

●「九時半ころ下宿に帰ってみるに東大門署刑事部長の名刺ありて小生に直ちに東大門署に出頭しろといふことだったからすぐゆけといふ。 電話して見たらもう刑事部長は帰ってゐたので明朝ゆくこととす。(理由不詳)(1938.10.3)

●「朝日の“皇軍将士に感謝の歌”を作らんとして、この二日神経衰弱の如し。遂にならずペンを折る。かういふ歌謡はとてもつくれなくなってしまった。“愛馬の歌”はなん とかして作り度いと思ふ。頭の構造が全然ちがってしまったやうな感じ。」(1938.10.25)

●「杉山より来信(豊橋十八連隊、三中隊二班内)。」(1938.12.2)

●「朝っぱらから古い四季、詩の切り抜きなど倉から持ち出して読む。田中冬二の“青い夜道”など、またよし。」(1939.1.1)

□「小生のことを詳しく語るには小生の体のことから言はねばならない。小生体の調子が相変らずパッとしない。今年(ではない去年であった) の夏休ころから咳が多くなって、他人と話をするのが、どだいいやになった。なにか不吉なものを感じて学校でもいろいろ診てもらったが、たしかになんとかあるらしい。 左右両肺とも慢性の結核がある。(中略) 小生の気持は大体高校時代とかはりない。すこしエゴイスティクになったかも知れない。といふより自分の周囲に高校時代のやうな友情とあたたか味を感じないので、 どうでもなれと思ってゐるのかも知れない(中略) 杉山は召集解除となり、あしやにゐるらし。どうもえらい試練だったと思ふ。(中略) 昔よく用ひたMadchen といふ言葉で女を語るには恥しい年ごろとなってしまった。(中略) 小生現在語るべき女を持たぬ。ゆきづりにひと目惚れし、小さい溜息をついてみるくらゐが関の山だ。 (中略) 詩をつくり始めたころ、大學の訳で愛読したフランシス・ジャムが死にましたね。こんどはあいつを原書で読み度く思ってゐますが、詩集が手に入りません。 (中略) 小生七日にこちらをたって八日の午後には京城に着く予定です。」(1939.1.4 杢谷舜造宛)

□「こちらに帰ってからしばらくはぐったりして、ペンをとる元気もなく失礼をしてしまひました。(中略) 下関一泊、岩国での検査は丙種合格になってしまった。 役に立たぬ体であることを今更ながら意識した。帰途、山口線で島根県津和野町の鴎外の生地に立ち寄り、また一泊していろいろの資料を見た。」(1939.8.2 福田真杉宛)

□「お手紙いただきながら失礼してゐました。突然こちらへかへって来ました。けふはまた、いろいろニュースをありがたう。私のロマンスとやらはともかく。 (中略) 私のロマンスとはいったい何のことでせう。病院の看護婦さんが、すこし頻繁に見舞に来てくれたことをでもいふのでせうか。なに腹をさぐられる思ひです。 (中略) 噂だけの有名無実のロマンスでなくほんとのロマンスなりと、いまいちど花咲く日もがなと思へど、せんもない体とでもいふのですかとにかく役に立たぬ体になりました。 また手紙下さい。安部さんにもおついでのときよろしく御つたへください。」(1939.8.9 中野富子宛)

□「この前の便りで後日すぐ詳しい近況の報告をすると約しながら荏苒一カ月を経てしまひました。すべてかくの如く無気力で、億劫で、気息奄々たる毎日を送ってゐます。 つまり元気がありません。この九月から、もう私は私の病気とたはむれてはゐられなくなりました。私が三年前入院したときより、病気はずっとわるく肉体的にもおとろへてゐます。 卒業しても当分故山で病をやしなふ必要があります。(中略) 私はどうしても父より先に死ぬることはできないのです。」(1939.11.9 草光まつの・薫宛)

●「丸善でリルケの「マルテの手記」が大山定一の訳で出てゐるのを見つけた。これは近ころ古い「四季」を出して断片的に読んではまとめて読みたいとつねに思ってゐたものだから。」(1939.12.28)

●「終日熱ひくかりしも最終検温にて八度5分。相当くるし。」(1940.3.2)

□「咳がひどく、おまけに毎日熱が九度以上出るのでたまりかねて入院しました。(中略)なんとかなんとか馬力かけてゐましたが、つひに刀折れ矢つきました。」 (1940.2.7 入院後 父宛)

□「病院の七分搗きの麦入りご飯がどうにも食べられなくて困ってゐます。(中略) うちから白米を送っていただくといふことは造反であり、不可能でせうか。」(1940.2.29 入院後 父宛)

□「本日お手紙落掌、近況が聞けてうれしく存じました。元気でおつとめの由、何よりです。小生入院来一カ月絶対安静が効いたのか、近ころ熱が微熱程度となり、 何とはなくはりきって来ました。喉頭の方もいまだ苦痛なく食事も人並にとります。少しは本も見ます。(中略)近ころ河出書房が出してゐる現代詩集をざっとみて、これが日本の詩か、 とすぐに古本屋にでも売り度く思ひました。朔太郎のものも、なにか行進曲の如き平板さが耳についていやです。これは小生の病気に原因したヒステリー性によるのかも知れない。 伊東静雄などまだいいと思った。この辺でつかれたので擱筆、君の詩小生好きです。君の人間を知ってゐるためもあると思ふが、とにかく好きです。海風の詩も見せてください。 こんなことを言ってゐると早く何とかして病をよくなり度くなる。」(1940.3.6 杉山平一宛)

□「この前の手紙で白米のこと申上ました。ところが友達がいろいろ心配してくれて今日一斗程女中に持って来させました。これにはどうも恐縮しました。 (中略) 内地から白米の輸送などとても出来ないらしいです。これについては御心配下さらなくていいです。(中略) 寝床の中で熱のない気分のいい時、少し本を見ます。 入院生活にはもう慣れて余りたいくつしません。昨年九月から下宿でもほとんど孤独な生活をしてゐましたので、たいくつといふことはありません。それに書籍が一二冊あれば十分です。 病を悪くする程の書見をしません。[註、いつの手紙でも父に対する保健上の注意を必ず書いた程父を案じて呉れて居りましたが、父が平素素人細工に電燈などいぢくりますので、 此の手紙でもオームの法則など公式まで示して細々と注意を書いた末](中略) 長い間父上の脛ばかり囓って申しわけないのですが、この病を克服したら大いに働きます故、 しばらくゆるしてください。鮎のうるかがあったら少し送ってください。わかめがでるのをたのしみにしてゐます。 三月五日正午 仰向にて 謙爾拝 父上」(1940.3.5 父宛)

 後記

 布野君が亡くなつたと知ったのは、その一、二ケ月後、ほんの偶然の機會からであった。遠い地の大學にゐてどんなに暮してゐたか、自分達高等學校時分の友人等は充分知らずにゐたが、 亡くなる前には、近くの友人をさへ近づけなかったやうである。彼地における學友福田真杉氏はかう書いてよこした。「微熟とも云へなくなった熱が毎日続いてゐたのにそれでも卒業試験を一つ一つ受けて行き、 あと耳鼻科、小児科、外科の三課日だけといふ二月四日の夜が最後の入院でした。何分喉頭を侵されて居りました為、伝染の危険激しく普通の内科病室には入院が許されず、 開放性結核患者専用の病室に入らねばならす、しかもこの病室への入院は病人に対して殆ど死の宣告を下すも同様でありますので我々としては全くつらい思ひを致しました。 夕方五時頃から布野君の下宿に出掛けてお互殆んど無言の中に遂々夜の十時近くなって布野君の方から何所でも良いから入院すると言ひ出され漸く入院が決った様な次第でした。」 同じく大矢迪雄氏の安部氏宛の手紙「京城を去る前日にもう駄目だといふ診断と症状を見舞ったのでしたが、布野はまだフランス語の辞書をもとめてゐた。あの特異な笑ひ声や、 かうちょっと頭髪に手を突込んでガサガサかき廻す様などの布野を思っては、この日の病床はたとへようなく悲しかった。バラックの隔離室、 ストーブの赤さびはいやにほこりっぽかったし、それに朝鮮のしなびた婆の附添でした。この落莫とした空気のうちに死なすのかと、彼も亦死期を知ってゐたであらうに、 私はもうぼんやりと何を話してよいかわからず、昌慶苑を跳めてゐましたが、福田君はもう実によく世話をされました。見てゐて頭の下る程でした。」癇癖もたかぶってゐて、 誰にも知らせず近づけずこの、福田氏が一人で世話された。死の時にも、いまは天涯孤独となられた御尊父は御健康が御充分でなくお見えになれなかったとのことである。 母上や弟妹亡きあと、親一人子一人お互ひが健康の真相を洩し得なかった程、いたはり合ってをられた。福田氏の語るところでは、布野の下宿には毎日のやうに部厚い手紙が厳父から来て居り、 下宿の主人も、恋人でもああは出せますまいと感じてゐたといふ。

この御尊父をおなぐさめする意昧で、地理的な関係から、高等学校の友人でこの遺稿集を編むお手伝をさせて頂いた。従って手紙なども偏った感じがあり、 さうでなくとも年代的に、右の大矢氏はじめ布野の親しい友が多く戦争に出かけてゐて充分蒐めることを得なかった。第一部の詩集は布野白身が蒐め綴ぢてゐたものである。 拾遺の詩をはじめそれらは殆んど松江高等学校時分の作品で、その時代の生徒がみな非常に愛誦したものである。日記の中の詩は日記と共に殆んどそのままを入れた。 學友が編んだ故、単なる詩集としてでなく、かうしてお互ひがなつかしみたく思ったのである。自分達仕事の片手間になしたため、非常な時日を費したけれども布野君御尊父のお力により、 先生知友の非常な御援助にあづかり、ここに至るを得た。特に表紙装画な草光信成画伯がお描さ下さり、題詩を谷口廻瀾先生に賜り、その上百田宗治先生が序文をお書き下さった。 おそらく自分達はもとより布野君もこれ以上のものを考へることはできなかったと思ふ。どんなにか喜ぶことであらう。ここに深く厚く御礼を申し上げます。(杉山しるす)

中谷栄一
市川俊彦
井上正雄
杉山平一
杢谷舜造


【ノート】(2011.10.17掲示板コメントより転載)

 杉山平一先生の編集に係るこの『布野謙爾遺稿集』、当時の詩壇に関する大変興味深い内容も合せて含んでをり ます。詩誌「椎の木」に惹起した内紛と分裂について、同人として当事者の一人であった彼は、大阪に拠点が移った第四年次の「椎の木」に残り、編集を受け継 いだ山村酉之助(荘原照子曰く「ギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子」)の人柄についても信を寄せてゐたことがわかります。

□「いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、 なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。 まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、 ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。 ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養)やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18草光まつの宛)

 しかしこのさき名跡「椎の木」と、あたらしく分かれ別冊誌の名を継いだ「苑」は、同じく季刊を継いで月刊となった「四季」のやうには長命を保つことができず、 ある種共倒れの感を呈して廃刊に至ります。それはモダニズムの裾野が囲い込まれてゆく時代状況にあって、中途半端なモダニズムが新領土に淘汰凝縮されていったこと、 そしてこの分裂劇以降「新進詩人の育成」について、自身のモダニズム転向を封印(?)してしまった宗匠の百田宗次が興味を失ひ、放擲してしまったといふ事情にあったもののやうです。

 「椎の木」の同人達、とりわけ布野謙爾と姻戚関係にあったと思しき景山節二については、なぜ先輩と袂を分かって「苑」に参加したのか。生前の詩人と面識のあったといふ、 荘原照子の伝記を連載中の手皮小四郎氏も、景山家に叔父がゐた事実には驚かれたとのこと。 また私も高松章宍道達といったマイナーポエトの名前にこんなところで出喰はすとは思ひませんでした。 全集類における日記や書信、そして序・跋において明らかにされる交友関係といふのはとりわけ詩人に於いて頻繁で、興味の尽きないところです。 さうして布野謙爾が杉山平一を通じて「四季」「日本浪曼派」などモダニズムから意味の回復への接近してゆく過程といふのは、謂はば結核にむしばまれた彼の衰弱過程に沿ってゐるやうです。

□「四季の会に出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。」(1936.7.20杉山平一宛)

 健康さへ許せばおそらく内地での就学とともに、中央詩人達との通行、また発表の機会も拡がってゐたことでせう。ファッショを厭ひ、朝鮮の現状に心を痛め、 杉山平一の詩に萌芽するヒューマニズムを賞してゐた彼にあって、「お金持で教養のある人はプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しい」と観念した精神が、 先鋭化に伴ふ手段としての詩に傾斜していったモダニズムに対して、どのやうな回答を実作において示し得ただらうか。可能性に満ちた詩稿や日記の言葉を前に、さう思はれてなりません。 (2011.10.18up / )


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