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野村藤陰 のむらとういん (1827 文政10年 〜 1899 明治32年)

『亦竒録:えききろく』上中下巻 小原(鉄心)寛[野村(藤陰)煥、菱田(海鷗)禧、菅(竹洲)喬 ] 慶應3年[1867]序, 1冊 (初刷りは3冊)

『鷃笑新誌:あんしょうしんし』1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 鷃笑社(大垣郭町1番地、社長野村藤陰)刊行

『洞簫余響』 野村藤陰/編 [致道館] [慶應3(1867)] 跋


藤陰遺稿

『藤陰遺稿』

(とういん いこう)

明治41年10月30日 平野豊次郎 編輯・発行
印刷 岡本豊次郎(大垣活版株式会社)

全3冊 非売品 22.6×14.9cm

【上】

野村藤陰

題詞:前大垣藩主 戸田氏共うじたか 「餘徳馨る 研堂共」
題詞:小野湖山 「文質彬彬 九十五奏叟 湖山愿題」
野村藤陰肖像
写真:江馬細香画「藤陰書屋図」小原鉄心賛 / 書簡:齋藤拙堂「齋藤拙翁謙 野村龍之助様 万延元年」
承前
承前
承前 / 序文:野村龍(藤陰嗣子 野村龍太郎)

巻之一 詩

早春出遊。
大洞より舟を泛べ彦根に抵る。
笋を斲る。
牽牛花。

雪竹。
鉄心大夫の東行を送る。
蘭。
将に浪華に西遊せんとして社中の諸彦と留別す。
出門。
草津早発。
澱江を下る。

八月十五日夜。義竹大夫の西下を聞く。舟を澱江に泛べて迎ふも、未だ至らず。
既望(16日)の夜。再び舟を泛べて迎ふも、亦た未だし也。
十七日。又も舟を泛べて迎ひ終に至る。喜びて賦し呈す。兼ねて従行諸子に似(しめ)す。
鉄心大夫、江戸に在るに畳韻して寄す。
植松生の土佐に帰るを送る。
西子奭(揖斐三輪村西川直助?)、備前閑谷に之くを送る。
中邨子久、備前網乾より帰省するを送る。

伊丹に遊ぶ。(九月初五、拙堂先生の京師に遊ぶに陪す。途に伊丹を経へ遂に宿す。此の地、頗る盛邑。大率ね醸戸(酒造)也。
箕面山に遊びて遂に宿す。韵を分つ。
順正書院集。
重陽の日。凉庭新宮翁、拙堂先生の為に都下名流を南禅寺順正書院に招く。先生、従行する諸子を携へて往く。煥(藤陰)亦た陪す。是の日、 会する者。中嶋棕隠、梁川星巌、牧贛齋(牧百峰)、紅蘭女史、池内陶所、牧野天嶺、佐渡精齋諸子也。七律一章を賦して之を紀す。
天保山に遊びての矚目。同行の鈴木子飛、大槻眉叔に似(しめ)す。(子飛は備前の人。眉叔は備中の人。)
辛亥早春、事を書す。
睡翁(戸田睡翁)公の剃髪詩に次韻す。

三月初八。佐藤子直と同に金生山に遊ぶ。
白子途上。
秋熱、殊に甚しく、養老の瀑布を憶ふ。
打漁行。(辛亥六月十有九日。平松楽齋翁及び諸君に従ひ。米津浦に魚を打つ(※投網す)。獲る魚、大小八百余尾。此を賦して壮遊を紀す。)
銕研先生(斎藤拙堂)『梅渓遊記(月瀬記勝) 』の後に題す。

十月望陪棲碧山房讌 / 同中川生飲呑花吟月楼在香良州 / 十一月念八日。聞鳥居研山君訃。次其絶命韵追悼。 / 蘭 / 
次韻酬江馬堯臣見寄作 / 送睡翁遊京畿 / 送小寺士毅之江戸 / 題鉄心大夫梅園

春分の日。鉄心大夫の留別の宴に陪す。諸彦と同に賦す。時に雪爪禅師、将に伯耆へ之かんとす。霞山上人、将に吉野に遊ばんとす。故に結末之に及ぶ。
楽齋平松翁を輓く。
癸丑(嘉永6年)六月、浦港の警有り。西溝高岡君、述懐の作有り。其の韵に次す。
家書を待つに至らず。
奥田季清、淺井穆郷、尾藩に帰るを送る。

伊勢途上。
重ねて棲碧山房に到る。(拙堂先生の別墅名なの。余、去年、子を此に寓せしむ。)
三月念一日。誠軒君及び奥田季清、淺井穆郷と同に千歳山に遊ぶ。
春尽の日、山房、分韻を集む。(時に三島遠叔、浦賀より帰る。句中故に及ぶ。)
山房、杜鵑を聞く。奥田季清、淺井穆郷の帰郷を送る。韻を分つ。
前の地震行。並びに引。(※伊賀上野地震)
嘉永甲寅(7年)六月十四夜。地大いに震ふ。大和伊賀、其の衝に当る。伊勢近江、之に次ぐ。余震延いて二十余国に及ぶ。山崩れ地陥ち、人 屋摧け敗(やぶ)る。死者の数、千人。而して勢の四日市。火を戒めず一炬蕩然、惨毒を極む。時に余、洞津(※津)に客たり。此の地頗る劇 し。然して例人(普通の人)の屋に至らず。爾後、微震、月を匝(めぐ)りて止まず。人皆な草廬を営みて居る。曠代の劫と謂ふべし。詩、以 て之を紀す。
帰省路上、事を書す。
家に到る。
方来舎、奥田季清に留別す。
九月望。桃源精舎集。席上、韵を分ちて参政上田君の東役を送る。
同前。席上、川越の保岡正卿の韵に次して其の東帰を送る。
保岡正卿に贈る。(正卿、川越藩士。鎮西に游歴し帰路吾藩に来游す。)
看楓歌。楓痴軒雅集に陪す。楓痴前大夫に呈す一粲。
後の地震行。並びに引。(※安政東海地震および安政南海地震)
十一月四日。東海、衝に当る。五日。南海、衝に当る。故ひ(災ひ)豆州より紀州に至り、海嘯(津波)は四日辰(午前8時頃)の後に在り、 大阪以西の海嘯は五日晡後に在り。南海の災は或ひは東海の上に在り、西海また余震を被る。二豊(豊後豊前)尤も劇し。所在する郵駅は陥没 し城廓は崩壊、また祝融(火災)に祟らる。人民の死者、数ふるに勝ふべからず。時に余、再び津城に寓す。災また劇しく、屋の壊れるものす くなからず。亡慮(凡そ)震る所、東西四百里。前劫(前回の大地震)に比して更に劇し。古き所に亘りて(※開闢以来の)未曽有の変なり。 地震行の後に作す。
十一月十二日帰郷。即事を書す。
鷹を咏む。剣客清水生の備中松山に帰るを送る。
乙卯(安政 2年)歳旦。

城中梅花。(鉄心大夫宅の課題)
二月念九日。睡翁公、鉄心大夫及び細香、毛芥、南邨、遜齋、杏邨、霞山、大夢の諸子を其の婿家の渡部氏の松茂亭に招飲す。余亦た陪す。分韵して同に賦す。
大藪より帰る舟中の二首。
上巳(3月3日)雨。中山主人とともに飲む。
雪爪禅師、雲洲に之くを送る。
四月三日、湘夢書屋(江馬細香宅)集。長州の山縣世衡(宍戸璣たまき)、高木致遠、阿州加茂、永郷越前、大郷百穀及び我が加納の青木叔恭と邂逅す。(世衡、時に蝦夷より帰る。故に句中、之に及ぶ。)
席上、(山)縣世衡に賦し贈る。
参政高岡君に陪して飲む。酒間賦し呈す。
四月念六日。高岡凰鳴、小野埼立堂の両君、草堂を訪はる。酒間、細香女史を招けば至る。歓び飲みて夜分に至る。此を賦して喜びを紀す。
松竹深処軒に題す。
蛍。
乙卯九月。儒員の列に陞り、尋(つ)いで東役に抵る。発つに臨みて此を賦す。時に十一月十三日也。
荒井舟中。
吉原駅、芙蓉(富士山)を望む。
歳晩書懐。
細香女史の七十初度を聞き、遥かに有りて此を寄す。
故(もと)執政、(戸田)睡翁君の七十を奉賀す。
大郷学橋を訪ふ。
四條橋納涼図。
木岨道中小詩。十七首。
偶感。
猟(臘)雪、夜帰。
十二月初五。細香女史を訪ふ。傍嶋甘谷、先に在り、温梅窓(※人名?)尋ね至る、女史、酒を喚びて余等を留めて飲む。即席賦して謝す。
燈前、剱を閲す。
鎌渓看花。
蕉陰茗話。
中元。戸田敢堂、小原鉄心の両大夫、藤森弘庵翁を正覚寺に招飲す。此の日、会する者十数名。余亦た陪す。字を分ちて「落」字を得たり。
九月十一日。拙堂先生の来遊を聞く。牧田、井田及び釈朗月の三子と同に、舟 を水門の外に泛べて奉迎す。
十二日。先生、草堂を訪はる。此を賦して奉謝す。
十三夜、正学寺(正覚寺?)の集りに陪す。
鉄心大夫、先生に郵筒にて受業、年有りて此に於る矣。今茲、先生来り遊び始めて相識を得たり。談屡ば経済に及べり。大夫、啓沃の益得るこ と少しと為さず。此を賦して奉呈。
二十三日、先生を送りて加納駅に至り、別れ奉る。帰途、作有り。
蘭。

小野崎立堂、木岨を経て江都に之くを送る。
二月十八日。正覚寺清集。清拙(鴻雪爪)禅師の南越孝顕寺に卓錫(※居留)するを送る。
小原大夫、江戸に在るに寄懐す。高岡君の韻に次す。
南越鴻爪禅師に寄懐す。
戊午(安政5年)仲冬。余、班中の扈従に進ぜらる。兼ねて東行の命有り。総督戸田敢堂君。督学高岡西溝君及び諸教授。為に余、祖筵を松野氏別墅に設ふ。皆な贈篇有り、因りて此に賦して謝し且つ留別す。
西溝君、特に一壷酒を恵まる。付するに詩を以てす。次韵して以て謝す。
十二月十三日。鉄心大夫邸舎の歳晩の宴に陪す。大夫詩有り。即席、其の韻に攀ぢ、諸彦と同に賦す。此の日、会する者。高島秋帆、大槻磐溪、保岡嶺南、佐竹永海、岡本秋暉、春木南華、西嶋秋航、齋藤東洋、鷲津毅堂、小橋橘陰、僧南園及び我が藩士の上田高痴、菱田海鴎等也。
菱田海鴎の母を喪すを慰む。
雪夜、鉄心大夫と高痴君、酒を携へ余の廨舎を訪はる。即席、筆を走らせて謝す。
除夕、月白風清楼に歳を守る。小原大夫、上田、内藤の二君及び海鴎と同に高適の句を分ちて韵と為す。余「鬢」字を得たり。
己未(安政6年)元旦口号、
玻璃瓢の歌。藤堂侯、此の瓢を鉄心大夫に賜ふ。大夫作歌して以て謝す。余亦た顰に倣ひて以て大夫を賀せり。
二月朔(1日)晴暄。春意、頗る佳し。午後、鉄心大夫、高痴君及び翠迂、海鴎の諸兄と同に広尾邸に至る。
北越の雪爪禅師、近く一小房を其の寺の背(うし)ろの山腹に築き、名づくに橡栗と曰ふ。千里、書を江都に寄し、諸君の題詠を索む。余亦た顰みに倣ひて一粲を博す。
題画。

二月十一日。鉄心大夫、高嶋秋帆。大槻磐溪、春木南華を誘ひて舟を泛べて留潮橋より洲崎に至る。余亦た陪す。高痴君、立堂、藤渠、海鴎の諸子を拉して別に舟を泛べて続き至る。舟中、五絶句を賦して以て盛遊を紀す。三を禄す。
立堂君の帰郷を送る。
雨に坐して月を得たり。
菱(田)海鴎の帰郷するを送る。
別後、鉄心大夫及び謙齋、立堂、海鴎の諸君に寄懐す。
六月念六日。江戸を発ち途を木曽に取りて帰郷す。途上、十絶句を得たり。六を節す。
八月十四日の夜。上田高痴君の招飲。諸彦と同に賦す。
拙堂先生、再び致仕を請ひ允しを蒙る。詩有りて其の芳韵に攀ぢて賀し奉る。
復月(11月)十七日、鉄心大夫及び二三子と同に岡山に登り、鳥居研山君の墓を吊(弔)す。兼ねて令弟圭陰君の江戸に之くに餞(はなむけ)す。
庚申(万延元年)元旦。
江戸の翠迂宮本医伯の贈らるるに酬ゆ。
蘭馨、江州より帰省し、三日留まる。別に臨みて賦し贈る。
楠公。
竹寿某の北堂七十を咏む。
蘭。
梅。
五月書事。

六月六日。東征途上の即目。
家書に接す。
十九夜集、上田君宅。
秋日、井田岨水、高木葆齊を拉して目黒邸に遊ぶ。
雪暁。
雪後出遊。
学古楼の落成、喜び而して賦す。

偶成、鉄心大夫及び凰鳴君に寄呈す。
正月既望。高痴君と同に洲崎に遊ぶ。鉄心大夫に寄懐す。
正月二十日。鉄心大夫、南邨、海鴎、毛芥を拉して牧野、荒尾の諸邨に観梅す。
晩春、高痴君と同に雨を冒して殿山に花を看る。帰途、僧南園を訪ふ。南園詩有り、其の韵を用ゆ。
熱甚しく養老瀑布を憶ふ。
夏山雨意。
秋日客思。
辛酉(文久元年)三月。我公、滞府の命を拝す。煥(藤陰)亦た帰期を延す。越えて九月、半年の休暇を賜ふ。欣然として装を束ねて途に上る。時に九月朔なり。
帰家。
九月十日。江戸より帰る。細香女史の下世を聞く。既に数日を経てり。此を賦して追悼す。
晩秋、齋藤百竹と同に杏村画伯(※高橋杏村)を訪ふ。
芥子閣雨集。家里誠軒と晤(あ)ふ。鉄心大夫の韵に攀す。
鉄心大夫に呈す。(大夫、進班の命を蒙むる。故有りて病と称し命に応ぜず。此を賦して以て呈す。)
謙齋君、番頭兼補参政に擢んぜらるを賀す。
正月念四夜。立堂君の招飲。諸彦と同に賦し字を分つ。
鉄心大夫、再び封事を上して辞職を請ふ。允しを蒙むる。此を賦して呈す。
其の退職詩に次韵して以て呈す。
高岡凰鳴君、郡代に擢んぜられ、兼ねて支(支那)に度(渡)るの命を蒙る。謝恩の作有り、其の韵に次して以て呈す。
楠公。
鉄心大夫、暇(いとま)を乞ひ加州温泉に浴す。此を賦して送別す。
壬戌(文久2年)四月。幕府、我藩をして高輪東禅寺の英夷の旅館を衛らし む。参政上田君、往きて戍兵を督す。感有り慨詩を示さる。因りて其の韵に次す。
仲秋、郷を発ちて江戸に赴く。途を木曽に取る。路上作。
大槻磐溪先生の仙台に帰るを送る。
齋藤先生(※齋藤拙堂)に謁す。
癸亥(文久3年)六月三十日、公駕に従ひ京師に赴く。途上の口占。此の日、 残熱焚くが如し。
東山に遊ぶ。感有りて作す。
四條納涼。
西郭竹枝。
八月十八日(※禁門の政変)紀事。郷友の寄せらる詩韵に次す。

嵐山の観楓、感有り。
鞠月(菊月:9月)念二日。鉄心大夫に陪し東福寺に楓を観る。杜牧の詩を分ちて韵と為す。余「山人林花」の四字を得たり。江馬天江、邨田香谷、岩谷迂堂、僧梅塢と同に賦す。
帰路、鴨東の酒楼を過り飲む。
小春初三(10月3日)。東山の暁雲亭の清讌に陪す。是の日、会する者。彦根岡本黄石君、桑名服部謙齋君。我藩小原鉄心君及び渋谷百錬、江馬天江、村田香谷、 僧鶴立等也。酒間、大和の捷報(※天誅組鎮圧)至る。遂に帰路岡本君の官舎を過り、その獲る所の首級及び甲胄器械を観る。故に句中、之に及べり。
冬夜偶成。
正月二十日。鉄心大夫に陪し、高痴君、桃壷禅師および南邨、海鴎、百竹と同に雨を冒して牧野に探梅す。帰路、檜村の里正、早野氏を訪ふ。
三月十二日。金栗、南邨、百竹の諸子と同に高田邨の柏淵拙蔵を訪ひ、遂に養老山に花を観る。
「韓信の出胯(またくぐり)」の図
「不倒翁(ダルマ)は欹(かたむ)くこと無き郎」の賛。(某の嘱。)
甲子(元治元年)歳晩、書感三首。
乙丑(慶応元年)早春試筆。時に鉄心大夫の詩の京師より、翠迂老人の詩の江戸より至る。
鉄心大夫の越州陣営の作に次韵す。
又た甲子除日、東山若王子延年台に探梅するの作に次韵す
小野崎立堂君の京師に之くを送る。
落合村に到る途上。

象を観る。
『杭溪印譜』に題す。(杭溪、医を業とす。故に句中、之に及ぶ。)
見付駅、不二峰を望む。
棘鬛魚(鯛)の歌
 四月朔、興津駅に投じ打魚(※投網漁)を観る。既にして網を挙げ棘鬛魚二頭および梭魚(カマス)数千頭を得る。即ち膾に斫りて酒を下す。快甚し。了へて歌を作り之を記す。
函根温泉に浴す。往来、五絶句を得る。二を録す。
宮下より三枚橋に抵る途上の口占。
横浜。
四月五日、鉄心大夫、訳官の太田耕烟、子安子徳を介して、清客の李遂川、潘脩儂、労梅石、蔡伯良の四名を横浜客の含雪亭に招飲す。接伴する者、菱(田)海鴎、菅竹洲、澤蠡海、秋老泉、嶋良仲等也。余亦たともにす。
潘脩儂、余の韵に次して云ふ。「喜到仙山広見聞。雨中題詠酒方醺。他時帰剪西窓燭。猶記今宵百斛文」。潘脩儂の韵に次す。

潘氏の原作に云ふ。…
廨舎(官舎)の竹。
翠迂老人の韻に次す。
翠迂軒の雨集にて韻を分つ。
清客、潘脩儂に寄懐す。
「杜宇(ほととぎす)を聞く」字を分つ。
木下逸雲と晤(あ)ふ。
丁卯(慶応3年)正月念一日(21日)。出遊して東坡の「半瓶濁酒待君温」の句を以て韵と為す。鉄心、西溝の両大夫および江(馬)金粟、菱(田)海鴎、僧春堂と同に賦し、おのおの五絶七首を得る。
七月既望(16日)。鉄心大夫、泮宮(※学校)の諸教授および諸生一百名を 誘ひ、楼船を泛べて広州に月を観る。乃ち「赤壁賦」の中の字を分ちて同に賦す。余「舟」字を得たり。(『洞簫余響』の故事)
仲秋九日。山口村の筑間氏を訪ふ。此の夜、残熱殊に甚し。糸貫川の納涼に到る。
半夜、枕上の口占。
翌日、主人舟を前溪に泛べて香魚を捕る。
戊辰五月、事を書す。(※慶應四年の洪水)

我公、封内の僧徒を府下の円通寺に招集し、大いに法会を設け、東征殉節諸士霊を吊祭す。因りて五律一章を賦し以て采蘋に代ふ。時に戊辰の秋、八月五日也。
村を巡る途上の口占。
主上の江戸に臨幸するを聞き、喜びて賦す。
聞東州の賊、平らげるに喜び賦す。

十月十一日、松郭楓亭の賜宴。
同じく席上、恭しく玉韵に次し奉る。
高岡君の自画山水図に題す。
笠松県令の長谷部君行部の作に次韵す。
睢陽小原君、高木、菅二生を拉して東京に之くを送る。
睢陽君に寄懐す。
日坂村の高[橋]氏を訪ふ。延留三日。此を賦して以て謝す。
五月念七日。斎藤誠軒君、鉄心大夫及び余等を其の棲碧山房に招飲す。会する者、土井聱牙、戸波某、松岡環翠、野田竹溪、神田耕雲、池田雲樵、今井竹僊、高木分仙、早崎ー川、上西快堂及び京師の画工、対山、藹山、清雅堂、黄仲祥等也。
其の翌日、藤堂公、宴を其の偕楽園に賜はる。此を賦して喜びを紀す。
帰途、四日市の印田某を訪ふ。某、大夫及び余を其の海浜に招き打魚を観る。頗る壮観也。此を賦して以て主人に謝す。
小原徴士に贈る。
八月既望(16日)。与偕園の看月。此夜我公亦た臨(のぞ)まる。
庚午(明治3年)正月念日。鉄心大夫及び諸彦に陪して牧野に探梅す。東坡の「遊女王城」の詩句を用ひて韵と為す。(今を距つ十年前辛酉(万延2年)正月念日。探梅して坡仙の句を用ひて韵と為す。…)
二月念二日。無何有荘、梅花を看る。大参事小原君の韵に次す。
三月六日。金生山看花。桃壷禅師の江州清涼寺に卓錫するを送る。
大野村の渋谷氏を訪ひ其の清音亭に飲む。
井田生野県権知事の遷真を賀す。
知事公、将に米利堅(アメリカ)に遊学せんとす。恭しく其の芳韵に攀して送り奉る。
説田雨石、自画水墨山水を恵まる。此を賦して謝す。

裏表紙


【中】

表紙

辛未(明治4年)孟春(正月)、小原睢陽、鳥居圭陰の 両参事、辞職して欧州に赴を送る。
錦見聚堂の米利堅へ之くを送る。
夏晩、友人と同に偕園に飲む。

小林清矣の致仕を賀す。
まて鉄心君の韻を用ゆ。
九月盡日(30日)、梳風鎖月楼の集り。雷禪師の名古屋へ之くを送る。其の留別の韻に次す。
蓬莱軒に寄題す。
壬申(明治5年)正月十三夜、戸倉竹圃を船町の水明楼に訪ふ。席上、韻を分かつ。
翌日、戸田葆堂兄を訪ふ。竹圃さきに在り。韵を分ちて同に賦す。
雷禪師、名府に在るに寄懐す。韵を分かつ。
正月念日(20日)是水(小原鉄心)君、諸子と同に牧野に観梅す。坡翁の「不知江柳已揺村(※正月二十日、岐亭に往く。郡人、潘・古・郭 の三人、 余を女王城東の禅荘院に送る:蘇東坡」)」の句を韵と為す。五絶七首を賦す。

辛未(明治6年)小除夜(12月30日)。鉄心君、諸彦を無何有荘に招かる。余ま たともにす。君に詩有り因りてその韵に次す。
除夜、鉄心君諸子と同に歳を桃源山に守る。余、ゆゑありて赴く能はず。雷師の韵に次して以て謝す。 
壬申二月十日。是水君に従ひ臥龍梅を勢至村に観る。路次、山口氏を訪ふ。席上、君の韵に次す。
花下の作。また是水君の韵に次す。
大迹村の竹圃氏の家に宿す。

四月朔、中郷村の國枝氏を訪ふ。
是水小原君を輓く。
 (世上の名、喧し五十年。溘然として世を厭ふて登僊し去る。身は国に報じて心、鉄の如く。“三斗朝天”酒に権(はかりごと)有り。果爾 たる(全く)英雄の能く本色たれば。また風月に淫するも豈に狂顛のみならんや。閑園に遺愛の梅千樹。長へに後人をして涕泗、漣(なが)さしむ。)
一柳芳洲の新婚を賀す。
是水君二七日忌祭。
雨窓「鉄心遺稿」を校して感有り。
壬申七月応召。将に東京に赴かんとして述懐。
改暦一月一日作。
一月念日(20日)。越前山田某の招飲。鴻雪爪、菱田海鴎、土居光華、中金某とともに同に賦す。(谷、厳谷、永松、熊谷、三浦、小野の諸彦、約有りて至らず。句中、故に之に及ぶ)。
旧藩主戸田研堂公、留学して米利堅に在るに寄懐し奉る。
癸酉(明治6年)三月、将に東京を発たんとして此の作有り。
養老に到る途上、即目。
同に説田生の韵に次す。
小原睢陽君、先人鉄心翁の自ら書せし梅花の詩を石に勒(きざ)み、之を無何有荘に建つ。「甘棠遺愛」の意を表すを以てす。一日、故旧を招 飲して以て之を落す。時に梅花盛んに開き、清香、酒盃を撲つ。諸子、懐旧の感に堪へず、おのおの原韵を攀(ひ)きて以て碑前に呈す。余また顰みに倣ふ。時に甲戌(明治7年)二月念一日(21日)
亡児を悼む。
大黒天の図に題す。

王仁。
人勝行。
花扇に題す。
邊風外老人六十初度を賀す。(老人つとに臨池(書道)の著を以てす。嘗て退筆の塚を岡山に作れり)。
五十川生、早梅を恵むに謝す。
地球儀に題す。
辞職後、作有り。

龍駕(天皇行幸)を拝観して恭しく賦す。時に明治十一年十一月二十三日也。
行の在所、小原睢陽君を召す。先人是水翁の祭粢金若干を賜はる。君すなはち臨時祭を修して宗族及び諸旧友を招く。余もまたともにす。席上、一絶以て神位に供す。
清水任所の宅に紅葉を看る。
風外翁を追悼す。
石原氏の招飲、園中、梅花盛んに開く。席上、説田瀟潭の韵に次す。
小寺剛堂の東京に遊ぶを送る。
細香女史の水墨山水に題す。

庚辰(明治13年)紀元節、矢道村の上田氏の招飲。席上、主人に賦し示す。
杉山千和の六十初度を賀す。其の自ら賀す韻に次す。
大垣雑咏。
庚辰四月某日、祖父江村の廣蓮精舎に桜花を看る。主人敬神愛国の意厚し。賦して似(しめ)す。
安田東野、建蘭(※スルガラン)数茎を恵むに謝す。
辛巳歳旦。
盆松。

故南村翁祭典。
児島高徳、桜樹に白書するの図。
竹夫人
江馬氏別荘小集。清客の胡鉄梅と晤(あ)ふ。席上七律一章を賦して以て似す。(鉄梅、画を善くす)。
能山咏月図。
十一月八日。石川柳城、清人陳曼壽、杉山千和、戸田葆堂および余を水明楼に招飲す。柳城詩あり。即ち其の韵に次して以て謝す。
石川柳城、転任して岐阜に移る。留別の詩有り。其の韵に次して以て行旌(※出向の謂)を送る。
陳曼壽の寓を訪ふ。席上、賦し示す。

曼老、帰期近し。此を賦して以て贈る。
十二月六日。無何有荘の招飲。壁間、鴻雪爪の詩幅を掛く。其の礎句絶句二章拠りて以て謝す。是の日会する者、清客陳明経、杉千和、田葆堂、岸観瀾等なり。
壬午(明治15年)元旦。
江馬金粟を挽く。
壬午二月、木村宗次、病を謝して米澤へ帰る。其の寓居に同僚諸子を招きて留別す。予またともにす。席上、此を賦して以て行を送る。
四月二日、早川樸堂を訪ひて遂に留宿す。
翌日、雨に阻まる。酒間、主人に似す。
次韵して小野湖山翁の寄せらるる作に酬ゆ。
原作に云ふ。「古城秋冷半山の霜。信ぜず他郷は故郷に非ざると。遺墳を歴吊(弔)して余涙尽く。臥して聞く、夜雨空しく床に滴るを」。 (自注。大垣城中の旧知、細香鉄心以下の十数名、今存する者、海鴎、藤陰二君のみ)。戸田眠鴎君、看菊の宴を其の晩翠園に開く。葆堂、雪爪、如石及び余を招飲す。席上、韵を鬮(くじひい)て同に賦す。
十一月念四夜。新加納村の西覺精舎の雅集。斯波北荘、上田澹齋、石川柳城、小田藍洲、神谷泳山、小林華山諸子と同に賦す。
同じく北荘君の韵に次す。

十二月二日。与偕園小集。壁間、清客王鶴笙書く所の米(※米芾の)襄陽詩有り。其の韵に次して鷃笑社友と同に賦す。
癸未(明治16年)歳旦。
写真師に贈る。
三月十八日、無何有荘の招飲。園中の梅花盛開。諸彦と同に賦す。
喬松修竹廬小集。席上「廬号」の字を分かちて韵と為す。余「廬」字を得たり。(神山咏山、近く金華山の北に卜居す。その書斎を命じて喬松修竹廬と曰ふ)。
四月七日。北方の里村医伯を訪ふ。楼上の眺望殊に佳し。此を賦して主人に似す。
四月十六日。斯波書記官および上田収税課長、長谷川柳城、小田藍洲、神山泳山諸子と同に無何有荘を訪ひ、遂に宿す。韻を分かちて同に賦す。
聴泉亭雅集。清客の王■園と晤ふ。兼ねて其の東京行を送る。
斯波北荘君、大蔵省少書記官に栄転して東京へ之く。
早川生の挽詞。
九月十五日夜、作有り。(此の夜、当に陰暦八月十五日)。
九月三十日無何有荘雅集。席上、清国の朱印然の帰国を送る。(朱氏、清国江蘇鎮江府の人。胡公壽の高足弟子也)。
朱印然来り、我が垣城に寓して屡ば文宴を会す。因りて七律一章を賦して哂正(※笑納)を似(しめ)す。
好古堂雅集。席上、朱印然の留別の韵に和し、其の行旌を送る。時に癸未十月十四日也。
崎陽田中萬谷訪はる。近況を賦して之に贈る。兼ねるに菱田判事に寄す。
西京原田西疇来訪。七律一章を贈らる。即ち次韵して以て謝す。西疇書画篆刻を善くす。句中故に之に及べり。
原作に云ふ。「闔郷文雅我曽て聆(き)く。此の道応に典型有ると知るべし。数幅神を伝へて鵞字を換ふ。一筐重ねて義す獲麟の経。悠々世上 風塵擾(みだ)る。処々山林歯屐停まる。偶爾升堂談笑に接す。欽君の所在、眼は常に青し。」甲申(明治17年)二月十七日。無何有荘佳 招。酒間、東京の鴻雪爪老人の書至る。書中、大嶋正人の詩有り。因りて其の韵に次す。是の日会する者、森春濤、杉山千和、戸田葆堂、堀口舫山、山川鴻雪等なり。
同じく荘主の睢陽君の韵に次す。
芳岡楼雅集。春濤翁の西京に之くを送る。
甲申七月事を書す。
和田某の沖縄県へ之くを送る。
凱山懐古。
今淵村に到る。途上即目。
晩秋、金森後凋と同に養老看楓の約有り。凋、屡ば余を促すに従るも、余、故ありて果さず。此を賦して以て謝す。
「義人録」を読む。
乙酉(明治18年)十月念九日(29日)、千和老人、金森後凋と同に金生山に登る。
帰途、矢橋氏を訪ふ。即席にて賦し似す。
十一月一日、青野村の水上氏を訪ふ。
水上氏、余を誘ひて後山に登り蕈を採る。
丙戌(明治19年)元旦。
二月一日亡児十三回忌辰。作有り。
今尾村の常栄寺住職、浅井黙堂師、瓊浦(※長崎)長照寺に卓錫(※居留)するを送る。
東遊詩(記行有り)。四月九日、四日市を発ち横浜に到る。舟中の作。
横浜蓬莱亭。
東京麹町の龍児の寓に投ず。
鴻雪爪翁を訪ふ。
岸観瀾と同に不忍池長蛇亭に飲む。
三嶋中洲を訪ふ。

印刷局工場を観る。
洲崎に遊び、故鉄心翁を懐ふ。
印刷局長市川研三、検査院副長M弘一、大学教授関谷清景、山林局書記官種田邁、前外務省書記官子安峻、陸軍会計軍吏棚橋照昌、柘植四郎等二十余名。余を芝の紅葉館に招饗す。席上、此を賦して以て謝す。
内子(※妻)および両児(※二人の子供)と同に鮫洲の川崎亭に飲む。
在京生徒二十余名。余を秋葉原の相模亭に招飲す。説田生の贈篇有り。即ち其の韵に次す。
日光に到る途上の作。
回馬坂を踰(こ)ゆ。
山中矚目。
日光廟を拝す。
川北梅山を訪ふ。
帰家。
丙戌七月十日。小原睢陽、堤静齋、神谷簡齋を与偕園に招飲す。戸田葆堂および余またともにす。葆堂の詩まづ成る。乃ち其の韵に次す。
熱甚しく、児虎(※子息の名)を憶ふ。木曽山中に在り。
九月廿五日。東京の孫女の訃音を聞く。悲悼の余り此を賦して懐を遣る。
十一月十五日。江馬天江来游。葆逸兄と同に与偕園に游ぶを誘ふ。席上、字を分け同に賦す。余「偕」字を得たり。
天江翁の韵に次す。
湖山老人来訪、遂に宿す。翌日与偕園に飲む。此を賦して教正(※御教示を乞ふ)。時に十二月八日也。
丁亥(明治20年)新年回暦(※還暦)自ら祝ふ。
新年作。

明治二十年二月。故是水小原君、贈位の典を蒙る。越えて四月二十四日、嗣子睢陽君、臨時祭を修して、親戚、故旧及び旧藩士、一千名を招く。余またともにす。七律一章を賦して以て神位に供す。
杉山鶯溪の米利堅に之くを聞き、此に寄せる有り。千和翁の韵に次す。
八月十日。小川果齋(※木蘇岐山)帰省の次、大垣を過る。葆逸、老松園に招飲して余またともにす。席上「老松園」の三字を分かちて同に賦す。余「松」字を得たり。
蘭秋与偕園雅集。席上、賦して甕江川田翁に似(しめ)し教正。其の壁に題する韵に次す。
「姉川戦記」を読む。(豊後臼杵稲葉匙次郎等。旧藩祖稲葉一鉄公の三百年祭を修す。寄題して遍く詩を四方に索む。因りて賦して此を之に贈る)。
「茗讌読詩図」に題す。
牧野交翠、大垣に移居す。葆堂兄、詩有りて之を賀するに高青邱「新居」の韵を用ゆ。余また顰みに倣ふ。
戊子(明治21年)歳旦。
二月十二日。牧野交翠の招飲。葆逸と同に賦するに、湖山翁の新春詩に和す。
酔夢上田君の古稀寿言。(君、近年金生山下に隠栖を卜す。句中故に云ふ。)
尾州森津村の武田氏の園に藤花を看る。
馬淵氏の水亭を訪ふ。
羽前の西川菊畦来訪。座間、此を賦して之に贈る。其の故郷留別の詩韵を用ゆ。
奥村逓信監察官、杉山千和と同に南郊を散策す。遂に久瀬川の吉村楼に到り飲む。席上、同に賦す。菱田海鴎の寄懐の韵を用ゆ。
菱田海鴎の寄せらるる詩に畳韵して却し寄す。
海鴎、江湖翁との唱和詩を示さる。次韵して却し寄す。
戊子七月紀事。
九月十八日。曽根村諸村の堤の壊れるを巡覧して遂に神戸村を過ぎ、杉山千和翁を訪ふ。翁、詩有り。乃ち其の韵に次す。(酒間、翁、治水の策を説く。句中故に之に及ぶ)。
又(酒間、余、吾が園中の荒蕪に一種の花卉も無きを説く。翁、手づから園中の紅蜀葵(※モミジアオイ)を剪りて瓶中に挿せり。)
金森後凋の東京に在るに寄懐す。
鴻江湖翁に寄懐す。(翁、今秋西遊の報有り。故に句中之に及ぶ。)
稲葉山懐古。

偶成。丁亥還暦自祝の韵を用ゆ。
己丑(明治22年)新正。
中嶋文波翁七十寿言。嗣子蘆舟の韵に次す。
又。

五月三日。郷を発ち東京に赴く。車中の口号。
晩春偶成。
鴻雪爪翁の来訪、喜びて賦す。翁の示さるる韵に次す。
牛籠(※牛込)寓居。
十月念日。内子及び児の虎と同に池上に到る。途上の作。
金森後凋、松蕈一筐を郵贈す。此を賦して謝す。

又次韵して詩を寄せらる。
男爵井田元老院議官を挽く。
庚寅(明治23年)元旦。
一月七日。東京を発ち帰郷す。汽車中の作。
一月十七日。戸田葆堂の招飲。席上、伊藤春畝(伊藤博文)君「小田原雑感」の作に次韵し、二宮攬翠と同に賦す。
又、中井滋賀県知事の「鴨水寓楼雑感」の韻に次す。
曙庵老人の華甲(※還暦)の寿言。(老人、徘徊宗匠為り。)
一月念八(28日)、高須宿増田氏の家に遊ぶ。夜、吉田耕平を訪ふ。耕平酒を呼びて歓待す。夜分に至り帰る。
次韵して西川菊畦の寄せらるる作に酬ゆ。
故井田雷堂君の別墅を過り感有り。
 往年、君の大垣に帰展するや、城西に[閑]地数百畝を購ひ、開墾して梅花数十株を移せり。以為らく他年の退隠の所なり。而して君、客冬、病に罹り起たず溘然として泉下の客と為る。今春偶ま此の地を経過して淒然として堪へず、此の作有り。
湖山翁の麩屋街僑居を訪ふ。(翁、今年七十七.矍鑠老健、酒を耆む。日に両回飲む。以て礼を為すを云ふ。)
東山に遊びて感有り。
 文久癸亥の秋。余、于役にて西京に在り。一日、小原鉄心翁、看楓の宴を東山暁雲亭に開く。岡本黄石、谷鉄臣、江馬天江、村田香谷、僧鶴 立等を招飲して余、亦たともにす。酒間、大和の捷報(※天誅組鎮圧)至る。遂に岡本氏の官舎を過り、その藩士獲る所の首級を看る。更に太白(大盃)を浮かべて皆な酔倒、而して帰る。指を屈すれば三十年なり。
楠公の墓を謁す。

将に東京に赴かんとして郷友に留別す。説田生の送別の詩韵を用ゆ。
三月念五(25日)夜、汽車に乗り東京に赴く途上の作。
小金井村看花。
 昔承応年間、多摩郡の玉川を引いて十里の鴻渠を作り水路を開く。江戸城中に入りて以て飲料に供せしむ。後、元文年間。徳川有徳公、桜樹 の水毒を解くと言ふ者有るを以て、郡吏川崎定孝に命じ、和州芳野の常州桜の種を移して、之を両岸に植えしむ。爾来、年を逐ひて繁茂、爛縵 として花着け、遂に都人の遊観の場と為れり。蓋し小金井村はその中央に在るを以て小金井桜の名有りと云ふ。
博覧会を観る。
進藤南溪の嶋原に帰るを送る。渡邊北溟の韻に次す。

渡邊北溟の作を寄せらるに次韵す。並びに引。
 北溟、往年龍児と同に相の国府津に在る也。「亦奇録」を読みて未曽有の格を為し、将に書および三絶句を寄せ示し、以て余に批評を索めん とす。而して公務鞅掌にて果さず。この頃、児に托して其の稿を示さる。余、受けて之を閲すれば文詞の流暢なる、詩句の雄抜なる、一読して 快を称す。余をして当日の景を想起せしむ。因りて其の韵に攀ぢて以て一粲を博す。時に庚寅(明治23年)五月也。
又畳韵して北溟に似(しめ)す。
 北溟は仙台の人。維新の際、事変に遭遇して東西に飄泊す。備(つぶ)さに艱苦を嘗む。而して今、鉄道局に奉職せり。
岡本黄石翁八十の寿言。其の自祝の韵に攀づ。
大倉益堂、手製の反射燈籠を恵まる。賦して此に謝す。
七月二十二日、児の龍、余および内子を誘ひ、函根、江嶋、鎌倉の遊を為す。往来三日、詩数章を得る。録して以て記念と為す。

塔澤(※塔ノ沢)の洗心楼。
其の別荘に遊ぶ。(荘中に二瀑有り。一を簾瀑と曰ひ、一を樹蔭瀑と曰ふ。)
江嶋(※江ノ島)。
巌本楼に宿す。
鎌倉。
大塔宮祠を謁す。
九月二十七日。江湖翁、海鴎兄と同に五顚山荘の観月の宴に赴く。荘主逸叟君、詩有り、同に其の韵に次す。此の日陰暦八月既望(16日) 也。(五顚山荘の旧称は御殿山なり。今は一の小丘のみ。然るに品川湾崖に在り眺望は開豁、尤も観月に宜し。子爵井上鉄道局長、此に別荘を 設へ、其の大人逸叟君、此に退隠す。齢は八秩(80)を超え老健、少壮を圧す。詩歌抹茶を嗜み優游として老いを娯しむと云ふ。)
九月念八の夜。寓楼の賞月。
十月廿六日。寓居小集。賦して江湖翁、海鴎兄に似す。此の夜陰暦九月十三日也。
此の夜、秋月古香君、期して至らず。席上、賦して此を寄呈す。(酒間、竹中無堂来る。第二句、故に云ふ。)
竹中無堂、近作を示して和するを索む。席上、其の韵に次す。
十月十三日。中嶋蘆舟の書を得、安田豊洲の訃を報ず。賦して此を追悼す。(書中に云ふ。安田氏の家、疫病に罹り伝染全家に及ぶ。存する者 は内子両児と妹のみ。酸鼻言ふべからず。)
辛卯(明治24年)元旦。
一月十五日。東京を発ちて神戸へ赴く。発つに臨みて此を賦す。
 余、摂西の勝、久しきを聞く。去年の西遊、纔かに其の一二を探るも、未だ遍く全勝を訪ふ能はず。以て遺憾と為す。今茲、龍児、神戸に赴任す。余、亦た同行、以て前(さき)の憾みを償はんと欲す。
其の夜、静岡に宿す。
須磨に遊ぶ。(寺有りて上野山福祥寺と曰ふ。俗に須磨寺と曰ふ。若木桜の制札、青葉の笛等の古物を蔵す。)
伊東深江至り喜び賦す。
折田五峯翁の宅に盆梅を看る。翁、清客の呉浴亭の詩を贈らるを示さる。乃ち其の韵に次して以て粲を博す。
又、次韵す。
楠公墓を再謁す。
渡邊北溟の寄せらる韵に次して却し寄す。
今茲辛卯四月八日。故星巌翁、正四位の優詔の追贈を蒙る。越えて六月七日、金森、田中二氏の相ひ謀りて祭礼を我が大垣与偕園に修し、翁の 義故遺族を招く。余、時に摂の神戸に寓す。二氏、書を寄せて余を促し、場に臨むを請ふ。乃ち帰来して式場に列す。翁の述懐の韵を用いて詩を賦すこと三章。以て蘋藻に代ふ。二を録す。
大分より別府に至る途上即目。

宇佐に到る途上所見。
耶馬渓作。
途上、従行する國枝生に示す。
日田に五岳上人を訪ふ。
玖珠郡長の菊村徳直、間税分署員の梅原茂枝、竹村之彦、瓜生田辰造、鈴木策および士族今村久成等、余を森村栖凰楼に招飲す。席上、此を賦して以て謝す。

菊村氏、詩有り示さる。乃ち次韵して以て答ふ。
加藤清泉(森村の人、名は茂弘)来見。席上、詩有り示さる。乃ち和して答ふ。
今村暘谷(久成)、寄せらる詩韵に次して却し寄す。
上田澹齋、余が為に小宴を開く。大分県書記官関新吾、師範学校長小野槙一郎、収税属矢野新、國枝永吉等を招く。此を賦して以て謝す。
小野氏、詩有り示さる。乃ち其の韵に次して以て酬ゆ。
矢野氏亦た贈篇有り、即ち和して答ふ。
今茲辛卯晩夏。二豊(※豊前豊後)の遊を為す。上田澹齋を以て東道の主と為し、前後旬日を淹留す。歓待周到にして此を賦して以て謝す。

澹齋の韵に次す。
八月三日。竜児の書至る。男を挙げ、及び虎児の栄進を報ず。此を賦して紀し喜ぶ。
九月十六日。関谷理学博士(※関谷清景)を(※兵庫県)八部郡板宿村禅昌寺の寓居に訪ふ。(寺に楓樹多く俗に楓寺と曰ふ。)
帰家。
地震篇。並びに引。
 明治廿四年辛卯十月廿八日午前六時後。地、大いに震ひ、濃尾越、其の衝くに当る。山崩れ水湧き、村落陥没、堤防壊頽、死者その数を知ら ず。余震及ぶ所、西南は日薩隅(日向薩摩大隅)。東北は則ち三陸二羽(羽前羽後)。その他五畿七道、皆な動かざるは莫し。吾が大垣のごと きは則ち当衝くの中心にして、震動は最も劇烈。闔境(※全域)また完き屋は無し。しかのみならず祝融(※火事)虐威を恣(ほしいまま)に す。一炬蕩然、圧死焦死する者、幾百人。其の惨状、名づけ言ふべからず。吾が家、幸ひに一人の負傷者なきは天福と謂ふべし。向(さき)の 嘉永甲寅の歳と、両度の震災に遭ふ。以為らく稀代の大劫(※長間隔)にして、詩以て之を紀すも、今にして之を思へば、強震と謂ふべくも而して劇震とは謂ふべからず。因りて又五古一篇を作りて以て之を紀す。
羽前の西川菊畦、吾が郷の震災を聞き、遥かに詩を寄せて安否を訪問す。乃ち韵に和して答謝す。
災後即目。

十二月十日、大垣を発ち神戸に到り竜児の寓に投ず。
寓居雑詠。
壬辰(明治25年)新正。
三月三日。湖山翁、石橋雲来を拉し、神港の寓舎を過ぎらる。雲来、詩有りて示さる。即ち和田先生韵して以て二君に謝す。
客冬十二月十七日。故山陽先生、正四位の優詔の贈を蒙る。今茲壬辰三月念一日、令孫龍三、洛東長楽寺の墓前に於いて祭典を修す。遍く詩歌を四方に求め、余、また聊か蕪詩を賦し、以て蘩藻(※蘋蘩)に代ふ。
九月十一日。故岩田春畊の追福会。此を賦して霊位に供す。
清水柳庵一瓢翁を賀す。獅子門の廿世の統を紹(つ)ぎ、俳門の宗匠と為る。

十一月一日、汽車に乗り御殿場を過ぐ。
十一月二十八日作。
麹坊寓居雑詠。
「雷咲餘聲」の後に題す。
 壬辰七月十五日。雷、岡本黄石翁の家を震はす。闔族、禍を免る。唯だ庖廚の一隅壊敗の異常のみ。其の二十五日、諸同人、翁を星岡茶寮に 觴(もてな)し、詩歌を賦して之を賀す。裒然(集りて)として冊と成る。名づけて「雷咲餘聲」と曰ふ。一日、余、翁を其の晩晴閣に訪へば 翁、一冊を贈らる。展覧の余、其の後に題す。是の歳の十二月二日也。
癸巳(明治26年)新正三首。

海鴎兄、近稿を余に寄せ示して余の評を徴す。附するに詩を以てす。乃ち其の韵に攀ぢて以て答謝す。
湖山翁の八秩寿言。其の新年自ら祝ふ韵に次す。
『勇新聞』発刊を祝す。
三月十二日。龍児夫妻、二孫を携ふると同に蒲田村梅園に梅を看る。(余、曽て龍児を携へ此に梅を看る。児なほ幼し。而して今すでに二子を挙ぐ。余が老い知るべし。)
近作数首を西川菊畦に贈り其の批評を乞ふ。菊畦、謙にして以為らく敢へて当らず、詩を賦して贈らる。乃ち其の韵に次して却し寄す。
菊畦、麹坊寓居の詩に次韵するを示さる。乃ち畳韵して以て却し寄す。
繍髪浄土の図に題す。並びに引。
星岡茶寮小集。会する者、鳥居、松井、岸、高岡の諸子也。菱田海鴎、期して至らず。

癸巳六月念五。原霞溪を訪ひて遂に宿す。
翌、松原氏を訪ふ。
八月四日。菱(田)海鴎、(戸)田葆逸、石(川)柳城と同に、(※大垣)岡山の故是水翁(小原鉄心)の墓を吊(弔)す。此を賦して蘋藻(※蘋蘩)に代ふ。翁の「平林荘を訪ふ」の韵を用ゆ。(荘は故飯沼慾齋翁の別墅なり。今は戸田眠鴎君の邸宅と為れり。)
帰途、永松村を過り戸田眠鴎君を訪ふ。前韵を用ゆ。

新築書事。

九月二十四日夜、月を看る。(此の夜、陰暦八月十五夜。雷鳴驟雨、二更に至り晴る。)
菱田海鴎兄に贈る。
松賀、矢野氏翁媼双寿を咏む。
甲午(明治27年)新正。
四月廿五日。原松蔭を訪ひて遂に宿す。庭前、牡丹盛んに開く。之を賦して主人に示す。
主人、近来桑園を開き蚕児を養ふ。因りて賦し贈る。

沼僧淳法兄、菊花数枝を携へて過らる。今日が陰暦重陽(九月九日)に属す、聊か以て贈を為すと云ふ。因りて此を賦して謝を述ぶ。時に十月某日也。
王師連捷を聞き、喜びて賦す(※日清戦争)。
乙未(明治28年)元旦。
梅賀上田の孺人(※令閨)の華甲を咏む。
乙未七月、児虎の命を奉じて清国北京に之くを送る。
乙未七月書事。
中秋(八月三十一日)月を看る。(邦俗、此の日を以て二百十日の厄日と為す。又天象を観て以て豊凶を卜す。)

虎児に寄懐す。
菱田海鴎を哭す。(鴎兄、余より十年少(わか)し。前聯、故に之に及ぶ。)
丙申(明治29年)元旦。
七十誕辰自寿。
渡邊太蔵大臣、余の自寿詩に次す。児虎に托して寄贈せらる。副ふる佐藤一齋老人八十四歳書く所の「烈士の暮年、壮んにして心やまず」掛軸一幅を以てす。乃ち畳韵して以て謝し奉り、並びに教正を乞ふ。
故団扇の歌。(並びに引。) 金森氏の嘱と為す。故金森金四郎翁は大垣の豪商也。(※以下略)。
丙申九月書事。(今年七月下旬、洪水の害有り、句中故に之に及ぶ。)
児龍の欧米各国の鉄道視察の命を奉ずるを聞く。将に近日を以て上途せんとす。乃ち上京して其の行に餞(はなむけ)す。時に十二月四日也。
丁酉(明治30年)元旦。
一月十一日事を紀す。(此の日、皇太后崩ず。)
二月八日作。(此の日、故皇太后を京都泉山に葬る。)

三月十一日、感有りて作す。(先考、嘉永三年三月十一日世を辞す。歯(よわい)七 十一なり。今を距つこと四十九年也。煥、偶ま其の歯に躋(のぼ)る。懐旧して今を思へば感慨措くあたはず。二十八字を裁して霊位に供ふ。)
清水谷公園看花。感有り。(大久保公遭難の処、一大追悼碑有り。)
雪爪翁を訪ふ。席上、此を賦して博粲を似(しめ)す。(翁、近日、家僕に代り毎晨、庭階を掃漑し、労働身体を以てす。翁の齢八十四。老健想ふべし。句中故に之に及ぶ。)
翁、余の詩に次韵して贈らる。乃と畳韵して以て呈す。
偕楽園雅集。台南県知事、磯貝蜃城君と邂逅す。君、詩有りて示さる。乃ち次韵して以て答ふ。
九月念四日。磯貝蜃城君の招飲。君の詩先ず成る。乃ち其の韵に攀ぢて以て謝す。君の帰県、近く在り。句中故に之に及ぶ。

児を悼亡す。
 児虎、腸窒扶私(チフス)の病に罹り、大学第二病院に入る。青山博士及び山口学士の治療を受く。症はげしく百薬無効にして遂に起たず。実に十一月十二日也。余、悲慟堪らず、七絶三章を賦して懐を遣る。
盆梅を看る。感有り。(客冬、亡き児虎の贈る所。故に云ふ。)
戊戌(明治31年)元旦。
渡邊北溟来訪。時に氷川神社の桜花満開。香雲掩ひて楼上に映ず。因りて留まり飲みて共に花を看る。
五月四日。岸観瀾、杉山千和老人、其の孫仁吉および余を星岡茶寮に招飲す。席上、之を賦して以て謝す。兼ねて老人の一粲を博す。
偶成。

郷友の香魚を寄贈するに謝す。
己亥(明治32年)新正。湖山翁の「七十三早春」の韵を用ゆ。
己亥三月十二日。郷友、余の帰郷を歓迎し煎茶の席を吉岡楼の玉家宴席に設け、余夫妻を招き饗す。感謝、何ぞ堪へん。此を賦して以て謝す。
 此れ先生の最終の吟と為る。実に大故の前三日に係る。此の日先生病を以て往くあたはず。夫人独り之に赴けり。然るに郷人の歓待の篤きを 以て、病を勉めて之を賦して以て贈る。先生人に接しては真摯懇厚、終始是の若し。踰えて十五日未明、溘焉として逝けり。此の詩、遂に絶筆 となる。嗚呼哀しい哉。其の字句欠妥のもの有りと雖も敢へて其の一字も点竄せず。謹んで諸(これ)を本集の末に置き、以て其の真を伝えんと云ふ。


裏表紙


【下】

表紙

藤陰遺稿文 目次
承前
承前

風雲際會集を更始するの序。
航西詩稿 序。
毛芥遺稿 序

孝経講義 序。
折柳集 序。

城堭祭詩記 序。
冬夜、不朽殿に宴するの序

養老山房集 跋。
淵齋公子遺稿 跋。

笙山遺稿 跋。
清人の芝田の画く山水の跋。
鴻雪爪翁の山高水長図記の後ろに題す。

伊藤子達に贈る序。
松倉子誠、越前に之くを送る序。
小原睢陽君、浪華に軍(いくさ)に之くを送る序。
高岡大夫、藝州に軍(いくさ)に之くを送る序。

岸観瀾、東京に之くを送る序。
岳父増田耕曹の八十初度を寿ぐ序。

敢堂記。
覧翠亭記。
遊鎌溪記。 (関連論文:「美濃池田の霞問ケ谷桜林とその名所化」小野佐和子)
両公の事を拝賜を記す。
常葉大神祠廟記。
紀功碑。
赤阪村温故陶器碑記。
鐵心小原君 墓碑銘。
亡友小寺士毅 墓碑銘。
三宅樅台翁 墓碑銘。
承前
果齋井上君 墓碑銘。
小野崎立堂君 墓碑銘。
風軒上田君 墓碑銘。
愨齋翁 墓碑銘。

宇野南村 墓碑銘。
菱田静蔵 墓碑銘。
清水先生碑。

金森金四郎翁 寿蔵碑。
竹内風也翁 寿壙蔵碑。
亡児喜三郎 碑陰記。
夢堂高岡君 行述。

市川東巌行述。
細香女史画像 賛。
岳父増田耕曹君肖像 賛。
招魂社神銘鏡。
楠公論。

承前
死生の説。
白の説。

虎の説。
挿花の説。
牽牛花の説。市川東巌翁に贈る。

古今兵法弁。
月喩。
研山鳥居君の文を祭る。
藤陰野村君墓碣銘:小野湖山
承前
承前

跋:野村龍(藤陰嗣子)
承前 / 奥付

裏表紙

『濃飛文教史』1937伊藤信著 より 445p

野村藤陰

 名は煥(あきら)、字は士章、藤陰はその号なり。幼字を喜三郎と曰ふ。のち龍之助と改む。父を龍左衛門と曰ふ。 大垣藩歩卒にして井上左衛門の組下に属す。母は大野郡下方村の農、加納某の嫡女なり。文政十年正月藤陰を産む。

 藤陰、幼にして頴悟、学を好み、天保十二年元服の後、乞ひて藩校致道館に入る。居ること三年、学大いに進む。同十五年、歳十八にして藩学 の助教に補せらる。爾後、 職に在ること数年、励精教務に力め、賞賜あり。嘉永三年、父病没し後を襲ぐ。同年、母に乞ひて大阪に遊び、後藤松陰の門に入り、翌四年、更に 津藩の齋藤拙堂に学び、業大いに進む。 安政元年藩に帰り、藩校敬教堂の講官に挙げらる。この歳十一月、藩命を以て江戸に赴き、公暇を以て、贄を塩谷宕陰の門に執る。この間、学愈々 進み、而して公に奉ずる忠正なり。 故に屡々金品の賜あり。慶応元年、学館の督学参謀に進み、尋いで積労を褒し禄五十石を賜ふ。

 当時海内多故、列藩争ひて文武を講ず。藩老小原鐵心、深くその為人を知り、委ぬるに学政を以てす。藤陰、感奮躬 を以て衆を率ゐ、上は藩侯に侍講して時に機密に参し、 下は藩校に群才を薫陶し、実学を先にし、虚文を斥け、廉恥を重んじ、礼節を崇び、一藩翕然これに従ふ、維新の際、藩主勤皇の功、鉄心の輔翼に 由ると雖も藤陰啓沃の力また少からずと云ふ。 明治元年十一月、評定局の設あり。擢でられて上局副総裁になり、班年寄に亜ぎ、郡奉行加役を兼ぬ。同年督学に拝し、禄五百石を賜ふ。のち大垣 藩権少参事に進み、専ら学政を司る。 廃藩置県に及び、なほ学務を管す。五年八月大蔵省租税寮九等出仕に任じ、翌八年三月、母の病を以て職を辞し、大垣に帰臥す。その東京を発する に臨み、詩あり曰く、

家江、一たび煙波に背きてより、この鴎盟鷺約をいかんせん。またこれ薫風鱒魚の候、軒冕を投じて漁簑を著るを要す。

彩衣を脱ぎて朝服を著るを誤り、帰心夜々慈顔を夢む。決然として今日、上程して去る。去り向かふ家郷は養老山。

 爾後、郷里に帷を下して経史を諸生に授け(明治元年、私塾を開き鶏鳴塾と云ふ。ここに至り再び塾を開けるなり。)、傍ら興文義校教員総 轄、師範研習学校監事、同校予科教員、 岐阜県第一中学兼岐阜県師範学校教員、興文学校付属予備学校漢学教師、華陽学校大垣分教教諭、同本校教諭に歴任し、陶冶する所の俊才その数を 知らず。西濃より出でて多少の名ある者、 その教えを受けざる者稀なり。その間、戸田葆堂等とともに鷃笑社を創設し、鷃笑新誌を発刊して斯文の振興に力を致せり。社に列するもの多し。 明治十八年七月、 教諭の職を辞す。のち明治二十七年、大垣中学分校の教授を囑托せられしが、一年にしてまたこれを辞し、爾來身を閑雲野鶴に寄せ、詩酒優游、時 に或は南船北馬、 跡を四方に托することありと雖も、到る処ただ悠々たるのみ。

 二十九年十一月、嗣子龍太郎、束京に迎へ養ふ。時に齢七旬、三十二年三月、夫人とともに大垣に帰展す。故旧争ひ てこれを迎ふ。たまたま疾に罹り月の二十五日、 遂に溘焉易簀す。歳七十二.超えて十七日葬儀を大垣全昌寺に行ふ。会する者無慮千五百人、遺命により荼毘に付し、遺骨を東京本郷長泉寺に瘞 (うづ)む。のち門人相謀り、 碑を旧大垣城趾に建て、小野湖山の撰文を刻せり。配、増田氏、三男一女を生む。長は龍太郎(工学博士)なり。次は虎次郎大蔵省主計官となり、 先だちて歿す。三男は喜三郎夭折す。 女は廣子、戸田鋭之助に適く。龍太郎、小原迪の女を娶る。即ち鐵心の嫡長孫なり。

 藤陰、人と為り、端正、温厚にして寡黙、その容温や、その言藹然、しかも眼中異彩あり。人をして自ら敬を致し、狎るる能はざらしむ。その 人を教ふる諄々倦むことなし。 弟子に過あるも励声疾語せず。能く自ら省みて悛(あらた)めしむ。親に仕へて至孝、誠敬太だ篤し。少時父を喪ひ、家道裕ならず。母加納氏賢に して淑、大いに炊織に務め、 梳嗽を忘るるに至る。これを以て一家の経理井然として整ひ、復た後顧の憂ひなく、能く四方の志を成さしむ。斯の母にして斯の子ありと謂ふべ し。鐵心、性豪邁、喜んで海内の豪傑と交る。 往々談論風発声気加はる。既にして(しばらくして)笑語歌管大いに起る。藤陰その間に処し斂然静黙、容、愈々恭しく、気、愈々和ぐ。これに近 づく者、覚えず自ら斂む。 鐵心これを見て益々敬せりと云ふ。

 藤陰、学、経史百家に渉り、最も左氏に深し。もしそれ詩文筆札の如きはその視て以て末枝とする所なるべしと雖 も、郷党これを貴ぶ、趙璧も啻ならず(羨望すること宝玉の如く)。 而して文章に於いて最もその長を見る。著す処『左氏伝評釈』『藤陰詩文稿』その他若干いまだ梓に上らざるものあり。 明治四十一年嗣子龍太郎氏、遺稿を刻し、題して『藤陰遺稿』と云ふ。越えて大正四年十一月、 大正天皇畏くも即位の大典を挙げ給ふや、特に従五位を追附せられ、生前の勲功を表彰し給へり。茲に於て有志相議し、翌五年四月、大垣公園内墓 碣の前に於て、贈位奉告祭を行へり。 泉下の英霊また瞑すべきなり。


掛軸 (2008年2月購入)

掛軸

夢魂驚醒五更鐘
殘月光沈霜色濃
起坐養來平旦氣
更無外物接心胸

霜暁聞鐘 藤陰老逸 煥

夢魂、驚き醒める 五更の鐘
残月、光沈んで霜色濃やかなり
起坐、養ひ来る平旦の気
更に外物の心胸に接するなし

霜暁、鐘を聞く 藤陰老逸 煥

印譜   印譜


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