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四季派の外縁を散歩する   第25回

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詩人一戸謙三の軌跡 方言詩の前後をよみとく

青森県近代文学館「特別展 詩人・一戸謙三」 第2回文学講座 2019年8月18日講演原稿

元原稿はこの倍の分量があります。あらたに写真資料を付した【長尺版】はこちらより

●「蒼き流れのほとり」 大正9年

さみしや、われ人を恋ひぬれ、
今日もこんこんたる蒼き流れのほとりにありて
遠くはるかに思ひつかれ、
すべなくも、また帰らんとするに、
向山(むかやま)の峯のあたりにむら立つ木の梢らは、
しら雲ながるる空をさししめしながら、
しんねんと音もなく燃えのぼるぞや、
燃えのぼるぞや   『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載      (●は会場で朗読された詩篇・ほかの部分です。)

●「壁」 昭和7年

壁の中から、私は煙草のけむりを吐く。彼らは貧しい卓子(テーブル)に集り、暗く話してゐる。
私の煙草は灰にならない。彼らは卓子と共に遠ざかり始める。闇の天井から落ちる風、それは死であらうか。
彼らは消えた、そして卓子も。また私も、壁の中にはゐない。壁に煙草が刻まれてゐるだけだ、一本の白骨のやうに。
洋燈(ランプ)がひとつ残つてゐる。ああ、何たる追憶であらう。   『椎の木』第一年第七冊(昭和7年)

●「茨(バラ)の花(ハナコ)」 昭和9年

街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぷて、
それでも咲エでる茨(バラ)の花(ハナコ)…   『茨の花コ』(昭和9年)

●聯詩「白菊の門」 昭和14年

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり   『聯』九号(昭和14年2月)

●詩人内海康也の回想より

詩人たらんとして詩人たりえぬ人間はけっこう多い。だが、詩人以外の何者でもあ
りえぬ生涯は、そう多いとはいえぬ。そうした数少ない、詩人としかよびえない詩人
が一戸謙三であった。
一戸謙三は、いつも黒いコウモリ傘を小脇にかかえ、イギリス紳士のように長身の背すじをのばして、どこヘでも気さくに足を運んだ。その姿は詩人以外の何物でもなかった。
 「一戸謙三と弘前詩会1、5」内海康也東奥日報、平成9年9月5日、10月3日

【自己紹介】

 ありがとうございます。詩人一戸謙三80年の生涯の作品から詩を5篇、そして内海康也(やすなり)さんが伝える詩人の風貌について朗読して頂きました。

 あらためまして初めまして。岐阜から参りました中嶋康博と申します。「この人だれ」と思われている方も多いと思います。岐阜女子大学に職員として勤務しております。
 本日は、一戸謙三の「方言詩以外の詩」について、それらがどんなものであったか、アナウンサーによる朗読をはさみながらたどってゆこう、という試みですが、最初にどうして私のような者がここでお話することになったのか簡単にご説明させていただきたいと思います。

 私は岐阜の人間です。若いころ東京で生活しておりました。仕事の傍ら独りで詩を書いていて、当時1980年代の終り・昭和の終りころだったですが、まだ戦前の詩人の何人かは御存命で、その中の一人に勇気を出してファンレターを書きまして、それが田中克己と言う詩人で、戦前に堀辰雄や三好達治がやっていた『四季』という同人誌に拠っていた詩人です。出会った時、先生は75才で、私は25でしたが、それから亡くなるまでの5年間を、たいへん大切にして頂きました。

 その田中先生が亡くなって、私は田舎である岐阜に帰って現在勤めている大学の職員になりました。田中克己の詩業をまとめる活動の最中に知り合ったのが、八戸で『朔』という詩誌を主宰しておられる、詩人の圓子哲雄さんです。

 圓子さんは、地元詩人の顕彰に熱心で、中でも2005年から3年かけて、6回もその雑誌で特集が組まれたのが、本日お話する詩人、青森県の近代詩を語る上では欠かすことのできない一戸謙三という詩人でした。

 一戸謙三は若い頃に東京での生活を経験しているんですが、その後はずっと故郷の津軽にこもって詩作を続けた詩人です。なので私も、一戸謙三という詩人のことはよくわからない。一戸玲太郎というペンネームは、『ねぷた』という方言詩の詩集を私は持っていたので、知ってたんですが、読めないので結局手放してしまいました。理解しがたい方言をあやつる詩人だなあ、農民詩人のようなものだろうか、と思っていた訳です。
 ところがその雑誌の特集号をみたら、紹介されていた詩は方言詩ではないんです。とても瑞々しい、あるいは知的な、いろんなタイプの詩を書いていたこと、そしてその水準の高いことに、びっくりしてしまいました。

 当時、その『朔』の特集号で、一戸謙三の知られざる資料について解説をされたのが、本来は今日ここで講演をするべき、今は亡き、詩人の坂口昌明さんであります。今日お話する内容の半分はおおよそ、2011年に亡くなった坂口先生が書かれたものの「受売り」と申して差し支えありません。

 そしてその坂口先生から助言を得て、詩人の家に遺されていた膨大な資料を元に、その生涯と詩業との紹介につとめてこられたのが、本日会場にもおみえになる、お孫さんである一戸晃さんであります。

 一戸謙三には「不断亭雑記」という589回にも上る新聞連載の回想記事があるのですが、晃さんもまた、祖父の業績とその周辺情報を集めること、実に163回にものぼる報告集を発行してこられました。それが『詩人一戸謙三の軌跡』という小冊子にまとめられて、この春とうとう10冊で完結しました。そういうわけで今日お話する内容の残り半分は、令孫の晃さんが集められた資料の紹介と申し上げて差し支えありません。つまり私がここにいる理由がなくなってしまう訳でありますが(笑)、本日の演題も『詩人一戸謙三の軌跡』とさせていただいた次第です。

 私は遠方から一戸晃さんの活動にエールを送ってきた読者の一人にすぎません。けれども、晃さんを始め、坂口さんは故人となられましたが、そして圓子さんも現在療養中で本日お見えにはなりませんが、今回私のような者を演者に選んで下さった近代文学館の伊藤室長、そして詩人一戸謙三に関心を寄せる地元の皆さまに対して、この機会に青森まで伺って、特別展のお慶びや意義を直接お伝えしたい、こういう気持で岐阜より参りました。

 本日は、坂口昌明先生と同じく青森の人間ではない者の視点から、お話をさせて頂きたいと存じますが、よろしくお付き合いください。

 それでは大河原アナウンサー、稲葉アナウンサーのお二人にも、今日はよろしくお願いいたします。本日の催しについて思うことなどありましたら、一緒に伺いたく自己紹介をお願いいたします。

【※大河原アナウンサー 稲葉アナウンサー 自己紹介。】

【詩人の誕生】 大正8年〜大正9年

 ありがとうございます。それではこれより謙三の方言詩以外の詩について、それらがどんなものであったか、順番にたどって参りたいと思います。」
 冒頭の最初に読んでいただいたのが、大正10年22歳の謙三が自分でガリ版印刷した『哀しき魚はゆめみる』という詩集に収められている作品です。

 当時の文学青年たち、大正時代のことですが、孤独な抒情に沈潜することを好んだ、言ってみればネクラな若い詩人たちを熱狂させた、ヒーローというべき詩人は誰かというと、それはもう一番に萩原朔太郎なんですね。当時の多くのオタク青年が、彼の詩集『月に吠える』にあこがれて、まねをして詩作をしている。
 謙三は萩原朔太郎より13才年下なんですが、朔太郎の次の詩集『青猫』がまだ出る前に、もうこういう詩を書いていました。

●「抒情」

ものみな、みるくいろにとけこんでゆくころ、
柔い夏のたそがれの匂ひにいざなはれて、
あなたの肩のまろみを感じる手は、
あやしい髪の林にさ迷ふとしたときです。
熱にもつれふくれあがった私のことばは、
あなたのささやく別れの冷たさに凍り、
瞳はかなしくとけはじめ、ながれだし、
歩み帰るあなたのふっくりした着物のいろが、
遠い景色のなかにとけてしまったのちも、そののちも
香ぐはしいあなたの足音にくちづけしてゐた、こと!   大正9年『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載

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 萩原朔太郎の影響は歴然たるものがあるのですが、鋭い感受性には実感がともなっています。これは一緒に収められている「短歌」の方で、一層あきらかなので、少し紹介していただきます。

草色の肩掛けかけて池の辺に 鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの 葉陰にさびし尾をふれる馬

うす苦き珈琲をのみつしみじみと 大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

月のした輪をなしめぐる踊り子の 足袋一様に白く動けり

鏡屋の鏡々にうつりたる 真青き冬のひるの空かな       ●『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)より

 ありがとうございます。始めの頃はこういった歌の方に、オリジナルの素質が表れているように思います。短歌から出発した彼にとって、のちに才能を発揮することとなる「文語定形詩」には、もともとなじんでいた、ということであります。そして画面でみて頂くとわかるように、詩人自身によるあわあわしい筆跡をながめることでも、当時の文学青年が抱いていた抒情のありかというものを、感じることができるのでは、と思います。

 ちなみに本日紹介する資料は、すべて晃さんの了解を得てインターネット上の私のサイトで公開いたしますので、また御自宅に帰ってからパソコンでご覧になってみて下さい。

 それで当時の中央詩壇を牛耳っていたのは、民衆詩派という、(これはネアカの)ヒューマニズムの詩人達だったんですが、謙三はそちらではなくて、ネクラな萩原朔太郎が代表するような、孤独と官能に悩むロマンチックの詩人でありました。彼の詩に超越者として神様仏様なんかは現れて参りません。

 これは最初に押さえておくべき、この詩人の特徴で、彼が北方の地にありながら、詩に宗教性をまとうことがなかったこと。一戸謙三というのは「北の詩人」にしては、宮沢賢治や高村光太郎との親近を感じさせない、非宗教的な、珍しいタイプの詩人なんですね。そうしてつかみがたい情緒を、語感を総動員して耳に残るように「盛る」ことを一番に考えた。詩人自身のちに、

「わたしのこれまでの作品は、その形式に於いて幾度も変遷してゐるけれども、全作品を通じてその精神はつねに抒情であり、夢の追求であつた。」

と、書いています。彼は生涯を通じて「夢」をモチベーションにすることで詩を書いていました。そしてそれがよりどころのない産物ではなくて、実生活と密接にかかわっているらしいことが、晃さんによる遺品調査によって判っているんですね。
 どういうことかというと、ではその後書かれた大正時代の作品から、当時の恋人たちを念頭に書いた詩を読んでいただこうと思います。よろしくお願いいたします。

【黄金の鐘】時代 大正11年10月〜大正12年5月

●「白い月」

公孫樹(いちょう)の梢に白い月が浮く午後である。
裏背戸の黍(きび)の葉蔭で盗んだキス。
紅らむ頬よ。襟足のほつれ毛よ。
野苺が影うつす小川には水すましが群れて跳んでゐた。

彼女は椹(さわら)垣に凭れ(もたれ)「おたつしやで!」と。
ああ私の馬車は動く。行手にひろがる青田よ。
涙ぐむ眼にあてた前垂(まへだれ)には桔梗の花がゆれてゐた。  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号

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●「崖の上で」

小川は呟き、つぶやき銀色に流れ、
熊笹の上を紋白蝶がもつれて翔んでゐる。

崖の上の枯れ芝に坐るわたしの軽い疲れ。
梨の皮を剥く君の水々しい手よ。

未だ耕されぬ田に侏儒(こびと)の森、そのなかの赤き鳥居。
白雲は雪斑(まだ)らの山脈を徐ろ(おもむろ)に翳らせてゆく……

ああ髪の香。紫の眼よ。
朗らかなこの時、君よその優しい唇を与へてよ!  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号(初出による)

 ありがとうございます。お聞きいただいたように、恋人とのデートを写した詩ですが、さっきの作品と比べると、よほど摸倣から脱しております。方言詩で有名な詩人は、こういう詩を書いて出発した詩人だったんです。

 この2篇は当時、詩壇の公器と呼ばれた『日本詩人』という雑誌があったんですけれども、その大正12年3月号に載せられた、詩人にとっても晴れがましい、中央詩壇にお披露目した自信作であります。二段組ではなく、他の有名詩人と同じ扱いで載せてもらっています。
 発表時のタイトルが「追憶の頁ページ」という連作もので、全部で5“頁”ある追憶のうち、本日は1“頁”と3“頁”を読んでいただきましたが、実は別々の女性、一人は後に詩人の妻となるムメさんですが、もう一人は恋が実ることの無かった佐藤タケさんという女性をのことを思って書かれた詩、なんですね。

 続いて、その当時に作られた「炎」という詩を読んでいただきます。

●「炎」

彼女は、水晶の花瓶にさされたダリヤの花束である。
熱くるしく私の胸をしめつけ、霊性をむざんにも踏みにぢつてゆく影は何か?影は火焔の輪を頭上に戴き、白晝、突如として何處からともなく私の室に現れてくる。
彼女の髪は夏の森林のごとく薫る。
嵐が、私の肉体をまきこんで遠い地平の涯に鞠のごとく投げつけた。
砂漠の太陽が二人の接した唇から發光する。
天球の頂点で紅寶石(ルビィ)が砕け散つたのか、おお、何といふ異象であるか。しかと生命を抱きしめて跪いた二人の上に、血みどろな白鳥の羽根が柔かに落ちてくる。
二人の上に、白薔薇の花片が痛ましく降りかかり、ふりかかる。
きりきりとしめあげる冷い銀線の手のために、青空へ、涙に濡れた彼女の瞳が溶けてゆく……空しくふるへてそれをとらへようとする私の指!
黄金の爪の痕が彼女の胸に鮮かにしるされた、やがて、それが一生、彼女の神の唇となる。
私は、深海に沈んだ古い鐘である。1922年5月21日  『胎盤』第3年最終号(通巻11号) 1922年7月1日発行

 ありがとうございます。先ほどの作品は大正12年の発表、これはあくる大正13年、東京生活を切り上げて結婚した年の作品です。
 坂口先生は「日本の当時のすべての詩人の作品と比べても、優雅で、デリケートな女性に対する感受性が満ち満ちている。」とべたぼめしておられます。果物の皮をむく女性のしぐさに、エロチシズムを感じる謙三の感性。如何でしょうか。

 謙三の青年期に書かれた彼の象徴主義に彩られた作品は、どれも水準を超えています。抒情詩人として、すでに最初に一つの大きなピークを迎えているように私も思います。
 ところが詩人はこれらの初期の作品群を「先人の影響が顕著である」なんて言って、のちの自撰詩集にほとんど収めませんでした。この「炎」という傑作も切り捨ててしまっています。一体どういうことなんでしょう。

 ここで詩人の生い立ちについて簡単に申し上げます。
 明治32年2月10日生まれの謙三は弘前市で育ちます。明治32年というと1899年ですから、西暦の1900の下2桁がほぼ年齢だと思っていただけるとよろしいかと思います。
 家は代々「一野屋」という商家を営んでおりました。しかし父親が早くに亡くなって家業をたたまざるを得なくなり、謙三は大学に行くために、東京で医者をしていた叔父さんを頼って上京いたします。しかしこの叔父さんが、治療に使うモルヒネで自分が中毒になってしまい、謙三も経済的に行き詰まり学業を中途で辞めて田舎に帰らざるを得なくなる。それが大正9年のことです。

 ところが国に帰って黒石の高等小学校の代用教員をしていたときのことですが、すぐ隣の浅瀬石(あせいし)の尋常高等小学校の女の先生と恋仲になりまして、昔の田舎のことですからすぐに噂になってしまう。とうとう校長先生からお咎めを受けて別れるという事件を起こします。

 一戸謙三という人はご覧の写真でも見ての通り、今そのままいたとしても通用するような、背がものすごく高くて(179cmもあったらしいです。)、痩せ形のハンサムな、しかも医学を学ぼうとする理知的な青年でしたから、女性には絶対モテたと思います。

 「モテ期」の謙三には、その後も、のちに妻となる盛ムメさんのほかに、恋仲になっては別れる女性の存在が複数あったようです。遺された手紙をもとに、フィールドワークまで敢行して、お孫さんの晃さんがさきの個人誌の中で明らかにしております。ここまですごかったとは、さすがの坂口先生もご存じなかった。詩人自身が当時の状況を「行く先に次々と「女」が現れて私を悩ますのであった。」なんて述懐しておりますが、刺身包丁を振り降ろされて腕に包帯を巻いていたとか、教え子からは、当時ゴシップに上っていた有島武郎の情死なども挙げて「自殺しないでください」なんて手紙までもらっていたようなんですね。手紙を読み解いていった晃さんは、こうした事実に、祖父の青春時代のエピソードに、さぞかし驚かれた。「ドッテンされた」だろうと思います。

 しかし詩人の側からすれば、詩作中のイメージを、ある特定の女性に結び付けて卑俗に推測してもらっては困ると、作品の本質を見失う危険があると言われるかもしれません。つまり作品の中の彼女たちは、あくまでも自覚的に操作された抒情のモチベーションとして、詩人の内にだけ存在しているということです。

 たしかに作品のバックには、若き日の、二度の上京生活をまたいだ6年ばかりの間に知り合ったお嬢さんたちへの想いがこめられているのでしょう。
 さらに自分ではどうしようもない経済的な理由で大学への道を断たれ、将来への不安が重って、彼は精神科医になりたかったんですが、自分の方が神経衰弱になってしまいます。(不幸中の幸いは関東大震災の直前に帰郷したことでしょうか。)
 短歌では収まりきらない悩みを、詩作に託していった彼ですが、端から見れば当時の「不良」に間違いない。しかし、プレイボーイの詩人というより、実はたいへん危うい精神の均衡の上で、これらの詩を書いていた、ということができると思います。

 私は詩人には往々にしてその誕生期に「疾風怒濤の時代」があること。特に情熱的な女性との破局が、消し難い傷跡をトラウマとして遺していること。このことに注目しながら詩人達の伝記を読んでいます。いま申し上げたように、一戸謙三の場合も、結婚前に彼の心を掻きむしった女性の存在があって、それが彼を「詩人」にしてしまったと、そう思っております。
 実生活ではこのあと、幼馴染みで美人の盛ムメさんと結ばれています。破綻しない生き方を選ぶ一方で、心に秘めた追憶というのは美化されて、詩人は生涯を見果てぬ「夢」にうなされることになる。彼が自ら解説するところの、生涯を通じて追求された「夢」というのは、全作品において「喪失感」と「憧憬しょうけい・どうけい」とに染め抜かれております。彼の心には生涯この時代にあった出来事がわだかまり続けたんじゃないでしょうか。

 それから詩人の伝記で注目することがもう一つ、詩人というのは母方の叔父さんに知的な「変人」が居て、詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へているということ。この点でも謙三の母方の叔父さんには「闇五郎」と号して、川柳・都々逸なんかを能くし、黒石新報を発行していた長谷川忠蔵という言論人がいるんですね。ついでに言い添えておきたいと思います。
 いま見たように、一戸謙三の、詩人としての出発は大正時代に興った口語詩にあります。その後の詩風の変遷・変化を考えると、近代詩の歴史をのこらず体現してきた、とても詩歴の古い詩人であるということが判ります。その辺りは、方言詩『まるめろ』でデビューした高木恭造と決定的に異なる所であります。

【水松いちいの下に】時代 13年4月〜昭和2年5月

 さて、結婚前のことは以上で収めたいと思います。詩人の「夢」の源泉が、女性たちとの別れだったのは見ての通りですが、謙三がムメさんと結婚することによって、この「夢」は、どんどんとこじれたものになって参ります。
 と言いますのも、結婚、そして一年後には長男も儲けた詩人は、以後、小学校・中学校の先生として真面目に生きてゆくことになるんですが、結婚生活の幸せや家族の交歓といったものを、彼は歌わないのですね。新婚時代の作品にも、それが全く表れておらず、代わって果てしなく暗い追憶の詩ばかりが並んでいるのです。
 この時代のことを、謙三は「わたしは秋の空のやうに悲しい恋をおもふ」という題辞を付して呼んでいるのですが、その頃の詩を少し読んでいただきたいと思います。

●「夜、重い鎧戸を」

夜、重い鎧戸を押しひらけば、
林のかなたに窓が明るい。
ゆるやかに十時が鳴り、
河瀬の音は高まる。
ああ、わたしは死ぬばかりに淋しい!

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あのひとの古い手紙の束を、
昨日わたしは水松(いちゐ)の下に埋めてしまつた。
この心を誰が知らう。
そして月日は、これから
わたしの上に塵のやうに積みあがるばかり……    自撰詩集『歴年』(昭和23年)より。初出不明

●「小さな墓」

湿つた石段を、雪駄で
あのひとの墓を想うて来ると、
枯れ芒の穂のなかに、白々しい太陽が沈む。

本堂の屋根にも、苔むす敷石にも
銀杏の落葉がおびただしく散りたまつてゐる。
ああ、笹薮にかこまれた小さな墓よ……

暮れかかる行手、松林のはづれに
荒々しい浪が岩々に泡立ち、
その上に低く翔んでゐる灰色の鴎。   自撰詩集『歴年』(昭和23年)より。初出不明

 ありがとうございました。他にも、「わたしは忘れてゐたあのひとの哀しい誓ちかいを想ふ。」だとか「水松いちいの下に蹲り、はかない想ひを蒼ざめた濠の水に描くとき、」なんていう、意味深な言葉がならんでいるんですが、これは絶対に奥さんじゃない人のことを歌ってますよね(笑)。作品の中で、別れた女たちは、誓いを果たすことが出来ずに死んでしまったり、手紙もイチイの木の下に埋められたことになっています。

 しかし先ほど申しましたが、詩作のイメージを特定の女性に結び付けて推測することは危険です。ここは詩人の虚構において許された創作場所であるということです。
 詩人の魂が、生涯こだわったのが「抒情と夢」でした。それはあくまでも、あこがれるものであって手に入らないもの、であります。結婚後に思い起こされる「過去の恋愛」。別れた女性が死んじゃったかどうかは判らないですが、イチイの木の下に埋めた筈の手紙は埋められず、書棚の奥の革バッグの中から雁字搦めの束となって晃さんに見つけられております。心の痛手が尾を引いていることが、こうした作品を読むとよく判りますね。

 津軽のもう一人の詩人、高木恭造の場合も同じです。彼にもふぢさんというクリスチャンの奥さんがおりましたが、若くして亡くしております。それが恭造青年に『まるめろ』や『わが鎮魂歌』を書かせ、彼を「詩人」にしてしまいます。再婚して眼科医になり、堅実な人生を歩むのですが、これは後年息子さんが書いておられますが、亡くなった前の奥さんとの生活に彩られた作品が代表作となって、詩人が嬉々としてそれを朗読会で読み上げる、その姿をみつめる、生涯連れ添った奥さんの気持というのはさぞ複雑だろうな、と思う訳です。

 ちなみに真逆のパターン、つまり真面目な奥さんを捨てて奔放な美人に走る三好達治みたいな人は、これは詩人本人が必ず地獄を見ておりますが(笑)、一方で、そういう女々しい作品は残すまい、と、結婚後に敢然と詩作を中止してしまったのが、謙三の先生であった福士幸次郎です。御存知の青森詩人。詩歴ということで言えば、彼こそ日本の口語詩の歴史を語る上では萩原朔太郎よりも一歩先んじている存在であります。

 一戸謙三たちの後輩詩人が古里で初めて興した詩の結社を「パストラル詩社」と申します。福士幸次郎は在京中でしたが、精神的な支柱になって彼らの詩の指導をいたします。先ほど読んで頂いた、『日本詩人』という中央詩壇の詩誌に謙三の詩をバーンと載せてくれたのも、この先生が編集を担当していたからです。当時の謙三の詩稿は、福士幸次郎の手によって徹底的な添削が施されていることが、遺された原稿から判明しておりますが、それが実に的確なんですね。福士幸次郎には『太陽の子』という詩集があって、彼の情熱の詩風は、とてもネクラな謙三がまねするようなものではなかったんですが、一戸謙三はこの福士幸次郎を、自分の師匠に戴いて徳に感ずるようになります。

 それはこの師匠から、詩風ではなく、「地方主義」という「イズム」の洗礼を受けることになったからなんですね。これがたいへん大きかった。「地方主義」、すなわち郷土愛に根差した詩文学を津軽で興そう、という文学運動との関わりにおいて、彼は福士幸次郎と師弟関係を全うしたと、そういってよいと思います。福士幸次郎が詩の実作では展開できなかった「地方主義」を、「方言詩」という形で最初に実践したのが高木恭造であり、その後を継いで地元詩壇に根付かせたのが一戸謙三、ということになるかと思います。

 その福士幸次郎ですが、彼がその「地方主義」を学んだモーリスバレスという人は保守主義者で、本国のフランスではファシズムの先駆者扱いをされております。ですから福士幸次郎も「日本ファシズム連盟」なんていう、物々しい名前の結社を立ち上げたりしてるんですが、これは彼の「地方主義」を敷衍して「民族主義」におよんだ、謂わば民族自決権を掲げる団体だったようです。
 謙三も芸術至上主義者ですから、地元の詩壇ではプロレタリア派の詩人たちとさんざん論争を行います。この先生とも、一緒に政治的な行動をする機会は、いくらでもあった筈なんですね。

 しかし謙三は、実際的な政治行動というものには手を染めることがありませんでした。のちほど戦時中の詩人を語る際に申し上げますけれども、「こんな世界でなくてはならない」という理想や、あるいは「人生の讃歌」を大っぴらに歌わなかった代り、他の詩人達のようには「大東亜戦争」に関わることがなかった。それは坂口先生が書いていた「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。」という、謙三の理性的な一面によるところが大きかったのではないかと、私は思っています。
 そしてこの非政治的な、芸術至上主義的な側面がもっとも先鋭的に表れたのが、次に述べるところの「モダニズムの時代」ということになるのではないでしょうか。

モダニズム前期 【「月日」〜「夜々」】時代 昭和4年〜昭和7年

 謙三のモダニズム詩については、坂口先生が詩人自身の言葉を使って「日本的シュールレアリスム」と呼んでおられますが、詩風を変化させるために自覚的な実験が行われていたことが判っております。移行期間にあたる実験的な作品を一篇だけ読んで頂きます。

●「未亡人の日課表」

 絹の扇をかざして未亡人は野菜畑を散歩したスカアトを煙のやうにひらくと赤煉瓦の塔からふらんすの旗がふらんねるの空にひろがり鳩となつて飛びさるから未亡人は碧玉のなかに沈んでゆき白い犬は白い玄関におどりあがり白い空間と合してしまふといふのが未亡人の哀しくもないその日その日の日課表である (昭和5年1月『座標』1巻1号)

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 こういうものを書いておれば、たしかにプロレタリア派との論争も“炎上”は必至という気がいたします。
 ただ、謙三はもちろんこんなものに安住はできず、「超現実派ならびにその亜流は整理して各個人の肉体にまで精神にまで還元して、正統なるポエジイからして出発し直すべきである」と反省をしています。意味の拒絶も辞さないシュールレアリスムからは少し降りたところ、「超現実を=夢」と解釈するところで詩を書くようになります。

 日本では大正14年に堀口大学の訳詩集『月下の一群』が出され、昭和3年に『詩と詩論』が創刊されて、「エスプリヌーボー」と称される舶来のモダニズムが、若い世代の詩人たちの間で大流行するのですが、無詩学時代といわれた同人誌乱立時代の詩人たちが、ここにおいて選別されて参ります。

 謙三は年齢的には旧世代に属する詩人ですが、ここで消えてゆくことはなく、新しい詩学を自家薬籠中の物にして、一世代若い、昭和初期にデビューした詩人たちと肩を並べてゆくこととなります。謙三がキュビズムで自画像を描いてみせたのが大正11年の事だったですから、進取の気性のほどが窺われると思います。それではこの期間の作品をみてゆきたいと思います。お願いいたします。

●「花火の下で」

闇の空に花火が碧玉(エメラルド)を砕いて巨きな傘となつた。屋形舟の艫(とも)で櫓綱(ろづな)にからまりながら銀杏(いちょう)返しの女が横になつてゐる。男の麦藁帽は川に浮んでながれて枯れ葦のなかに消えてしまつた。手を水にひたして考へこんでゐると、その指先に女の髪の毛が巣のやうになつてひつかかつた……
男は女を抱きしめてゐると思ふ。しかし、そこには岐阜提燈が墜落(お)ちて燃えてゐるだけである。あの女は存在してゐたのであらうか。冷たかつたものは彼女の歯の味であつたのか  この疑問は突然わたしに女の鱗模様の浴衣を憶ひ出させたのである。   『座標』昭和5年6月号

●「私の写真」

鴨が蘆の洲から飛び去つた。私は玩具を落して探してゐた、柱につかまリながら。私は五才であつた、しかしまだ歩けなかつた。
秋の陽が縁側に鳥影を落してゐた。母は琴を弾いてゐた。その爪が赤かつた……
恐ろしい叫びごゑが私の身を包んだ。私は敷石の上に落ちたのである。血が滾々と麦門冬(りゅうのひげ)の間を染めていつた。
仏壇に新しい戒名が加へられた。丸々とした私の顔がその傍らの写真の中にある。だから、今日もまた笑窪をやさしくつくつて母を慰めてやるのである。   『座標』昭和5年6月号

 ありがとうございます。読んで頂いたのは、昭和5年に創刊された、青森の文学者全員が集まった『座標』という文芸誌の作品です。発掘した坂口先生が「全作品を通じ、最高のピークと称して憚らない出来ばえ」と絶賛していますが、自撰詩集に収められることはありませんでした。そしてこれらに至るまで、昭和2年から5年にかけて起こった、詩人のおどろくべき詩境の変化についても坂口先生は、盟友だった民俗学者の齋藤吉彦(きちひこ)との交流を通じて養われたものではないかと予想されています。

 医者を目指していた謙三はドイツ語を学んでいたんですが、医者への夢が破れると、福士幸次郎や、この齋藤吉彦の影響でフランス語を勉強し、原詩にも親しむのですね。齋藤吉彦は、謙三が進学することの出来なかった慶應義塾の仏文科を、成績優秀で卒業してフランス政府からメダルを贈られております。文学にも明るかった前途有望の民俗学者・言語学者でしたが、これらの詩が書かれた昭和5年に結核で亡くなっています。26才でした。

 さてそのフランス文学ですが、一戸謙三は、自分の詩学として、それまでは明治大正時代に流行した象徴主義に拠っておりました。日本では「自然主義」という名の暴露主義に対する反動、つまり、明治時代の反レアリズムの運動ですね。
 象徴主義が重視した対象に「夢」がありますが、謙三にとっては正に格好の詩学だったと言えます。そして時代がくだると口語で散文詩が書かれるようになり、外国からシュールレアリスムの運動がやってくる。「夢」という現実を超えた存在は、超・現実主、すなわちシュールなレアリスムの対象としても重視されることになるんですね。「夢」を詩の中心に据えていた謙三には、象徴主義と超現実主義と、異なる二つの主義が通有する素地がすでに出来上がっていた、だから新しい潮流にもいち早く感応することが出来た。そのようなことが言えると思うのです。
 この時代の詩をまとめる際に、フランスの詩人ネルヴァルがいった「夢は第二の人生である」という言葉を題辞に用いております。同じ頃の作品を、続いて読んで頂きます。

●「鴉」

珈琲を吸(すす)らうとして皿を取りあげると、細長い鏡のなかに妻が華奢な襦袢をひらきながら立つてゐる。
何処へ行くのか。わたしは振り向いた。柱時計がとまつてゐる。「ミオ!……」目を閉ぢると仄かな声が耳もとで応へた。
屋根裏の室はもう薄暗い。高く幽かなガラス窓に枯れ枝と新月が映つてゐる。わたしは坐つた。鴉が、皺がれた声で啼きしぶつてゐる……    『座標』昭和5年6月号

●「月日」

鴨居に影が折れ曲つて誰かが室を出て行つた。柱暦をめくつた指は、妻よ、お前のではない。またわたしのでもない。お前は畳の上に打伏しになつて   泣いてゐるのか。
わたしとお前との間から誰が出て行つたのだらう。わたしは立ちあがる。そして障子を開ける。廊下に幽かな跫音がしてゐる。それは月日を散らす、わたしから、そして、お前から。
わたしはお前を愛してゐた。秋の薄日が額を照らすやうに。今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。古びた襖と空しい机と。それらがお前の姿を透かして傾き沈みはじめる。    『椎の木』第一年第七冊(昭和7年)

 ありがとうございます。先ほどの時代には、別れた女たちのことを書いていたのと打って変わって、今度は妻のことをいいように夢の中でもてあそんでおりますね。「今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。」ホントに何事が起きたのだろう。と思ってしまいますが、奥さんは不思議な詩を書く夫だと思ってこれらの作品を読んだんじゃないでしょうか。

 こうして詩人は、当時の詩壇を風靡した三好達治や菱山修三といった詩人の散文詩と肩を並べるような、自意識の強い、知性的な作品を書きはじめます。およそ昭和5年から昭和10年に至る5年間のことになりますが、その発表場所はというと、先ほど申し上げた『座標』、この青森初の総合雑誌はプロレタリア派とモダニズム派が喧嘩してすぐにつぶれてしまうのですが、発表場所を移しながら最後に行き着いたのが、当時の若い世代の先端詩人達のメッカであった『椎の木』という中央の同人詩誌でした。詩史的に言うと『詩と詩論』と『四季』との間にあって、日本の口語抒情詩の黄金時代を支えた雑誌です。当時、プロレタリア派との論争を地元で行っていた謙三にとって、このモダニズム系の中央詩誌への参加は願ってもないものであったと思います。

 そうして驚かれるかもしれませんが、この雑誌では一戸謙三だけでなく、高木恭造もまたモダニズムの詩で腕を競っております。二人が方言詩を書いていたのは、ちょうどここで活躍していた前と後ろとに当ります。方言詩の詩集『まるめろ』を出した高木恭造がモダニズムに転向して、この雑誌で詩人としての自信を深めてゆく。一方で謙三はモダニズム詩を書くことに嫌気がさして、この雑誌から離れ、方言詩へと転身してゆくんです。この中央の詩誌の晴れ舞台において、一戸謙三の詩風は自ら「索迷」と自称する混乱した時代を迎えます。そしてのちに編まれた『自撰詩集』では、そっくり削られております。

モダニズム後期【「索迷」〜「神の裳」】時代 昭和7年〜昭和9年

 しかし同人の代表作が一堂に会する檜舞台である、『椎の木』同人の『詩抄』というアンソロジーに、謙三がわざわざこの期間の3作を選んでいるところからすれば、作った当時は出来が悪いと思っていた訳ではない筈なんですね。当時の一篇を読んで頂きます。

p5

●「非望」

甍(いらか)の下の明るいプログラム。間違ひのない歴史の繰返し。すべからく人はそうした風に生きてあるべきが、例外のない課業と云ふものであらう。
柔かなる笑ひを以て私を慰撫せんとする親愛(アミティエ)。ありふれたる軌跡。そして飽くことない蛆蟲の日々が堆積してゆく……。
ああシリウスよ。ぎりぎりと脳漿をしめ上げるきびしい意志。それなくして何の生活であるか。神よ、汝の常套句を私は踏みにじらうとしてゐるのだ。
歯咬みに滴る獣血のごときもの。よし零(ゼロ)の世界が私の終焉であらうと、何ものもこの非望を押し止めることは出来はしまい。幸と不幸とを一瞬にして中和する稻妻。私の半生の閲歴は抹殺されつくした。かくて私は私の涯にまで来た。
ああ私の生きんとするのは孛星(はいせい:彗星)の座であらうか……。  (『歴年』所載形。初出『椎の木』第1年第11冊 昭和7年11月発行「錯亂の頁」)

 ありがとうございます。この時期の作品は、いずれもこうした錯乱と苦悩とに彩られております。彼自身、どういうつもりでこんな詩を書いていたのか、のちに説明している文章があります。昭和15年からの回想です。昭和15年というと、太平洋戦争:大東亜戦争が始まる前に書かれた、自らへの総括ですね。文学者の回想って、戦後の民主主義の世の中になってから過去を総括した文章は普通にあるんですが、戦争が始まる前の文章は珍しいです。

 まず最初に、自分のモダニズム詩について、彼はこんな風に書いております。

「超現実派といふものは今ではあんまりもてはやされなくなつたが、今から十年ばかり前には、その奇怪な詩がここらでも大いに流行し、この私などその頭目であるとまで見なされたのは、年長者であつたのと、さうしてマルキストやアナキストを相手どつて少しく論戦したがためであつたらう。私らの芸術擁護運動がその旗印を超現実派と掲げたため、年少の人達までいつしか超現実的なる詩を作らせるやうな機運を与へたりして、罪はなはだよろしからず、と今ではわたしも思つてゐる。」 ●「津軽方言詩の事」『月刊東奥』(昭和15〜16年連載)より

 「罪はなはだよろしからず」なんていっております。そして、昭和8年の6月に、こんなことを新聞に書いたと回想しています。

「わたしはもう詩作生活なぞ止めてしまふつもりで約三十篇の作品を予定して書いて来たのであつたが、それはその半ばにして行きづまつてしまつた。最初のつもりは、わたしの心を深く眺め、その歪められ汚されそして引き裂かれ乱れてゐる外側から次第に底に沈み、やがて明らかに朗らかな整へられた詩心にまで達しようといふのであつた。」

「その整へられた心はなんによるのであるか。おそらくわたしが探りあてたものは古くさく、まことに平凡であると思はれよう、神の道、それだ、大和民族の精神生活の底に今なほ脈々として流れてゐる神の道。」  ●『東奥日報』(昭和8年6月25日)より

 ここで唐突に「神の道」なんていうことを言い出しているんですね。回想は続きます。

「この感想を書いてから一年の後に、私は古神道の中心をなす祝詞を真正面へと持ち出したわけである。さうしてやがて古代信仰はいまだ地方に生きてあることを、柳田国男先生や折口信夫博士の諸書によつて知り、かつて十年前、わたしの心に播かれた福士幸次郎氏の地方主義思想はふたたび確かめられ、かくて方言詩の試作へとおもむき、津軽エスプリ運動を展開するという方向へと進んで来たのである。」  ●同じく『東奥日報』(昭和8年6月25日)より

 「方言詩」の世界と言うのは、一戸謙三にとって、モダニズム詩に行き詰まりを感じて悩んでいたところで、先生の福士幸次郎がとなえていた「地方主義」から差し伸べられた助け舟であったこと。そして同時にそれだけでなく、福士幸次郎が当時突き進んでいったのと同じく、神話や民俗学について学んだ結果たどりついた「神の道すなわち伝統主義」の結果でもあったということです。そしてこの2点目の「伝統主義」というものが、謙三に方言詩の実作を短期間で終らせてしまい、続いて文語定型詩の「聯」へと向わせた原因、ということになります。

 『椎の木』から脱退する前後の謙三に何があったかというのは、本人があまり語っていないところです。晃さんが「リンゴ箱の片隅から」発掘した日記によって明らかにされたのですが、今度はその日記から少しお話をしてゆきたいと思います。

 謙三が「朗らかな整えられた詩心にまで達しよう」と書いているように、彼には昭和8年から9年にかけて、錯乱の詩境から脱出すべく回復が図られた作品群があって、詩人はこれを「神の裳もすそ」時代と呼んでおります。しかしどうも以前のようには受けが芳しくなかった、らしい。昭和8年11月14日の日記に書いていますが、彼は『椎の木』同人の高祖保から激励のハガキを受けとっています。この高祖保という人は『椎の木』の中の最有力詩人の一人で、雑誌の主宰者百田宗治の懐刀(ふところがたな)として、編集にも携わっていた人です。

「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」

そう書いて年末の昭和8年12月27日には、

「夜は、詩稿をまとめようと苦心する。このごろは、書いてないからダメだ。来年には、もう詩を止めようか、などと思ふ。」

 と、いうところまでいっちゃいます。そして年が明け、さらに追い打ちをかけるような気持にさせられることが起きます。百田宗治のもとでこの1月に、高祖保と乾直恵が編集する『苑』という季刊詩誌があたらしく創刊されるんです。百ページに近い大冊の雑誌で、萩原朔太郎、室生犀星、堀口大学、西脇順主郎等々の著名詩人をそろえた豪華本でした。百田宗治が『椎の木』の「後記」でこう書いています。

「『椎の木』が過去で追求して来た純粋な詩の、更に一層高い段階を究めるため・・・詩壇文壇の第一流の人々から寄稿を受けると共に、その間に伍して『椎の木』同人の優秀なる作品をも合せ収録して行く予定である」 ●『椎の木』昭和8年12月号後記

 これを目にした謙三は早速2月に2篇の作品を送るのですが、『苑』にはとりあげられません。一方、ライバルの高木恭造は『苑』に推薦されます。『椎の木』の方にも書き続けて「リトル安西冬衛」と呼ばれるような、モダニズム詩人としての自信を深めてゆくんです。このショックは大きかったと思う。謙三は春になると、日記には、

●「今日でやうやく詩稿を整理してしまつた。かうして見ると大した仕事も私はやつてゐない。仕事は、むしろこれからのやうな気がする。もう詩は、まつたく書かないことにする。これからいよいよ小説の世界へと入つて行かうと思ふ。」

 なんて書いて、実際に「創作山わらし」という短篇小説を『弘前新聞』に発表しております。
 女学校の先生だった友人の石坂洋次郎が、文壇で話題となった小説『若い人』の連載を、『三田文学』に始めたのがちょうど前年の、昭和8年8月です。もちろん影響されたと思います。しかし小説は勝手が違った。結局小説家になることは諦めてしまいます。散文に対する自信を失ってしまった謙三は、却って自分には詩しかないんだ、韻文を書く人間なんだと、あらためて詩人としての覚悟を定めたんじゃないでしょうか。

 高木恭造や石坂洋次郎の活躍をにらみながら、ドストエフスキーやショーペンハウエル、そして日本の古代民俗研究に沈潜した謙三はこの昭和9年9月、詩による御祓いの儀式を行います。それまでのモダニズムでけがれた詩生活を清算するという意味で「祝詞」を書いております。いわゆる「高天原たかあまはらに神留かむづまりますぅ〜、神漏岐神漏美かむろきぎかむろみの命みことはぁ〜」というやつですね。そのエキセントリックなパロディを、詩人は大まじめにやってのけている。

 そうした経緯を経て、一戸謙三は方言詩に対して目を開かれているのです。単に高木恭造が捨てたものを拾った、というのではない。この方言詩を使って、師の福士幸次郎が唱えた「地方主義」と、後ほど述べますが「音数律論」とを、一挙に解決できないだろうか、そういう野望を起こしたのですね。過去を御祓いでチャラにしてまでの覚悟でもって、それまでの作品全部と、津軽弁の詩とがつり合うと考えるようになった訳なんです。この時期の作品について詩人が「神の裳もすそ」時代と呼んだのはそういう意味があってのことでしょう。『椎の木』を脱退した一戸謙三は、これを最後に口語自由詩を書かなくなります。

 思うに昭和5年から昭和10年というのは、日本の書籍の装釘技術が最高だった期間でした。日記に書いていた通り、一戸謙三がもしそれまでの詩をこの時点で一冊の詩集として刊行していたら、必ずや高祖保の『希臘十字』や乾直恵の『肋骨と蝶』と同等の装釘がほどこされ、その宝石のような稀覯本の地位と、日本近代詩史上の名誉とが、同時に記憶されたろうと思います。
 モダニズム抒情詩の書き手として中央詩壇との交流が続いていたらどうなっていたか――というのは、私にとって「地方詩に向わなかった一戸謙三」の姿を想像したくなるところであります。

【方言詩】時代 昭和9年10月〜昭和9年12月  【聯詩】時代 昭和13年〜昭和16年

 さて、謙三ですが、古典に深入りする事情があったならば、そのさきには方言詩だけでなく、それこそ私の先生だった田中克己の『コギト』や『日本浪曼派』のグループがひらく世界が待ち構えていた筈なんですね。しかし彼は、棟方志功が保田與重郎に心酔した様には、中央の次世代詩人たちと交わることはありませんでした。戦争詩も、謙三は書いていません。昭和15年には「皇国の道」なんて文章が新聞に載っていて、「謙三にも黒歴史があったか!」と、驚いて読んでみたのですが、「欲しがりません勝つまでは」みたいな世の中に蔓延し始めた統制の気運を、彼は薀蓄を傾けてたしなめようとしているんです。古代のおおらかさに対する称揚は偽りではありません。謂わば体制内から行うことのできた、一杯一杯の批判だったんですね。

 そして方言詩ですが、今日は朗読は省きますけれども、あれだけ気負って臨んで、小冊子も5冊出して好評だったにもかかわらず、彼は方言詩の実作もやめてしまうのです。後輩たちのフォローに回っています。どういうことなんでしょう?

 ここに関わってくるのが、福士幸次郎、高木恭造、齋藤吉彦に加えて本日4人目のキーパーソンの詩人となります、佐藤一英であります。
 彼は謙三とは同じ年に生まれ、同じ年に亡くなっております。若い頃は謙三と同じく瑞々しい口語抒情詩をかき、地元の名古屋詩壇で活躍しておりました。福士幸次郎が濃尾平野を放浪して佐藤一英の世話で尾張一宮のお寺にこもり、日本民族の起源に関して着想を得ているんですが、東海地方出身の詩人であるのは御縁であります。ここからは、一戸謙三がその詩学にはまってしまった「聯」という、最も深い因縁の世界について、お話を進めて参ります。

p6

 このころの謙三はしばしば「超個人主義」という言葉を使用しています。「超現実主義」の次は「超個人主義」。言葉通りに受け取るなら、超個人主義というのはすなわち全体主義ということであります。

 福士幸次郎や佐藤一英が関った全体主義は、ファシズムの恐ろしい実態を知らぬまま政治団体の設立や戦争詩へと向かっていったのですが、一戸謙三の超個人主義は芸術至上主義の非政治的なものでした。だから良い、悪いというのではなくて、超現実主義でみだれた詩学に、彼はふたたび文語の伝統をバックにした「音韻」という概念によって、新しい規則を見出そうとしていたのですね。

 福士幸次郎はもともと詩論家として「日本音数律論」という論文を書いているんですが、これを読んだ謙三が、福士幸次郎の知人である佐藤一英、彼が提唱した定型詩理論に「ドはまり」してしまいます。それが「聯」です。

 どういうものか簡単に説明しますと、一行12文字の四行詩であります。さらに頭韻(あたまに韻)をふんで音数律の実験を試みています。一行12文字を短歌俳句で使用する5,7、7,5だけではなく、さらに分解して組み合わせの効果を様々に試していたんです。ためしに冒頭に読んで頂いた聯詩に後連を加えて完成した「秋風の碑」という詩を読んで頂きましょう。

●「秋風の碑」

秋風の碑門とざす白菊の花
求めなく夕をひらけ
散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ    原題「白菊の門」昭和14年『聯』9号を改稿。聯詩集『椿の宮』1959年所載。

p7

 佐藤一英が提唱する、「詩の音楽主義」というのは「詩の本質は聴く詩にあって、見る詩というものは印刷文化に眩暈(まやか)された詩の畸形児にすぎない」とまで極論するように、「朗読詩」こそが詩なんだ、という立場です。

 時あたかもラジオ放送による詩の朗読が始まっております。刊行部数がわずか100部200部の訳の分からない稀覯本詩集が宝石のように詩壇で取り沙汰される一方で、昭和10年にはラジオの受信契約者数が200万人を突破するという、新たなマスメディアの登場、といふ現実が背景にはありました。佐藤一英は聯詩は純粋詩であるとともに国民詩だと位置づけております。

 しかし私は、謙三のこの定型詩へ転身した原因については、彼が「方言詩」において行った「定型詩」への試みに、後輩詩人が就いて来てくれなかったからじゃなかったか、と考えております。
 というのも、青森の詩人たちにとっての「方言詩」というのは、かつて高木恭造が『まるめろ』を書いた時のように、自分のリアルな感情をぶつけるための手段として必要だったのであって、そこに形式としての理念なんかこれぽっちも求めてなかった。皆がそうだったものだから、謙三も押し切られる形で実作から手を引いたのです。ただ詩学的な理論はひっこめた代りに、プロレタリア派からの攻撃、「方言詩なんか封建時代の産物じゃないか」という攻撃に対しては、方言詩の存在意義を訴えて論争の矢面に立った。自分の最初の公刊詩集も『ねぷた』という方言詩によって書かれた詩集にして態度で示した。そして『かがわら』という方言詩の詩誌を興して後輩の育成にあたり、県内の新聞や雑誌『月刊東奥』の投稿欄の方言詩の選者にもなっております。

 本日は方言詩については深入りしません、あくまでも私の意見になりますが、謙三はこうして方言詩を地元詩壇の中で「ジャンルとして護った」ことで、津軽方言詩詩壇のリーダーとして目されていたのではないかと思っております。
 さて一戸謙三はこの定型詩である「聯」に、どこまでほれ込んだか。ということになりますが、次のような頑固なところまで行っちゃいます。

「これからの日本詩は超個人主義に立つ「聯」の詩学を通過しなくてはだめだ、と云ふのがわたしの信念。その詩学は、新定型詩「聯」の昭和十三年(1938)の運動を指す。石坂洋次郎君は反対したが。」 ●「津軽方言詩の事」その一《月刊東奥》 1940年11月

 別に反対したのは石坂洋次郎君だけじゃない。佐藤一英は昭和13年の『聯』の後記で

「地方都市としてナゴヤは弘前とともに東西地方の聯運動の中心をなしてゐる感がある。」
「青森で一戸君が秋田雨雀、鳴海要吉両氏を相手に論争してゐるのは見事なものである。」

 とエールを送ってますが、多くの詩人がそれは現代からの退却であり、明治新体詩への後退だと反対してるんです。先生の福士幸次郎も(音数を定めた)音数律だけでなく(韻を踏む)韻律にまでこだわる必要はないんじゃないかと諫めている。坂口先生が仰言った「窮屈な裃かみしも」という表現は、言い得て妙と思います。
 しかし一戸謙三からしてみれば、「これからの日本詩は超個人主義に立つ『聯』の詩学を通過しなくてはだめだ」、というのは、政治的な意味ではなくて、技術的なことを指しているのであって、後年彼はこう申しております。

「はじめから、このような詩を作るつもりで作ったのではなく、頭韻や十二音という型式に導かれて、こうした作品になったということです。……できあがった作品は、作者ですらも思いがけないものになってゆく。それが近代詩という芸術なのです。」 ●「私の四行詩」『陸奥新報』(昭和29年3月29日)

 はからずも超個人主義の作詩上の秘密と、超現実主義の作詩上の秘密とが、彼の中では似たようなものであったことが、この言葉から判るんですね。謙三は「聯」の詩学を通して、方言詩の地方主義を、より大きく包括する原理へと向かっていった。それこそが「モダニズム」のあとに来るべき「ポストモダニズム」の現代詩だと示したかったんだと思います。

 確かにその時点の現代詩、ということでみれば、定型詩や文語詩というのは、戦時体制が強まってゆく中で流行のスタイルになってゆくんです。戦争詩はおおむね七五調や文語詩で書かれております。そんな時代に謙三は「聯」にはまっていったんですが、大東亜戦争が始まる直前に、そこから脱しました。

 どういうことかと申しますと、謙三は戦争が始まると、この「聯」の制作もやめ、表立った戦争協力を避けるように沈黙してしまうのです。福士幸次郎も佐藤一英も、その他大勢の、文語詩に返り咲いた先輩詩人達は、そのまま戦時体制への協力、戦争詩の道へと進んでゆくことになります。

 謙三は福士幸次郎についてこんな風に語っております。

「昭和十六年八月に中央の詩人たちは各地方の詩人たちをも会員として大日本詩人協会を結成して愛国詩を作り、翌年には日本文学報国会に合同した。私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中(弘前に訪問中)の福士幸次郎先生は「さう言ふもんじゃないよ」と、入会書を自分でしたためて出してくれた。しかし、私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だったので、発表するあてもなく、また発表されないやうな身辺雑詩ばかりを、この後四年間の戦争中に書いてゐたのである。」 ●「雑詩抄(一)」より。週刊「暮らしのジャーナル」東北経済新聞社 昭和49年4月14日

 ここで詩人一戸謙三の正義面をかざそうとか、そういうつもりはありません。むしろ一文は戦後の回想であるにも拘らず、ジャーナリズムに冷たくあしらわれていた福士幸次郎を、変らず自分の師匠として扱い、ひとつの怨み言にもなっていないところに、この詩人ならではの節操を見る思いがいたします。戦前に活躍した詩人たちのほとんどが戦争詩を発表するなかで、一戸謙三は、先生や詩友からの勧誘を拒み続け、沈黙を守りぬきました。自分の主義を押し付けることのなかった代り、意にそぐわない主義に同ずることもなかった謙三が、ひそかに書き綴っていたのが、次にお話する「身辺雑詩」です。これらの作品もまた、戦争詩ではないにも拘らず自撰詩集には収録されていません。朗読をお願いいたします。

【身辺雑詩】時代 昭和16年〜敗戦まで

●「古い蚊帳」

古い蚊帳のなかに
枕をならべて、
四十三になる夫が、
おなじ年齢の妻と、
鰯のやうに寝てゐる。
小さなガラス窓から、月の光が、ふたりの寝顔をひつそりと照らしてまた移つていつた。
深い夜である。
上京した夢を見た夫が、ふと目ざめて、風が過ぎるのを聞いてゐる。それから、また眠つた。
こほろぎが啼いてゐる。    昭和16年8月4日

 ありがとうございました。一読して驚かされるのは、もはや「夢」とは関りない、彼の生活が素のままに歌われていることですね。この詩人は家族を歌わない、と前に言いましたが、発表するつもりのなかったこの時期の作品群だけはちがいます。これまでのいづれの時代に培はれた方法論からも去って、易しい言葉で身辺の消息が淡々と綴られております。
 詩人の心を領していたのは、はじらいであり、あきらめの心であり、ことさら反戦の詩ではないだけに感慨を禁じ得ません。これらの詩が書かれた事情について別の回想文を、そして戦争が激しくなってゆく中で書かれていった詩篇を続けて読んで頂きます。

「(昭和16年)八月三日の夜に、わたしは久しぶりで(木村)弦三さんの演奏会に行つた。その夜に久しぶりに出かける気になつたのは、石坂の洋さん(石坂洋次郎)が誘ひに来たからであった。…眼を閉じて曲を聴いてゐるうちに久しく忘れてゐた詩を、ふいと書きたくなつた。前のやうに色々と考へ込んだりしないで、さらさらと書いてみた。それからは、こんなにして書いてやらうと、当直の夜などに二、三篇ずつ書いてゐるうちに大分たまつた。今のところ発表するあてもないし、発表するところがあつたとて、こんなものは聖戦中だから非国民だとお叱りを受けるに違ひない。そしてまた、わたしとしても気はずかしいものばかりである。それでも書いてゐるときは、うれしい。それでよいではないか。第一、これから何年生きられたものやら、先きのことは全くわからなくなつて来たのだ。」 ●「雑詩について 昭和十六年の手記から」「暮らしのジャーナル」昭和49年10月13日。

p7

●「村の葬式」

いぼたの垣根にそうて、
葬列は、
静かにしづかにめぐつてゆく。

花傘から、
泥道に赤く青く紙花が散り、
鉦はしきりに鳴る。

骨箱は、
小さな堂に入れられ、
その上に、
金色の鳳凰が飛び立たうとしてゐる。

白いたすきで、
骨堂を首にかけた男は、
素(す)わらぢだ。

いぼたの垣根のおわりには、
現後車(ごしょぐろま)の柱が立つてゐた。
まはしてみれば、
さびた車は
からからと、からからと
廻つてとまる。

墓所のまん中の、
喪屋(もや)をめぐつて、
村人たちは、
うなだれながら
立ちどまる。

線香の煙は、
秋ばれの空へと立ちのぼり、
和尚様の引導は、
皺かれて力がない。

いぼたの垣根にそうて、
村人たちは、だんだんに散じてゆく。
農作の話や、
隣の嫁の話や、
林檎の話をしながら。

いぼたの垣根の、
後生車をもう一度
まはしてみれば、
さびた車は、
からからと、からからと
廻つてとまる。    昭和17年2月5日

●「大湊へ」

明るい蛍が
汽車の窓から射しこんでゐた
握り飯を持ち
折詰をひらいてみれば
するめがあつた
握り飯を
子は二つ食べた
祖父からもらつた外套をのつそり着こんで
子は黙つて食べた
これが
子とのおしまひの旅かも知れない
おれは握り飯を
三つ食べてから考へてみた
一月も十日だと言ふのに
雪の上に
枯れ草が輝いて見えてゐた   昭和19年2月23日夜

 長男の昇さんは、昭和20年の7月に召集されますが、幸いにも、ひと月で戦争は終結します。

 そしてここから、謙三にとって、はじめて自分の歩みを超えるスピードで変わってゆく世の中に向き合ってゆくこととなります。詩の世界もまた、めまぐるしく変わって参ります。
 戦争詩は書かなかったけれども、何事もなしえずブランクを余儀なくされた詩人、彼の戦後は、すでに人生の下り坂にさしかかった46歳をもって始まります。そして10年ぶりに口語による「現代詩」の発表を再開させるのです。

【戦後の詩】

●「二月十一日」(制作年保留)

おれはまた詩が書きたい
おれは食ふことばかり考へてはゐられない
おれは生きてるだけではつらい
おれはまた詩が書きたい

実在が現れるやうな
おれが生きてるこの世のものに隠れてゐる
実在が現れるやうな
おれはそんな詩を書きたい

おれは汚れて泥みたいになった
すりきれてぼろぼろになった
おれはもっとも暗い人間になった
これまで生きてきて
このぐらいいけなくなったことはなかった

おれはつらく生きてゐる
おれは下らなくその日を送ってゐる
おれはもっと輝きたい
おれはもっと楽しくなりたい

 戦争詩を書かずに済んだ若い詩人たちは、世にアプレゲールと呼ばれ、戦後の自由な空気に放たれると皆それぞれに「実存」なるものを探ろうと、現代詩の晦暝な世界へと四散してゆきました。一戸謙三も、ふるさと津軽にありながら、世代をさらに異にする若い現代詩詩人たちと肩を並べるべく、詩の方法については摸索を続けたといっていいでしょう。戦後しばらくは落ち込んだ時期があったようですが、昭和30年代には再び現代詩として通用するような、意味の断絶を織り込んだ詩作を開始しております。新たにドイツ詩の訳業も行っています。新聞・雑誌への執筆も活発で、福士幸次郎亡きあと、高木恭造や寺山修司が東京で有名になるまで、青森県の詩壇の第一人者と言えば、まず彼のことが思い浮かばれたのではなかったでしょうか。

 ただ、彼のポエジーの本質だけは変わることはありませんでした。その到達地点にみられるニヒリズムも、『椎の木』時代に極まった絶望を湛へたニヒリズムと同じものではありません。謙三は「聯」も再開させて、戦後は口語自由詩と「二刀流」を使うようになるんですが、どちらにおいても、老詩人の心に現ずる虚無を、訥々とつぶやいてゆくものに静かに移行していったように観ぜられます。

 本日は「方言詩の前後をよみとく」ということで、詩人の出発から方言詩に至るまで、そこから彼がさらに定型詩の世界に進み、戦争の渦に巻き込まれまいと自分を守り通した姿についてまでみて参りました。

 戦後の歩みについてお話する時間が無くなってしまいましたが、膨大な資料が現在も遺されたままになっております。今回の催しが機縁となって、詩人一戸謙三の全貌への注目があつまることを期待しております。

 それから最後に――。朗読からは絶対わからないことで、大切なことを申し忘れておりました。それはつまり彼の作品が、戦前のものだけでなく、戦後に書かれた口語詩も歴史的仮名遣いで発表されているということですね。詩が「朗読されるもの」ならば、拘る筈のないところに彼はこだわり続けています。これを戦前詩人の恐竜の尻尾と片付けてよろしいものか。みなさんは如何お考えでしょうか。

 時間がなくなりましたので、晩年の二刀流から、定型詩と自由詩と、一篇づつを読んで頂いて、講演を終わりたいと思います。

●「かなしきうた その三」

つきかげかがみにかへらず (月かげ鏡に返らず)
かたやせほほゑむひとなし (肩やせ頬笑むひと無し)
つきざるえにしとなくむし (尽きざる縁しと鳴く虫)
かもゐにかげをれかたらず (鴨居に影折れ語らず)   「詩集『歴年』以後その35」『甲田の裾』(昭和41年2月号)より。詩集『現身』(昭和47年)所載。

p8

●「第二の夢」

泥だらけな街の
ねぢれた坂をくだり、
ひとり暗い
喫茶店に坐つた。
こはれた椅子の上で
こほろぎが啼いてゐるので、
やるせない人生は
やはり第二の夢である、と
あてのない手紙に
書いた。
そのあと
壁にもたれてゐたら、
垂れ幕から、
誰かがあらはれ、あばよ、と
聞きおぼえのある声
で言つて、
ドアの鏡のなかに消えていつた。   『弘前詩会リーフレット』W(昭和35年3月)所載

 本日は長時間ありがとうございました。

p9
会場の青森県総合社会教育センター2F大研修室(青森県近代文学館・青森県立図書館の隣)

p10
当日の会場には50〜60人ほどの来場を賜りました。青森の皆様、ありがとうございました。

p11
朗読を担当して頂いた、大川原儀明さん(「あおもりボイスラボ」代表)と、稲葉千秋さん(青森朝日放送アナウンサー)と。


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