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2017年 日録掲示板 過去ログ

八木憲爾潮流社会長を悼む

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年3月31日(金)09時07分40秒
 八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂きましたが、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お電話のたびに仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りした最初の詩集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上にあった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態だったにも拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩人の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を冠する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐさめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありません。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とすることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。




「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年3月26日(日)16時50分14秒
 西村将洋様より雑誌『昭和文学研究』74集抜刷(42-56p)「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」をお送り頂きました。

 ここにてもあつく御礼を申し上げます。

 保田與重郎が『コギト』を始めるにあたって問うたのは「何を文学する(マルキシズム)」でも「どのように文学する(モダニズム)」でもない「なぜ文学を始めた」といふ問題意識でした。それを鮮明に他者へ伝へるために発動された「イロニー」は、読者の偽善や安穏を暴き、当事者性を掻き立てる、挑発的な表現手法といってよいでしょう。

 今回、俎上に上げられたテキストは、ペンネーム「松尾苳成」名義の保田與重郎の一文「文明と野蛮についての研究──ダホミーのベベンチュ陛下の物語の解説」(『コギト』昭和13年1月号)です。

 このなかで「解説」が施されてゐるのが、いつもの日本の歴史や古典、或ひはドイツロマン派でもなく、アフリカの一王国の野蛮な逸話であることに、先づ驚きがありました。しかし蘊蓄を封印した分、一文のイロニーも直截です。さうして斯様な表現をするためには、自身が先づ「過剰な読解者」でなければならなかったといふことを西村さんは指摘します。けだし表現と読解とはコインの裏表である筈で、過激な表現で読者に噛み付く彼は、いったい何を読み取った上でそのやうな言挙げをしてくるのか、その剥き出しの表現の手前でおさめてゐるものは何なんだ、それこそが問題なんじゃないかとの洞察に感じ入りました。

 一文の趣旨は、列強視点の「野蛮人」を擁護するべく、宗主国への反証を敢へて試みたものなのですが、他者を自分の尺度で「野蛮人」として見くびる「文明人」のことを非難する論者自身は、ならば文明人なのか野蛮人なのか。謂はば「上から目線」で彼らのことを勝手に忖度する矛盾を犯してゐるのを指摘したところで、「だからペンネームなんです」と逃げ道の絵解きがされてをり、なるほどと、再び驚いた次第です。

 中盤には「何が文明で、何が野蛮か」といふ同趣旨で開陳を試みた、スペイン人民戦線が冒した野蛮行為を嫌悪する一文(「文芸時評 法王庁の発表」『日本浪曼派』昭和11年10月号)が上げられてゐますが、教会への破壊行為を敢行する彼らの野蛮と、やはり当時党員の粛清を始めたスターリンの野蛮とは、新たな文明のために払はなければならぬ犠牲といふ意味において何ら変るものでないと言及、まんまと挑発にかかって噛みついてきた、人民戦線を擁護する三者(林房雄・亀井勝一郎・三波利夫)を、犠牲者に寄り添ふ濃度によって色分けをし、斬り捨ててゐます。

 しかし保田與重郎が三者のなかで同情を寄せた林房雄が語った、犠牲物でなく犠牲者に心を寄せる「庶民の血」とは、言ってみればポピュリズムそのものではないでしょうか。さうして「何が文明で、何が野蛮か」「何が犠牲者で、何が侵略者か」の議論は、ポピュリズムにおいてどちら側にも横滑りしてゆく危険があることを、西村さんは「マルクス主義民族論(植民地解放闘争)の問題意識を共有していた」中野重治との意識の差異を通して明らかにしてくれました。中野重治と保田與重郎と、世代の異なる両者が意識するところの「植民地(犠牲者)」が、日本に対する朝鮮なのか、欧米に対するアジア諸国なのか、そこから発動される倫理は「他者(の立場)を想像せよ」と傲慢を弾ずることなのか「たやすく他者(の心)を想像するな」と軽佻を戒めることなのか。

 左翼思想が後退を余儀なくされたインテリゲンチャ世代の心情が、自他ともに対する厳しい自己責任論の上に立ち、当事者として「命がけの立場に立つか、さうでないか」「命がけの立場に立てば犠牲者が出ても仕方がないのか、そんな犠牲がでるようなものは正義でも何でもないのか」の決意表明や選択を次々に迫られていった時代下でのお話です。

 西村さんは最後に己の決意の純粋のみによりかかる保田與重郎のレトリックを、「決断の修辞学」「野蛮の倫理学」と呼び、時代によっては「極めて危険な言葉」となって飛び出すと心配してをられますが、──さて警鐘は時を隔て、現在の日本でも鳴らされる可能性があるものかどうか。

 現在の日本は、金権政治家とマスコミとが反目しつつも一致して掲げるグローバリズムへと巻き込まれてゆくやうにもみえます。このまま欧米と同様の格差社会・分断社会への途を進んでゆくのではないか、本当に不安ですが、もしも保田與重郎が再び現れ、イロニーを弄してタブーの告発を行ったとして、飽食文化と自虐史観に馴らされた国民が「炎上」し、目醒めることなどあるでしょうか。このたびはポピュリズムによって潰されてしまふのではないでしょうか。


『敗戦日本と浪曼派の態度』

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年3月20日(月)12時42分19秒
 

 同人雑誌『コギト』の事務的・経済的サポートを唯一人で負ってゐた発行者、肥下恒夫の初めての評伝『悲傷の追想』(2012.10ライトハウス開港社)が出たことには、本当に驚きましたが、その後、続篇といふべき『敗戦日本と浪曼派の態度』(2015.12同)が刊行されてゐたことを知り、先師田中克己の盟友であった肥下氏の数奇な生涯が、さらに詳しく明らかにされ、そして顕彰されてゐるのを目の当たりにしました。

 前著同様、引用されてゐる日記と原稿は、著者澤村修治氏のフィールドワークによって発掘された肥下家に遺されてゐた初公開資料であり、日記には保田與重郎や田中克己の名も頻出してゐます。
 喜びと、不思議な懐かしさも伴っての読後感を、遅まきながら澤村様にお便り申し上げたところ、折返しの御挨拶と、わがライフワーク(田中克己日記)に対する激励のお言葉を賜りました。そして、肥下氏の御遺族とは現在もやりとりが続いてゐること、またこのサイトの存在についてもお報せ頂いたとのことに恐縮しました。
 けだし肥下氏の「戦後日記」の内容は、当然ですが「田中克己日記」の記述と符合するものですし、戦前の「コギトメモ」の方は、恰度詩人が日記を書かなかった時期にあたり、文学史の中心に『コギト』があった時代の、貴重かつたいへん興味深い証言資料です。
おそるおそる澤村様を通じてお尋ねしたところ、二冊の著書に引用されている「肥下恒夫日記」の“田中克己の出て来る個所”について、「田中克己日記」に併記する形でネット上に転載してもよろしい、との許可を頂いて、御二方に感謝してページを更新、喜んでゐる次第です。

 当時の肥下恒夫、田中克己、保田與重郎(そして中島栄次郎・松下武夫・服部正己)らは、旧制高校らしい友情のむすびつきにおいて、今ではみることのできない、濃い文学上の同志関係を築いてゐました。
 なかでも一番の富裕で年長者でもあった肥下氏は、学業からも創作活動からも離れ、自分たちが興した雑誌『コギト』の編集・発行者として自ら黒子に徹することで“共同の営為”の舞台を支へ、保田與重郎と二人三脚で戦前文学史に於いてノブレスオブリージュを果たしたと呼ぶべき奇特な同人でした。その驕ることのない穏健な性格には、君子然の視線が感じられ、年少の庶民階級出身の田中克己を、才気煥発の直情詩人として終始大らかに見守ってくれてゐた様子は、例へば『大陸遠望』のゲラを読んでの感想(昭和15年9月8日)にも、

「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」(『敗戦日本と浪曼派の態度』154p)

と、偽らざるメモ書きのうちにも表れてゐます。
 ところが田中克己の方では、彼らの伯父叔母同士が夫婦であった遠戚の気安さも手伝って同級の肥下氏にはぞんざいなところがあり、敗戦間近の昭和19年4月9日には、『コギト』の存続問題に関して談判にいったものの意見が容れられず、癇癪をおこして一方的に絶交を突き付けてしまひます。

「15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。」(田中克己日記)

 もちろん肥下氏は絶交するつもりなどなかったのですが、二人はそのまま出征。生きて帰国した後も、近くに住みながら、会ひに来ない往かないといふ気まづい事情がしばらくわだかまってゐたやうです。
その肥下さんの、昭和22年4月16日の日記に記された「夢」の一件が面白い。

「今暁田中の夢を見る。保田の家に泊つて寐てゐると田中が来る。ベッドに腰を降して寐てゐる身体に手をかける。こちらは前から知つてゐるので少し笑ひたくなつたが眠つた振をしてゐると身をもたせかけて来るので目を開くと彼の顔が間近にあつた。福々とく肥えてゐた。抱き合つて横たはると二人は期せずして目から涙が流れ出て来た。」(『敗戦日本と浪曼派の態度』89p)

 復縁への期待が深層心理に働いてゐるのでしょうね。「コツ」と綽名された田中克己が夢の中で太って現れたのは、復員した保田與重郎に遭った時の驚きが投映されてゐるのかもしれません。事実、田中先生も別人のやうな頑丈な姿で家族を驚かせたさうですから。
 結局昭和22年になって田中克己が反省し、旧交は無事復活したのですが、農地解放で資産を失ひ、学業を中途放棄したため再就職もままならず、『コギト』の復活が自分の元ではできなくなってしまったことにより、戦後の肥下さんの周りからは文学的な交遊が消えてゆきます。
 帰農した肥下さんの立場がふさがる一方で、田中克己は出世街道を歩む旧友たちに伝手を求めながら、大学人としてなんとか「社会に順応」してゆきました。尤も縁戚である二人は他の友人等とは異なり、気の置けない間柄は両者の日記からも窺はれはするのですが、次第に二人が疎遠になっていったには、お互ひの生活に手一杯だったことに加へ、気心の知れすぎた気安さもこの際には仇となり、却って無関心で済ますことができたといふ事情もありはしなかったか、そんな思ひを日記を翻刻しながら肥下さんの名が現れるたびに私は感じてをりました。もし田中克己が上京せず、帝塚山もしくは関西の大学に残って居ればどうなってゐたでしょうか。

 引き続き一年一年の日記に解説を付すにあたっては、澤村氏と同じく、私も田中克己長女の依子さんと連絡をとり、断片的な記述を御遺族の記憶によっておぎなふことで、出来るかぎりの正確を期すべく心掛けてゐます。そんな日記も只今1959年までの公開を了へました。肥下さんの最期を伝ふるまであと3年。本日は山川京子様と日を同じくしての祥月命日です。
 御冥福をお祈りするとともに、ここに澤村修治様、肥下里子様に対し、厚く御礼を申し上げる次第です。ありがたうございました。

追而
澤村様からは別途、編集に携はる論壇誌『表現者71号』と御著『八木重吉のことば』もお送りいただきました。『表現者』には対談「今こそ問われるべき日本浪曼派の意味」が載せられ、一世代前の研究者たちがたどりついた共通認識を踏まへた論点が、再確認されながら総括されてゐます。『コギト』の意義について話して下さった澤村氏の発言が、日本浪曼派に対する関心を『コギト』の同人にまで拡げ、無償の営為に殉じた肥下恒夫の生涯に思ひを致してくれる人が一人でも増へてくれればと期待いたします。


『日本近代詩の成立』

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年2月6日(月)10時51分11秒

市立図書館の新刊コーナーに、職場の大学院にも出講される亀井俊介先生の『日本近代詩の成立』(南雲堂2016)をみつけました。アメリカ文学とその受容史に取り組んでこられた比較文学界の泰斗にして、このたびは日本の明治大正詩人を縦横に解釈されてゐます。近代詩に縁の深いフランス詩のみならず、漢詩にまで踏み込まれた内容に興味津津、早速借り出してきました。

600頁にものぼる内容の約半分が、80歳以降に脱稿された書き下ろしであることに先ず驚かされ、当ホームページの興味を惹く章から繙き、残りは半ば勉強のつもりで読んでゆきましたが、七五調の文語詩に疎い上、翻訳の機微に触れる考察等にも歯が立たず、果たして他の部分も理解できたかどうか怪しいところ。ですが目をつむって拙い紹介を試みてみます。

『日本近代詩の成立』といふ、たいへん大きなテーマのもとに各章が配置されてゐますが、浩瀚な分量かつ広範なジャンルにわたる文章は、執筆時期も半世紀にわたる著者のライフワーク集成であります。
序章に述べられてゐるやうに、そもそも岐阜県は東濃の田舎町から詩人を志されたといふ先生、若き日には日夏耿之介の大著『明治大正詩史』を読み、多大な感化を蒙られたと云ひます。そして学識と主観とを前面に打ち出した、あの佶屈聱牙な「入念芸術派」の論旨に対して信頼と敬意とを払ふ一方、切り捨てられた詩人たちについてはやはり納得ゆかない気持を持ち続けてこられたとのこと。ならば自らは「入念芸術派」でなく「シンプル自然派」の感性を以て、その補完を試みてみたいと謙遜の辞を述べ、過去に書かれた論文を集めて時代ごとに配し、足りない部分は書き下ろして、ここにやうやく完結をみた本であるといふことです。

なるほど島田謹二を介して日夏耿之介とは専門を同じくする孫弟子にあたる亀井先生ですが、『明治大正詩史』を「補完」するといふ趣旨に極めて忠実、忠実すぎるといふべきか、かの大冊において詳述されてゐる「浪曼運動」から「象徴詩潮」の条り、近代詩の立役者といふべき薄田泣菫・蒲原有明、北原白秋・三木露風、そしてトップスターの萩原朔太郎さへもすっぽり省略されてゐる目次を、まずはご覧ください。

『日本近代詩の成立』亀井俊介著2016.11南雲堂刊行 B6版574p ¥4,860

序 章 日本近代詩の展開 書き下ろし(平成27年2月脱稿)

第1章 『新体詩抄』の意義 書き下ろし(平成27年12月脱稿)

第2章 草創期の近代詩歌と「自由」 (昭和51年2月『文学』岩波書店)

第3章 『於母影』の活動 書き下ろし(平成25年11月脱稿)

第4章 北村透谷の詩業 (昭和50年4月『現代詩手帖』思潮社)

第5章 近代の漢詩人、中野逍遥を読む (平成25年10月『こころ』平凡社)

第6章 『若菜集』の浪漫主義 (昭和32年2月『比較文学研究』東大比較文学會)

第7章 内村鑑三訳詩集『愛吟』 (昭和57年1月『文学』岩波書店)

第8章 正岡子規の詩歌革新 書き下ろし(平成25年7月脱稿)

第9章 ヨネ・ノグチの英詩 (昭和48年10月『講座比較文学5』東京大学出版会)

第10章 「あやめ会」の詩人たち (昭和40年8月『英語青年』研究社)

第11章 『海潮音』の「清新」の風 書き下ろし(平成26年5月脱稿)

第12章 『珊瑚集』の官能と憂愁 (平成15年3月『知の新世界』南雲堂)

第13章 「異端」詩人岩野泡鳴 (昭和48年7月『講座比較文学2』東京大学出版会)

第14章 昭和の小ホイットマンたち (昭和44年11月『東洋の詩・西洋の詩』朝日出版社)

第15章 『月下の一群』の世界 書き下ろし(平成26年7月脱稿)

第16章 安西冬衛の「春」 (昭和52年11月『文章の解釈』東京大学出版会)

参考文献 初出一覧 あとがき

もちろん近代詩の歴史は、謂はば西欧詩摂取の歴史でもありますから、著者の専門とする「訳詩」の考察には重きが置かれてゐます。『於母影(明治22年)』、『海潮音(明治38年)』、『珊瑚集(大正2年)』、『月下の一群(大正14年)』とエポックメイキングな訳詩集の4冊が、詩壇へ及ぼした影響もふくめ、詳しく論じられてをりますが、しかし何といっても気になるのは、その影響下に名を連ねるべき明治大正詩人の重鎮たちが、批判対象としても俎上に上ってゐないことではないでしょうか。
一方それとは反対に、北村透谷や内村鑑三、野口米次郎、岩野泡鳴といった、明治以降日本に持ち込まれた“自由”の問題と何らかの意味で格闘して、敗れた感じのある人々ばかりが論はれてゐます。
(先生と同郷の島崎藤村が芸術派で唯一、章を立てられてゐますが昭和32年の旧稿。また変ったところでは、漢詩ゆゑ一般には敬遠されてゐる中野逍遥にも一章を割き、畑違ひにも拘らず、日夏耿之介も認めた「新体詩以上の詩的エフェクト」が論じられてゐます。)

そして読みつつ気づいていったのは、『明治大正詩史』から発せられた無視や批判を「まったく逆転させてはじめて正鵠を射る(435p)」やうな、「品位なるものに支配されない」表現力にあふれた詩集を中心に拾ひあげてゐることであり、「日本近代詩史は、一般に主流的考え方を正統としてうけいれてしまっているので、こういう詩集を無視してきたが、これを検討し直し、再評価することは、近代詩史そのものの内容をどんなにか豊かにすることになるのではなかろうか。(263p)」と、全体を通して各所に説かれてゐる点でありました。ことにも、

「詩人の骨法を持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を欠いてゐるやうであったが、その点が却って我々の心に食ひ入る」(230p)
「これは失敗訳であろう。ただその失敗によって、内村鑑三の思考の在り方は鮮明になっている。」(247p)
「結果だけとらえて批判することは、何の役にも立たぬ。」(418p)
「非「詩的」な表現(=あけすけな「自己」の告白427p)のほうになんと胸に迫るものがあることか。」(425p)
「やがて日本近代史の背骨となるべき現実主義的精神と詩法をもっともよくつかみ、もっとも大胆に実行してゐた詩人」(433p)

と、内村鑑三の訳詩集『愛吟(明治30年)』、岩野泡鳴の口語詩集『恋のしやりかうべ(大正4年)』に対しては、惜しみない言辞が贈られてゐます。

つまりは日本の“近代詩の詩史”における“詩”が、これまで「芸術性」に偏って評価されてきた弊害を匡し、あらたに「現実性」を基にした“近代日本の詩史”を論じようとしたところに本書の眼目があります。「抒情詩」の歴史ではなく「思想詩」の歴史といってもいい。

斯様な詩史を私は読んだことがありませんでした。といふのはそれが、左翼リアリズム史観から放たれる、芸術派への軽侮否定を伴った批判とも異なってゐたからです。さう、これはあくまでも『明治大正詩史』の「補完」。当時の詩壇を決して否定するものではなく、その点では確かに、詩史本流が影響を蒙った訳詩を比較文学者の視点から考察を加へることにより、その歴史性を明らかにしようとしてゐるのです。むしろ詩史の傍流として消えていった詩人たちに対しては、軽侮の念で眺めるのではなく、「思想詩」を開花させられなかった弱さと同時に、可能性を抱へたまま取り残された時代の必然性の問題として保留し、彼らの営為に対しては寄り添ふ姿勢が感じられます。

これは著者が詩文学を評価する規範として掲げた“自由”の概念が、プロレタリア文学の叫ぶ政治的“自由”よりも大きな、ホイットマンが掲げたやうな、全人的な“自由”であったことに由来してゐるのだらうと思ひます。
(本書では訳詩者としての有島武郎や富田碎花も萩原朔太郎同様にスルーされてゐますが、ホイットマンの受容史については、別に『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970研究社出版)といふ、若き日の著者が心魂を傾けて成った一冊があり、そちらを読んでほしいといふことになりましょう。)

書き起こしこそ、どの通史でも嚆矢に挙げる『新体詩鈔』から論じられてゐるものの、ホイットマンを持ち得たアメリカとは異なる近代日本における“自由”をめぐる問題を、「近代詩」が取り組むべきだったなまなましい歴史的課題として据ゑ、表現が担った意義や切実さによって、論じられる(再評価される)詩人が選ばれていったのではないでしょうか。
この基準は、通常の詩史では問題にもされない、自由民権運動と呼応しつつ消えていった新体詩草創期の歌謡詩人たちの動向や、ホイットマン熱が冷めていった昭和初期の詩壇激変期に、自然に返る生活を固守し続けた「小ホイットマン」たちの動向を紹介する条りにおいて、彼らが無名に終ってゐるだけに一層強く感じられるところとなってゐるやうです。

ですから本書の『日本近代詩の成立』といふタイトルが、内容を示すに果たして適切な命名だったのかどうかは、正直なところ意見が分かれるのではないでしょうか。『日本近代思想詩の可能性』とでもいふ題名だったら、とさへ思へる著者の強い反骨の気構へが私には感じられました。

このホームページに関するところで申し上げると、日夏耿之介が勝手に癇癪を起こして絶交した堀口大学のために、一章が新たに書き下ろされ、これまた専門外のフランス文学にも拘らず、訳詩集『月下の一群』が俎上に上されてをります。
著者は堀口大学について、名前こそ「大学」といふものの、官立大学とは縁もゆかりもなく、長きにわたる海外生活のなかで「自由人」として「筆のすさび」の訳業を愉しみながら取り組んだ『月下の一群』の成立事情のことをとりあげてゐる訳ですが、これとて「ほとんどの文章がエロチシズムとウイチシスムを強調している。私もこれに同感だ」と従来の評価をなぞりつつも、世界大戦と対峙したヨーロッパモダニズムが背負った問題意識を翻訳上に表現することを、彼は決して忘れた訳ではなかったと指摘。堀口大学を「いろんな批評でいわれるよりはるかに広い詩的世界を包み込み、精神的なたかまりをもっている」詩人であったと評してゐます。次世代のモダニズム詩派のウィットや、四季派の主知的抒情の揺籃としての役割にとどまらぬ、その訳業から継承されずに終った精神面を強調する切り口が提示されてゐる訳であります。

最後には安西冬衛の短詩「春」一篇をもってモダニズムが論じられ、現代詩への移り変りへの感想が示されてゐますが、こと現代詩については、少年時に『詩の話』といふ啓蒙書で世界を啓いてくれた北川冬彦についても、恩は恩として「北川冬彦は日本における現代詩の興行師的なところがあり、自分たちの詩的実験をいつも「運動」に仕立てた。(527p)」となかなかに手厳しい。日夏詩観だけでなく、戦後史観に沿ったおざなりの詩史を書くつもりも無いことが、あらためて伝はってきて私は嬉しくなりました。

巻末に添へられた「参考文献」も、書名をただ列記するでなく、各文献の特徴を一言で評しながら、ものによってはその装釘にさへ言及する独特の手引きとなってゐます。ことにもこれまで数多く発表されてきた詩史についての、「私は個人による詩史に積極的な関心をそそられる。532p」と断った上で記された、感想の数々が興味深いです。さうしてこの参考文献に自著を挙げられた章、そして参考文献がないと述べられてゐる章などは、著者の創見が打ち出された一番の読みどころかもしれないと思ったことです。

ふたたび申しますが、タイトルと本冊の厚みによってこの本を、東京大学名誉教授のオーソリティーが教科書的・辞書的なテキストとしてまとめ上げたもの、などと判断するのは早計、かつもったいないことに思はれ、是非手に取って中身を御覧いただきたく、ここに紹介・宣伝をいたします。


『コギト』79号「松下武雄追悼号」

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年2月5日(日)16時55分32秒

旧制大阪高等学校関係者の御遺族より、『コギト』のバックナンバー47冊の御寄贈に与りました。
ついては頂いた雑誌をまじへて『コギト』総目録の書影を更新しましたのでお知らせします。毎年表紙のデザインは変ってゐますが、昭和19年、雑誌統合に抗してたった8pで出し続けた最後期の「甲申版」には表紙がなく、後継誌『果樹園』の装釘がこれをなぞってゐることがわかります。

また『コギト』の『コギト』らしさ、旧制高校の友情が芬々と感じられる一冊といへる79松下武雄追悼号画像にてupしましたので合せてご覧ください。
恩師・学友が居ならぶ、当時の“共同の営為”を一覧するやうな目次ですが、なかに立原道造が客人として上席に、伊東静雄は年長の同人ですが此度は親友等より後方に遇せられてゐる配置が興味深いです。

毎日のアクセスが10件に満たぬやうなサイトを、いったいどなたが御覧になって下さってゐるのか、いつも心許ない気持で更新をつづけてゐますが、開設者冥利に尽きるこのたびの御厚情に対し、ここにても篤く御礼を申し上げます。

ありがたうございました。



謹賀新年

投稿者:中嶋康博投稿日:2017年1月3日(火)20時05分27秒

あけましておめでたうございます。

酉年ださうですが、今年は明治時代の大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌』の編集長であった戸田葆逸(1851嘉永4年〜1908明治41年)の自筆日記を入手したので、その翻刻と紹介を試みたいと思ってゐます。

「鷃笑(あんしょう)」とは荘子の故事で、鵬(おおとり)の気概など感知しない斥鷃(せきあん)といふ小鳥が嗤笑するとの謂であり、雑誌のタイトルが示すところは、葆逸の祖父、大垣藩家老だった小原鉄心の鴻図を仰ぎ、同時に、また彼が身上としてゐた低徊趣味に倣って、旧詩社の名を継いで新しい雑誌の名に掲げた、といふことでしょうか。
毎号、同人の作品の他、小野湖山や岡本黄石など幕末を生き残った著名詩人からの寄稿も受け、十丁ほどの小冊ながら、一地方都市からよくも斯様な雑誌が毎月欠かさず発行されたものと感嘆します。こちらの雑誌も稀覯ながら1〜11巻までの合冊を幸運にも入手してゐました。或ひはそのことがあったので、編集長の日記を天が差配して私に入手させたのかもしれません。

さてこの日記が書き継がれた明治14年3月24日から15年12月18日までといふ期間が、恰度この『鷃笑新誌』の創刊(14年9月)を挟んでゐて、読んでゆくと単なる覚書ではなく、地方の漢詩サロンの中心にゐた彼をめぐって、同好の士との交歓の様子がつぶさに、ありのままに記録されてゐることがわかるのです。
なかでも興味深かったのは、明治の初期に「雑誌」を印刷するために使用した活版機械や活字について記されてゐること。そして当時の漢詩壇において賓客として遇せられてゐた中国人、つまり鎖国が解かれた日本に清国からはるばるやってきた「本場の漢詩人」との交流が詳しく写し取られてゐることでした。

日記にさきがけて、雑誌『鷃笑新誌』の方はすでに公開してゐます。このたび目次を付しました。また日記も翻刻発表と同時に原冊の画像を公開しますので(3月予定)、研究者には自由に活用していただきたく、御教示をまって補遺・訂正に備へたいと考へてをります。しばらくおまちください。

今年もよろしくお願ひを申し上げます。





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