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河合東皐(かわい とうこう)(1758 宝暦8年〜1843 天保14年)


名は政良。字は子譲。通称勘左衛門。東皐はその豪。先は濃州中郷の名族たり。曾祖利重初めて大垣藩に仕ふ。父、名は利正、母は井道氏、4男1女あり。東皐はその季子なり。宝暦8年を以て生る。兄みな夭折せるを以て嗣となる。
泰嶽侯(※大垣藩第8代藩主戸田氏庸)の世子となるや、東皐、勲旧の子たるを以て入って侍す。侯なほ幼冲、東皐つねに左右に在り、輔導するところ最も多し。侯の立つや(文化3年)恩眷いよいよ隆なり。のち侯の夫人付となり、また世子氏正侯の傅となり、頗る信任せらる。文政12年、老を以て致仕す、時に年71。凡そ職にあること前後45年、恭順誠敬一日の如し。氏正侯就封の初め、その世勲を賞し引見して衣物を賜ふ。ひと以て栄となせり。
東皐、人と為り武技に精しく、兼ねて文事を嗜み、善く詩を作る。少時江戸に遊び、業を古屋昔陽に受け、専ら古学を治め、討論みづから懈(おこた)らず、篤学慎行、深く軽薄の気習を厭ふ。学者その精に服せり。晩に自ら至楽翁と号し、情を山水に寄せ、迹を風月に托し、優游みづから楽しむ。小原鉄心輯「地下十二友詩」に云ふ。

 余のはじめて交を結ぶや、子譲(東皐)すでに致仕す。齢予より長ずる58、然れども交誼はなはだ密、暇あれば則ち相訪ひて情を話す。
 子譲、飲を嗜まず。常に予の大飲、量なきを病(憂)へ、屡々もって言をなす。頗る古人の風あり。
 以てその為人(ひととなり)を知るべし。天保14年6月21日没す。年85。大垣城東遮那院塋域に葬る。2男1女あり。長、利方嗣ぐ。  (伊藤信『濃飛文教史』 p221-222より。)


自筆詩稿には「寛齋邨大夫(木村寛齋)」の名がみえる。若き日の小原鉄心は此の人と木村寛齋の恩顧に与り成長していったもののやうである。


『東皐集』

 さきに資料紹介「木村寛齋の添削詩稿 未刊に終わった小原鉄心編『地下十二友詩』との関係とともに」のなかで記したが、
ネットオークションに現れ、木村寛齋の詩稿とともに筆者の有に帰した河合東皋の詩稿も、寛齋詩稿の紹介が了り次第、翻字と訓読の紹介を試みたい。









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