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四季派の外縁を散歩する   第25回

詩人一戸謙三の軌跡 方言詩の前後をよみとく 【ノーカット版】

青森県近代文学館「特別展 詩人・一戸謙三」 第2回文学講座


分量は倍あります。あらたに写真資料各種リンクを付しました。

2019年8月18日講演原稿 当日実際の講演原稿はこちら

●「蒼き流れのほとり」 大正9年

さみしや、われ人を恋ひぬれ、
今日もこんこんたる蒼き流れのほとりにありて
遠くはるかに思ひつかれ、
すべなくも、また帰らんとするに、
向山(むかやま)の峯のあたりにむら立つ木の梢らは、
しら雲ながるる空をさししめしながら、
しんねんと音もなく燃えのぼるぞや、
燃えのぼるぞや   『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載      (●は会場で朗読された詩篇・ほかの部分です。)

●「壁」 昭和7年

壁の中から、私は煙草のけむりを吐く。彼らは貧しい卓子(テーブル)に集り、暗く話してゐる。
私の煙草は灰にならない。彼らは卓子と共に遠ざかり始める。闇の天井から落ちる風、それは死であらうか。
彼らは消えた、そして卓子も。また私も、壁の中にはゐない。壁に煙草が刻まれてゐるだけだ、一本の白骨のやうに。
洋燈(ランプ)がひとつ残つてゐる。ああ、何たる追憶であらう。   『椎の木』第一年第七冊(昭和7年)

●「茨(バラ)の花(ハナコ)」 昭和9年

街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぷて、
それでも咲エでる茨(バラ)の花(ハナコ)…   『茨の花コ』(昭和9年)

●聯詩「白菊の門」 昭和14年

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり   『聯』九号(昭和14年2月)

●詩人内海康也の回想より

詩人たらんとして詩人たりえぬ人間はけっこう多い。だが、詩人以外の何者でもあ
りえぬ生涯は、そう多いとはいえぬ。そうした数少ない、詩人としかよびえない詩人
が一戸謙三であった。
一戸謙三は、いつも黒いコウモリ傘を小脇にかかえ、イギリス紳士のように長身の背すじをのばして、どこヘでも気さくに足を運んだ。その姿は詩人以外の何物でもなかった。
 「一戸謙三と弘前詩会1、5」内海康也東奥日報、平成9年9月5日、10月3日



【自己紹介】

 ありがとうございます。詩人一戸謙三80年の生涯の作品から詩を5篇、そして内海康也(やすなり)さんが伝える詩人の風貌について朗読して頂きました。

 あらためまして初めまして。岐阜から参りました中嶋康博と申します。「この人だれ」と思われている方も多いと思います。岐阜女子大学に勤務しております一職員です。
 本日は一戸謙三の「方言詩以外の詩」について、その概略と変遷とを、アナウンサーによる朗読をはさみながらたどってゆこう、という試みですが、 最初にどうして私のような者がここでお話することになったのか、私が何者なのかと共に簡単にご説明したいと思います。

 私は岐阜の人間です。若いころ東京に独りで生活し、仕事の傍らに詩を書いておりました。難しい現代詩がどうも性に会わなくて、宮沢賢治や立原道造、といった昔の抒情詩ばかり読み耽り、現代の東京田端で暮らしながら、頭の中は戦前の帝都・東京の芥川竜之介の近所に暮らしていたような感じでした。ちょうど職場も上野の不忍池のほとりにある、下町風俗資料館という明治大正昭和の生活を展示するところにあって、一種のタイムマシンに勤めておったような気がしております。

 ただ、そんな生活をしていても、詩を書いておれば自分の詩を誰かにみてもらいたくなるんですね。申し上げたように現代詩は理解が出来ないので、 詩の友達なんかできません。また近所の詩人の先生が開いているという教室にゆく気持も結局起きませんでした。
 しかし当時1980年代の終り・昭和の終りころだったですが、まだ戦前からの詩人の何人かは御存命で、ある日その一人に勇気を出してファンレターを書いたんですね。それが田中克己と言う詩人で、戦前に堀辰雄や三好達治がやっていた『四季』という同人誌に拠っていた詩人です。戦争中は『神軍』なんていう戦争詩集も出していて、強面ということでも有名でしたから、知らない人は、右翼じゃないか?と、おっかなびっくり色んな噂のうちに敬遠されていた詩人です。

 成城大学の東洋史の先生で、戦後はクリスチャンに改宗した学者肌の詩人ですが、その青年期の、癇癪をこじらせたような作品が、私は大変に好きだったのですね。棟方志功に装釘をしてもらった本もありますし、詩集を太宰治にも送ったら飲みにつれてってもらった、なんて逸話もある詩人ですが、 私が出会ったのは75才の時でした。すっかりおだやかになって大学を退官した暇を持て余しておられ、独りで『四季』(第5次)を復刊させたりしていた。私 は躁鬱を患う老詩人のところに遊びに来るただ一人の若者ということで、(当時25才でしたが)以後、亡くなるまでの5年間、二人暮らしでいらした奥様からもたいへん大切にして頂きました。

 その田中先生が(80で)亡くなると、私はもう東京暮らしが嫌になり、(お導きがあったのでしょう)田舎の岐阜に帰って現在勤めている女子大の職員になることができました。そして先生が遺した業績をまとめておかないと散逸してしまうという気持になりまして、あわせて当時周辺にあった詩人たちの業績についても、世間に紹介したくなりました。
 図書館に勤めるようになったのが幸い、サーバーの空き領域を拝借して始めたのが、このサイトです。そしてホームページ活動の最中に知遇をかたじけなくしたのが、八戸で 『朔』という詩誌を主宰運営しておられる、詩人の圓子哲雄さんです。

 ここにお集まりの皆さんの中には御存知の方も多いと思いますが、圓子さんは、御当地青森の、村 次郎という詩人を師と仰いでおられます。村 次郎と 交流のあった仲間達には、『山の樹』という、先ほど申し上げた『四季』の弟分のような同人誌があるんですが、同人に弘前で高校時代を送った小山正孝という詩人がおります。田中克己とも懇意の詩人で、それが御縁で、圓子さんから『朔』という詩の雑誌を送って頂くようになりました。

 圓子さんは、自身が師事する村次郎だけでなく、地元詩人の顕彰にも熱心でして、私は八戸から送って頂く、その『朔』という雑誌の特集号を通じて、草飼稔とか、和泉幸一郎とか、今まで知る ことのなかった青森詩人の存在を知るんですが、中でも2005年から2007年にかけて (155〜160号)、6回にも分けて特集が組まれたのが、本日お話する詩人、青森県の近代詩を語る上では欠かすことのできない存在である一戸謙三 (1899年2月10日 - 1979年10月1日)という詩人でした。

 一戸謙三は若い頃に二度、東京生活を経験しているんですが、その後はずっと故郷の津軽にこもって詩作を続けてきた詩人です。なので私も、一戸謙三という詩人のことはよくわからない。一戸玲太郎というペンネームは、『ねぷた』という方言詩の希覯詩集を持っていて、知ってたんですが、読めないから手放してしまいました。理解しがたい方言をあやつる詩人だなあ、農民詩人のようなものだろうか、と思っていた訳です。
 ところがその『朔』の特集をみたら、紹介されていた詩は方言詩ではないんです。とても瑞々しい、あるいは知的な、いろんなタイプの詩を書いていたこと、そしてその水準の高いことに、びっくりしてしまいました。

 当時その『朔』の特集号で、一戸謙三の知られざる資料について解説に健筆をふるわれたのが、本来は今日ここで講演をするべき、今は亡き、詩人の坂口昌明さんであります。西洋芸術にも詳しい独立独歩の学究肌のひとですが、この地方の伝誦民俗の研究者として、青森県人には恩人と称すべき方です。今日のお話する内容の半分は概ね、2011年に亡くなられた坂口先生が書かれた論考の「受売り」と申して差し支えありません。
 そしてその坂口先生から助言を得て、詩人の家に遺されていた膨大な資料を元に、その生涯と詩業との紹介につとめてこられたのが、本日会場にもおみえになる、お孫さんである一戸晃さんであります。

 一戸謙三には「不断亭雑記」という589回にものぼる新聞連載の回想記事があるのですが、晃さんもまた、祖父の業績とその周辺情報を丹念に集めること、実に163回にのぼる、まことにぬくもりが感じられる「探珠『玲』」という報告集を発行してこられました。そして先ほど申し上げた圓子さんの『朔』で特集が組まれてから10年後のことになりますが、『詩人一戸謙三の軌跡』という小冊子にまとめられて、この春とうとう10冊で完結いたしました。そういうわけで今日お話する内容の残り半分は、令孫の晃さんが集められた資料の紹介と申し上げて差し支えありません。つまり私がここにいる理由がなくなってしまう訳でありますが(笑)、このたびの特別展はその研究誌の完結記念のようにも思われまして、本日の演題を『詩人一戸謙三の軌跡』とさせていただいた次第です。

 私は遠方から一戸晃さんの活動にエールを送ってきた読者の一人にすぎません。けれども、晃さんを始め、坂口さんは故人となられましたが、そして圓子さんも現在療養中で本日はお見えにはなりませんが、今回私のような者を演者に選んで下さった近代文学館の伊藤室長、そして詩人一戸謙三に関心を寄せる地元の皆さまに対して、この機会に青森まで伺い、今回の特別展開催のお慶びとともに、その意義を直接お伝えしたい、こういう気持で岐阜より参りました。

 現在、少しは改善されましたが、文学者を評価する際に、地方で活躍した人たちの扱いが、東京で活躍して「故郷に錦を飾った」作家たちとくらべて小さすぎやしないか、というのが私の率直な感想です。昭和59年刊行の『日本近代文学大辞典』には「一戸謙三」も「高木恭造」も載っていませんし、一戸謙三の青森県内での評判も、方言詩以外は、県内で詩の結社を初めて立ち上げて地元詩壇を牽引した、という功績がざっくり認識されているだけ。何だかそれだと詩歴が長いからリーダーだった、みたいなイメージで誤解されかねない。まことに残念なことであります。

 青森には詩人になる前、30年以上昔に一人旅を二度もしていて、私にはたいへん思い出深い場所であり、本日は不思議な気持でここに座っております。坂口昌明先生と同じく青森の人間ではない者の視点から、お話をさせて頂きたいと存じますので、よろしくお付き合いください。

 それでは大河原アナウンサー、稲葉アナウンサーのお二人にも、今日はよろしくお願いいたします。本日の催しについて思うことなどありましたら、 一緒に伺いたく自己紹介をお願いいたします。


【前段 方言詩のこと】

 ありがとうございます。さて、この地元でも一戸謙三という詩人は一般には、さきほど申し上げましたように、御当地津軽弁の「方言詩」によって認知されている訳でして、「方言詩」といえば、皆さんもご存じの、高木恭造(1903年10月12日 - 1987年10月23日)の詩集『まるめろ』が全国では有名なんですが、本題に入る前に、今日はお話ししないこの「方言詩」に絡んで、詩人としての一戸謙 三の評価について少し触れておきたいと思います。

 方言詩というのは、方言ならではのニュアンスを声で伝える「朗読詩」であるというところに一番の特徴があります。つまり一般に詩を読むという行為──「詩集」に印刷された活字を黙読する読書とは違って、朗読詩を読む行為には演劇性があるんですね。それで津軽方言詩が、一種の「劇」のように、朗読会やレコードを通じて、地元青森県人だけでなく、津軽弁を解さない都会の人たち、そして日ごろ文学に親しむことのない人たちに対しても、 物珍しさを伴って注目を集めた、ということがあったと思います。

 高木恭造は、方言詩でデビューを飾った詩人ですが、実はその後はずっと方言詩からは遠ざかっていて、もうすっかり忘れられた頃に、詩壇の外から注目されました。いま申し上げた「朗読詩」によって、昭和40年代の東京で、フォークソングを始めとするアングラ文化を担う若者たちから支持を得て、晩年をにぎやかに送ることが出来た詩人でした。

 本日お話する一戸謙三はというと、一緒に彼の方言詩も見直されたということはあったと思いますが、そういう場を避けて、敢えて「朗読詩」のブームには乗らなかった詩人です。
 そして一戸謙三にしても高木恭造にしても、ふるさとでは方言詩が詩碑にまで刻まれるという栄誉をこうむっているんですが、実はお二人とも一連の方言詩とは別に、先ほど触れましたように共通語で書かれた、すぐれた抒情詩・前衛詩を公にしております。

 このことは、ブームを起こした高木恭造自身が、朗読会の会場で「『まるめろ』以後の作品が全く顧みられない」と嘆いているんですが、みなさんあまりご存じない。もっと言えば一戸謙三は、高木恭造とは異なり、そもそも方言詩で出発した詩人ではありませんでした。

 今日はそのことからお話しするわけですけれども、一戸謙三も、詩人として最初に公刊した詩集はしかし、申し上げましたように、方言だけで書かれた 『ねぷた』という名前の詩集です。 昭和11年のことです。読んで頂いた、「街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぶて、それでも咲エで る茨(バラ) の花(ハナコ)」という詩。当時の彼は、

「私が方言詩を書くまで十数年の間に、約二百篇位の詩を書いていたが、それらの作品全部と、このつまらない津軽弁の詩の試作とがつり合うとまで考えはじめ
ていた。」

 なんて思いつめていたそうです。「このつまらない津軽弁の詩」というのは、それだけ自信を以て臨んでいる、という裏返しの表現です。しかし方言詩については、坂口昌明先生も「一般読者が合点するには山菜を調理する程度の根気が要るのはやむを得ない」と、認めておられますが、よその地域の人にはなかなかわからない。私も『ねぷた』は友達に譲ってしまいましたし、高木 恭造が遺した津軽弁による朗読を聴きましたが、かみしめる調子に感じ入ったものの、単語がわかりませんからそれ以上は踏み込めない。 やはりそれなりの根気が必要だな、と観念したことであります。

 そしてこれが肝心なんですが、一戸謙三は高木恭造とは違って、それまでに書いてきた「約二百篇位の詩」つまり「方言詩以外の詩」に、詩集という形で出版することを、そのときしなかったのですね。さらに方言詩も作るのをやめてしまって、戦争がはじまるとすべての詩の発表を中断して沈黙してしまうのです。ふたたびペンを執るのは戦後になってからでした。

 戦後になって彼は、ようやく自分が納得のゆくように、自撰詩集を二度編んでいます。(詩集『歴年』 『自撰 一戸謙三詩集』)
 その際、自分の詩作を「○○時代」「○○時代」とい う風に年代順に名前を付けて整理して、それはいいんですが、各時代に数編づつの作品しか採りませんでした。昭和40年代、日本は出版ブームを迎えるんです が、戦前に活躍した多くの詩人のようには『全詩集』も作られなかった。彼自身、自分の『全詩集』というものには興味がなかったようです。

 いさぎよいと言えばそれまでですが、二度の自撰詩集に全く同じ作品を選んでおります。そして「自分の魂の遍歴は、これだけ集めてあれば理解されると思う」なんて書いている。
 一方でそれを補う様に、589回にものぼる「不断亭雑記」を新聞で連載して、自らの詩的生涯を回想している訳ですが、詩人というのはやはり「詩集」という宝石箱の中に詩を遺さないと、人々の記憶に残らない。星も星座図に載せられてはじめて名前が覚えられます。個々の作品が単品で輝き続けるというのはなかなか難しいんですね。
 これが「実像」に比較して小さく、また偏った文学史的評価に、詩人一戸謙三が甘んじなくてはならなくなった一番の原因だと思います。

 そして詩人が亡くなって30年も経ってからのことになりますが、先ほど申し上げた詩誌『朔』の特集号の中で坂口昌明先生が、謙三の若き日の傑作が自撰詩集からごっそり削られていることを指摘してたいへん惜しまれた。おなじ津軽詩人の高木恭造と較べても、不釣り合いな世評が定着していることについても疑問を呈された。

 その理由として坂口先生は、一戸謙三という詩人のことを「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。(『みちのくの詩学』 231p)」また「詩人として非常に高いレベルにいた人なので、理解者が少なかったということが案外大きいと思う。」「そうすると人間というのは、自分はこれでいいのか、と自分を疑いだす、それで、絶えず自分の作品を創り直したり、或いはなきものにしたり」したのではないか。」そう仰 言っています(『探珠100号』7p)。

 私も“謙三さん”がことあるごとに、自分の詩歴を整理して語ることを好んだことについては、思うことがあります。
 地元詩壇で陣頭に立っていた彼には、対外的な意識が強かったこと、そして、地方在住の詩人は中央から批評されることが少なく、自分たちが起こした運動については自ら解説せざるを得なかった、そういう事情があったのではないか。「これだけ残せばあとはいい」といういさぎよさは、自覚的な詩作を続けた謙三さんらしい、詩人としての自負の表れだったように、私には思われます

 本日は方言詩の意義や鑑賞は前回の工藤正廣先生、そして次回の伊藤文一(ふみかず)室長のお話におまかせしてありますので、それでは謙三さんの「方言詩以外の詩」について、それらがどんなものであったか、書かれた背景と変遷とをこれから順番にたどって参りたいと思います。

【※付記】 謙三と恭造と二者の詩、その違いをあえて申し上げるなら、同じ「かなしみ」でも高木恭造が「悲恋・悲傷」の「悲かなしみ」なら、一戸謙三は「哀愁・哀楽」の「哀かなしみ」といった違い、とでも言いましょうか。色で申し上げるなら、高木恭造が赤なら、一戸謙三は青、みたいな感触の違いが、私の中にはあります。
【※付記】 そしていつの時代も地元新聞が謙三さんに発表の場所を与えてくれていたこと――これは今回この詩人のことを調べながら思ったことですが、青森の人たちの地元文化を応援しようという思いが、今に至るまでまことに厚いことに驚いています。逆に言えば、その居心地の良さが彼をして地元に安住させたと、いえないこともないのですが、文学館のない東海地方の人間からすれば、県下に二つも近代文学館をもっている青森県民――これは本当に羨ましく思ったところです。



【短歌】時代 大正8年〜大正9年

 さて、冒頭の最初に読んでいただいたのが、大正10年22歳の謙三さんが、代用教員だった黒石高等小学校の印刷機を使って自分の年の数だけ23冊をガリ版印刷した『哀しき魚はゆめみる』(24p) という詩集に収められている作品です。

 当時の文学青年たち、大正時代のことですが、孤独な抒情に沈潜することを好んだ、言ってみればネクラな若い詩人たちを熱狂させた、ヒーローというべき詩人は誰かというと、それはもう一番に萩原朔太郎なんですね。当時の多くのオタク青年が、大正6年に出た彼の『月に吠える』にあこがれて、 まねをして詩作をしている。
 謙三さんは萩原朔太郎より13才年下なんですが、朔太郎の次の詩集『青猫』がまだ出る前に、もうこういう詩を書いていました。

●「抒情」

ものみな、みるくいろにとけこんでゆくころ、

柔い夏のたそがれの匂ひにいざなはれて、
あなたの肩のまろみを感じる手は、
あやしい髪の林にさ迷ふとしたときです。
熱にもつれふくれあがった私のことばは、
あなたのささやく別れの冷たさに凍り、
瞳はかなしくとけはじめ、ながれだし、
歩み帰るあなたのふっくりした着物のいろが、
遠い景色のなかにとけてしまったのちも、そののちも
香ぐはしいあなたの足音にくちづけしてゐた、こと!   大正9年『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載


 萩原朔太郎の影響は歴然たるものがあるのですが、鋭い感受性には実感がともなっています。これは一緒に収められている「短歌」の方で、一層あきらかなので、少し紹介していただきます。

草色の肩掛けかけて池の辺に 鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの 葉陰にさびし尾をふれる馬

うす苦き珈琲をのみつしみじみと 大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

月のした輪をなしめぐる踊り子の 足袋一様に白く動けり

鏡屋の鏡々にうつりたる 真青き冬のひるの空かな       ●『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)より


 ありがとうございます。始めの頃はこのような歌の方に、オリジナルの素質が表れているように思うのですが、短歌から出発した彼にとって、後年に才能を発揮することとなる「文語定形詩」には、もともとなじんでいた、ということでありましょう。そして画面でみて頂くとわかるように、詩人自身によるあわあわしい筆跡をながめることでも、当時の文学青年が抱いていた抒情のありかというものを感じることができるのでは、と思います。

 それで当時の中央詩壇を牛耳っていたのは、民衆詩派という、(これはネアカの)「白樺」の人道主義なんかと連動したヒューマニズムの詩人達だったんですが、謙三さんはそちらではなくて、ネクラな萩原朔太郎が代表するような、孤独と官能に悩むロマンチックの詩人でありました。詩篇の中に「サンタマリヤ様」なんて言葉も見えますが、祈りのポーズであって、彼の詩に超越者として神様・仏様なんかは現れて参りません。

 これは最初に押さえておくべき、この詩人の特徴で、彼が北方の地にありながら、詩に宗教性をまとうことがなかったこと。一戸謙三というのは「北の詩人」にしては、宮沢賢治や高村光太郎との親近を感じさせない、非宗教的な、珍しいタイプの詩人なんですね。

 もっとも当時の宗教熱というか心霊ブームというか、催眠術なんかには凝っていたらしいです。朔太郎も手品には凝っていましたが、彼もまた、謎めいた、つかみがたい情緒を、語感を総動員して音楽的に(耳に残るように)「盛る」ことを一番に考えた。謙三さん自身がのちに、

「わたしのこれまでの作品は、その形式に於いて幾度も変遷してゐるけれども、全作品を通じてその精 神は不変であることを詩抄を選みながら今さらのやうに考へさせられた。それは、つねに抒情であり、夢の追求であつた。」 (22.7.24 夜・門文庫で) 詩誌「雪第七輯」、昭和22年8月 25日発行。

と、書いています。彼は生涯を通じて「夢」というものを抒情のモチベーションに据えて詩を書いていました。そしてそれが単なる荒唐無稽の産物ではなくして、実生活に触発され、密接にかかわっていることが、晃さんによる遺品調査によって判っているんですね。
 どういうことかというと、ではその後書かれた大正時代の作品から、当時の恋人たちを念頭に書いた詩を読んでいただこうと思います。よろしくお願いいたします。


【黄金の鐘】時代 大正11年10月〜大正12年5月


●「白い月」

公孫樹(いちょう)の梢に白い月が浮く午後である。
裏背戸の黍(きび)の葉蔭で盗んだキス。
紅らむ頬よ。襟足のほつれ毛よ。
野苺が影うつす小川には水すましが群れて跳んでゐた。

彼女は椹(さわら)垣に凭れ(もたれ)「おたつしやで!」と。
ああ私の馬車は動く。行手にひろがる青田よ。
涙ぐむ眼にあてた前垂(まへだれ)には桔梗の花がゆれてゐた。  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号


●「崖の上で」

小川は呟き、つぶやき銀色に流れ、
熊笹の上を紋白蝶がもつれて翔んでゐる。

崖の上の枯れ芝に坐るわたしの軽い疲れ。
 梨の皮を剥く君の水々しい手よ。

未だ耕されぬ田に侏儒(こびと)の森、そのなかの赤き鳥居。
白雲は雪斑(まだ)らの山脈を徐ろ(おもむろ)に翳らせてゆく……

ああ髪の香。紫の眼よ。
朗らかなこの時、君よその優しい唇を与へてよ!  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号(初出による)


 ありがとうございます。お聞きいただいたように、恋人とのデートを写した詩ですが、さっきの作品と比べると、よほど摸倣から脱しております。方言詩で有名な詩人は、こういう詩を書いて出発した詩人だったんです。

 この2篇は当時、詩壇の公器と呼ばれた『日本詩人』という雑誌があったんですが、その大正12年3月号に載せられた、詩人にとって中央詩壇にお披露目をした晴れがましい自信作であります。
 発表時のタイトルが「追憶の頁(ページ)」という連作もので、全部で5“頁”ある追憶のうち、本日は1“頁”と3“頁”を読んでいただきましたが、実は別々の女性、一人は後に詩人の妻となるムメさんですが、もう一人は恋が実ることの無かった佐藤タケさんという女性をのことを思って書かれた詩、な んですね。

 後になって「白い月」「崖の上で」と、別々の名前がつけられ、自撰詩集では冒頭に掲げられることになりますが、もとは一つのタイトルのもとに5作を同居させていた。『日本詩人』に載せる際に「新人だから一作だけ」ということがあって、編集にあたった福士幸次郎が機転を利かせてくれたんじゃないかと私は思ってます。とまれ二段組ではなく、他の有名詩人と同じ扱いです。謙三さん、さぞ得意なことだったと思います。

 それでは続いて、当時作られた詩を2篇読んでいただくことにします。

●「炎」

彼女は、水晶の花瓶にさされたダリヤの花束である。
熱くるしく私の胸をしめつけ、霊性をむざんにも踏みにぢつてゆく影は何か?影は火焔の輪を頭上に戴き、白晝、突如として何處からともなく私の室に現れてくる。
彼女の髪は夏の森林のごとく薫る。
嵐が、私の肉体をまきこんで遠い地平の涯に鞠のごとく投げつけた。
砂漠の太陽が二人の接した唇から發光する。
天球の頂点で紅寶石(ルビィ)が砕け散つたのか、おお、何といふ異象であるか。しかと生命を抱きしめて跪いた二人の上に、血みどろな白鳥の羽根が柔かに落ちてくる。
二人の上に、白薔薇の花片が痛ましく降りかかり、ふりかかる。
きりきりとしめあげる冷い銀線の手のために、青空へ、涙に濡れた彼女の瞳が溶けてゆく……空しくふるへてそれをとらへようとする私の指!
黄金の爪の痕が彼女の胸に鮮かにしるされた、やがて、それが一生、彼女の神の唇となる。
私は、深海に沈んだ古い鐘である。1922年5月21日  『胎盤』第3年最終号(通巻11号) 1922年7月1日発行
 

○「絹糸のやうな雨」

銀白色の空には白楊(やまならし)の梢がゆれ
黒板塀の上に桃の花がけぶり
絹糸のやうな雨が降つてゐる。

枕元の水薬の瓶に
硝子窓がきらきら映つて
紫の矢絣の袴を着たあなたは
病床の敷布の上にしづかに起きあがる。
乱れた黒髪の燦めく髪飾りよ
黒と朱の市松模様の伊達巻きよ。

うぶ毛のある美しい頬で
あなたは仄かに微笑しながら
銀のナイフを取り上げて林檎の皮をむくとき
瑞々しい腕が緋の袖口からあらはれ
青畳の上には袂(たもと)が落ちこぼれて匂ふ。

午後三時が打つ!…
優しい想ひがしばらくわたしたちを沈黙させる。   (1924年2月27日弘前にて。初出は『不断亭雑一記』第423回《弘前新聞》 1965年12月14日)


 ありがとうございます。先ほどの作品は大正12年の発表、これらはあくる大正13年、東京生活を切り上げて結婚した年の作品です。
 坂口先生は「日本の当時のすべての詩人の作品と比べても、優雅で、デリケートな女性に対する感受 性が満ち満ちている」。先ほど読んでいただいた詩と較べて「はるかに凌駕する作品群」とべたぼめしておられます。果物の皮をむく女性のしぐさに、エロチシズムを感じる謙三さんの感性。如何でしょうか。

 詩人はこれらの作品ができた震災前の上京時代(大正11年10月〜大正12年5月)のことを、自撰詩集では「珊瑚集」の「やるせなき追憶の是非もなや」というヴェルレーヌの言葉を題辞に付して「黄金の鐘」時代と呼んでいるんですが、青年期に書かれた彼の象徴主義に彩られた作品は、どれも水準を超えています。抒情詩人として、すでに最初に一つの大きなピークを迎えているように私も思います。

 ところが詩人はこれらの初期の作品群を「先人の影響が顕著である」なんて言って、 のちの自撰詩集にほとんど収めませんでした。この2作もバッサリ捨てて顧みない。一体どういうことなんでしょう。

 ここで詩人の生い立ちについて簡単に申し上げます。

 一戸謙三は明治32年2月10日に黒石の母の実家で生まれて弘前市で育ちます。明治32年というと1899年ですから、西暦1900の下2桁がほぼ謙三さんの年齢だと思っていただけるとよろしいかと思います。
 家は代々「一野屋」という商家を営んでおりました。しかし父親が早くに亡くなって家業をたたまざるを得なくなり、彼は大学に行くために、東京(神谷町)で医者をしていた父方の庸三叔父さんを頼って上京いたします。しかしこの叔父さんが、治療に使うモルヒネで自分が中毒になってしまい、謙三さんも経済的に行き詰まり学業を中途で辞めて田舎に帰らざるを得なくなる。それが大正9年のことです。

 ところが国に帰って黒石の高等小学校の代用教員をしていたときのことですが、すぐ隣の浅瀬石(あせいし)の尋常高等小学校の女の先生と恋仲になりまして、それが先ほどの詩に出てきた佐藤タケさんですが、昔の田舎のことですからすぐに噂になってしまう。とうとう校長先生からお咎めを受けて別れるという事件を起こします。

 謙三さんは写真を見てもわかる通り、そのまま今でも通用するような、背が高くて(179cmもあったらしいです)痩せ形の、おそらく「日本の当時のすべての詩人の作品と比べても」ひけをとらないイケメンです。しかも医学を学ぼうとする理知的な青年でしたから、女性には絶対モテたと思います。
 で、その例の小学校の先生の彼女ですが、校長から注意されて詩人と別れた後、ショックだったんでしょうね、ずるずると地元青森で身を持ち崩して、それを目にした謙三さんがまた心を痛めるけれども消息も知れなくなってしまう、そのような顛末が判っています。

 「モテ期」の謙三さんには、その後も、のちに妻となる盛ムメさんのほかに、佐藤萩子さんやら成田矢枝さんやら、恋仲になっては別れる女性の存在が複数あったようです。遺された手紙をもとに、フィールドワークまで敢行して、晃さんがさきの個人誌の中で明らかにしております。ここまですごかったとは、さすがの坂口先生もご存じなかった。

 詩人自身、当時の状況を「行く先に次々と「女」が現れて私を悩ますのであった。」な んて述懐しておりますが、謙三さんを思う女性ふたりが自宅で鉢合わせしたり、刺身包丁を振り降ろされて腕に包帯を巻いていたとか(須藤均治『随筆集人影面影』102p)、加藤せつさんという教え子からは、当時ゴシップに上っていた有島武郎の情死なども挙げて「自殺しないでください」なんて手紙までも らっているんですね。先ほど読んでいただいた詩も、さらに別の女性に読んで聞かせて感動させてる。手紙を読み解いていった晃さんは、こうした事実、祖父の青春時代のエピソードに、さぞかし「ドッテンされた(驚かれた)」ことと思います。

 しかし詩人の側からすれば、詩作中のイメージを、ある特定の女性に結び付けて卑俗に推測してもらっては困る、作品の本質を見失う危険がある、と抗議されるかもしれません。つまり作品の中の彼女たちは、あくまでも自覚的に操作された抒情のモチベーションとして、詩人の内にだけ存在しているということです。そこには一貫した、詩人が思い描く理想しかないのだと。

 たしかに作品のバックには、若き日の、二度の上京生活をまたいだ6年ばかりの間に知り合ったお嬢さんたちへの想いがこめられています。
 さらに自分ではどうしようもない経済的な理由で大学への道を断たれ、将来への不安が重って、彼は精神科医になりたかったんですが、自分の方が神経衰弱になってしまいます。(不幸中の幸いは関東大震災の直前(7/18)に帰郷したことでしょうか。)

 短歌では収まりきらない悩みを、詩作に託していった彼ですが、端から見れば当時の「不良」に間違いない。しかし、プレイボーイの詩人というより、実はたいへん危うい精神の均衡の上で、これらの詩を書いていた、ということができると思います。

 詩人には往々にしてその誕生期に「疾風怒濤の時代」があること。特に情熱的な女性との破局が、消し難い傷跡をトラウマとして遺していることに注目しながら、私は詩人の伝記を読んでいます。いま申し上げたように、一戸謙三の場合も、結婚前に彼の心を掻きむしった女性の存在があって、それが彼を「詩人」にしてしまったと、そう思っております。

 実生活ではこのあと、幼馴染みで裕福な家庭に育った美人の盛ムメさんと結婚しています。彼は破綻しない生き方を選ぶ一方で、心に秘めた追憶を罪悪感と共に美化させてゆくしかない。そして見果てぬ「夢」にうなされることにロマン派詩人としての本分を自覚することになります。彼が自ら解説するところの、追求された「夢」というのは、全作品において「喪失感」と「憧憬」とに染め抜かれております。彼にはこの時代にあった出来事の数々が、生涯を通じてわだかまり続けたんじゃないでしょうか。

 それから私が詩人の伝記で注目することがもう一つ、詩人というのは母方の叔父さん(この母方の、というところがミソですが)に知的な「変人」が居て、詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へているということ。この点でも謙三さんの母方の叔父には「闇五郎」と号して、川柳・都々逸なんかを能くし、黒石新報を発行していた長谷川忠蔵という言論人がいるんですね。ついでに言い添えておきたいと思います。

 さて坂口先生は、この時期に書かれた謙三さんの詩をべた褒めされてる訳なんですが、同時に金子光晴、謙三さんより4つ年上の彼が、当時大正12年に刊行した詩集『こがね虫』の影響があるのではないかとも推測しておられます。一戸謙三は、自分の師匠である福士幸次郎が「天才だ、天才詩人だ」ともてはやし、一時期は頼りにもしていたこの天才詩人の真似と言われるのが嫌で、影響について黙ってるんじゃないか、というんです。

 私は坂口先生がおっしゃる程には、一戸謙三と金子光晴と、詩風も、着想においてもそんなに似てるとは感じません。『こがね虫』と『一戸謙三自撰詩集』の装釘が似てるなあと面白く思ったことはありますが。ただし自身が蒙った先人の影響を、意識的に隠そうとしたことはあったんじゃないか、と思っています。

 というのも、いま見たように、一戸謙三の、詩人としての出発は大正時代に興った口語詩にあります。その後の詩風の変遷・変化を考えると、近代詩の歴史をのこらず体現してきた、とても詩歴の古い詩人であるということが判ります。その辺りは、高木恭造と決定的に異なる所ですね。

 そうして謙三さんには、詩人の誰しもが悩んだように、生の実体験をどのようにポエジーにまで昇華させてゆくのかということと、それからよその詩人から受けた影響をどう消化して自分の物にしてゆくのか、という、二つの大きな課題があったには違いない。

 当時、地方で詩を書いていた詩人達というのは、中央の詩壇経由でもたらされる新しい詩の情報にはとても敏感でした。地方詩壇で陣頭に立っていた一戸謙三には、オリジナルへのこだわり、プライドも当然あったというべきでしょう。

 師匠と定めた福士幸次郎や、萩原朔太郎や室生犀星については「影響を受けた」と語っています。しかしそれ以外の日本の詩人に対しては、解説好きの彼にしては、なかなかそっけない。ずっと後輩世代に当たる四季派の詩人達についても、親和性が感じられるのにふしぎなほど発言がありません。 (弘前で高校時代を過ごした小山正孝などは、謙三さんと同郷の村次郎の友人でもあるのだし、小山正孝の最大の理解者だった坂口先生はその辺り、どのように思っていらしたでしょう。)
 謙三さんは、どちらかというと自分は外国詩人から直接影響を受けたのだ、ということを、詩的な履歴を話す機会ごとにアピールしております。


【水松いちいの下に】時代 13年4月〜昭和2年5月

 さて、結婚前のことは以上で収めたいと思います。詩人の「夢」の源泉が「女性たちとの別れ」だったのは見てきた通りですが、謙三さんがムメさんと結ばれることによって、この「夢」は、どんどんとこじれたものになって参ります。
 と言いますのも、結婚(大正13年12月)、そして一年後には長男昇さんも儲けた(14年12月)詩人は、以後、小学校・中学校の先生として真面目につつましく生きてゆくことになるんですが、結婚生活の幸せや家族の交歓といったものを、彼は歌っていないのですね。新婚時代の作品にも、それが全く表れておらず、代わって果てしなく暗い追憶の詩ばかりが並んでいるんです。
 この時代(大正13年4月〜昭和2年5月)のことを、一戸謙三はジャン・モレアスというフランス象徴主義の詩人の言葉「わたしは秋の空のやうに 悲しい恋をおもふ」という題辞を付して「水松いちいの下に 時代」と呼んでいるのですが、少し読んでいただきたいと思います。

●「夜、重い鎧戸を」

夜、重い鎧戸を押しひらけば、
林のかなたに窓が明るい。
ゆるやかに十時が鳴り、
河瀬の音は高まる。
ああ、わたしは死ぬばかりに淋しい!

あのひとの古い手紙の束を、
昨日わたしは水松(いちゐ)の下に埋めてしまつた。
この心を誰が知らう。
そして月日は、これから
 わたしの上に塵のやうに積みあがるばかり……    自撰詩集『歴年』(昭和23年)より。初出不明


●「小さな墓」

湿つた石段を、雪駄で
あのひとの墓を想うて来ると、
枯れ芒の穂のなかに、白々しい太陽が沈む。

本堂の屋根にも、苔むす敷石にも
銀杏の落葉がおびただしく散りたまつてゐる。
ああ、笹薮にかこまれた小さな墓よ……

暮れかかる行手、松林のはづれに
荒々しい浪が岩々に泡立ち、
その上に低く翔んでゐる灰色の鴎。   自撰詩集『歴年』(昭和23年)より。初出不明


 ありがとうございました。他の詩にも、

「わたしは忘れてゐたあのひとの哀しい誓ちかいを想ふ。(「渚」)」

 だとか

「水松いちいの下に蹲り、はか ない想ひを蒼ざめた濠の水に描くとき、(「水松の下に」)」


 なんていう、意味深な言葉がならんでいるんですが、これは絶対に奥さんじゃない人のことを歌ってますよね(笑)。作品の中で、別れた女たちは、誓いを果たすことが出来ずに死んでしまったり、手紙もイチイの木の下に埋められたことになっています。

 しかし先ほど申しましたが、詩作のイメージを特定の女性に結び付けて推測することは危険です。これは詩人の虚構、創作場所で許された出来事だということです。

 詩人の魂が、生涯こだわったのが「抒情」と「夢」でした。それはあくまでも、あこがれるものであって手に入らないもの、であります。結婚後に思い起こされる「過去の恋愛」。別れた女性が死んじゃったかどうかは判らないですが、イチイの木の下に埋めた筈の手紙は埋められず、書棚の奥の革バッグの中から雁字搦めの束となって晃さんに見つけられております。結婚後も心の痛手が尾を引いていることが、こうした作品を読むとよく判りますね。

 津軽のもう一人の詩人、高木恭造さんの場合も同じです。彼にもふぢさんというとてもアクティブなクリスチャンの奥さんがおりましたが、若くして亡くしております。彼女が突然消えてしまったこと、それが恭造青年に『まるめろ』や『わが鎮魂歌』を書かせ、彼を「詩人」にしてしまいます。再婚して眼科医になり、堅実な人生を歩むのですが、これは後年長男の高木淳さんが書いておられますが(『瀋陽からの手紙―父・恭造から一戸謙三へ』 1992北の街社)、亡くなった前の奥さんとの生活に彩られた作品が代表作となって、詩人が嬉々としてそれを朗読会で読み上げている、その姿をみつめる、 生涯連れ添った奥さんの気持というのはさぞ複雑だろうな、と思う訳です。

 ちなみに真逆のパターン、つまり真面目な奥さんを捨てて奔放な美人に走る三好達治みたいな人は、これは詩人本人が必ず地獄を見ておりますが(笑)、一方で、そういう女々しい作品を結婚後にはもう残すまいと、敢然と詩作を中止してしまったのが、すでにちょこちょこ名前を出してますが、 謙三さんの師匠であった福士幸次郎(1889年11月5日 - 1946年10月11日)です。御存知の青森詩人。詩歴ということで言えば、彼こそ日本の口語詩の歴史を語る上では萩原朔太郎よりも一歩先んじている存在 であります。

 一戸謙三たちの後輩詩人が古里で初めて興した詩の結社を「パストラル詩社(パストラル:牧歌)」と申します。福士幸次郎は在京中でしたが、精神的な支柱になって彼らの詩の指導をいたします。先ほど読んで頂いた、『日本詩人』という中央詩壇の詩誌に謙三さんの詩をバーンと5編も載せてくれたのも、この先生が編集を担当していたからです。当時の謙三さんの詩稿は、展示を見ていただければわかりますように、福士幸次郎の手によって、不要な形容詞や、萩原朔太郎御用達の言葉を禁ずるなど、徹底的な添削が施されていることが判るんですが、それが実に的確なんですね。

 福士幸次郎には『太陽の子』という詩集があって、彼 の情熱の詩風は、とてもネクラな謙三さんがまねするようなものではなかったんですが(詩人の佐藤一英は、福士幸次郎にとっての尾張平野は、ゴッホにおける南仏アルルのようなものだったろう、『太陽の子』に刻印された太陽の意匠はゴッホのひまわりのように烈しいものが感じられると言っています。)、一戸謙三はこの福士幸次郎を、自分の師匠に戴いて徳に感ずるようになります。

 それはこの師匠から、詩風ではなく「地方主義」という「イズム」の洗礼を受けることになったからなんですね。これがたいへん大きかった。「地方主義」、すなわち郷土愛に根差した詩文学を津軽で興そう、という文学運動との関わりにおいて、彼は福士幸次郎と師弟関係を全うしたと、そういってよいと思います。福士幸次郎が詩の実作では展開できなかった「地方主義」を、「方言詩」という形で最初に実践したのが高木恭造であり、その後を継いで地元詩壇に根付かせたのが一戸謙三、ということになるかと思います。

 その福士幸次郎ですが、彼がその「地方主義」を学んだモーリスバレスという人は保守主義者で、本国のフランスではファシズムの先駆者扱いをされております。ですから福士幸次郎も「日本ファシズム連盟」なんていう、物々しい名前の結社を立ち上げたりしてるんですが、これは彼の「地方主義」を敷衍して「民族主義」におよんだ、謂わば民族自決権を掲げる団体だったようです。
 謙三さんも芸術至上主義者ですから、地元の詩壇ではプロレタリア派の詩人たちとさんざん論争を行います。この先生とも、一緒に政治的な行動をする機会は、いくらでもあった筈なんですね。

 しかし一戸謙三は、実際的な政治行動というものには手を染めることがありませんでした。のちほど戦時中の詩人を語る際に申し上げますけれども、「こんな世界でなくてはならない」という理想や、あるいは「人生の讃歌」を大っぴらに歌わなかった代り、他の詩人達のようには「大東亜戦争」に関わることがなかった。それは坂口先生が記す謙三さんの「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。」という、ロマン派ではあっても理性的な性格によるところが大きかったのではないかと、私は思っています。
 そしてこの非政治的な、芸術至上主義的な側面がもっとも先鋭的に表れたのが、次に述べるところの「モダニズムの時代」ということになるのではないでしょうか。


モダニズム前期 【「月日」〜「夜々」】時代 昭和4年〜昭和7年

 謙三さんのモダニズム詩については、坂口先生が詩人自身の言葉を使って「日本的シュールレアリスム」と呼んでおられますが、詩風を変化させるために自覚的な実験が行われていたことが判っております。そして詩人自身の告白として次のような言葉が綴られております。

「昭和三年、突然に私の環境に起った生活を破滅に瀕させるやうな情態が、私の弱々しい精神を無秩序にして、たちまち超現実主義の方法たる無意識の夢への状態に陥らせてしまつた。逃避──と云はれても仕方がない。人はしばしば自殺の誘惑を受けるではないか。そして或る者は眞の逃避をそこに求めるではないか。私は解体した自我そのものを表現しても詩となり得る超現実主義を得てとにかく救はれた、と云ふものであらう。(
「自我の再建…超現貫派以後…」『弘前新聞』昭和11年9月4日

 「生活を破滅に瀕させるやうな情態」とは、プライベートに起こった如何なる事件に関しての事であったのか。 いま定かではありませんが、詩作の上で移行期間にあたる実験的な作品を一篇だけ読んで頂きます。

●「未亡人の日課表」
 絹の扇をかざして未亡人は野菜畑を散歩したスカアトを煙のやうにひらくと赤煉瓦の塔からふらんすの旗がふらんねるの空にひろがり鳩となつて飛びさるから未亡人は碧玉のなかに沈んでゆき白い犬は白い玄関におどりあがり白い空間と合してしまふといふのが未亡人の哀しくもないその日その日の日課表である (昭和5年1月『座標』1巻1号)


 こういうものを書いておれば、たしかにプロレタリア派との論争も“炎上”は必至という気がいたします。
 ただ、謙三さんはもちろんこんなものに安住はできず、「超現実派ならびにその亜流は整理して各個人の肉体にまで精神にまで還元して、正統なるポエジイからして出発し直すべきである」(「白紙の手帳」東奥日報、1931年3月29日)と反省をしています。意味の拒絶も辞さないシュールレア リスムからは少し降りたところ、「超現実=夢」と解釈するところで詩を書くようになる。

 日本では大正14年に堀口大学の訳詩集『月下の一群』が出され、昭和3年に『詩と詩論』が創刊されて、「エスプリヌーボー」と称される舶来の「モダニズム」の手法が、若い世代の詩人たちの間で大流行するのですが、無詩学時代といわれたそれまでの同人誌が乱立した時代の詩人たちが、ここにおいてふるい落とされて参ります。

 謙三さんは年齢的には旧世代に属する詩人だったんですが、ここで消えることはなく、新しい詩学を自家薬籠中の物にして、一世代若い、昭和初期にデビューした詩人たちに伍してゆくこととなるんです。謙三さんがキュビズムで自画像を描いてみせたのが大正11年の事だったですから、進取の気性のほどが窺われると思います。それではこの期間の作品をみてゆきたいと思います。

●「花火の下で」

闇の空に花火が碧玉(エメラルド)を砕いて巨きな傘となつた。屋形舟の艫(とも)で櫓綱(ろづな)にからまりながら銀杏(いちょう)返しの女が横になつてゐる。男の麦藁帽は川に浮んでながれて枯れ葦のなかに消えてしまつた。手を水にひたして考へこんでゐると、その指先に女の髪の毛が巣のやうになつてひつかかつた……
男は女を抱きしめてゐると思ふ。しかし、そこには岐阜提燈が墜落(お)ちて燃えてゐるだけである。あの女は存在してゐたのであらうか。冷たかつたものは彼女の歯の味であつたのか   この疑問は突然わたしに女の鱗模様の浴衣を憶ひ出させたのである。   『座標』昭和5年6月号


●「私の写真」

鴨が蘆の洲から飛び去つた。私は玩具を落して探してゐた、柱につかまリながら。私は五才であつた、しかしまだ歩けなかつた。
秋の陽が縁側に鳥影を落してゐた。母は琴を弾いてゐた。その爪が赤かつた……
恐ろしい叫びごゑが私の身を包んだ。私は敷石の上に落ちたのである。血が滾々と麦門
冬(りゅうのひげ)の間を染めていつた。
仏壇に新しい戒名が加へられた。丸々とした私の顔がその傍らの写真の中にある。だか
ら、今日もまた笑窪をやさしくつくつて母を慰めてやるのである。   『座標』昭和5年6月号


○「妻」

 五月の空と若楓のなかにぶらんこが揺れてゐた。少年は帽子の庇を深くして吐息をついてゐた。少女の脚が過ぎてゆくたびごとに。古い濠の水面の風船玉を緋鯉が食べようとしてゐた。
 私は妻に云つて見る、脚を出してごらんと。妻はあたりまへに怒つて見せた。そこで窓枠に腰かけて私は煙草の煙の中へと浮んだのである。    『座標』昭和5年10月号


○「秋の日記」

 また曙が青白く硝子窓を訪れるときになつた。枕のしたで蟋蟀(こおろぎ)が啼いてゐる。夜具はこんなに重いものであつたらうか。娘は日記を憶ひ出してゐる。(ひとつひとつ淋しいこと云はれて、曇天のベンチに坐つてゐると、落葉はあたしの下駄の緒よりも紅かつた。)   『座標』昭和5年10月号


 ありがとうございます。読んで頂いたのは、昭和5年に創刊された、青森の文学者全員が集まった『座標』という文芸誌の作品です。発掘した坂口先生が「全作品を通じ、最高のピークと称して憚らない出来ばえ」と絶賛しているんです が、自撰詩集に収められることはありませんでした。そしてここ に至るまで、昭和2年から5年にかけて起こった、詩人のおどろくべき詩境の変化についても坂口先生は(当時の習作にマックス・ジャコブやジャン・コクトーからの影響をよみとって)、盟友だった民俗学者の齋藤吉彦(きちひこ)との交流を通じて養われたものではないかと予想されています。

 医者を目指していた謙三さんはドイツ語を学んでいたんですが、医者への夢が破れると、福士幸次郎や、この齋藤吉彦の影響でフランス語を勉強し、 原詩にも親炙するんですね。齋藤吉彦は、謙三さんが進学することの出来なかった慶應義塾大学の仏文科を、成績優秀で卒業してフランス政府からメダルを贈られております。文学にも明るかった前途有望の民俗学者・言語学者でしたが、これらの詩が書かれた昭和5年に結核に斃れています。26才でした。

 さてそのフランス文学ですが、一戸謙三は、自分の詩学として、それまでは明治大正時代に流行した象徴主義に拠っておりました。本場は御存知のボードレールやベルレーヌ、ランボーを始めとするフランスです。日本でも明治時代から文語による翻訳によって紹介されていて、上田敏の『海潮音』や永井荷風の『珊瑚集』など、いち早く謙三さんも読んで、まずは英訳の原書にもあたっている。先ほど読んで頂いた「炎」という詩が載った『胎盤』 という同人誌も、(ウィリアム・ブレイクを使用した雑誌の意匠からして)当時の、象徴主義全盛時代の雰囲気が汪溢しております。


 象徴主義というのは、簡単に説明すれば、主観の内面にある概念や理念を言葉で暗示すること、なんですが、「自然主義」という名の暴露主義に対する反動、つまり、明治時代の反レアリズムの運動です。
 主観の内面を重視した象徴主義が対象としたものに「夢」がありますが、謙三さんにとっては正に格好の詩学だったと言えます。そして時代がくだると口語で散文詩が書かれるようになり、外国からシュール・レアリスムの運動がやってくる。「夢」という現実を超えた存在は、超・現実主、すなわちシュールなレアリスムの対象としても重視されることになるんですね。「夢」を詩の中心に据えていた謙三さんには、象徴主義と超現実主義と、異なる二つの主義が通有する素地がすでに出来上がっていた、だから新しい詩の運動にもいち早く感応することが出来た。そう言えると思うのです。

 この時代の詩をまとめる際に、謙三さんは象徴派・シュルレアリスム双方の要素を兼ね備えたといわれるフランスの詩人、ネルヴァルがいった「夢は第二の人生である」という言葉を題辞に用いております。

●「鴉」

珈琲を吸(すす)らうとして皿を取りあげると、細長い鏡のなかに妻が華奢な襦袢をひらきながら立つてゐる。
何処へ行くのか。わたしは振り向いた。柱時計がとまつてゐる。「ミオ!……」目を閉ぢると仄かな声が耳もとで応へた。
屋根裏の室はもう薄暗い。高く幽かなガラス窓に枯れ枝と新月が映つてゐる。わたしは坐つた。鴉が、皺がれた声で啼きしぶつてゐる……      『座標』昭和5年6月号


○故い家

 花柏(さわら)垣 を折れると冠木門が立つてゐた。敷石路は下駄に音立てない。玄関には影が充ちて杉板が割れてゐる。何時しか私は座敷に坐つてゐた。欄間から枝が出てゐる。そしてそれは、榲桲(まるめろ)の花をつけてゐた。私は傾いた畳から畳を歩きまはる。古い鏡台の中に妻は寥(さび)しく囚(とらは)れてゐた。私は眼を閉ぢる。

 雨戸に雨が降り出した。そして座敷のなかにも、幽かに。私は長い廊下を暗く歩いた。座敷が幾つも続いてゐる。その終りの障子を開けた。欄間から枝が出てゐる。榲桲の花をつけてゐる。しかし鏡台の中には妻がもうゐなかつた。空虚(から)な床の間を背にして私が蹲つ てゐる。

 私は冠木門の前に立つてゐた。見上げると蝕んだ私の名札がある。私はそれを後にして帰る。花柏垣を折れると秋の河原。私は永い間タ映を眺めてゐた。    『椎の木』第一年第九冊(昭和7年)


●「月日」

鴨居に影が折れ曲つて誰かが室を出て行つた。柱暦をめくつた指は、妻よ、お前のではない。またわたしのでもない。お前は畳の上に打伏しになつて泣いてゐるのか。
わたしとお前との間から誰が出て行つたのだらう。わたしは立ちあがる。そして障子を開ける。廊下に幽かな跫音がしてゐる。それは月日を散らす、わたしから、そして、お前から。
わたしはお前を愛してゐた。秋の薄日が額を照らすやうに。今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。古びた襖と空しい机と。それらがお前の姿を透かして傾き沈みはじめる。    『椎の木』第一年第七冊(昭和7年)


 ありがとうございます。先ほどの時代で「別れた女たち」のことを書いていたのと打って変わって、今度は「妻」をいいように夢の中でもてあそんでおりますね。「今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。」ホントに何事が起きたのだろう。と思ってしまいます。「夢」の中の出来事みたいですが、出てくる「お前」も、最初は「妻」のことをはっきり指していますが、「もうお前を愛さない」という「お前」となると、これはいったい誰のことかちょっとわからなくなる。奥さんは不思議な詩を書く夫だと思ってこれらの作品を読んだんじゃないでしょうか。

 こうして自撰詩集において「月日」の時代(昭和4年〜7年)と呼ばれた時期から、詩人は、当時の詩壇を風靡した三好達治や菱山修三の散文詩と肩を並べるような、自意識の強い、知的センテンスを駆使した作品を書きはじめます。「夜々」の時代(昭和6年〜7年)から「神の裳」時代(昭和8年〜9年)およそ昭和5年から昭和10年に至る5年間のことになります。

 発表場所は、先ほど申し上げた青森初の総合雑誌『座標』、文壇デビュー前の太宰治も書いていますが、この雑誌はプロレタリア派とモダニズム派が喧嘩してすぐにつぶれてしまいます。その後は発表場所を色々と移しながら、最後に行き着いたのが、当時の若い世代の先端詩人達のメッカであった『椎の木』という中央の同人詩誌でした。

 『椎の木』は、詩史的に言うと『詩と詩論』と『四季』との間にあって、日本の口語抒情詩の黄金時代を、佐藤惣之助の『詩の家』とともに支えた雑誌です。当時、プロレタリア派との論争を地元で行っていた謙三さんにとって、このモダニズム系の中央詩誌への参加は願ってもないものであったと思います。最初の何号かは『座標』での自信作を再録しています。

 そうして驚かれるかもしれませんが、この『椎の木』では一戸謙三だけでなく、高木恭造さんもまたモダニズムの詩で腕を競っております。二人が方言詩を書いていた時期というのは、ちょうどここでの活躍時期の前と後ろとにそれぞれ位置しています。謂わば彼ら二人の方言詩時代をへだてるように、このモダニズム雑誌が間に存在していた恰好です。方言詩の詩集『まるめろ』を出した高木恭造さんがモダニズムに転向して、この雑誌で詩人としての自信を深めてゆく。一方で謙三さんはモダニズム詩を書くことに嫌気がさしてきて、この雑誌から離れ方言詩へと転身してゆきます。この中央の詩誌の晴れ舞台において、一戸謙三の詩風はそうして自ら「索迷」と自称する混乱した時代を迎えることになります。

 大正末期に起こった安西冬衛や北川冬彦による短詩運動、それが昭和3年に創刊された『詩と詩論』において「エスプリヌーボー」と呼ばれるモダニズムの詩運動として中央で展開されます。皆さんの中には詳しく御存知の方もあるかと思います。当時の若い詩人たちを魅了した散文詩の書き手が次々に現れますが、謙三さんも恭造さんもその一人でした。そして先行詩人からの影響も大きかったのではないか、と思っています。高木恭造さんは満洲で書いたモダニズム詩によって「リトル安西(冬衛)」と呼ばれたらしいですし、謙三さんも、さきほど日本の詩人からの影響をみせまいとした、と書きましたが、この『椎の木』誌上では三好達治の『南窓集』に賛辞も書き、当時若手詩人の間で「はしか」のように伝染していた菱山修三の文体からの誘惑について、 次のような、普段は明かさないような心境も明かしております。

「そのころの彼の胸を透して見れば、菱山修三の入れ墨があったようである。椎の木をめぐり、その梢にある柏木俊三のひろげるマントを、わたし も着たいと思ったこともある。それだけにわたしの血は彼に集まるのであった。しかしそれは「修三」ではないかと叱って、わたしは彼の梢から背き去った。    「梢に栖む人:柏木俊三素描」『椎の木』第三年第三冊(昭和9年3月)


 これは柏木俊三という、田中克己らが興した雑誌『コギト』にもたびたび詩を 寄せていた若手詩人に対する評です。模倣元とされた菱山修三もまた、一戸謙三より10歳も若い詩壇のホープでした。

〇「夜明け」 菱山修三

私は遅刻する。世の中の鐘が鳴つてしまつたあとで、私は到着する。私は既に負傷してゐる。


 ここで『椎の木』という雑誌についてもう少し説明をいたします。
 大正詩壇の詩人達というのは「萩原朔太郎のようなネクラな芸術派の人たちと、ネアカの民衆詩派の人たちと」に別れていたことをお話しましたが、芸術派の詩人たちが詩壇の公器『日本詩人』から離脱していったのに対して、居残った民衆詩派の人たちは、この『日本詩人』に集まる若い詩人たちをながめてるうち、次のステップ、すなわち自分で詩誌を興して後進の育成につとめよう、それぞれが一国一城の主になろう、そんな感じで自ら主宰する雑誌を興し、編集手腕を発揮するようになります。なかでも最新のモダニズム詩人たちを集めたのが百田宗治の『椎の木』と、佐藤惣之助の『詩の家』です。

 百田宗治という人は民衆詩派に属していたひとですが、福士幸次郎に編集を譲ったのち、自ら『椎の木』という雑誌を興して若い新しい詩人たちを集めることに成功します。彼の平衡感覚と懐の広さには定評があって、金子光晴ほか多くの後進が証言していますが、それは一方の極に抒情詩人萩原朔太郎、もう一方の極に反抒情詩人西脇順三郎と、新旧の口語詩の開拓者を友人に持っていたところからも窺えます。彼の裁量で編集がすすめられた誌面には、朔太郎と順三郎と両者の中庸をゆく「知的な抒情詩」といった相貌がはっきりとあらわれております。謙三さんとは昭和5年、第3次『椎の木』の前身として位置づけられる『今日の詩』を主宰してゐたときに、謙三さんから手紙を出して知り合ったものと思はれます。当時の書簡です

【※付記】この第3次『椎の木』ですが、所蔵する図書館がなく、永らく全貌が謎に包まれていましたが2017年に復刻されました。一戸謙 三、高木恭造、草飼稔といった青森詩人をはじめ、私の先生である田中克己も後半には参加しております。


モダニズム後期【「索迷」〜「神の裳」】時代 昭和7年〜昭和9年

 さて、さきほどこの雑誌の同人でいる間に、謙三さんは「混乱」を迎えると書きましたが、「索迷」と題されたこの時代(昭和7年〜8年)の作品、 これもまた、のちに編まれた『自撰詩集』では、そっくり削られております。
 しかし『椎の木』同人の代表作が一堂に会した『詩抄』という同人アンソロジー、この檜舞台にわざわざこの期間の3作を選んでいるところからすれば、謙三さんもこれらを作った当時は決して出来が悪いと思っていた訳ではない筈なんですね。一例を引いて読んで頂きます。

●「非望」

 甍(いらか)の下の明るいプログラム。間違ひのない歴史の繰返し。すべからく人はそうした風に生きてあるべきが、例外のない課業と云ふもので あらう。
 柔かなる笑ひを以て私を慰撫せんとする親愛(アミティエ)。ありふれたる軌跡。そして飽くことない蛆蟲の日々が堆積してゆく……。
ああシリウスよ。ぎりぎりと脳漿をしめ上げるきびしい意志。それなくして何の生活であるか。神よ、汝の常套句を私は踏みにじらうとしてゐるの だ。
歯咬みに滴る獣血のごときもの。よし零(ゼロ)の世界が私の終焉であらうと、何ものもこの非望を押し止めることは出来はしまい。幸と不幸とを 一瞬にして中和する稻妻。私の半生の閲歴は抹殺されつくした。かくて私は私の涯にまで来た。
ああ私の生きんとするのは孛星(はいせい:彗星)の座であらうか……。  (『歴年』所載形。初出『椎の木』第1年第11冊  昭和7年11月 発行「錯亂の頁」)


 ありがとうございます。この時期の作品は、いずれもこうした錯乱と苦悩とに彩られております。彼自身、どういうつもりでこんな詩を書いていたのか、のちに説明している文章があります。自分がどうしてそれまでの詩作を捨てて「津軽方言詩」におもむいたのか、ということを自ら解説したもので、昭和15年からの回想です。(一戸玲太郎「津経方言詩の事」『月刊東奥』)。

 昭和15年というと、太平洋戦争:大東亜戦争が始まる前に書かれた、自らへの総括ですね。文学者の回想って、戦後の民主主義の世の中になってから過去を総括した文章は普通にあるんですが、戦争が始まる前の文章は珍しいです。

【※付記】戦前の謙三さんにはもうひとつ、昭和10年1月12日弘前新聞に書いた「閲歴―詩作15年―」という、方言詩を書き始めた頃に書いた回想文があります。この昭和10年の回想と、方言詩からさらに文語定型詩へと転身した後で振り返った昭和15年と、このふたつの回想が実に興味 深い。節目節目に自分を説明してきた一戸謙三だから残った記録と言えます。

 まず最初に、自分が書き始めたモダニズム詩について謙三さん、こんな風に回想しております。

「超現実派といふものは今ではあんまりもてはやされなくなつたが、今から十年ばかり前には、その奇怪な詩がここらでも大いに流行し、この私などその頭目であるとまで見なされたのは、年長者であつたのと、さうしてマルキストやアナキストを相手どつて少しく論戦したがためであつたらう。私らの芸術擁護運動がその旗印を超現実派と掲げたため、年少の人達までいつしか超現実的なる詩を作らせるやうな機運を与へたりして、罪はなはだよろしからず、と今ではわたしも思つてゐる。」 「津軽方言詩の事」『月刊東奥』(昭和15〜16年連載)より

 「罪はなはだよろしからず」なんて書いてます。そして、昭和8年の6月に、こんなことを新聞に書いたと回想しております。

「わたしはもう詩作生活なぞ止めてしまふつもりで約三十篇の作品を予定して書いて来たのであつたが、それはその半ばにして行きづまつてしまつた。最初のつもりは、わたしの心を深く眺め、その歪められ汚されそして引き裂かれ乱れてゐる外側から次第に底に沈み、やがて明らかに朗らかな整へられた詩心にまで達しようといふのであつた。」 『東奥日報』(昭和8年6月25日)より

 ここで「歪められ汚されそして引き裂かれ乱れている」と書かれているのが、彼のモダニズム詩が行き着いたところの、先程読んで頂いた「索迷」と題された頃(昭和7年〜8年)の作品群だろうと思います。ところが彼はここで唐突に「神の道」なんていうことを言い出しているんですね。

「その整へられた心はなんによるのであるか。おそらくわたしが探りあてたものは古くさく、まことに平凡であると思はれよう、神の道、それだ、大和民族の精神生活の底に今なほ脈々として流れてゐる神の道。」  同じく『東奥日報』(昭和8年6月25日)より

 回想は続きます。

「この感想を書いてから一年の後に、私は古神道の中心をなす祝詞を真正面へと持ち出したわけである。さうしてやがて古代信仰はいまだ地方に生きてあることを、柳田国男先生や折口信夫博士の諸書によつて知り、かつて十年前、わたしの心に播かれた福士幸次郎氏の地方主義思想はふたたび確かめられ、かくて方言詩の試作へとおもむき、津軽エスプリ運動を展開するという方向へと進んで来たのである。」  同じく『東奥日報』(昭和8年6月25日)より

 「方言詩」の世界と言うのは、一戸謙三にとって、モダニズム詩に行き詰まりを感じて悩んでいたところで、師の福士幸次郎がとなえていた「地方主義」から差し伸べられた助け舟であったこと。と同時にそれだけでなく、福士幸次郎が当時独学で研鑽を積んでいた場所、神話や民俗学について彼もまた読書した結果たどりついた「神の道」すなわち「伝統主義」が形として顕れたものでもあったということです。そしてこの2点目の「伝統主義」というものが、謙三さんに方言詩の実作を短期間で終らせてしまい、続いて文語定型詩の「聯」へと向わせた原因、ということになります。

 『椎の木』から脱退する前後の謙三さんの、創作をめぐって揺れうごいていた時期に何があったかというのは、本人があまり語っていないところです。晃さんが「リンゴ箱の片隅から」発掘した日記によって明らかにされるのですが、今度はその日記から少しお話をしてゆきたいと思います。

 謙三さんが「朗らかな整えられた詩心にまで達しよう」と書いているように、彼には昭和8年から昭和9年にかけて、錯乱の詩境から脱出すべく回復が図られた作品群があって、詩人はこれを「神の裳(もすそ)」の時代と呼んでおります。しかしどうも以前のモダニズム詩のようには受けが芳しくなかった、らしい。昭和8年11月14日の日記に書いていますが、彼は高祖保から激励のハガキを受けとっています。

「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」


そう書いて、3日後の日記に

「椎の木へ詩を送ることにした。高祖保の力づけにもよる。今度は素直にして書いて行かう。なるべく僚友とは馴れることだ。」


 そう書いているのです。高祖保という人は『椎の木』の中の最有力詩人の一人で、雑誌の主宰者百田宗治の懐刀として、編集にも携わっていた人です。好い詩を書く人には「見ず知らず」の人にもどんどん手紙で賛辞を贈る人だったらしい。資産家の養子で人品高潔、才能にあふれ、堀口大学と高村光太郎とを尊敬していた。そのとき彼に返事を出していたら、どうなっていたか。
 翌月の『椎の木』12月号のアンケートにおいて、謙三さんは「『椎の木』第二年の注意を惹かれた作品」として、彼、高祖保の詩集『希臘十字』を挙げています。ところが同じ号で高祖保はこう書いている。

「一戸謙三氏はその北方精神の痛烈をさかんに焚いて、するどく研がれた「怨恨の獄ひとや」を見せたが、後半はそのするどさに疲労して、弛緩から再び内省に赴くかと思はれた。しかも作品に乏しかったのは残念である。」(「三十三年終曲 『椎の木』昭和8年12月号第二年の回顧」)


 簡にして要を得た率直な批評を呈しているんですね。これを読んだ謙三さんは、

昭和8年12月27日
「夜は、詩稿をまとめようと苦心する。このごろは、書いてないからダメだ。来年には、もう詩を止めようか、などと思ふ。」

翌12月28日
「帰りに、今泉(という本屋)によると『椎の木』来ている。すると、もう私の方に送ってくれないのかと思う。が、それと買う程のこともないのであるから、借りて読むことにしようと思う。だが、それにても不愉快である。」


 と、いう気持ちになっている。そして年が明け、追い打ちをかけるようなことが起きます。百田宗治のもとでこの昭和9年1月に、高祖保と乾直恵が編集する『苑』という季刊詩誌があたらしく創刊されるんです。百ページに近い大冊の雑誌で、萩原朔太郎、室生犀星、堀口大学、西脇順主郎等々、彼の友人網にある著名詩人をそろえた豪華本でした。百田宗治が昭和8年12月の『椎の木』「後記」でこう書いています。

「『椎の木』が過去で追求して来た純粋な詩の、更に一層高い段階を究めるため・・・詩壇文壇の第一流の人々から寄稿を受けると共に、その間に伍して『椎の木
』同人の優秀なる作品をも合せ収録して行く予定である」(『椎の木』昭和8年12月号後記)

「同人内規」も改正されました。

「同人の優秀なる作品は季刊誌『苑』作品欄に推薦することあり、また機会あるに従ひ、他の一般文学雑誌その他に紹介する。」(『椎の木』昭和 9年1月号)


 季刊雑誌の『苑』は、月刊誌『椎の木』の上部機関誌として位置付けられたVIP雑誌なんですね。

 これを目にした謙三さんは早速2月に2篇の作品を送るのですが、『苑』にはとりあげられません。一方、ライバルの高木恭造は『苑』に推薦されます。『椎の木』の方にも書き続け、さきに申し上げたように「リトル安西冬衛」と呼ばれるような、大陸でものされた乾いた前衛詩によってモダニズム詩人としての自信を深めてゆくんです。このショックは大きかったと思う。謙三さんは春になると、昭和9年4月13日の日記に、

「今日でやうやく詩稿を整理してしまつた。かうして見ると大した仕事も私はやつてゐない。仕事は、 むしろこれからのやうな気がする。もう詩は、まつたく書かないことにする。これからいよいよ小説の世界へと入つて行かうと思ふ。」


 そう書いて、実際に「創作山わらし」という短篇小説まで山木卯八というペンネームで『弘前新聞』に発表しております(3/23)。

 高等女学校の先生だった友人の石坂洋次郎が、文壇で話題となった小説『若い人』の連載を、『三田文学』に始めたのがちょうど前年の、昭和8年8月です。もちろん影響されたと思います。しかし小説は勝手が違った。結局小説家になることは諦めてしまいます。散文に対する自信を失ってしまった謙三さんは、却って自分には詩しかないんだ、韻文を書く人間なんだと、あらためて詩人としての覚悟を定めたんじゃないでしょうか。

昭和9年7月号の『椎の木』には、「一戸玲太郎の一断面」と称して荘原照子、藤村誠一、内田忠、高祖保による詩人寸評が載りますが、時おそしと言うべきか、あるいはここで一戸謙三を『椎の木』には珍しいベテラン詩人と評した言葉を目にして、決定的に嫌になったものか、この号に載せた、先ほど紹介の『座標』からの再録「私の写真」一篇をはなむけにして、この雑誌をあとにいたします。

 高木恭造や石坂洋次郎の活躍をにらみながら、ドストエフスキーやショーペンハウエル、そして日本では柳田国男、折口信夫の古代民俗研究を耽読した謙三さんはこの昭和9年9月、詩による御祓いの儀式を行います。それまでのモダニズムでけがれた詩生活を清算するという意味で「祝詞」を書いております。いわゆる「高天原たかあまはらに神留かむづまりますぅ〜、神漏岐神漏美かむろきぎかむろみの命みことはぁ〜」というやつですね。そのエキセントリックなパロディを、詩人は大まじめにやってのけている。それを昭和15年当時にはちょっと得意げに回想しております。つまりライバルだったプロレタリア派の壊滅をあわれみながら、戦争勃発前夜のトレンドとなっていた神道をいちはやく取り入れた詩作を試みていることについて、若干は「先見之明」を誇るが如くに語っているんですね。

 そういう経緯を経て、一戸謙三は方言詩に対して目を開かれているのです。単に高木恭造が捨てたものを拾った、というのではない。この方言詩を使って、師の福士幸次郎が唱えた「地方主義」と、後ほど述べますが「音数律論」とを、一挙に解決できないだろうか、そういう野望を起こしたのですね。だからこそ過去を御祓いでチャラにする覚悟までして、冒頭で申し上げましたが、それまでの作品全部と、津軽弁の詩とがつり合うとまで思い詰めていた訳なんです。この時期の作品について詩人が「神の裳(もすそ)」時代と呼んだのは、そういう意味があってのことでしょう。「神」はキリスト教じゃなくって神道の神様でした。そして『椎の木』を脱退した謙三さん、これを潮時に口語自由詩を書かなくなります。

 思うに昭和5年から昭和10年というのは、日本の書籍の装釘技術が最高だった期間でした。日記に書いていた通り、一戸謙三がもしそれまでの詩をこの時点で一冊の詩集として刊行していたら、必ずや高祖保の『希臘十字』や乾直恵の『肋骨と蝶』と同等の装釘がほどこされ、 その宝石のような稀覯 本の地位と、日本近代詩史上の名誉とが、同時に記憶されたろうと思います。

 そして謙三さんが脱退したあとの『椎の木』ですが、丁度この当時に創刊された雑誌『四季』に、誌面や雰囲気がどんどん似通ったものになって廃刊します。この終末期の『椎の木』誌上で、去りゆくモダニズム詩人と入れ替わるように『四季』の詩人たち、私の先生である田中克己も、当時大学を卒業したばかりでしたが、自身の牙城『コギト』からゲストみたいな形で載るようになりました。一戸謙三、高木恭造、田中克己、三者三様のみちゆきが交差したこの雑誌についてのお話には、感慨深いものを感じます。
 モダニズム系抒情詩の書き手として中央詩壇との交流が続いていたら──。「地方詩に向わなかった一戸謙三」の姿を想像したくなるところです。


【方言詩】時代 昭和9年10月〜昭和9年12月  【聯詩】時代 昭和13年〜昭和16年

 さて、謙三さんですが、大和民族の古典に深入りする事情があったなら、そのさきには方言詩だけでなく、それこそ田中克己・保田與重郎・伊東静雄の『コギト』や『日本浪曼派』のグループがひらく世界が待ち構えていた筈なんですね。しかし彼は、棟方志功が保田與重郎に心酔した様には、中央の次世代詩人たちと交わることはありませんでした。戦争詩も、謙三さんは書いていません。反体制を貫いた金子光晴とは事情は異なります。

 謙三さんは昭和10年代には随分日本の神話などに親しんだ筈ですけれど、軸足はあくまでも民族を構成する単位としての地方にあった。昭和15年には「皇 国の道」なんて文章が新聞に載っていて 「すわ、謙三さんにも黒歴史があったか」と、驚いて読んでみたのですが、「欲しがりません勝つまで は」みたいな、世の中に蔓延し始めた統制の気運を、彼は専門の薀蓄を傾けてたしなめようとしているんです。古代のおおらかさに対する 称揚は嘘ではありません。謂わば体制内から行うことのできた、一杯一杯の批判だったんですね。

 そして方言詩ですが、本日は朗読は省きますけれども、あれだけ気負って臨んだ方言詩、5冊出した小冊子も好評だったにもかかわらず、彼は実作をやめてしまうのです。後輩たちのフォローに回っている。どういうことなんでしょう?

 ここに関わって登場してくるのが、福士幸次郎、高木恭造、金子光晴、齋藤吉彦に加えて本日最後のキーパーソンである、詩人の佐藤一英(1899年10月13日 - 1979年8月24日)であります。

 彼は謙三さんとは同じ年に生まれ、同じ年に亡くなっております。若い頃は謙三さんと同じく瑞々しい口語抒情詩をかき、地元の名古屋詩壇で活躍しておりました。福士幸次郎が濃尾平野を放浪した際に佐藤一英の世話で尾張一宮の善福寺にこもり、そこで日本民族の起源に関する着想を得て、『原日本考』という本を名古屋から刊行するんですが、一戸謙三に影響を与えた金子光晴や佐藤一英が、先生である福士幸次郎を介して東海地方に縁ある詩人であるのは、またしても私にとって感慨が深いです。ここからは、一戸謙三がその詩学にはまってしまった「聯」という、最も深い因縁の世界について、お話を進めて参ります。

 『椎の木(第3次)』が創刊された昭和7年、佐藤一英は、すでに吉田一穂らと『新詩論』を創刊、定型四行詩である「聯」を創始していて、この雑誌には福士幸次郎も寄稿しています。当時モダニズム詩を書いていた謙三 さんですが、この頃から師匠を通じ、音数律と韻律の魔法をかけられた定型詩の誘惑でもって、早くからゆさぶりが掛けられていたというわけです。
 そして謙三さん、自分だけでなく周りにもすすめ、ことにも同じく『椎の木』の誌上でモダニズム詩で競い合っていたライバル、同じくゆきづまりを感じていた大陸在住の高木恭造をも、 一時期この「聯」詩に引きずり込むことに成功します

 方言詩の提唱が功を奏し、津軽詩壇での発言力は一番になっていたというべきですが、このころの謙三さん、しばしば「超個人主義」という言葉を使用しています。「超現実主義」の次は「超個人主義」。言葉通りに受け取るなら、超個人主義というのはすなわち全体主義ということであります。

 福士幸次郎や佐藤一英が関った全体主義というのは、ファシズムの恐ろしい実態を知らぬまま、政治団体の設立や戦争詩へと向かっていった訳ですが、一戸謙三の超個人主義は芸術至上主義の、完全に非政治的なものでした。だから良い、悪いというのではなくて、超現実主義でみだれた日本の詩学に、彼はふたたび文語の伝統をバックにした「音韻」という概念によって、新しい規則を見出そうとしていたのですね。

 簡単に経緯をお話すれば、謙三さんの師匠、福士幸次郎はもともと詩論家としても、岩野泡鳴や萩原朔太郎とともに「自由詩のリズム論議」というものを大正時代におこしており、「日本音数律論(昭和5年)」という論文も書いているこの方面においても立役者です。そしてこれを読んだ謙三さんが、福士幸次郎を通じて同調者の佐藤一英を知り、彼 が提唱した定型詩理論に「ドはまり」してしまいます。それが「聯」です。

 どういうものか簡単に説明しますと、一行12文字の四行詩。つまり48文字の定型詩です。そして頭韻(あたまに韻)をふんでいる。母音を強く意識する日本語は、脚韻を踏み続けると地口(ラップ)になっちゃいますが、頭韻だとそこまであざとくなることはありません。加えて彼らは音数律の実験をこころみております。一行12文字を、短歌・俳句で使用する五,七、七,五だけではなく、さらに分解して組み合わせの効果を様々に試していたんで す。ためしに冒頭に読んで頂いた聯詩「白菊の門」に後連を加えて完成した「秋風の碑」という詩を読んで頂きましょう。

●「秋風の碑」

秋風の碑門とざす白菊の花
 求めなく夕をひらけ
散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

 過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
 すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ    
原題「白菊の門」昭和14年『聯』9号を改稿。聯詩集『椿の宮』1959年所載

 一英さんが提唱する、「詩の音楽主義」というのは「詩の本質は聴く詩にあって、見る詩というものは印刷文化に眩暈された詩の畸形児にすぎない」 (「プロソディとは何か」『日本詩』1935.4)」とまで極論するように、「朗読詩」こそが詩なんだ、という立場です。

 時あたかもラジオ放送による詩の朗読が始まっております。刊行部数がわずか100部200部の訳の分からない稀覯本詩集が宝石のように詩壇で取り沙汰される一方で、昭和10年にはラジオの受信契約者数が200万人を突破するという、新たなマスメディアの登場、といふ現実が背景にはありました。一英さんは、聯詩は純粋詩であるとともに国民詩になる可能性を信じて取り組んでおります。

 そしてこれを受けて『椎の木』社とは双璧をなすモダニズム詩集の刊行元として評判のあった「ボン書店」、今では伝説になっていますがそのボン書店のディレッタント店主である鳥羽茂が、報われることのない事業に疑問を持ち、この佐藤一英が創始した「聯」詩の運動にはまってしまうんですね。一英さんと意気投合して、というよりその完全な影響下に下って、結婚を機に近所付き合いをするため長崎町に越してきて「モダニズム出版社」の看板も下ろ してしまう。ボン書店が出 していた『レスプリ・ヌウボオ』という雑誌は『詩学』という名前に改まり、昭和11年からは鳥羽茂・佐藤一英共同編集という形で、「新韻律運動」すなわち 「聯」詩を掲載する詩誌へと改組されます。

 一戸謙三の許には昭和10年4月以降の佐藤一英からの書簡が遺されています(※公開中)。対応する謙三さんの書簡がみつかりませんが、一方からだけでもこれだけ沢山遺されていると、二者の関係が時系列で見えてきます。(※同じく対面機会は少なかったものの手紙を通じて交流していた高木恭造も同様です。恭造さんから送られてきた手紙が上述『瀋陽からの手紙―父・恭造から一戸謙三へ』参照。)

 謙三さんへ宛てた手紙のなかで佐藤一英は、「漸次にかうしてモダニズムをこの雑誌から追ひ払つて行 きます。」と語り(昭和11年2月8日)「萩原一派のロマンチシズムをたたきつぶすこと。自由詩散文詩を追つぱらふこと。」なんて、 かつて詩集評を書いてくれた恩人への対決姿勢を鮮明にし(同11年夏)、『詩学』が廃刊されると、住んでいた長崎町界隈のともがらを動員。「同人百人、社友千人、読者一万人」という大風呂敷を広げて(昭和13年3月27日)「いよいよ『聯』専門誌を始め」ることを決意します。(昭和13年3月3日)」。

【※付記】ボン書店からは、菊池仁康という福士幸次郎の友人の事業家が訳す『プーシュキン全集』の刊行が企画されましたが、 同様の郷土つながりからでありましょう。出版社といっても、もとも と独りでやってた印刷屋です。身の丈に合わない企画は、後から来た大手出版社の改造社が完結させてしまうと立ち行かなくなり、鳥羽夫妻はこののち相次いで結核で斃れます。事情は愛書家の間で名著となっている内堀弘さんの著書『ボン書店の幻』に詳しく書かれています。

【※付記】雑誌『聯リーフレット』については、一英さんの令息佐藤史門氏よりその全冊について提供に与り、電子化を施し公開しまし た


 昭和13年4月、新しく創刊された『聯』リーフレット。集まった同人を見渡すと、佐藤一英・福士幸次郎の根城である長崎町界隈の人々(幸次郎の次女福士朝子や、弟子の保永貞夫)をはじめとして、一戸謙三を頭とする津軽出身勢(高木恭造、手市典麦:本名竹内長雄)、主宰者の地元である尾張出身勢 (高木斐瑳雄坂野草史杉本駿彦、 齋藤光二郎、中條雅二、犬飼稔)、それから「聯」が和歌に似た形でもあったからでしょうか、多くの素人女性の投稿が目を引くのですが、一英さんは有力詩人からの協力が得られないことをさとると、途中から「社友カクトク」は「ナマジツカ詩人くずれや文学青 年くずれではなく、ズブの素人を説いた方が効果がある」なんて言い出し、同人にはこっそり恋人をひそませたりなんかもしているんですね。(佐 藤一英「世に見ざる」昭和25年4月5日朝日新聞)
 
 さてそこで、謙三さんのこの定型詩への転身の問題なんですが、私が思うのに、実は彼が「方言詩」において行った「定型詩」への試みに、後輩詩人がついて来てくれなかったため、必然的にもたらされた結果ではなかったか、と考えております。

 というのも、青森の詩人たちにとっての「方言詩」というのは、かつて高木恭造が『まるめろ』を書いた時のように、自らのリアルな感情をぶつけるための手段として必要だったのであって、そこに形式としての理念なんかこれぽっちも求めてなかった。皆がそうだったものだから、謙三さんも(小冊子で小銭儲けなんかしたくないから、なんて書いてますが)、押し切られる形で実作から手を引いたのだと思うのです。

 ただ詩学的な理論はひっこめた代りに、「方言詩なんか封建時代の産物じゃないか」というプロレタリア派からの、方言を貶めようとする攻撃に対しては、方言で詩を書く意義を訴えて論争の矢面に立った。自分の最初の公刊詩集も『ねぷた』という方言詩だけで書かれた詩集にして「態度」で示し た。そして『芝生:かがわら』と名付けた方言詩の詩誌を興して後輩の育成にあたり、県内の新聞や雑誌『月刊東奥』の投稿欄の方言詩の選者にもなっています。

 謙三さんは方言詩の世界が、実は「終点として私の詩歌時代を打ち切るつもり」でとびこんだ、「壮年の詩」境の開拓を企図するものであったこと(「詩学と私」『弘前新聞』昭和11年2月6日)。
 そして形態に於いては「その地方のための朗読詩」であり、
「詩精神の方から言へば民族詩の実態をなしてゐる」(「方言詩と地方文学」『文藝情報』第8巻第5号 昭和17年3月5日)
 と、二重の意味についてはっきり明言しております。

 本日は方言詩については深入りしません。あくまでも私の意見になりますが、謙三さんはこうして方言詩を地元詩壇の中でジャンルとして護ったことで、津軽方言詩詩壇のリーダーとして目されることになったのではないかと思っております。

 序でに申しますと、一戸謙三が後輩からの信望を集めた理由、彼は学校の先生をしていたんですが、
「学科さえなおざりにして、文学だの洋画だのと余計なことに熱中している幼稚な中学生を、一戸さんは、そうあることが、むしろ当然であるかのよう に受け入れてくれたのであった。」(平田小六氏の回想)
 というような、自分の主義を押し付けることのなかった人柄、人間性が与っていたことも大きかったことでしょう。

 
 さてふたたび一戸謙三はこの因縁の定型詩である「聯」にどこまでほれ込んだか、ということになります。昭和14年1月7日、福士幸次郎留守宅に於いて 佐藤一英と邂逅を果たした謙三さん、東京への移住まで勧められていますが、(昭和14年2月11日佐藤一英書翰)

「これからの日本詩は超個人主義に立つ「聯」の詩学を通過しなくてはだめだ、と云ふのがわたしの信念。その詩学は、新定型詩「聯」の昭和十三年(1938)の運動を指す。石坂洋次郎君は反対したが。」(一戸謙三「津軽方言詩の事」その一 《月刊東奥》 昭和15年11月)


 と、かなり頑固なところまで行っちゃいます。別に反対したのは石坂洋次郎君だけじゃない。佐藤一英は昭和13年の『聯』の後記で

「地方都市としてナゴヤは弘前とともに東西地方の聯運動の中心をなしてゐる感がある。」(昭和13年7月 3号)
「青森で一戸君が秋田雨雀、鳴海要吉両氏を相手に論争してゐるのは見事なものである」(昭和13年8月 4号)


 とエールを送ってますが、始めのうちは物珍しさも手伝って賛辞を寄せてくれた有名詩人たちも、さりとて積極的に参加することはなく、多くの詩人はそれは現代詩からの退却であり、明治新体詩への後退だとみていたようです。先生の福士幸次郎も(音数を定めた)音数律だけでなく(韻を踏む)韻律にまでこだわる必要はないんじゃないかと諫めている。坂口先生が仰言った「窮屈な裃かみしも」と いう表現は、言い得て妙かと思います。

 当時、島崎藤村の『若菜集』を愛誦する一般読者はまだ多かったはずですが、五七を基調とする定型文語詩というのは、戦時中には「ますらおぶり」を煽る装置として利用さ れ、あるいは逆に社会的意識から遊離した抒情として機能するにとどまりました。例えば一戸謙三と同じく、モダニズムを去って抒情詩に赴いた三好達治の あゆみに、その典型がみられるのではないかと思います。
 そして佐藤一英との縁がどう関係しているか分かりませんが、口語から文語定型詩に急旋回を遂げた詩人として、私が真先に私が思いつくのが、ここで「宮沢賢治」なのですね。

 結局、高木恭造は、一戸謙三の誘いで一旦は「聯」に参加したものの、「定型詩になると、自分の歌声と言うものが何か決まってしまう」。そして「口語だと聯らしさも消えてしまう」といって、この詩型から去ってゆきます。(1979.10.6青森放送テレビ「ATV土曜スタジオ:故一戸謙 三氏を語る」書き起しより)
 また昭和15年頃と思われるのですが、中央で活躍する石坂洋次郎から詩を求められたところ、

「婦人むきの詩、しかし『聯』や方言詩はいけない」
と条件をつけられているにも拘ら ず謙三さんは、
「方言詩はとにかくとして、『聯』ならばよろしかろう、と多少その婦人向きらしいのを選んで」送って不採用にされています。そして、
「私の信念は、その婦人向きのには、やっぱり当てはまらなかった訳である」なんてぼやいております。(「津軽方言詩の事(一)」)

 しかし謙三さんからしてみれば、「これからの日本詩は超個人主義に立つ「聯」の詩学を通過しなくてはだめだ」、というのは、政治的な意味ではなくて、あくまで技術的なことを指している。『聯』には詩論も書いていますが、後年の「私の四行詩」という作詩法(昭和29年3/29陸奥新報)のなかで彼はこう申しております。

「はじめから、このやうな詩を作るつもりで作つたのではなく、頭韻や十二音といふ型式に導かれて、 かうした作品になつたといふことです。…できあがつた作品は、作者ですらも思ひがけないものになつてゆく。─それが近代詩といふ芸術なのです。」

 「できあがつた作品は、作者ですらも思ひがけないものになつてゆく。」──はから ずも超個人主義の作詩の妙諦と、超現実主義の作詩の妙諦とが、 彼の中では似たようなものであったことが、この言葉から判るんですね。

 思うに詩の作り方には2通りあって、ひとつには行と行が緊密な意味を分かち合い、結果一篇の作品を形作る「求心的」な詩があり、かたや一行づつが独立してそのぶつかりあいにポエジーが生ずるという「遠心的」な詩がある。四季派の抒情詩などは前者であり、モダニズムやこの聯などは後者であると言えます。だからこそ複数人が寄り集まって詩を作る「聯座」みたいなものも成り立つわけで、謙三さんは謂わば「求心的」な詩と「遠心的」な詩の二つ のタイプの詩を作りこなす「二刀流」の使い手でした。そして「聯」の詩学を通して、方言詩が拠って立つ地方主義をより大きく包括する原理へと向かっていった。それこそが「モダニズム」のあとに来るべき「ポストモダニズム」の現代詩だと、謙三さんは示したかったに違いありません。

 確かにその時点の現代詩、ということでみれば、定型詩や文語詩というのは、戦時体制が強まってゆく中で流行のスタイルになってゆくんです。戦争詩というのは概ね七五調や文語詩で書かれております。そんな時代に謙三さんは「聯」にはまっていったんですが、大東亜戦争が始まる直前に、そこから脱しております。

 どういうことかと申しますと、謙三さんは戦争が始まると、この「聯」の制作もやめ、表立った戦争協力を避けるように沈黙してしまうのです。

 師友の福士幸次郎・佐藤一英もふくめ、その他ほとんどの日本の詩人達は、侵略戦争の疑いの強かった「日華事変」が、米英を敵に回した「大東亜戦争」に面目を改めると、皆がみな文語詩に返り咲き、そのまま戦時体制への協力、戦争詩の道へと進んでゆくことになります。昭和17年以降、その協力の度合いとそれまでのキャリアが戦後になって、詩人たちの評価の明暗を分けることとなるのですが、謙三さんは大東亜戦争が始まる前に、すでに詩を発表することを止めてしまうのです。ここに当時、佐藤一英との間に何があったかを語った文章があります。

「しかし私は考へるところがあり、昭和十六年三月の第四巻第三号まで作品を出しただけで中止した。それは、新定型詩誌をその後に新国民詩運動 機関誌と改称して、社友作品には戦争協力詩のやうなものが多くなり、聯詩社のマークを制定し、これを太陽十字章と称して襟章(えりしょう)にすることにしたり、また「二千六百一年、皇紀二十七世紀の初頭にあたつて聯詩人は全国から一斉に富士山の頂上をきはめる。」といふ計画を立てたりするやうになつたからである。…「聯」に寄稿を中止すると共に、私は聯詩を作ることにも興味を失ひ、そして昭和十六年の八月からは身辺雑詩をつくり始めた。それは発表する当てもなく、また戦時下は発表が許されないやうな作品ばかりであった。」「詩集 『歴年』 以後 (その12)」 『甲田の裾』昭和39年2月号。



  「太陽十字章」は、「聯詩人挺身隊」なるものを考案し(昭和16年9月4日書翰)、当時『ナチスドイツ青年詩集』を訳出した一英さんにとって、当初は鉄十字章みたいなものが念頭にあったかもしれませんが、戦後も「聯詩社」の意匠として引き続き使用されているところからすると、児童の校帽として考案された一宮市の市章(大正11年制定)のデザインが影響しているのかもしれません。
 そして謙三さんにとっては、『聯』誌上に上せられた編集同人松木嘉之による詩人寸評のなかで、『椎の木』でと同様、またもや高木恭造との比較において以下のように評されたのも、あるいは嫌気がさしたのかもしれません。

「一戸玲太郎の作品が、一行々々の場合には膝を叩きたいほどの共感を覚えさせ、深い感銘を与へながらも、一篇の作品と見る時には、感銘がぼやけて行き共感が宙に迷ってしまふ・・・(中略)・・・幾多の風貌を示しながらも高木恭造の作品の底を貫くのは美しい抒情のこころである。」(松木嘉之「聯詩人論4」昭和15年12月)

 また福士幸次郎先生に対してはこんな感じです。

「昭和十六年八月に中央の詩人たちは各地方の詩人たちをも会員として大日本詩人協会を結成して愛国 詩を作り、翌年には日本文学報国会に合同した。私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中(弘前に訪問中)の福士幸次郎先生は「さう言ふもんじゃないよ」と、入会書を自分でしたためて出してくれた。しかし、私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だったので、発表するあてもなく、また発表されないやうな身辺雑詩ばかりを、この後四年間の戦争中に書いてゐたのである。」(「雑詩抄 (一)」より。週刊「暮らしのジャーナル」東北経済新聞社 昭和四十九年四月十四日)


 ここで謙三さんの正義面をかざそうとか、そういうつもりはありません。むしろこの一文は戦後の回想であるにも拘らず、ジャーナリズムの冷たい目にさらされたまま亡くなった福士幸次郎を、変らず自分の師匠として扱い、ひとつの怨み言にもなっていないところ、まことにこの詩人ならではの節操を見る思いがいたします。
 先ほど申し上げたように、戦前に活躍した詩人たちのほとんどが国威発揚詩、もしくは控えめに言って銃後を護る詩を発表するなかで、一戸謙三は、先生や詩友からの戦争詩への勧誘を拒み続け、沈黙を守った。自分の主義を押し付けることのなかった代り、意にそぐわない主義に同ずることもなかった謙三さんが、心のうちをひそかに書き綴っていたのが次にお話する「身辺雑詩」です。これらの作品もまた、戦争詩ではないにも拘らず自撰詩集には収録されておりません。朗読をお願いいたします。


【身辺雑詩】時代 昭和16年〜敗戦まで

●「古い蚊帳」

古い蚊帳のなかに
枕をならべて、
四十三になる夫が、
おなじ年齢の妻と、
鰯のやうに寝てゐる。
小さなガラス窓から、月の光が、ふたりの寝顔をひつそりと照らしてまた移つていつた。
深い夜である。
上京した夢を見た夫が、ふと目ざめて、風が過ぎるのを聞いてゐる。それから、また眠つた。
こほろぎが啼いてゐる。    昭和16年8月4日


○「さびしい風」

北の障子窓に寄せて
机が置かれてあつた、
何かを待つために。

主人の髪は、
すこし白くなつた。
本もあまり読まなくなつた。

窓を開けると、
トタン屋根と銀杏の樹とが見え、
それから曇つた空も。

古びた机に頬杖をついてゐる
主人の額に、
さびしい風が吹いて来る……

これが待つたものであるか
――と、
刻み煙草のけむりを、
 主人は、
吐き出しながらさう思つた。

――十八年経つたのである。   昭和16年8月4日


○「二つのガラス壷」

ガラス壷に、
紫陽花が挿してある。
それは細君が、村の実家から
汽車で持つて来たのだ。

ガラス壷に、
小さな鮒が泳いでゐる。
それは生徒が、
薬缶に入れて教室に
持つて来たのだ。

花の壷は、
海苔が
魚の壷は、
飴が入つてゐたものである。

二つの壷を机に置いて、
先生の夏休みが始まつた。
刻み煙草をのんでは、
 それらを眺めて。     昭和16年8月10日

○鮒の死
水草を取つて来る、
と言ってゐるうちに鮒は死んだ、
ガラス壷のなかで。

小さな姿で、
かわいらしく泳いでゐたのが、
今朝、浮いてゐた、
白い腹を出して。

串に刺してあぶつて、
食つてみたが
そして、そのまま忘れてしまつた。……     昭和16年8月16日


○「夜汽車」

 汽車がとまると、
屋根のない
プラットホームであった。
降りるひとはない、
じつに暗い夜だ。
向うに小さな駅があり、
二三人の駅員が、
明るいひかりの中で、
仕事をしてゐる。

汽車の音が闇を
切りひらいて
そしてしづかに
汽車は動き出す。
窓から、もう駅は見えない。
灯がひとつ、ぽつんと、
それもたちまち消えて、
真暗になつた。        昭和16年8月24日


 ありがとうございました。これらの詩を一読して驚かされるのは、もはや「夢」とは関りない、彼の生活が素のままに歌われていることですね。前に「一戸謙三という詩人は結婚生活の幸せや家族の交歓といったものを歌わない」と言いましたが、発表を期せざるこの時期の作品群だけは異なります。 象徴主義やモダニズム、いづれの時代に培はれた方法論からも去って、易しい言葉で、他愛ないといえばそう片づけられてしまいそうな身辺の消息が、 淡々と綴られております。
 詩人の心を領していたのは、含羞であり、諦念の心であり、これらの詩が「私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だつた」といふ、洞察しきった心持ちの中で書き続けられたことを思へば、ことさら反戦の詩ではないだけに感慨を禁じ得ません。

 これらの詩が書かれた事情について別の回想文を、そして大東亜戦争が始まり、戦況がきびしくなってゆく中で書かれていった詩篇を続けて読んで頂きます。

「(昭和16年)八月三日の夜に、わたしは久しぶりで(木村)弦三さんの演奏会に行つた。その夜に久しぶりに出かける気になつたのは、石坂の洋さん(石坂洋次郎)が誘ひに来たからであった。…眼を閉じて曲を聴いてゐるうちに久しく忘れてゐた詩を、ふいと書きたくなつた。前のやうに色々と考へ込んだりしないで、さらさらと書いてみた。それからは、こんなにして書いてやらうと、当直の夜などに二、三篇ずつ書いてゐるうちに大分たまつた。今のところ発表するあてもないし、発表するところがあつたとて、こんなものは聖戦中だから非国民だとお叱りを受けるに違ひない。そしてまた、わたしとしても気はずかしいものばかりである。それでも書いてゐるときは、うれしい。それでよいではないか。第一、これから何年生きられたものやら、先きのことは全くわからなくなつて来たのだ。」「雑詩について 昭和十六 年の手記から」「暮らしのジャーナル」昭和49年10月13日。


●「村の葬式」

いぼたの垣根にそうて、
葬列は、
静かにしづかにめぐつてゆく。

花傘から、
泥道に赤く青く紙花が散り、
鉦はしきりに鳴る。

骨箱は、
小さな堂に入れられ、
その上に、
金色の鳳凰が飛び立たうとしてゐる。

白いたすきで、
骨堂を首にかけた男は、
素(す)わらぢだ。

いぼたの垣根のおわりには、
現後車(ごしょぐろま)の柱が立つてゐた。
まはしてみれば、
さびた車は
からからと、からからと
廻つてとまる。

墓所のまん中の、
喪屋(もや)をめぐつて、
村人たちは、
うなだれながら
立ちどまる。

線香の煙は、
秋ばれの空へと立ちのぼり、
和尚様の引導は、
皺かれて力がない。

いぼたの垣根にそうて、
村人たちは、だんだんに散じてゆく。
農作の話や、
隣の嫁の話や、
林檎の話をしながら。

いぼたの垣根の、
後生車をもう一度
まはしてみれば、
さびた車は、
からからと、からからと
廻つてとまる。    昭和17年2月5日


●「大湊へ」

明るい蛍が
汽車の窓から射しこんでゐた
握り飯を持ち
折詰をひらいてみれば
するめがあつた
握り飯を
子は二つ食べた
祖父からもらつた外套をのつそり着こんで
子は黙つて食べた
これが
子とのおしまひの旅かも知れない
おれは握り飯を
三つ食べてから考へてみた
一月も十日だと言ふのに
雪の上に
枯れ草が輝いて見えてゐた   昭和19年2月23日夜


 長男の昇さんは、昭和20年7月に召集されますが、幸いにして、ひと月で戦争は終結します。

 そしてここから、謙三さんにとって、はじめて自分の歩みを超えるスピードで変わってゆく世の中と対峙してゆくこととなります。詩の世界もまた、 めまぐるしく変わって行くのです。
 戦争詩は書かなかったけれども、何事もなしえずブランクを余儀なくされた詩人、彼の戦後は、すでに人生の下り坂にさしかかった46歳をもって始まります。そして10年ぶりに口語による「現代詩」の発表を再開させます。


【戦後の詩】


●「二月十一日」(制作年保留)

おれはまた詩が書きたい
おれは食ふことばかり考へてはゐられない
おれは生きてるだけではつらい
おれはまた詩が書きたい

実在が現れるやうな
おれが生きてるこの世のものに隠れてゐる
実在が現れるやうな
おれはそんな詩を書きたい

おれは汚れて泥みたいになった
すりきれてぼろぼろになった
おれはもっとも暗い人間になった
これまで生きてきて
このぐらいいけなくなったことはなかった

おれはつらく生きてゐる
おれは下らなくその日を送ってゐる
おれはもっと輝きたい
おれはもっと楽しくなりたい


 戦争詩を書かずに済んだ若い詩人たちは、世にアプレゲールと呼ばれ、戦後の自由な空気に放たれると皆それぞれに「実存」なるものを探るべく、現代詩の晦暝な世界へと四散してゆきました。一戸謙三も、ふるさと津軽にありながら、世代を二つも三つも異にする若い現代詩詩人たちに伍すべく、心情を吐露する新しい方法については摸索を続けたといっていいでしょう。

 いま読んで頂いたのは、ノートに書き残されていたもので、晃さんによれば書かれた年が定かではありませんが、彼の心境がどんなであったかを生々しく感じさせます。私は終戦直後のものと考えておりますが、戦後の謙三さんには、次の詩にみられるような傷心がとりまいていたようであります。

○「わたしはひとり」

わたしはひとり、
よごれた黒いソフトをかたむけ、
 すりきれた黒いマントを引きまはし、
 わたしはひとり、
街のあちらこちらを歩いてまはる。
友だちの事務室の、
ストーブにあたつてゐたり、
薄暗い食堂のテーブルで、わたしはひとり、
そそくさと飯を食つたり、
 古本屋の棚から棚を、
買ふでもなく眺めてみたり、
ああ、帰って落ちつく室もなくしたわたしよ、
わたしはひとり、
友だちの二階の室に、布団をあづけて、
火もない夜を
 わづかに眠れば、たちまちわびしい朝だ。
本も読まず、
物も思はず、
その日その日がさうして過ぎる。
ああ、ギリギリと歯を食ひしばり、
 わたしはひとり、
烈しく乱れる吹雪が、
家なみを荒くたたく今日も、
わたしはひとり、
貧しい街のあちらこちらを歩いてまはる。


 やるせないですね。戦時中の「身辺雑詩」の発声の位置から、再び「夢」の再興に向けて立ち上がるには時間が必要でした。しばらくは戦時中と変わりない、みじめな心境が歌われています。

 さて、次に読んで頂く詩ですが、大正11年のことが書かれております。ただ大正11年に書かれたものなのか、書かれたとしてそのままかどうかは裏が取れておりません。「隣に越してきた貞さん」が登場するんですが、誰のことかはわかりません。しかし、もし大正11年の当時に発表されておれば、必ずや詩壇の話題にのぼっただろうという出来栄えであります。それが戦後すぐのガリ版刷りの『追憶帖』という詩集で発表されております。

 この冊子は叢書として継続の予定だったのですが、もし12冊予定全て刊行されれば彼の詩業の凡そが明らかになった筈です。残念なことに2冊のみにて途絶し、結局収録詩篇を絞った自撰詩集『歴年』(1948/青森美術社)に発展的解消されてしまいました。

○「絵本」

 日に日に雪が消えてゆき、黒土が優しくあらはれ、垣根には青草の唄がからみつき、陽は柔かに心に溶けこむ。そのころ、隣に越して来たお貞さんが、窓をあけて夕ベごとに唄ふのを、聞くともなく、聞きおぼえたわたしを、「遊びにいらつしゃい」と、桜の咲く日には呼びかけさせた。

 ああ、あのころは未だあざやかであつたわたしの唇を見つめてほほゑみ、うしろから両腕投げかけて、ふたりで眺めた朝顔には露がほがらかに輝いてゐた。ああ、あのときの頬ずりのなつかしさよ。

 葡萄棚の下に仰ぎながら、ゆたかな腕さしのべてお貞さんが一房もぎとれば、後れ毛を夕日が金色に照らしてゐた。落葉の匂ひの中に味つたその葡萄よ。そして何故あのときに、お貞さんは黙つて帰つて行つたのであらう。

 炬燵の上に指をならべ、「ほらあたしのより細いわ」と、お貞さんの顔は桃のやうにうるはしかつた。窓には牡丹雪の降りしきるささやきがして夜が更けてゆけば、絵本の上に眠りほけたわたしが、握られる手にふと気が一つけば、さすがにお貞さんの指はふるへてゐた。         1922年9月

 謙三さんの詩は、女性の描写がうまい。こういうみずみずしい青春をテーマにしたものが、やっぱり、読ませますね。戦後に試みられたドイツ詩の訳業にも、そうした彼の若き日の抒情が、よみがえったように躍如として表れています。ここで坂口先生が注目された、謙三さんが昭和30年代に発表し続けたドイツ詩の訳業についても、一言付け加えておきましょう。

 訳詩は、若いころにも謙三さんは試みておりました。自作の養分となるような象徴主義の詩を、おそらく友人の齋藤吉彦の応援も得ながら苦労して、 重訳もいとわず訳していたと思われるのですが、戦後の訳詩は、もう自分の好むところに従ってと申しますか、すべてがドイツの詩人、それも戦後の同時代のものではなく、リヒャルト・デーメル(1863 - 1920)を始めとする新ロマン主義とよばれる一群の詩人達だけが対象にされています。

 私は一戸謙三の自作詩から、ドイツ臭さというものをあまり感じません。もちろん私はドイツ語なんか出来ませんが、ドイツロマン派の訳詩や、彼らに親炙して戦争詩をたくさん書いた日本の詩人たちの作品と較べてそう感じるのです。謙三さんは医者になるつもりで第2外国語はドイツ語を学んで堪能だったのですが、そうして先ほどの詩篇には「実存」という言葉が出てきましたけれど、戦前はドイツ文学界隈で流行っていた同時期の潮流とは没交渉だったようです。

 しかしながら、何か私には、この抒情詩人の生地に合ったのは、本当はこのようなタイプのドイツの詩人達ではなかったのか、そんな風にも思います。キュビズムの洗礼にはじまり謙三さんはモダニズムの詩人として頭角を現しましたが、詩人の小笠原茂介(しげすけ)さんが、謙三さんの訳詩に、 ドイツの新ロマン派、つまりビーダーマイヤーから以降の生まれ遅れたドイツのロマン派のような味わいを指摘しておられます。

 もとよりロマン的情緒を愛していた彼に、もし若いころフランスのモダニズムよりも、こちらからの牽引力が働いていたならば、自覚的に詩作を変化させていた彼の詩は、果たしてどのような変化を遂げていったでしょう。「索迷」時代の日記には、確かにショーペンハウエルやニーチェの読書歴が残されているんですね。絶えず彼にはそちらからの、いわばロマン的な呪縛からの吸引力が働いていたといってもいい。戦後民主主義の時代になって、はじめて彼は旧時代へのオマージュを存分に捧げることができるようになった。現代詩を書こうとしていた謙三さんにとって、養分となる活力を、こうした訳詩に求めていたのではなかったかと、思う訳です。訳詩からも一篇、読んで頂きましょう。

○憂はしい胸から        リヒャルト・デーメル

薔薇の花は今もなほ輝き、
暗い葉はやさしくふるへてゐる。
そして草の中に私は目ざめた、
ああ、お前が来て呉れたならば、
こんなに深い真夜中なのに。

庭の門は月を隠し、
その光は湖の上に流れてゐる。
牧場は静かにひろがり、
濡れうまごやしが私の襟首を埋めてゐる。
こんなにいとしくお前を思つたことはない!

私は知らなかつた、知らなかつたのだ、
お前の首を抱きしめて、眼を閉ぢ、
お前の内部を深く味はひ、そして溢れた時に、
憂はしい胸から、お前は
何故に苦しい声を吐いたのか。

ああ今、あそこに光る蛍を、お前に
お前に見せたい、二つが一つに光るあの蛍!
お前から私はもはや離れられぬ!
ああ、お前が来て呉れたならば!
薔薇の花は今もなほ輝いてゐる。      初出は《陸奥新報》(1950年7月2日)に「かなしい胸から」の題で発表。ここでは《鰈》第 11号(1968年9月)掲載の改訳稿を使用。


 謙三さんは詩人として最後の挑戦といいますか、戦後現代詩として通用するような、意味の断絶を手法に織り込んだ詩作を、最晩年の昭和30年代に開始しています。戦時中、モダニズムを封印して郷土詩を書いていた北園克衛の骨法を思わせる、抒情詩がたどり着いた極北の姿みたいなものを、意 識的に夢の追求のために取り入れています。

○ひとつの影

それから、
暗い杉の木立から
路がわかれて、
呼んでゐるのではなかつた。
あれは、やはり
アンドロメダであらうか。
石垣から、
おりて来るひとつの影
があつた。それは
ぼんやり
うつむいて遠ざかり、
白いベンチが
のこされる。
この世にあるものは、すべて
はかない。噴水の音が
かうして慰め
であると、しかしデネブや
ヴェーガもあつた。


 昭和25年からは、日本で一番北に造られたハンセン病患者の施設、松丘保養園の機関紙『甲田の裾』という機関誌に連載を始め、あわせて入所者の詩作の選者にもなっている謙三さんです。先ほど紹介したように新たにドイツ詩の訳業も行っており、新聞・雑誌への執筆も活発です。福士幸次郎亡きあと、高木恭造や寺山修司が東京で有名になるまで、青森県の詩壇の第一人者と言えば、まず彼のことが思い浮かばれたのではなかったでしょうか。

 そうして戦後の謙三さんですが、「聯」も再開して、口語自由詩の制作と、再び「二刀流」を使いこなすようになります。そこでは相変わらず定型詩が将来する未来も説いています。
 顧みれば戦争中、佐藤一英の戦時協力体制を忌避して『聯』誌から距離を置いたものの、福士ファミリーと近しい一英さんとの文通はその後も続いていたのであり、詩論だけは相変らず書いていたことが書簡から窺われます

「音数律論、実に手ぎわよくまとまり、結構と存じます。この夏休には是非「日本詩歌音数律論」を三、四百枚お書きなさい。小生必ず出版書店を見つけます。」【佐藤一英 一戸謙三宛はがき 昭和18年1月11日】

 またこの戦後の「二刀流」で書かれる自由詩は、それまでの抒情詩のような求心的な思考でなく、モダニズム風の遠心的思考を加味した現代詩と呼んでよいものです。2世代3世代も隔てた戦後の若い詩人たちに対峙して、自らに課した「最後の挑戦」に不安も感じていたのではないか、という感 じが私にはいたします。

 それゆえ学殖を要する「訳詩」であるとか、文語的思考を要する「聯」によって、文学的信条が安んぜられる手綱を一方で握りしめ、詩壇の一角にベテラン(年齢)なりの安心を得る必要があったのではないか、といえば過ぎるでしょうか。

 ただそのポエジーの本質「抒情と夢の追求」だけは変えることはありませんでした。そればかりは変わりようなどなかった。といっていい。

○夜霧

夜霧が、古い庭の
池のあたりをただようて
ゐるから、
ベンチに坐つてゐると、
水いろの月が
落葉松のこずゑに、かすかに
あらはれてゐた。
いつまで
坐つてゐるつもりなの、と
言はれたが、
あれは誰であつたのだらう。
ひつそりと、
鱗模様の浴衣のひとがよりそつてゐた。
あらはれては、また消えてゆく
そのすがた。
すべては、かうして
過ぎるのです、と
マッチをすつて
くれたときの指のいろ。
暗い築山
の、うしろで小猫が
啼いてゐる。

 彼の詩の本質は変わることなく、ただその到達地点にみられるニヒリズムは、『椎の木』時代に極まった絶望を湛へたニヒリズムとは異なり、老詩人の心に現ずる虚無を、訥々とつぶやいてゆくものに静かに移行していったように観ぜられます。

 本日は「方言詩の前後をよみとく」ということで、詩人の出発から方言詩に至るまで、そこから彼がさらに別の世界に進み、戦争の渦に巻き込まれまいと自分を守り通した姿についてみて参りました。

 戦後の歩みについては未だ公開されている物証が足りず、詳しくお話することができませんでしたが、謙三さんの詩業は、

 聯詩は、戦前・戦後の分をそれぞれ宝石箱のような豆本の『椿の宮』(1959/緑の笛豆本の会)と、『現身(うつしみ)』(1972/同)とにまとめられ、一方の自由詩は

『歴年』(1948/青森美術社)、そして『自撰 一戸謙三詩集』(1965/津軽書房)

の中に、ここまで紹介して参りました「○○時代」という名前で括られてまとめられています。

 『歴年』の読後感を、交游が復活した佐藤一英が青森の詩誌『北』に書いております(昭和24年5月 第3号)。

「田舎にゐるといっても年のはじめの七日間は人の訪問も少しはあり、読書をみだされがちですが、そ の間にも「歴年」を、もう一冊の詩書─「歴年」が来たのでわきへやってあったもの─といっしょに置いて、時たまとりあげてゐるうちに、また一ペんみな読み終りました。もう一冊の詩書といふのは、田中 克己君が著された「李太白」です。これは戦争の終る前年出版されたときいたとき、読みたいと思ひながら、手にする機がありませんでした。先日、ナゴヤまで出て、場末の小さな本屋でこれが塵をかぶってゐるのを見つけて、買ってきたのでした。私はこの本を年末年始に読むに はふさはしい本として一冊のノートとこれだけを机の上にのこしてゐたのです。そこへ「歴年」がとどけられたわけです。」

 という一英さんの言葉に接して、私は言葉を失ったのでした。

 はじめにお話しましたように、晃さんによる研究冊子は完結しましたが、一戸謙三に『全詩集』はなく、膨大な資料が現在も遺されたままになっております。今回の催しが機縁となって、謙三さんの全貌への注目があつまることを期待してやみません。

 それから最後に――。朗読からは絶対わからないことで、大切なことを申し忘れておりました。それはつまり彼の作品が、戦前のものだけでなく、戦後に書かれた口語詩も「歴史的仮名遣い」で発表されているということですね。詩が「朗読されるもの」ならば、拘る筈のないところに彼はこだわり続けています。これを戦前詩人の恐竜の尻尾と片付けてよろしいものか。私はこの姿勢にこよなく賛同する変り者ですが、みなさんは如何お考えでしょうか。

 時間がなくなりましたので、晩年の二刀流から、定型詩と自由詩と、一篇づつを読んで頂いて、お話を終わりたいと思います。

●「かなしきうた その三」

つきかげかがみにかへらず (月かげ鏡に返らず)
かたやせほほゑむひとなし (肩やせ頬笑むひと無し)
つきざるえにしとなくむし (尽きざる縁しと鳴く虫)
かもゐにかげをれかたらず (鴨居に影折れ語らず)   「詩集『歴年』以後その35」『甲田の裾』(昭和41年2月号)より。詩集『現身』 (昭和47年)所載。


●「第二の夢」

泥だらけな街の
ねぢれた坂をくだり、
ひとり暗い
喫茶店に坐つた。
こはれた椅子の上で
こほろぎが啼いてゐるので、
やるせない人生は
やはり第二の夢である、と
あてのない手紙に
書いた。
そのあと
壁にもたれてゐたら、
垂れ幕から、
誰かがあらはれ、あばよ、と
聞きおぼえのある声
で言つて、
ドアの鏡のなかに消えていつた。   『弘前詩会リーフレット』W(昭和35年3月)所載


 本日はまことに長時間ありがとうございました。



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