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秦滄浪(はた そうろう)(1761宝暦11年〜1831天保2年) 

名は鼎(かなえ)、字は士鉉、通称嘉奈衞。 滄浪、小[王戔]翁、小翁、夢仙と号す。 父は苅谷藩儒に聘せられた秦峨眉(1716-1791服部南郭門 下、本巣郡真桑村の人)。 博識と驕慢と、毀 誉褒貶のはげしく、尾張名古屋藩明倫堂の典籍(教授並)に任ぜられるも失脚。能筆も狂草の甚だしきを以ってきこえた由。『春 秋左氏伝校本』ほか、世に行はれた数多くの編著書・校 定本がある。

【以下解読中につき、[字句]につきましては訂正御教 示の程よろしくお願ひを申上げます。】





六月之望天欲焦
午間山半雪纔消
其夜皓然千仞積
千秋萬古曝青霄

滄浪鼎

六月の望、天焦げんと欲す
午間は山半ば、雪纔かに消ゆ
その夜、皓然として千仞積む
千秋万古、青宵に曝(あら)はる


(富士山の詩)

(2012.03.21 塩村耕先生より解読の御協力を賜りました。)


臥牛先生遺 稿

飛騨上世猶子雲所穪蠶叢漁鳬蒲澤之郷。阻深闇 [日勿]上國聲教。莫有文字業。至姉小路氏 乃始有一二聞於時者。然亦唯短歌微吟不能長。况漢籍大篇乎。三十年前。有滄洲津野翁焉。高 山人也。好學。廣於交道。將江戸帰。有所屬於畫士寒葉齋。畫士諾。及帰日。 翁旅装過之。畫士不在。悵然出門。如所失。薄暮抵鴻巣驛宿。去江戸百二三十 里。對食歎息。倚楹沈吟。逆旅主人以郵筒進。曰驛豎午餉。於田間拾之。上題貴客名。故進[目矞ケツ]然顧之。乃畫 士所贈也而中畫幅。驚曰。何従致之。一行之人。左思右想。無知其故。翁奮起曰。不如復還江戸問之之爲解也。畫士亦驚歎曰。奇矣奇矣。 蓋翁出自前。畫士帰後。聞翁未遠。使小僮負畫幅追之。未数十歩。飛鳶攫去。小僮泣帰云。夫高鳥回翔天際。一東一西。一南一北。翻然乗雲。冷然御 雲。是其所常無窮。而東西不可期。而今翻然正墜翁前。是何祥歟。翁子子容。嘗問之余。余亦左思右想。至今[格]之。昨日 高山赤田永和。謀梓其先考臥牛先生遺稿 於余。曰窮山谷 之人。詩文上梓。此集爲始。事之善否。唯君教之。蓋子容謀之也。余受而誦之。美哉。噦々然鸞鳳之音也。夫飛弾興上國鬱遏凡幾業。但其山多 産良村。人唯治木径。免調庸。點返丁。負斧斤役於京師。歳若干人。士又宜蝅桑鋤蛻゚被諸方。機 杼所和。釽規所兼呈。猶太沖之所穪賛云尓。是固已孕匠心於此。則又安無錦心之人生其間哉。於是有臥牛先 生出焉。翁珍重先生篤於文學。謂此當興上國 騒壇竝立。翁務外交。先生守玄亭。修文其中。未幾年。果如翁所策矣。嗚呼。二君子之親 也。親則久。久賢 人之業。二 君子之子。亦能奉其遺命。謀不朽此集。不亦善乎。夫飛鳶陋鳥也。羽毛無五采之美。鳴噦 然之和。然聖人引以喩之道。 則日 爲翁使者。則足以爲文學飛聲之祥乎。

  文政十歳丁亥冬日
                     尾張秦
滄浪撰  東巒紫春書

 飛騨の上世、なほ子雲の称するところ蚕叢魚鳧※1の蒲沢の 郷のごとし。深き闇[日勿]上國の声教を阻む。文字の業の有るなし。姉小路氏に至りて 乃ち始めて一、二の時に聞ゆる者有り。然るにまた唯だ短歌微吟にして長くは能はず。况んや漢籍の大篇をや。三十年前、滄洲津野翁有り。高 山の人なり。学を好み、交道を広くす。まさに江戸に帰らんとするに、画士寒葉齋※2に属する(依頼する)ところあり。画士諾(うべな)ふ。帰日に及び、翁旅装してこれを過(よぎ)る。画士不在なれば、悵然として門を出 づ。失ふ所あるがごとし。薄暮、鴻巣駅の宿に抵(いた)る。江戸を去ること百二三十里。食に対ひては歎息し、楹(はしご)に倚りては沈吟す。逆旅※3の主人、郵筒をもって進む。曰く、駅豎※5午餉(ひるげ)に田間に之を拾ふと。上に貴客の名を題すれば、故に進ず、[目矞ケツ]然※4として之を顧る。乃ち画士贈るなりて中に画幅あり。驚きて曰く、何に従りてか之を致すと。一行の人、左思右想すれども、其の故を知るなし。翁、奮起して曰 く。復た江戸に還り之を問ひ、之を解くこと為すにしかざる也。画士また驚歎して曰く。奇 なるかな奇なるかな。 蓋し翁は前より出でて、画士は後ろより帰れり。翁の去ること未だ遠からざるを聞き、小僮をして画幅を負ひてこれを追はしむると。未だ数十歩ならずして。飛鳶、攫(かす)め去る。小僮泣き帰りて云ふ。夫れ高鳥の 天際を回翔するや、一東一西、一南一北。翻然として雲に乗り、冷然として を雲を御す。是れ其の常の窮まりなく、而して東西 期すべからず。而るに今、翻然として正に翁の前に墜つ。是れ何の祥かな。翁の子、子容。嘗て之を余に問ふ。余また左思右想、今に至るに之に格(いた)る。昨日、 高山の赤田永和、其の先考※6臥 牛先生遺稿の※7余に謀る。曰く、窮山谷の人。詩文の上梓。此集を始めと なす。事の善否、唯だ君が之を教へ、蓋 し子容これを謀るな りと。余、受けて之を誦す。 美きかな。噦々然として鸞鳳の音なり。夫れ飛弾の興上國鬱遏凡幾業。但だ其れ山多 くして良村産む。 人唯だ木径を治め。 調庸を免ぜらる。 點返丁。斧斤の役を京師に負ひて。 歳は若干の人。士又は宜しく蚕桑鋤蛻゚被諸方。機 杼の和する所。釽規の兼ね呈する所。なほ太沖の称賛して云ふ所のごとし。是れ固よりすでに匠心を此に孕むと。則ち又いずくんぞ錦心の人生其の間になからん や。是において臥牛先 生の出づる有り。翁、先 生の文学に篤きを珍 重す。謂ふ、此れまさに上國の 騒壇の並立興るべし。 翁、外交に務む。 先生守玄亭。修文其中。未だ幾年ならず。果して翁の策(もと)むる所 のごとしや。嗚呼、二君子これ相ひ親しむ や、親しむこと則ち久し。久ければ則ち賢 人の業。二 君子の子、亦た能く其の遺命を奉じ、此 集の不朽を謀 る。亦た善からずや。夫れ飛鳶陋鳥なり。羽 毛に五采之美なし。鳴聲には噦 然の和なし。然れども聖人喩へを以って引 くに之を至道とす。 則ち前日翁の使者と為りしは、則ち以て文学飛声の祥と為すに足 れり 【解読中】

  文政十歳丁亥冬日

※1蚕叢・漁鳬:古代蜀の王
※2寒葉齋:建部綾足 享保4年(1719年) - 安永3年3月18日(1774年4月28日)
※3逆旅:宿
※4[目矞ケツ]然:おどろき見るさま
※5駅豎:駅で下役する子
※6先考:亡き父
※7:出版



孝伝湖水池(孝池水、孝子ケ池)の頌詩【解読中】


君不聞        君、聞かずや
昔日飛騨深山裡  昔日、飛騨深山の裡
門原之村有孝子  門原の村に孝子あるを
其名田作善事親  その名、田となし、親によく事(つ か)ふる  門原に「田口左近光員」な る人物を先祖とする家あり、この一統か。
親病嘗欲琶湖水  親病みてかつて(琵)琶湖の水を欲するに
孝子走從其所求  孝子その求むるところに従って走る
自飛至江三百里  飛(州)より江(州)へ至る五百里
汲水帰至瀬戸山  水を汲み瀬戸山に至り帰れば
聞父己終悲欲死  父のすでに終るを聞き、悲しみ死せ んと欲す  伝承では母。
覆其水處忽成渕  その水を覆す処、たちまち渕となり
千歳湛々湧無己  千歳、湛々と湧きてやまず
湧而不己深百尋  湧きてやまざる、深きこと百尋
水色與他諸渓異  水色は他の諸渓と異る
此人為上天所存  此の人、上天の存(と)ふところと なり  とふ訪。 見舞ふ。
遂昇仙階去門原  遂に仙階を昇り門原を去る
乃謝村人吾雖去  すなはち村人に謝す、吾れ去るといへども
時遊山頭顧此村  時に山頭に遊びて此の村を顧る
遊時必有大石隕  遊ぶ時は必ず大石のおちるあり
以此為信莫相諼  此をもって信となし、あい諼(わす) ることなかれ  わする忘。
大石雖隕不傷物  大石のおちるといえども物は傷つけず
至今毎年如其言  今に至るも毎年その言のごとし
孝池水兮孝池水  孝池水、孝池水
玉醴金漿何足論  玉醴、金漿、何ぞ論ずるに足りん   不老長寿の仙薬。
今人如欲寿千年  今人もし寿を千年欲するならば
先當至性感上天  まずまさに至性を上天に感ぜしむべ し  非常に善良な生れつき。
如何不孝求延寿  如何でか不孝にして延寿を求めん
故無一人能得仙  もとより一人としてよく仙を得るは無し

 又一首      また一首
孝仙[喬]跡碧潭深  孝仙[橋]の跡 碧潭深し
潭底之深孝子心  潭底の深きは孝子の心
天下誰家無父母  天下、誰が家か父母なからん
山中此處有霊潯  山中、此の処、霊潯あり             ※: ふち。
[阜郷片舃]徒衛古 郷、片、徒(いたづ)らに古へを衛る
石室瑤函不在今  石室の瑤函、今在らず             ひとからの手紙。      
長使行人有感泣   長(とこし)へに行人をして感泣あらしむ
更添其涙水千尋  更にそれ涙水千尋を添へん

孝伝湖水池  丙子仲冬望  文化十三年十一月十五日 尾張 泰鼎

孝池水 (所在 :下呂市下呂市瀬戸1-2 JR高山線焼石駅)
画像提供 :o.kumazaki 氏
参考文献 :国会図書館デジタルライブラリー
 『眞 木佐久斐太乃山踏』 8/57,9/57 富田豊彦編,田島壮二郎校 (高山町:平瀬邦之助,明33.5 101p;19cm 和装)
 『飛 騨山川』 81/294  岡村利平編 (高山町:住伊書店,明44.11 544p;23cm)


参考文献 :
『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』笠井助治著 ; 吉川弘文館, 1969.3 655-656p
『東海の先賢群像』岩田隆著 ; 桜楓社, 1986.4 108-109p
『吉川幸次郎全集27』岩田隆著 ; 筑摩書房, 1986.4 「鈴舎私淑言」89-91p
『円陵随筆』 天保12(1841)年、宮田敏(円陵)(1809-1870)著「秦鼎ハ行儀ノ人ニテ尊貴ノ人二対シテ失礼傲慢多カリシ、其ノ実ハ傲慢ヲ以テ諂諛セシ 也・・・ 」


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