も どる

2013年 日録 掲示板 過去ログ


よいお年を。

 投稿者:やす  投稿日:2013年12月31日(火)00時28分3秒
  年末に舟山逸子様よ り同人詩誌「季」98号(2013.12関西四季の会)をお送り頂きました。
精神的支柱だった杉山平一先生の死を乗り越へて、一年ぶりの再始動。お祝ひの意をこめて、私も一篇、寄せさせて頂きましたが、
今年刊行した拙詩集への収録を見送った十年前の未定稿に手を入れたもの。詩想が涸渇したこ の間をふり返り・・・いろいろの思 ひがよぎりました。
ここにても御礼を申し上げますとともに、同人皆様の更なる御健筆をお祈り申し上げます。これまでの御鞭撻ありがたうございました。

その「季」に発表してきた大昔の作品を中心に、集成にしてはあまりにも薄すぎる詩集でしたが、只今以て反応はとぼしく、
今年は「風立ちぬ」なんて映画も公開されましたが、抒情詩が相変らず現代詩人の評価ネットワークの埒外にある酷しい現実だけは、しっかり見せつけられた気 がいたします。
書評を書いて下さった冨永覚梁先生、最後の戦前四季派詩人である山崎剛太郎先生からのお手紙は忘れられません。ありがたうございました。



さて今年の主な書籍収穫。

寄贈頂いた本から
清水(城越)健次郎 詩文集 『麦笛』昭和51年
『クラブント詩集』(板倉鞆音訳)平成21年
山崎剛太郎 詩集 『薔薇の柩』平成25年
斎藤拙堂 評伝 『東の艮齋 西の拙堂』平成25年
井上多喜三郎 詩集 『多喜さん詩集』平成25年
成島柳北 漢詩 EPUB出版『新柳情譜』平成25年
茅野蕭々 詩集 EPUB出版『茅野蕭々詩集』平成25年など

いただきものから
館高重 詩集 『感情原形質』昭和2年
『詩之家年刊詩集1932』昭和7年
雑誌「詩魔」5,9,10,34
雑誌「木いちご」昭和4年
明田彌三夫 詩集 『足跡』昭和4年
城越健次郎 詩集 『失ひし笛』昭和13年などなど

購入書から
平岡潤 詩集 『茉莉花』 昭和17年
河野進 詩集 『十字架を建てる』昭和13年
牧田益男 詩集 『さわらびの歌』昭和22年
北條霞亭『霞亭渉筆 薇山三觀』文化13年など

嬉しかったのは、三重県桑名の詩人平岡潤の詩集で戦前の中原中也賞を受賞した限定120部の『茉莉花』や
「季」の先輩でもあった清水(城越)健次郎氏の詩集、岐阜での詩作をまとめた夭折詩人館高重の詩集『感情原形質』など。
ありがたうございました。


今年はまた実生活でも新しく出発を始めた記念すべき年でした。
記憶力の減退に悩むやうになりましたが、新しいことを始めなくては、と思ってゐます。

来年もよろしくお願ひを申し上げます。
皆様よいお年を。

保田與重郎ノート2 (機関誌『イミタチオ』55号)

 投稿者:やす  投稿日:2013年12月28日(土)22時06分38秒
編集済
   金沢星稜高等学校 の米村元紀様より、所属する文芸研究会の機関誌『イミタチオ』55号(2013.12金沢近代文芸研究会)をお送り頂きました。同氏執筆に係る論考「保田 與重郎ノート2」(11-50p)を収めます。

 対象を保田與重郎の青年期に絞り、これまでの、大和の名家出身たるカリスマ的な存在に言及する解釈の数々を紹介しながら、最後にそれらを一蹴した渡辺和 靖氏による実証的な新解釈、いな、糺弾書といふべき『保田與重郎研究』(2004ぺりかん社)のなかで開陳されてゐる、保田與重郎の文業に対する根底から の批判に就いて、その実証部分を検証しながら、それで総括し去れるものだらうか、との疑問も提示されてゐる論文です。

 渡辺和靖氏による保田與重郎批判とは、反動への傾斜を詰る左翼的論調がもはやイデオロギー的に無効になりつつある今日の現状を見越し、この日本浪曼派の 象徴的存在に対しては、反動のレッテルを貼るより、むしろ戦時中の青年達を熱狂させた彼の文業のライトモチーフそのものが、文学出発時の模倣からつひに脱 することがなかった、つまり先行論文からの剽窃を綴れ合はせた作文にすぎなかったのだと、一々例証を挙げて断罪したことにあります。彼の文体にみられる華 麗な韜晦も、さすれば倫理的な韜晦として貶められ、文人としての姿勢そのものを憐れんだ渡辺氏はその上で、日本浪曼派もプロレタリア文学やモダニズム文学 と同じく1930年代の時代相における虚妄を抱へた、思想史的には遺物として総括が可能な文学運動として、止めを刺されたのであります。

 私などは、「論文らしい形式を嫌ひ」「先行思想家の影響に口をつぐんで」大胆な立論を言挙げしてゆく壮年期の独特の文体には、ドイツロマン派の末裔であ る貴族的 な文明批評家シュペングラーにも似た鬱勃たる保守系反骨漢の魅力を感じ、参考文献を数へたてることなくして完成することはない大学教授の飯の種と同列に論 ずるこ ととは別次元の話ではないだらうか、などと思ってしまふところがあるのですが、実証を盾にしつつ実は成心を蔵した渡辺氏の批判に対して、米村氏も何かしら 割り切れないものを感じてをられるやうで、批判対象となった初期論文と周辺文献とをもっと精緻に読み込んでゆくことで、さらなる高みからこの最後の文人の 出自を救ひ出すことはできないか、斯様に考へてをられる節も窺はれます。米村氏の帰納的態度には渡辺氏同様、いな先行者以上の探索結果が求められるのは言 ふまでもないことながら、同時に渡辺氏の文章にはない誠実さを感じました。

 後年の文章に比して韜晦度は少ないとはいへ、マルクスなり和辻哲郎なり影響を受けたと思しき文献を見据ゑながら、客気溢れる天才青年の文章を読み解いて ゆくのは並大抵の作業ではありません。ところどころに要約が用意されてゐるので、私のやうな読者でも形の上では読み通してはみたのですが、新たな視点に斬 り 込むために提示された「社会的意識形態」などの概念は、社会科学に疎い身には正直のところなかなか消化できるところではありませんでした。
 しかし誠実さを感じたと申し上げるのは、生涯を通じて保田與重郎がもっとも重んじた文学する際の基本的な信条(と私が把握してゐる)、ヒューマニズムを 動機において良しとする態度と、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度と、この二点について米村氏が同感をもって論証をすす めてをられる気がするからであり、その上で、恣意的な暴露資料としても利用され得る新出文献の採用態度に、読者も自然と頷かれるだらうと感じたからであり ます。

 けだし戦後文壇による抹殺期・黙殺期を経て、最初に再評価が行はれた際の保田與重郎に対するアプローチといふのは、「若き日の左翼体験の挫折」を謂はば 公理に据ゑ、捉へ難い執筆モチベーションを政治的側面から演繹的に総括しようとするものでした。米村氏は「日本浪曼派(保田與重郎)と人民文庫(プロレタ リア文学)とは転向のふたつのあらはれである」と述懐した高見順を始めとするかうした二者の同根論に対しては慎重に疑問を呈してをられます。
 管見では、ヒューマニズムを動機においてみる態度に於いて同根であっても、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度に於いて 両者(保田與重郎とプロレタリア文学者)は決定的に異なる。その起因するところが世代的なものなのか、郷土的なものなのか、おそらく両者相俟ってといふこ となのかもしれませんが、米村氏の論考も今後さらに続けられるものと思はれ、機会と読解力があれば行方をお見守りしたく存じます。

 とまれ今回の御論文に資料として採用された、先師田中克己の遺した青春日記ノート『夜光雲』欄外への書付や、「コギト」を全的に支へた盟友肥下恒夫氏に 宛てた書簡集など、保田與重郎
青年が楽屋内だけでみせ た無防備の表情が学術論文に反映されたのは初めてのことではないでせうか。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 


『天皇御崩日 記』

 投稿者:やす  投稿日:2013年12月 2日(月)11時51分38秒
   大分県宇佐市在住 の宮本熊三様より、以前紹介した『天皇御崩日記』という折本について、その作者「岩坂大神健平」についてメー ルから御教示を賜りました。(建平、連、村路、左衛士とも;なお「大神」姓は、宇佐宮祠官の名門である大神氏の子孫であることをしめす)

 また『国立歴史民俗博物館研究報告』第122,128,146,159集に『平田国学の再検討』の表題のもと、岩坂建平のことが出てゐるとのこと。以下 の二点について合せて御教示を得ました。

 岩坂建平は、嘉永七年(1854)正月十九日、三十歳の時に平田門に入門。逆算すると1825年(文政八年)生。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 1 / 5を見る 23コマ

 そして入門から四年後の安政五年(1858)に、彼は同じ宇佐宮祠官の国学者で後に明治の大蔵官僚となった奥並継(1824 - 1894)や、おなじく国学者で明治の外交官・実業家・ 政治家となった島原藩士の丸山作楽(さくら1840 - 1899)の入門紹介者となってゐる由。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 2 / 5を見る 4コマ

 丸山作楽は島原藩士でしたが、島原藩の飛地領が宇佐郡にあり、宇佐神宮が実質島原藩の管理下にあったこと。そのため当時荒廃した宇佐宮を、島原藩・中津 藩・幕府の三者で修復・再建することを、彼等は江戸に留まり何年もかけて幕府に請願し続けてゐた模様です。

 宇佐神宮が神仏習合の歴史に深く関わってゐるといふことや、また忌日の考へは仏教に起源があって神道ではあまり重要視されてゐなかったことなど、初耳に 属することでしたが、しかしこの折本の作り様からして「日々の勤行に使用するため」だけに刷られた印刷物のやうにも思はれてなりません。それほど宇佐とい ふ土地柄においては神仏習合が身近であり、一般庶民に対する尊王広報活動も、安政当初はかうした次元から始められてゐたのだ、といふことでありませうか。 謎は尽きません。

 御教示ありがたうございました。
 

『新柳情譜』

 投稿者:やす  投稿日:2013年11月14日(木)07時57分20秒
   西岡勝彦様より EPUB出版有料版の第二弾、成島柳北による新橋・柳橋の芸妓列伝『新柳情 譜』をお送り頂きました。ここにても御礼申し上げます。書き下し文に懇切な注記が付された内容の詳細についてはサイト解説をご覧ください。

 これから残った人生をいそしんでゆきたい日本の漢詩文ですが、明治のものだからといって、また書き下し文にされたからといってすらすら理解できるかとい へば、そんなことは全くなく、これは暫く口語詩の世界に戻ってゐた私の目を覚まさせるに充分のプレゼントでありました。森銑三翁をして「明治年間を通じて の名著」と云はしめた未単行本の雑誌連載記事なのですが、翁が評価されたのは、花柳世界の実地実体験をつぶさに報告してゐる面白さに加へて、各章に一々 茶々を入れてゐる“評者”秋風同人も語るらく、やはり「時勢一変、官を捨てて顧みず放浪自ら娯しむ。而して裁抑すべからざるの気あり。時に筆端に見る。」 ところに存するもののやうにも思はれます。

 「地獄」といひ「一諾一金」といひ、あからさまな藝妓の呼名もあったものだと呆れたことですが、とまれ藝妓各人に対する解説文言・賛詩・評辞と、菲才か つ野暮天の私には落とし所の可笑しさが分からない段が多くて情けない限りです。何難しさうなもの読んでるんですか、とタブレットを覗かれて、にやにや顔を 返すことができるくらいにはなりたいものです。

 ありがたうございました。
新柳情譜』西岡勝彦編 全265p 電子出版 晩霞舎刊

ご感想ならびに受領連絡の御礼

 投稿者:やす  投稿日:2013年10月17日(木)12時32分46秒
   このたびの拙詩集 刊行につきましては、少ないながら寄贈者の皆様からのまことに手厚い激励のお言葉を賜りました。旧き友人知己のありがたさをあらためてかみしめてをりま す。

 なかでもむかし詩集を刊行した当時には消息さへ知らずにをり、今回初めてお手紙でその不明を詫びて御挨拶させていただきました山崎剛太郎様 より、新刊詩集『薔薇の柩』とともに長文のお手紙を、きびしい視力をおして認めて頂きましたことには、感謝の言葉もございません。小山正孝の親友、『薔薇 物語』の作者として晩年の立原道造が計画した雑誌『午前』構想のひとりに員へられた方であり、敗戦前後にはマチネポエティクの人々の盟友として、四季派詩 人としての青春期を過ごされた、いまや当時を知る唯一の生き証人の先生であられます。

 また受領のしるしに詩誌「gui」「柵」「ガーネット」の各最新号をお送りいただきましたことにつきましても、あつく御礼申し上げます。
ありがたうございました。

モダニズム詩人荘原照子 聞書最終回「猫の骸に添い寝して」

 投稿者:やす  投稿日:2013年10月13日(日)22時54分22秒
編集済
  手皮小四郎様より 『菱』183号を拝受いたしました。毎号楽しみにしてをりましたモダニズム詩人荘原照子の聞書が、6年間(23回)にも及ぶ連載を経てこのたび完結を迎へ ました。感慨も深くここにても御礼かたがたお慶びを申し上げます。ありがたうございました。

「一体に身辺に血のつながる身寄りをもたないも老女が、それも異郷の地にあって老いさらばえて死んでゆくというのはどういうことであろうか。」


今回は文学上の記述はありません。役所の手続き等、手皮様が私生活のサポートまでされた当時82歳の詩人の落魄したさまの報告が興味ふかく、表題の「猫の むくろに添い寝して」ゐたなどは無頓着に過ぎますが、しかしその平成三年から四年にかけて聞書きをされた手皮様の当時の記憶そのものが、テープの内容とは 別に、謎の多い詩人の年譜の最終ページにも当たるわけです。けだしこれまでの聞書きの内容にしても、そのままが資料として威力を発揮することは少なくて、 インタビューされた場が再現されるなかで、手皮様による批判的なフォローを俟ってはじめて、その肉声の意味が明らかになってくる態のものでありました。当 時の手皮様の記憶こそは、聞書きに直結する終端地点であり、正確な伝記の一部に自分も参加してゐる貴重な体験記でありませう。

その場では当然話題になったに違ひない、子供など縁者の消息をはじめとして、手皮様が文中では口ごもられたことや、日常生活で萌し始めた認知症のことな ど、身寄りがなく、また世間体を気にしない詩人らしさのために、あっけないほど無防備に手皮様の手に落ちていった彼女のプライバシーについては、却って手 皮様の側で面くらふ仕儀となり、その結果、生活弱者としての老詩人をほって置けない羽目にも陥ってしまひます。次第に文学上の興味を逸脱して、厄介にも思 はれていったらうことも自然に拝察されるのです。かつての閨秀詩人の知的な気位の高さは今や老女の偏屈さに堕し、苛立ちさへ催させるものとなってゐる ――。しかし聞書きを終へた後に詩人との関係を裁ったこと、そのときはそれでよかったと思はれたことが、時を経ての自問自答、つまりこれまでは何がなし気 位の強いこの先輩詩人を客観的に突き放して書いてこられた手皮様が、最後になって自分がなすべきだったことについて吐露された一節――これは全体の眼目と なりますのでここでは抄出しません。一切感傷を雑へないがゆゑに却って突き刺さる告白が応へました。

昭和初期モダニズム詩といふ、ある意味「非人情」「スタイリッシュ」の極みといふべき、個性偏重の詩思潮を体現したといってよい、謎多き女詩人荘原照子。 その晩年に偶然接触を持たれ、聞き書きを得た手皮様でしたが、放置されたテープの存在が、年月と共に心の中で大きくなってゆき、その意味をはっきりさせ決 着をつけるために始められた連載でありました。もちろんそのまま報告しても面白いに決まってますが、手皮様は生身の詩人の息遣ひに対するに実証的なフィー ルドワークでもって脇を固め、その結果、日本の近代史に翻弄された一人の女性の生きざまを剔抉し、モダニズムや詩史に興味のない人の通読にも耐へる読み物 に仕上げられることに成功しました。それは単なる伝記といふより、忘れられんとする過去の詩人の生涯の端っこに、報告者の存在意義をも位置づけて自分ごと 引っ張りあげる作業ではなかったでせうか。謎の多い彼女の生涯を追って結末が慟哭に終ったこと、私には気高くもいじらしい詩人に対する何よりの供養に思は れてならなかったのであります。

おそらく予定されてゐる単行本化にあたっては、連載中の6年間に新たに明らかにされた事実も反映されませう。なにとぞ満願の成就されますことをお祈りする とともに、ひとこと御紹介させて頂きます。



また西村将洋様より田中克己先生の未見の文献(昭和19年11月『呉楚春秋』)につきまして、コピーを添へて御教示を賜りました。外地で編集 されたやうな雑誌には、今でも知られないままの文献もまだまだあるのでせう。
ほか山川京子様より「桃だより」14号を拝受。あはせて深謝申し上げます。
ありがたうございました。

とりいそぎの報知まで

 投稿者:やす  投稿日:2013年 8月29日(木)00時03分32秒
編集済
  本日8/28中日新 聞13面、詩人冨永覚梁氏の連載欄[中部の文芸]において拙詩集が御紹介に与りました。予告なき突然の記事、もちろんマスコミ上で斯様な扱ひを受けること も初めてのことにて吃驚してをります。ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

【追記】拙詩集を読むことのできる(予定の)図書館は以下の通り(2013.9.10現在)。


岐阜県図書館
岐阜市立図書館
関市立図書館
恵那市中央図書館
大垣市立図書館
各務原市立中央図書館
飛騨市図書館
美濃加茂市中央図書館

国立国会図書館

札幌市中央図書館
山形県立図書館
栃木県立図書館
都立中央図書館
富山県立図書館
県立長野図書館
愛知県図書館
三重県立図書館
神戸市立図書館
滋賀県立図書館
岡山県立図書館
徳島県立図書館
福岡県立図書館
鹿児島県立図書館
沖縄県立図書館

県立と市町村立との所蔵分野の住み分けが進むなか、
受入れの意向を頂いた他府県の基幹図書館には感謝の極みです。
篤く御礼を申し上げます。

『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編

 投稿者:やす   投稿日:2013年 8月18日(日)01時25分37秒
 

『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編 全434p 電子出版 晩霞舎刊

 開設草創時から拙ないサイトを見守って下さってゐる西岡勝彦様(「従吾所好」管理人) よりは、これも戦前の翻訳文学者による変り種の新刊本を御寄贈いただきました。『リルケ詩抄』(1927)の訳者として有名なドイツ文学者である茅野蕭々 (1883-1946)の、これは訳詩集ではなく其のひと本人の詩集で、変り種と申しましたのは、なんとe-Bookであるからです。抑も、紙・電子を通 してこのたびが初めての集成となるわけですが、分量400ページにも垂んとする作品の探索を、初出底本の一覧年譜とともに地道にまとめ上げられた努力にま ず脱帽、言葉がありません。「明星」「スバル」に籍を置いて出発した作品は、もちろん大半が文語詩なのですが、今日このやうな内容を商業出版に乗せること は、確かにむつかしいことでありませう。電子出版に上した意義と可能性についてサイト上に刊行メモが記されてありました。

 わが任に余る文語詩の感想・評価は避けますが、巻末には編集作業を通じてみえてきた作風の変化や特徴を、当時の状況と、それから作品に即して、西岡様が 概括を試みた覚書ノート「蕭々私記」が付せられてゐます。これまた初めての詩人論となりませうが、浩瀚な本書をひもとく際の、初学者にはまことに懇切なガ イドになってをります。

 さて私にとって茅野蕭々といへば、詩人津村信夫の庇護者としての側面、つまり『北信濃の歌』のなかで紹介された、津村信夫の婚約者昌子さんのために世話 を焼く養家夫妻としてのエピソードに親しんでをりますが、やはり一般には前述した『リルケ詩抄』、あの天地を少し落とした私好みの究極の版型(笑)の、豪 華な革背本一冊の印象につきるやうです。透かし入りの洋紙に余白を充分にとり、十全の吟味を経て選ばれた一語一語の活字が、やや間をとって布置されたレイ アウト。それは歴史的仮名遣ひとともに、思索的で、沈潜する詩境を強調するに適した印刷効果を発揮して、内容の解釈に先立ち、何がなしリルケの四季派的な 受容が、高雅な装釘と相俟って嚮導された、さう呼んでも大げさではないやうな気がするわけです。新しい抒情詩人たちに与へた影響は、同じく押し出し満点の 第一書房版の豪華本であった、堀口大学の『月下の一群』(1925)や『フランシスジャム詩抄』(1928)に劣るものではなかったでせう。訳詩の妙諦は 詩心を写すことを最優先に心得てゐたに違ひない彼の訳業によって、リルケの受容史がどのやうに偏ったと か、そんなことはどうでもよく、覚書の冒頭、西岡様 もこの 詩人に興味を持つ発端となった口語詩「秋の一日」について、ゲオルゲの訳詩との関係から説き起こされてゐますが、季節の移り変りを人心になぞらへて思索す る流儀など、また尾崎喜八の語り口にも親近するものを感じさせます。・・・などと三流詩人によるハッタリ紹介はこれ位にします(汗)。

 しかし学者詩人の詩人たる前身の風貌を辿ったこのたびの一冊の俯瞰を通じて、西岡様がされた次のやうな指摘、

「しかし、泣菫と違い蕭々は詩作をやめなかった。一時代を築いた有明・泣菫と違い、蕭々はまだ 何事も成していないのだから、簡単に野心を捨てることはできなかったろう。」

「蕭々の詩作への意欲は未完に終わった。とはいえ、残された詩業を通観すると、文語定型詩から文語自由詩、そして口語自由詩へと、日本の近代詩とともに変 転してきた二十年の詩歴に未完の印象はない。」


 かうした、詩人の位置をざっくり捉へて最初に語り得た意義は大きく、真の愛読者にしかできないことを大書したいです。『クラブント詩集』は刊行物で はないため図書館でも閲覧不可ですが、同じく図書館には所蔵のないものの、こちらは手軽に読むことができます。以上、ここにても御礼かたがた御紹介させて いただきます。ありがたうございました。


『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳

 投稿者:やす  投稿日:2013年 8月17日(土)23時41分16秒
   残暑お見舞申し上 げます。

 お盆も終はり、まだまだ秋の気配には遠いですが、拙詩集に対し皆様から頂いた温かい御言葉を読み返し、また合せて御返礼にお送り頂いた編著書・刊行物の 数々をゆるゆる拝読してをります。

『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳 全141p 21cm和綴

 和紙二色刷りの、まことに瀟洒な装釘の和本仕立ての詩集をお送り頂きました。なぜか刊記(奥付)がありません。なのでどこの図書館にも所蔵はありませ ん。せめて制作メモのやうなものでも巻末に付されるとよかったのですが、おそらく刊行時のものと思はれるレポートがありましたので参照ください(daily-sumus2009/12/08)。 御寄贈頂きました制作者の津田京一郎様には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 クラブント(Klabund :1890-1928)はドイツの詩人ですが、これも板倉鞆音氏の訳で有名なリンゲルナッツ(1883‐1934)と同様、第一次大戦後の混乱期、批判精 神とペーソスたっぷりの青春を謳歌し、ナチスによって“退廃芸術”が一掃される前に、さっさとこの世から退場してしまった無頼派の詩人のやうです。生前す でに鴎外の『紗羅の木』(1915)に訳出されてをり、このブログでも紹介した『布野謙爾遺稿集』でも度々の言及のある、戦前の詩人たちにとっては同時代 の最先端海外詩人の一人だったことがわかります。

 内容が5つの“圏”に分かたれてゐるのは原書に倣ったもののやうですが、ところどころ「落丁」があるのは遺された原稿のままを写してゐるからでありませ う、訳者板倉鞆音氏に対する謹飭な私淑態度が示されてゐます。むしろこれを以て定本原稿と認めて欲しくない、といふ制作者のメッセージを読み取るべきか も。だからこそ、これだけ立派な内容をも「刊行物」とはならぬやう、奥付を廃した「複製」の体裁にしたのでありませう。さても何冊つくられたのか、これを “簡易製本”と称せらるゆかしき事情を慮っては、寄贈に与り胸がいっぱいになってしまった一冊。私は純愛を盛った第3の圏が好きです。


  さあ お前の手を

さあ お前の手をおだし
春が牧場に燃えている
お前を濫費せよ

この一日を濫費せよ

お前の膝に寝て おれは
お前の視線をさがす

お前の眼は霞んで空を
空はお前を投げかえす

ああ 白熱して縁をこえて
お前たちは休みなく流れ去る
空がお前になった
お前が空になった



  果てしない波

海の波が
上を下へと打ちよせるように
お前を捕えたい 抱きたい
おれの願いは果てしなく浪だつ

この妄想をどう逃れたらいいか
船から下をのぞけば
たった一つのこの思いが
海の中で上を下へと揺らいでいる



 板倉鞆音氏(1907-1990.1.19)はリンゲルナッツのほかにも、昭和11〜12年の初期の「コギト」誌上に於いて、すでに服部正己のマイヤー や田中克己のハイネとならんで「ケ ストナァ詩抄」を連載されてゐます。クラブントにせよリンゲルナッツにせよケストナーにせよ、戦前から一貫して反骨の詩人ばかりを対象に据ゑ てゐるのは、自身は政治的態度を誇示する人ではなかっただけに、却って特筆に値するかと思ひます。雑誌「四季」をめぐる先達文学者のなかで も、燻し銀的な存在であり、戦後は丸山薫のゐる愛知大学にあって、ふたたび服部氏とは官舎を隣にしてをられた由。私は処女詩集をお送りしましたが、眼病す でに篤くお目を通していただけたかどうか、大きな文字の受領葉書が唯一度きり賜ったお言葉となりました。

板倉鞆音 参考文献】 雑誌『Spin』vol.2 2007.8発行 津田京一郎「板倉鞆音捜索27-41p

『クラブント詩集』 目次

序詩
 どこから
 言葉がなかったら

第一の圏より
 おれは来た おれは行く
 哀れなカスパール
 どんな町にも
 反語的風景
  褐色の畑の波だつ連り
  灰色のぼろを着たごろつきの列のように
 大きな鏡窓の中で
 眠れぬ夜
 夜明けに
 川は静かに
 トルコ椅子の上で
 ハンブルクの娼婦の歌
  バラッド
  ソマリーの女ども
  アパッチの別れ
  酔っぱらいの歌
  神々しい放浪歌人
   1.おれのからだは毒の飲物が
   2.おれは臆面もなく
   3.おれは一人の女を
   4.お前の持っているものは
   5.おれは良心の呵責に
   6.これを名残りと
   7.ああ失ったものは
   (8.もう一度お前の鳥を) 落丁
 酒飲みの歌
 沈みゆく感惰のなかに
 おれは全くのひとりぼっち
 夜な夜なさすらうおれは
 アローザヘの馬車の旅
 ルガノ湖畔にて
 谷を見下して
 イタリアのドイツ人
 初冬
 田舎町のクリスマス
 いつかはこんなになるだろう
 (おれは白昼に眠った) 落丁

 お前だけ

第二の圏より

 おれは愛情のみでこの世に生れたのに
 皇帝の歌(アダム・ミツキエヴィツチュにより自由に)
 朝が赤いトランペットを
 おれは音この国にいたことがある
 秋の歌
 瀕死の兵士
 ドイツの傭兵の歌
 墓掘り人夫
 おれは故里へ帰ってきた
 葉が落ちる
 支那の戦争詩
  別離
  徴兵官(杜甫により白由に)
  ゴビの砂漠の戦い(李太白により自由に)

第三の圏より

 小さな歌をうたつてあげようか
 さあお前の手を
 あたりはお前の香りで一ぱいだ
 もとのように
 果しない波
 許してくれ
 夏が来ると
 熱
  1.ときどき道路工夫が
  2.金髪の女よ
  3.シスター
 (時間が止まる) 落丁

 ぶらんこ
 お前も
 毎日おれは改めて
 白頭の歌
 今は苦情もない
 放たれた矢(ハーフィスにより自由に)
 すべてこの世のことは

第四の圏より

 原人
 おれは見た
 春の雲
 イレーネ頒歌
 すばらしいことではないか
 お前は永遠に愛するか
 まだおれの指先に
 さあ黙って坐って
 樽で明るく
 マロニエの燭台に
 谷で小さな山羊を見た
 おれの悲惨の歌を
 おれは女房を失った
 抱いてくれ
 おれの足許に
 おれの小さな妹を
 樹林教会の合唱席で梨が
 草原から霧がのぼる
 人間より何が
 手で顔を覆って

第五の圏より

 芸者
  夜の叫び
  私はこわい
  漆塗りの酒器の中に
  夜が白む
  釜は歌う
 荒くれ猟師
 老人
 盲人
 主なる神がこの世を回られたとき
 少女と聖母
 クリスマス物語
 杜甫より李太白に
 老子
 神様のところへ行くとき

(あとがき) 未完

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【追記】 2013.8.25 津田京一郎様より頂いた訂正コメントを付します。ありがたうございます。

 『クラブント詩集』のご紹介ありがとうございました。この詩集の成り立ちにつき少し説 明させて戴きます。
  板倉鞆音の未完訳詩集『クラブント詩集』の原稿コピーは板倉鞆音の『リンゲルナッツ抄 動物園の麒麟』(国書刊行会、1988)『ドイツ現代詩抄 ぼくが 生きるに必要なもの』(書肆山田、1989)を編集された川村 之さんより戴いたものです。板倉さんより預かった生原稿をオートシートフィーダーでコピー をとった際に、紙送りの不具合により残念なことに“落丁”と記した部分が失われました(ノンブル入り原稿だったためノンブルが飛んでいることで判明)。ま た“あとがき”部分は未完のまま板倉鞆音さんは亡くなりました。返却された生原稿の行方も不明のままです。
 原書についてはタイトルとして『クラ ブント詩集』で「第1の圏」「第2の圏」…という章立てになっているものは見当たらないとのことです。収録されている詩篇の多くはそれぞれほかのクラブン トの詩集に収録されていることが判明しているため、この詩集は過去の複数のクラブント詩集から再編集されたものではないか、と考えられています。
 まだ実現はしていませんが、川村さんはこの詩集としては膨大な再編集詩集をまるごと1冊にするよりも、(1)可能なかぎり原詩を集める、(2)原典がわ かった詩篇をふるいにかけて、(3)適度な分量でうまく編集して1冊にまとめて刊行したいと考えています。
 それまでの“仮の詩集”としてテキスト化したものを簡易製本(20部くらい)したため刊記はつけなかったのです。
 『沙羅の木』については、ミクシィに以下のように書きました。

『沙羅の木』 2011年04月29日14:29
 Mさんのご教示で、森林太郎『沙羅の木』にクラブントの訳詩十篇が収録されていることを知った。早速復刻版を入手し調べてみると、板倉鞆音も訳している ものが四篇あった。以下に両者をひく。(原詩略)

Ich kam 「己は来た」

己は来た。
己は往く。
母と云ふものが己を抱いたことがあるかしら。
父と云ふものを己の見ることがあるかしら。
只己の側には大勢の娘がゐる。
娘達は己の大きい目を好いてゐる。
どうやら奇蹟を見るに都合の好さそうな目だ。
己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。
                                                    森林太郎『沙羅の木』

Ich kam 「おれは来た おれは行く」

おれは来た
おれは行く
いつか母の腕に抱かれたことがあるだろうか
いつか父を見かけることがあるだろうか

ただ大勢の女どもがおれのそばにいる
みんなおれの大きな目が好きだという
恐らく奇蹟を見るのに役だつのだろう
おれは人か 森か 動物か
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』


Fieber 「熱」

折折道普請の人夫が來て
石を小さく割つてゐる。
そいつが梯子を掛けて、
己の脳天に其石を敲き込む。

己の脳天はとうとう往来のやうに堅くなつて、
其上を電車が通る、五味車が通る、柩車が通る。

                                                    森林太郎『沙羅の木』


Fieber 「熱」

ときどき道路工夫が来て
石を砕き
梯子をかけて
おれの脳天に石を打ちこむ

頭が街路のように固くなり
その上を市電が、堆肥車が、霊柩車がかたかた走ってゆく
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』

 


Still schleicht der Strom 「川は静に流れ行く」

川は静に流れ行く、
同じ速さに、
波頭の
白きも見えず。

覗けば黒く、
渦巻く淵の険しさよ。
こはいかに。いづくゆか
我を呼ぶ。

顧みてわれ
色を失ふ。
漂へるは
我骸ゆゑ。
                                                    森林太郎『沙羅の木』


Still schleicht der Strom 「川は静かに」

川は静かに
同じ早さで流れている
流れに
白い波頭も立たぬ

一と所 黒い淵が
激しく渦巻いて
おれを呼ぶ声が
聞こえるようだ

おれは顔をそむけて
蒼ざめる
おれのなきがらが
流れてゆく-----
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』

 

Hinter dem grossen Spiegelfenster 「ガラスの大窓の内に」

己はカツフエエのガラスの大窓の内にすわつて、
往来の敷石の上をぢつと見てゐる。
色と形の動くので、己の情を慰めようとしてゐる。
女やら、他所者やら、士官、盗坊、日本人、黒ん坊も通つて行く。
皆己の方を見て、内で奏する樂に心を傾けて、
夢のやうな、優しい追憶に耽らうとするらしい。
だが己は椅子に縛り付けられたやうになつて、
ぢつと外を見詰めてゐる。
誰ぞひとりでに這入つて來れば好い。
髪の明るい娘でも、髪の黒い地獄でも、
赤の、黄いろの、紫の、どの衣を着た女でも、
いつその事、脳髄までが脂肪化した、
でぶでぶの金持の外道でも好い。
只這入つて來て五分間程相手になってくれれば好い。
己はほんに寂しい。あの甘つたるい曲を聞けば、
一層寂しい。ああ己がどこか暗い所の
小さい寝臺のなかの赤ん坊で、
母親がねんねこよでも歌つてくれれば好い。
                                                    森林太郎『沙羅の木』


Hinter dem grossen Spiegelfenster 「大きな鏡窓の中で」

喫茶店の大きな鏡窓のなかに坐って
おれはじっと大通りの舗道を眺めやり
色彩と物体の混雑のなかに感傷的な悲しみの治療を求めている
大勢の女、見なれぬ男、はでな将校、詐欺師、日本人、
ニグロのマスターまで通る
みんなおれの方を見て中の音楽をうらやみ
夢のような和やかな音(おん)を思い出そうとする
だが、おれは椅子に縛りつけられ燃えつきて
目もそらさず外を見つめて見とれている
誰かこないものか 無理強いでなくて自発的に
金髪の少女 -----褐色の娼婦-----
ピンクの、黄色の、すみれ色のシュミーズなんか着て------
----- いや、太っちょの扶助料暮しのごろつきの
脂ぎった、脳にコレステロールのたまった奴だって
ただおれの前に五分間だけ姿を現してくれたら――
おれはとても孤独だ 甘いオペレッタがおれを一層孤独にする
ああ、どこかの夜の暗がりで寝たいものだ
子供ベッドの中の子供になって
母親にやさしく寝かしつけられて
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』


  クラブント(Klabund, 本名 Alfred Henschke)はドイツの小説家・詩人で1890年11月4日にクロッセンで生まれ、1928年8月14日に結核のためスイスのダヴォスの結核療養所 で亡くなった。1913年に第一詩集『朝焼け!クラブント!夜が明ける!(Morgenrot! Klabund!Die Tage dämmern!)』(Erstdruck: Berlin (Erich Reiss))を出版、『沙羅の木』に訳出されている詩は全てこの詩集から、並び順に訳されている。クラブントの略歴、著作目録、著作内容については以下 のサイトが詳しい。

 (略) 

 またユルゲン・ゼルケ著・浅野洋 訳・叢書・20世紀の芸術と文学
『焚かれた詩人たち ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像』(アルファベータ、1999)P153-175でクラブントの生涯と作品が紹介されてい る。


クラブントが生前に刊行した詩集は以下の4冊のようです。
1. Morgenrot! Klabund! Die Tage dämmern!  [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1913.]
2. Der himmlische Vagant [Erstdruck: München (Roland-Verlag) 1919.]
3. Das heisse Herz [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1922.]
4. Die Harfenjule [Erstdruck: Berlin (Verlag Die Schmiede) 1927.]



『多喜さん詩集』

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月19日(金)09時53分23秒
  通報
    詩集をお送りした方々から少しづつ受領のお便りを頂戴してをります。普段はSNSでやりとりしてゐる方からも、郵便で礼儀をつくされるのは嬉しいことで す。
 またお返しに新刊本をお送り頂きました方々には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 サイト関連の詩書では、金沢の亀鳴屋、勝井隆則様から頂いた新刊詩集『多喜さん詩集』(外村彰編)に感銘しました。『井上多喜三郎全集』も『近江の詩人  井上多喜三郎』も、それから詩人に宛てた『高祖保書簡集』も職場の図書館へ寄贈してしまって、手許には詩人に関する本が一冊もなくなってしまったので、 此度の選詩集は末永く愛蔵します。またそのやうに手許におきたい手触りやサイズは、限定本出版をこととする亀鳴屋が常に心掛けてゐるところ、このたびも詩 人と編者と刊行者とのいみじい三位一体の産物であります。披けば巻頭の、詩人が縁側で和んでゐる写真、そして詩篇では選者の眼のつけどころでせうか、小動 物によせるユーモア・ペーソスがなんともいへません。

 井上多喜三郎(1902−1966)は、高祖保や田中冬二と親近してゐたといふことからも分かるやうに、堀口大学の『月下の一群』初版1925新編再版 1928刊行時にリアルタイムで決定的な影響を受けた(「四季」で育った詩人達よりはやや先輩の、)知的抒情詩をものした詩人、そして木下夕爾同様、家業 のために田舎に隠棲を余儀なくされた典型的なマイナーポエットの一人です。戦前は作品よりも地方発の瀟洒な装釘の刊行物で書痴詩人たちを喜び驚かす趣味的 なディレッタントとしての位置づけに甘んじた詩人ですが、過酷なシベリア抑留体験を経て詩風が変貌。それが批評精神を身に帯びた戦後現代詩風にではなく、 人柄も変わらぬまま優しさを帯び、人間の懐が深くなったところを示して、詩人として一皮むけたのは稀有のことに思ひます。若年には彼を苦しめただらう地方 暮らしも、抒情全否定の中央詩壇から遠ざかる環境として彼を守りました。
 昭和41年に突然みまった輪禍、関西詩壇の重鎮に推されるのは時間の問題だった詩人の早すぎる死を、コルボウ詩話会、近江詩人会にあった天野忠から田中 克己 をはじめ、様々な詩風の多くの詩人達が悼みました。詩作品に先行してその人柄が、地域の人々に、そして詩壇の気難しい誰彼からも愛された詩人の作品集は、 どれもこれも極少部数の限定版ばかりでしたが、今、現代の読者に愛されるための詩集が、資料的な側面の強い全詩集とは別に一冊、彼の造本センスを襲った姿 を得て世に送り出されたことに、慶びを申し上げる次第です。ありがたうございました。

  犬

炎天の道の辺で
うんこをしている犬

少しばかりのぞいているのだが
うんこはかたくて なかなかでてこない

彼はうらめしそうに 蝶々をながめながら
排泄と取り組んでいた



  慣

雄鶏の首をひねる
ぎょろりと目をむいているそいつの 羽毛をむしる
じゃけんになれたそのしぐさ

手にあまった抵抗が
急に抜ける
私はとまどう
神さまこれでよいのでしょうか

雌鶏たちは
相かわらず玉子を産んでいる



  夕

ときどき山雨(やませ)がゆきすぎる
竹樋が咳をする

捻飴(ねじりあめ)のようにでてくる水だ
ちよっぴり苔のにおいがする

水溜には豆腐が泳いでいた




『多喜さん詩集』井上多喜三郎  外村彰 編
15.2cm 並製 糸かがり 208頁 限定536部 1600円(税・送料別)

『菱』182号 モダニズム詩人荘原照子 聞書

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 9日(火)22時49分12秒
編集済
    鳥取の手皮小四郎様より『菱』182号をお送り頂きました。今回の荘原照子の伝記連載、看板である聞書がないのに内容がいつもにもまして濃く思はれたの は、連載も終盤に入り、手皮様が荘原照子の詩のありかた、つまり詩人の姿勢に対して正面から取り組まれてゐるからに相違ありません。丁度雑誌を頂く前に、 文章中に触れられてゐる詩誌『女性詩』について、木原孝一が『詩学』(昭和26年8月号)の批評欄で江間章子らに散々噛みついてゐる様子を紹介 したばかりだったので、その符合にまづ吃驚。
 そしてその荒地派の詩学に馴染んでこられた手皮様が、自身の立場とは異なるのは承知の上で、荘原照子が戦後復帰し綴った随想「ちんぷんかん」で韜晦して みせた自恃を俎上に上します。

 荘原は六十年の半生を振り返った時、自分を「旅人」「異邦人」「ちんぷんかん」と観じなけれ ば、どうにも説明できなかったし、むしろそこに自己のアイデンティティーを求めるほかなかったんだと思う。

 ただここで改めて問い直したいのは、荘原にとってあの戦争はなんだったかということである。


 たしかに彼女の詩が作られるのは、抒情詩人のやうな求心的な在り方でも、社会詩人のやうな糺弾的な在り方でもない。その拡散的手法に対しては意図の不明 瞭を難じつつも、手皮様はしかし、モダニズムによる豊穣なイメージ効果については惜しみない賞讃を、また現実逃避のその切実さについては同情を寄せられて ゐる。つまり総括してやはり他のモダニズム詩人達とは違ったものを感じ取られてゐる。それは伝記事項の探索を通じて深められてきた詩人に対する理解の結果 でありませうし、モダニズム詩が作られるモチベーションを作品だけから窺ふことには限界がある、といふことでありませう。モダニズム作品には的外れな断定 評価の危険が常にあるといふこと、それは例へば神戸詩人事件で起きたやうな、当てこすりを邪推する検閲の側からばかりでなく、積極的に評価したい場合に あっても、その人の実際の生活を、つまり木原孝一がいふ「作品以前」の詩人の生き様をみてみないとわからないといふこと。喩へてみるなら童話の「ごんぎつ ね」のやうなところがあるのかもしれません。詩句の意味を完全に解説することができない彼女の作品の数々、その背景への探訪を、モダニズムに疎い私です が、これまで手皮様の後に就いて御一緒させて頂いてきました。そのなかで私が一番に思ったのは、手皮様が故意に突き放して記すほど明らかになる、彼女のい じらしさでありました。

 次回はたうとう最終回の由。無事の完結をお祈りするとともに、単行本化を見守ってをります。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

「ぎふ快人伝」

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 7日(日)20時20分5秒
編集済
   本日岐阜新聞8面 「ぎふ快人伝」に、詩人深尾贇之丞紹介記事が掲載されました。

「ほかとは調和のない墓碑は、贇之丞と須磨子を物語っているよう。墓碑を建てることで、須磨子の中で岐阜との決別を打 ち立てたのかもしれない(深尾幸雄氏談)」

 職場のあります岐阜市太郎丸出身の詩人、深尾贇之丞の事績がこのやうに大きく紹介されたのは初めてのことです。 これを機会にもっと多くの人に認知されたらと思ひます。取材に訪問下さいました岐阜新聞佐名妙予様に御礼申し上げます。ありがたうございました。


【追記】
 なほ、新聞記事掲載後に佐名妙予様より御連絡あり、元岐阜市教育委員長の後藤左右吉氏よりの指摘として、昭和29年に岐阜で須磨子に会ひ、その際「なぜ 岐阜にいらっしゃったのですか」と聞くと、「夫が岐阜出身で、お墓参りに来ました」と話したとのこと。お忍びでだったかもしれませんが、とまれ岐阜に一度 も足を運ばなかった訳ではないことについて、事実を追記いたします。

【広告 『中嶋康博詩集』 】

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 7日(日)20時06分9秒
編集済
  背の箔をやりなほし た為、刊行日はそのままに、御案内が遅れました。

2013年5月31日 潮流社刊 126p 21cm上製 付録8pつき
内容T:夏帽子(1988)よりU:蒸気雲(1993)よりV:雲のある視野(拾遺篇)
https://swan-gw.gijodai.ac.jp/http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024473296-00


A 函つき版(背箔) :販売用1500円
B 函なし版(背題簽):寄贈用

 思ふところあって、自分のこれまでの詩作のあゆみを一冊にまとめることにいたしました。
 版元潮流社には在庫はございません。一般書店では販売してをりません。amazonにてお求め下さい。

山川京子歌碑除幕式

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月26日(水)21時46分35秒
  通報 編集済
   岐阜県郡上市旧高 鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、身の丈に余る巨大な歌碑が建立 されてゐる。

「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」


 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が 行はれた。短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか 30 余名の列席者があったが、末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとと きを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。また「斯様な記 念物は自分の死後に」「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、まるで夫君を永久 (とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱で ある。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」


 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、 現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、靖国神社の存 在意義を示した象徴的存在であり、祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。私にとっても 杉山平一先生が逝去され、戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。主宰歌誌 「桃」が終刊した後に、余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、和歌の良し悪しに疎 い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流 れ、ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。かつては山々 も杉の木が無節操に植林されることはなく、今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

  むかしの谷間
               山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで

屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が

あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき

雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて
とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう
                   詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載


 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、 日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、一対の歌碑 だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の 流れについて、なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、 式典後、記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。 (2013.6.26)

受贈雑誌より 2

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月23日(日)00時37分14秒
  ●「木いちご」 (No.1:昭和4年4月)

わが蔵書中、とびきりお気に入りの一冊が『木苺』(昭和8年 椎の木社刊行)といふ詩集である。その著者である山本信 雄自身が主宰者となってゐる昭和初年の詩誌も、また同時にお送り頂いた。もちろん初見である。

以前このサイトで「食パン型」サイズの詩集の系譜について語ったことがあったが(四季派の外縁を散歩する第01回、第13回)、 この一冊の発見によって、方形に近い特殊な詩集のサイズが、タイトルとともに永らくこの抒情詩人のうちに温められてゐたことが判明した。詩集中に「木苺」 といふ同名タイトルの詩は収められてゐない。名も形も共にまた随分さかのぼったところに偏愛の灯はともされてゐた、といふべきである。まことにささやかな この雑誌が何号続いたかは知らない。けだしその未来に作られる詩集の原型と、彼の代表作である「紗羅の木」一篇を世に送り出したことにのみ、意義を認め得 る雑誌であった、といってよいかもしれない。

内容は出張帰還後、サイト上に公開したい 。

受贈雑誌より

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月23日(日)00時00分50秒
  「稀覯本の世界」管 理人様より、杉山平一先生が執筆する種々の詩誌バックナンバーをお送り頂いたので幾つか御紹介。

●「現代詩」 (No.24:昭和23年10月)は、戦後まだ出版事情の悪いなか、無傷だった新潟北魚沼郡の淺井十三郎の根拠地「詩と詩人社」を使ひ、編集をそっくり中 央に預けて刊行された雑誌。日本現代詩人会の母体となった錚々たる同人の顔ぶれをみるに、巻頭に掲げられた杉山先生の詩論「詩に於ける 肉声」の筆致がめづらしく力んでみえる理由もなるほどと納得される貴重な一文。

●「詩学」(No.40:昭和26年8月)は、「現代詩手帖」とともに戦後ながらく詩壇の公器を以て並称された雑誌(2007年に廃刊)。
特集「死んだ仲間の詩」として立原道造以降、亡くなった若い詩人達17名の回顧・紹介が行はれてゐる。死後にデビューしたといってよい森川義信や楠田一郎 のほか、加藤千晴、西崎晋、饒正太郎といった人達が挙げられてゐるところに注目。杉山先生は津村信夫について、例の「小扇」から触発されて詩の世界へ入っ た思ひ出を草されてゐる。
この雑誌、しかし目を引くのは匿名編集子による「詩壇時評」と「MERRY GO ROUND」であらう。ことに木原孝一と思はれる後者の毒舌ぶりが酷い。おそらくは物議を醸し、俎上に載せられた詩人も腹の虫が到底おさまるまいところを 添付した(「女性詩をめぐって」の項)。とくに戦前モダニズム傘下にあった江間章子・中村千尾らの「劣化」に対してはげしく不満を爆裂させてゐるのだが、 これは批評子が前項で「北園(克衛)氏の娯楽的模倣者」に対して放った攻撃と同様、所謂「荒地派」のポレミックなスタンスを前世代のノンポリ先輩たちに向 けて投げつけたものにすぎない。むしろ抒情詩の正道をぶれずに歩んでゆく永瀬清子の作品を、寄稿者でもあるためであらうが、ひき較べて高く評価してゐる。 前項でも北園克衛本人については、その独自の純粋性を以てあからさまな批判だけは留保してゐるが、この「マダムブランシュ」ばりの匿名子の毒舌にかかると 「アバンゲールvsアプレゲール」といふ対立も皮肉っぽく「アスピリンエイジvsアトムエイジ」などと書き換へられる。
本誌には木下夕爾が戦後に問うた詩集のタイトル詩篇である「笛を吹くひとよ」も載ってゐるが、彼もまた抒情詩系の雑誌「地球」では、そのスタンスを秋谷豊 から社会的に飽き足らぬと批評されてゐることを思ひ出した。批評精神の欠如とやらに対する手厳しさといふのは、近親する者に対する程なかなかにやっかいな ものであったらしい。

●「詩」 (No.10:昭和52年10月, No.12:昭和53年7月, No.18:昭和55年1月)
第4次「四季」廃刊 後、会員たちが東西で「四季」の名を「詩」と「季」に分けあって発刊した、これは関東の方の機関誌である。あんまり漠然と座りが悪いので「東京四季」と改 めたのだと聞いた。
10号には杉山平一先生の詩集『ぜぴゅろす』に寄せられた各氏の書評。「ひと世代」前の長江道太郎氏からの一文に感じ入る。
18号では『夜学生』寄贈に対する各氏からの礼状のなかで、明晰を旨とする自負を込めた「ピラミッド」を認めてくれた中野重治に対する私かな恩義と親愛が 語られてゐる。

ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

お詫び

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月 1日(土)21時30分25秒
編集済
   出来上った拙詩集の 背表紙の箔押ですが、製本屋が訂正を要求してくるままに任せきりにしたところ、とんでもないセンスで上がってきてしまひました。このまま皆 様に送り出す勇気なく、やり直しをしたいと思ってゐます。

 そのため五月晦日 の刊行予定が遅れることになりました。本冊中身と函は思ひ通りに作って頂いたので、不取敢“函の写真だけ”お披露目させて頂きます。

 無神経な装釘はいづれ各地の図書館にて確認することができると思ひます。(図書館版:として20余冊を発送済)

 残りの「正規版」が今後どうなるのか、あらためて御報告申し上げます。

帰還後に

 投稿者:やす  投稿日:2013年 5月31日(金)00時34分13秒
編集済
   大牧冨士夫様より 『遊民』7号を拝受、ありがたうございました。
『中野重治書簡集』覚書は、大牧様宛の一通について本人による解説が付されることで大冊の資料的価値が補強されるとともに、中野重治との個人的な思ひ出の 再確認の後ろ盾として斯様な大冊が与ってゐることに、感慨も感じていらっしゃるのがわかる一文。そして「船木山の滑走路」の話は大東亜戦争をめぐる貴重な オーラルヒストリーであり、村松陸軍少年通信兵学校(新潟県五泉市)の話が出てきますが、私も出張の折に一度立ち寄ってみたいと思ひました。

 また前の掲示板にて触れました清水健次郎氏の御子息より、御尊父の遺著にして、戦前に刊行された詩集の集成を含みます『麦笛』の貴重な残部を御寄贈頂きました。出張より帰着したばかりのことにて本当にびっくりしてをります。いか なる符合か、わたくしもこのたび集成詩集を刊行することとなり、ただいま発送の準備に追はれてゐますが、四季派に親しい戦前詩人の言葉のひびき、香り高い 内容については、あらためて御紹介させて頂きたく、とりいそぎの御礼を申しのべます。ありがたうございました。

相馬御風旧宅

 投稿者:やす  投稿日:2013年 5月31日(金)00時24分20秒
   先週今週と2週間 かけて全行程2200kmにのぼる新潟県大遠征の出張を敢行、携行した本は満足に読めませんでしたが、帰路糸魚川では良寛禅師を思慕した相馬御風の 旧宅に 立ち寄ることを得、宮大工の旧家の出であった詩人の神経が行き届いた日本家屋のゆかしい造りを堪能してきました。一階仏間から眺められる雪落しの為の坪庭 や、浜風が通り抜けて行く二階の書斎など、この季節の眺めは羨ましい限りでしたが、ことさら冬はさびしい故郷に帰り、同じ北越の風に吹かれる環境に身を置 いて良寛の生き様を祖述し続けた相馬御風の後半生は、隠栖といふより、“生涯現役”の中身を、真に自足した後半生を送ることに見出し得た田舎暮らしの理 想でありませう。床の間には、戦前に頒布された桝澤清作の、私が入手した御風箱書の銅像と同じ鋳像が飾られてをり、感慨無量でした。

杉山平一先生一周忌

 投稿者:やす  投稿日:2013年 5月19日(日)19時08分25秒
 

本日は杉山平一先生の一周忌です。

御魂に御報告すべき拙詩集は、刊行が祥月命日に間に合ひませんでした。すでに校了し、月末頃にできあがる予定です。寄贈者へお配りしたのち、あらためて御 報告御案内申し上げたく存じます。

さて、杉山先生を支柱に仰いだ同人誌「季」に年長者として参加されてゐた詩人、清水(城越)健次郎氏の戦前の詩集
『失ひし笛』を手に入れました。 三好達治から「これは面白いね」と批評されたのは、“ミニ『南窗集』”といふべき外装をふくめてのことでありませう。「季」の先輩同人二氏による追悼文と ともに御紹介します。

このたびは他にも北国の詩人たちの詩集を4冊、そして雑誌「詩魔」のバックナンバーも4冊入手しました。「詩魔」は、名古屋で廃刊した「青騎士」と踵を接 して、当地岐阜から創刊された詩誌。同時期の
『牧人』と同様、版型や囲み 枠など「青騎士」を意識した豪華な造りです。今週より出張が続きますがおちついたら順次紹介したく、お待ちください。周旋頂いた古本先輩からは別に稀覯詩 集の画像も多数お送り頂き、ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

詩人平岡 潤――4人目の中原中也賞

 投稿者:やす  投稿日:2013年 4月30日(火)07時14分57秒
  通報 編集済
   杉山平一先生が戦 前に受賞した「中原中也賞」。長谷川泰子が寛大な夫である中垣竹之助氏の経済力を恃んで興した雑誌「四季」ゆかりの文学賞である。詮衡が「四季」の編集方 に委ねられ、「文藝汎論」の詩集賞と較べると、より「抒情詩に対する賞」の性格が強い。第1回は昭和14年、亡くなった立原道造に、第2回は雑誌の遅刊が 続いたため昭和16年に2年分として杉山平一、高森文夫の2名に。そして第3回が昭和17年、平岡潤に授与され、以降パトロン中垣氏の事業悪化により途絶 した。
 
 立原道造はもちろん杉山平一、高森文夫のお二方も昭和期の抒情詩史を語る上で名前の欠かせないひとであるが、平岡潤といふ詩人の知名度は如何であらう か。戦後、地元三重県桑名市で地域文化の顕彰にあたり、市史の編纂をなしとげた偉人であるが、賞の詮衡対象とされた詩集『茉莉花(まりか)』は、刊行部数 がたった 120部しかなく、古書でも目に触れることは殆どない。そして投稿の常連者であったのに、戦後、「四季」が復刊される時に彼の名前が無いのである。彼はま た、自由美術家協会から協会賞を受けたといふ絵画界からも遠ざかってゐるが、しかし中部地区の詩人が(在住を問はず)一大集結した『中部日本詩集』(昭和 27年刊)に参加せず、巻末の三重県詩壇の歴史展望の際にも一顧だにされぬといふのは、奇異でさへある。
 
 これは詩集『茉莉花』が軍務の傍らに書き綴られた詩篇を中心とし、伏字を強いられた作品を含みながらも、その作品は旧帝国軍人の手になるもので、彼は戦 意高揚の詩人である、とい烙印を捺されたからなのであらう。多年の軍歴は公職追放をよび、彼は教師の地位からも追はれ、已むを得ず古書店を始めるに至った が、奇特なことに店を繁盛させることより地域資料の散逸をふせぐに遑なかったらしい。これだけの逸材を世間が埋もれさせる訳はなく、中学時代の恩師から詩 史編纂に協力するやう声がかかったのは、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。
 
 けだし詩人が戦後、詩壇ジャーナリズムから黙殺・抹殺の憂き目に遭った事情は、岐阜県出身の戦歿詩人山川弘至と同じであり、その後現在に至るまでの詩壇 からの冷遇が能くこれを証してゐる。彼の場合は、なまじい戦争に生き残って、しかも一言も抗弁することなく、故郷に逼塞して歴史顕彰に勤しむやう、自らを しむけなければならなかった。その心情は如何ばかりのものであったらう。南方で米軍に降伏、収容所生活にあっては、ダリの紹介記事を翻訳したり随想をした ため、戦後の文学活動復帰に十全の備へを怠らなかった彼であった。詩才のピーク時を示す「錨」などの詩篇に顕れてゐる丸山薫の詩に対する理解の深さ、そし て授賞時の言葉を考へると、隠棲した豊橋で中部日本詩人連盟の会長に担がれた丸山薫本人から、なにがしかの再起の慫慂がなかったとも思はれ難い。なにより 詩人自身に、さうした文学への思ひ
や未練を記した雑文 は残ってゐないものだらうか。事情を取材すべく詩人の遺稿集『桑名の文化―平岡潤遺稿刊行会 (1977年刊)』にあたってみた。
 
 桑名の図書館まで足を運んだものの、文学の抱負が記された自筆稿本『無糖珈琲』は未完のまま埋もれ、遺稿集には地元の歴史文化に対する随想が収められて ゐたが、自身の詩歴をめぐる類ひのものは一切得られなかった。むしろ詩を共に語るべき師友のなかったことを、却って物語ってゐるやうな内容であった。なか に引用されてゐる新聞記事も、彼が画家として立つことができなかったことは紹介してあったが、晴れがましい詩歴については触れられてゐなかった。もっとも 巻末には稀覯詩集『茉莉花』の全編ならびに戦前の拾遺詩篇の若干が収められてをり、詩人が眠る市内昭源寺境内には、立派な「詩碑」が建てられてゐるのを 知った。わたしは早速その足で墓参に赴いた。

 詩人は昭和50年、郷土史の講話の最中に仆れたといふ。そのため詩碑の建立は詩人の遺志であったとは云ひ難く、その人望の結果であるには違ひない。そし て決して恥じることのない戦前のプロフィールも、地元では尊敬を以て仰がれてゐたことを証するかのやうに、碑面に刻まれてゐたのは彼の郷土史研究の功績で はなく、若き日に自らの前衛絵画を以て装釘を施した、晴れがましい中原中也賞受賞の詩集書影。そして戦後間もなく、未だ詩筆を折ることを考へてゐなかった 時代に、詩的再出発の決意を宿命として表した「名誉」といふ一節が選ばれてゐたのであった。

  名譽
 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を 癒さんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名譽と心得てよい。
 昭和二十一年七月十日
             平岡潤
                 (未刊の自筆稿本『無 糖珈琲』第25節に所載の由)

 生涯独身を貫き「郷土史研究がワイフ」とうそぶいてをられた詩人。財産を遺すべき子供の無く、代りに建てられた一対のレリーフの間を“一羽の可憐な折り 鶴”が繋いでゐたのは、その折り方を考案した地元僧侶の顕彰活動に努めたからといふより、なにかしら詩人の「本来の名誉」の鎮魂のために ――、と思はれて仕方が無いことであった。(2013.4.30up)

 茲に詩集『茉莉花』の全書影と、初出雑誌の一覧、そして遺 稿集の巻末に久徳高文氏がまとめられた年譜と後記を掲げます。謹んで詩人の御魂と御遺族に御報告するとともに、塋域および御遺族情報を御案内いただきまし た昭源寺様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

杉山平一追悼号:『ぜぴゅろす』『こだはら』『海鳴り』

 投稿者:やす  投稿日:2013年 4月23日(火)21時30分50秒
編集済
   杉山平一先生御息 女初美様より杉山先生の追悼号雑誌の貴重な余部をお送り頂きました。三誌みな未見のものにて、ここにても厚く御礼を申し上げます。

『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎
『こだはら』35号 帝塚山学院大学
『海鳴り』25号 編集工房ノア

 帝塚山学院大学と編集工房ノアは、杉山先生が長年馴染んだ、謂はば地元のホームグランド。前回ブログに記した「その素顔について、御遺族・地元の関係者 から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きしたい」と思ってゐたところを、多くの人々によって、それぞれ教員として詩人としての側面から窺ふ ことができました。
 『こだはら』では、大学の同僚であられた佐貫新造氏が杉山先生の笑ひ声について、本当にkaの発音で「カッカッ」と笑はれたと述懐する「杉山平一先生寸 秒」や、女学生に「平ちゃん」と愛称された壮年時の面影ならでは逸話の数々が興味深く、また昨秋行はれた「杉山平一さんを偲ぶ会」に御招待いただいたにも 拘らず出席できなかった私にとって、その進行の詳細が記された『海鳴り』掲載の「記録抄」は有難く、嬉しかったです。幹事を務められた以倉紘平氏の、現代 詩人賞授賞式のために用意された一文はすでに『びーぐる」追悼号で読んでをりましたが、宝塚市長以下、八木憲爾・國中治氏ほか皆様の壇上での御言葉のほ か、二百名余の満場が感じ入ったといふお孫さんのスピーチに触れることができ、まことにこれは販促誌の域を超える内容。その編集工房ノアを主宰する涸沢純 平氏は、同誌に現代詩人賞授賞式の様子を報告する傍ら、別に『ぜぴゅろす』に一文を寄稿してをられます。
 この『ぜぴゅろす(西風) 』といふ雑誌、同名の詩集が杉山先生にありますが、高原にあって“関西からの風”先生の作品一篇を毎号巻頭に掲げ、四季の詩人たちに深甚の敬意を払ふ趣き があります。御息女初美様の「父の思い出」の続きも載ってゐて、講演や原稿の依頼があるたび「えらいこっちゃと苦笑いしながら」娘に話をされた様子など、 微笑ましく髣髴されたことです。
 茲に関係するページの目次を掲げます。
 ありがたうございました。



『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎 2013.4.20  \700

青風                     涸沢純平   24-26
杉山平一さんのこと              眉村 卓   68-69
希望について                 鈴木 漠   70-71
杉山さんの澄んだまなざし           三木 英治  72-75
杉山平一と経験の抒情化            中村 不二夫 76-78
「ぜぴゅろす」 に乗っかる          桜井節    79-81
父の思い出                  木股初美   82-85




『海鳴り』25号 編集工房ノア 2013.5.1 非売

杉山平一写真と略歴                     64
『希望』について              以倉紘平    65-68
おじいちゃんへの手紙            木股真理子   69-71
杉山平一さんを偲ぶ会 記録抄                72-83
足立さんに教えられたこと1993.8.7「夕暮れ忌」講演 杉山平一 84-94
東京日記                  (涸沢純平)   95-98



『こだはら』35号 帝塚山学院大学 2013.3.10 非売

瞬時とスピードの詩 −学院詩人杉山平一先生− 鶴崎裕雄 4-8
杉山平一先生を偲んで             長谷俊彦 9-11
杉山平一先生寸描               佐貫新造 12-14
杉山平一先生 −曲がり角の向こう−      河崎良二 15-19
杉山さんのこと                山田俊幸 20-22
プリズムのような −杉山先生のこと−     石橋聖子 23-26

杉山平一抄・『帝塚山学院大学通信』『こだはら』
詩鈔 27-64
長沖さんという存在(追悼文)               65-66
大谷晃一『文学の土壌』(書評)              67-68
弥次馬(エッセイ)                    69-71
小野十三郎『環濠城塞歌』(書評)             72-73
米倉巌氏の三著を読む(書評)               74-79
庄野英二詩画集『王の悲しみ』(書評)           80-83
庄野英二詩画集『たきまくら』(書評)           84-86
庄野作品のユーモア(追悼文)               87-90

モダニズム詩人 荘原照子聞書き「近藤東、荘原を探す」

 投稿者:やす  投稿日:2013年 4月19日(金)09時55分29秒
   手皮小四郎様より 『菱』181号拝受。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 今回の荘原照子の伝記連載は、詩人の死亡伝説ならびに戦後ときを隔てて彼女が懐旧され探索され発見された事件(?)について。新聞の発見スクープについ ては本連載の初めにすでに詳しいですが、そこに到る経緯として最初に紹介されてゐるのは、同じく横浜のモダニズム詩人だった後輩の城田英子、木原孝一によ る、敗戦前夜の詩人を報告する回想文です (『詩学』1957.12『現代詩手帖』1960.5)。そして“戦友たち”と再会を果たした当時の貴重な写真が二枚。永らく詩壇と没交渉だった自分の生 存事実が、新聞記事になるほどの話題となったことについての詩人自らの感想を、どのやうに手皮様が聞きとられたのか、交流を断った心情とともに連載初回時 とは角度を変へて聞きたく思ひました。
 また表題のとほり、近藤東が彼女を捜索するために出した『週刊新潮』(1966.3.12号)の訪ね人広告のことが出てくるのですが、詩人をよく知るが 故に死亡伝説を信じてゐた身近な人達ではなく、却って「他人とドメステイクな交際をあまりしない」彼だからこそ捜索にのりだすこともできたのではといふ手 皮様の推測はなるほどです。皮肉屋の自己分析が妥当かどうかはともかく、都市型のモダニズム詩人として認知される彼に、岐阜のことを記したものは少なく、 また北園克衛ほどに抽象的な抒情詩としても故郷を懐古することがなかった事情の一斑にも、確かにさういふ側面があったのかもしれません。

 それから編集後記ですが、Iといふ鳥取出身詩人の悪評が書かれてゐて、もしかしたら伊福部隆彦のことかとも思ったのですが、私の仄聞したところの氏の為 人は、戦後に成った抒情詩篇そのままの純粋な、無名の才能を発掘したり、生田長江に篤く事へて兄弟弟子だった佐藤春夫が師の生身を疎んずるやうになったこ とに憤慨してゐた、などといふ、誠に侠気に富んだものばかりだったので、地元の詩人達に嫌はれてゐるのがその通りであるなら、意外のことに思ひました。た しかに気宇は大きく、転向の前歴もあり、前衛の自負が当たり前だった現代詩詩人の集まりからは、凱旋帰国もはなから色眼鏡の対象となってゐたのかもしれま せん。この段、私も当事者を知らぬ故いい加減のことは申されませんが、愛弟子の俊穎増田晃が戦後を生きて居たらとあらためて思はざるを得ませんでした。

 御身体ご自愛いただき、あと1〜2回で終へるといふ連載の完結をお祈りしてをります。ありがたうございました。


論考「『希望』と命令」

 投稿者:やす  投稿日:2013年 4月 7日(日)23時00分35秒
  
    國中治様より杉山平一先生についての論考「『希望』と命令」を巻頭に掲げた「文藝論叢」79号(大谷大學文藝學會)、および文芸同人誌「愛虫たち」 Vol.81 をお送り頂きました。ここにても御礼を申し上げます。ただいま年度初めの仕事に忙殺中のところ、まさにそれゆゑに、杉山先生について書かれた文章を毎朝少 しずつ“味はふ”幸せを満喫させて頂きました。

 いったいに四季派の詩作品については、論考をものしようと語れば語るほど読後感として野 暮(無味乾燥の学問的論文)に落ちることも多いやうに思はれ、むしろ私などは気楽な立場から詩人のエピソードを集めた回想文の方を好むやうな下世話人間な のでありますが、そこはそれ、制作心情の機微に分け入って行く國中さんの筆鋒には、詩作者としての血が確と通ってをります。長年の交際事実に甘えることな く、杉山先生の「プライベートの楽屋内」ではなく「制作の楽屋内」を、誤解を避ける慎重な語り口を保持しながら、広範囲の文献を余さず浚って案内して下さ る手腕を俟ってはじめて、学問的論文を味はふなんてことも有り得るんだらうなと(いつもながらのことですが)感じ入ってしまひました。
 杉山詩の 二大特長であるウィットとヒューマニズム。これの実例を挙げて詩人論を済ますひとが多いのですが、その根本事情として横たはってゐるのが、詩人が「正反対 の感情や成り行きを想定せずにはいられない表現者」であるといふことを、いみじくも指摘してをられます。それはただ表現者の方法論としてさうあるだけでな く、祖国の敗戦・愛児との死別・実家倒産といった不条理な困苦が戦後の詩人に強いた、処世術以上の、その人の本性にまで焼きついた姿勢として詩作の外に あってもさうであった、といふことなのでありませう。さうして例へば私がいつも杉山先生の人徳として敬服する、小野十三郎と保田與重郎の双方に配慮するや うな心情、それが一点の打算もない自省に満ちたものである点などを顧みましても、合理主義を貴ぶ一方で最も日本人的な性向を受け継いでゐる、謂はば四季派 詩人としての根本性格を、たしかにこの詩人も持ち合せてゐることが肯はれるのであります。

自分の言動を相手がどのように感じ、どのように受けとめたか。それを絶えず相手の側に立って考 えてみる。杉山はそういうひとり遊びのような習慣を身につけていたのかもしれない。17p

  はしなくもそれが詩人の場合は、自虐史観を戴く戦後ジャーナリズムから独り特別視される理由となり、また同時にその安全地帯を無視して四季派を擁護し続け た信念ともなった訳であり、國中さんの論旨に全的賛意を寄せるとともに、「自分の怒りそれ自体に距離を置く」ところまで自らの良心を追ひ詰めてみせる、詩 人の真摯な敗北主義については、同時にといふべきか、その素顔について、御遺族・地元の関係者から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きした い、とも思ったりしたのでした。

 とまれ、授業評価と論文本数と広報業務と、三方からの要請に疲弊し切ってゐる昨今の大学の先生方と間近 に接してゐる仕事柄のせゐでせうか、とくに感じることなのですが、斯様な、詩の愛好者が読んで快くなるやうな論文を書き上げ、紀要巻頭に示し得る國中先生 のモチベーションと力量とには唯ただ快哉の声を叫ばずにはゐられません。四季派学会の今後がどうなるのか分かりませんが、今や実質的な代表者として益々の 御健筆をお祈り申し上げる次第です。

 ありがたうございました。


詩集のこと

 投稿者:やす  投稿日:2013年 3月24日(日)21時53分57秒
    今週またひとつ年をとります。五十も二年過ごした爺となりますが、おもふところあって(もちろん相手もあってのことですが)今月再婚しました。公私ともに 多忙となりさうな新年度を、些か面映ゆい新生活で迎へるにあたって、別段語るべき新しい文学的な抱負がある訳ではありません。けれどこんな節目を機会にこ れまでの自分の詩作を“ちゃんと背表紙のある本(笑)”にまとめておきたい、と考へるやうになりました。
 久しぶりに十五年以上前の作物を読み返してみて思ったのは、自分の作風が気候や政治のレベルで現在真実に喪はれつつある日本の自然風土に頼りきりのもの であり、自然と共生する発想を失ひつつある新しい日本人の目からは、書かれたとき以上に“お幸せな”孤立点として映るのではないかといふ惧れ、といふか感 慨でした。
 読んで頂きたい詩人の皆様はあらかた既にこの世になく、もとより世に問ふといふ性格の本でもなく、四季派の詩とは無縁で生きてゐる人に配って歩くつもり もないですが、方々の図書館には寄贈しますので一瞥頂けましたら幸甚です。書斎に積み置かれた在庫を先達の詩集とならべて眺め、弔ひながら日々を覚悟のな かに過ごす、そんな風に今から観念苦笑してゐる次第です。

5月刊行予定『中嶋康博詩集』潮流社 限定300部 内容(「T夏帽子より」「U蒸気雲より」「V雲のある視野」)120ページ余 上製函付 頒価未定

本日より掲示板を自由投稿モードではなく日記モードとさせて頂きました。御指摘・御感想などございましたらメールにてお寄せ下さい。

道下淳先生遺著

 投稿者:やす  投稿日:2013年 2月15日(金)23時07分52秒
編集済
    また昨年亡くなられた、同じく職場の非常勤講師であられた道下淳先生(2012.6.14没 86歳)の御遺族より、遺著二冊を御寄贈頂きました。こちらは文学研究者といふよりも郷土史家、照準はすべて地元に向けられ、連載記事を集めた此度の二冊 も謂はば岐阜県 文学散歩の趣きであります。まずは私の興味深い近世近代の項に目を通してをりますが、江戸時代の漢詩人から、深尾贇之丞はもとより蓮田善明の若き日、短 かった岐阜教鞭時代にまで言及してをられることには吃驚。単に文献を引き写しただけではない、本人の回想や生き証人に対するフィールドワークが何気なく盛 られてゐることにも感銘を受けました。けだし岐阜女子大学には私も奉職二十年、同じ長良に住みながら、もっと早くに郷土文学研究の先輩として謦咳に接して 置くべきであったと、後悔しても始まりませんね。以下に二冊の書誌と陣容を抄出して遺徳を偲びます。


『美濃飛騨 味への郷愁』(『月刊 ぎふ』連載の岐阜県の食にまつわる文学散歩)道下淳著 2012/7道下郁子刊行 221p

目次:
岐阜に泊ったクロウ …… クロウ『日本内陸紀行』
中山道の味 …… 森祐清尼『善光寺道の記』
高山の枇杷葉湯売り ……  田中冬二「織姫」
落ちアユのころ …… 葉山嘉樹 日記
ジカバチを追って …… 下佐見老人クラブ『ふるさと物語』
ああマツタケ …… 館柳湾「高山の官舎に題す」
ボタン鍋のころ …… 幸田露伴『酔興記』
美濃と飛騨の雑煮 …… 青木九兵衛 日記
冬の味ネブカ汁 …… 齋藤徳元『塵塚俳諧集』
だらり餅考 …… 森春濤「多羅里 餅を売る店―思案餅と呼ぶ」
春を食べる …… 福田夕咲『紅箋録箋』
卵の“ふわふわ” …… 十返舎一九『方言修行金草鞋』
油のような酒 …… 梁田蛻巌 「桂貞輔に寄す」
幻となった真桑瓜 …… 貝原益軒『岐蘇路の記』
郷愁を誘うカレー …… 安藤更生『銀座細見』
うまい秋サバ …… 徳山民謡 板取民謡
常食だった菜飯 …… 『おあむ物語』
コロッケ、青春の味 …… 森田草平『漱石の思い出』
しな漬と、かぶら漬 …… 滝井孝作『折柴随筆』
とち餅を食う平民社員 …… 「平民新聞」
豆味噌文化圏で …… 向田邦子「味噌カツ」
水を量る …… 『尾濃羽栗見聞集』
お好み焼きへの郷愁 …… 高見順『如何なる星の下に』
里と山のタケノコ …… 獅子文六「春爛漫」
西洋料理のこと …… 内田百フ『百鬼園随筆』
蒲焼きを好んだ人びと …… 斎藤茂吉 歌
食事と初年兵 …… 森伊佐雄「新兵日記」
精進落としの鯉 …… 水上勉「美濃谷汲」
甘柿と渋柿 …… 齋藤道三 書状
辛口大根と甘口大根 …… 池波正太郎「真田騒動」
年とりのごちそう …… 江夏美好「下々の女」
おやきの系譜 …… 『飛州志』
いろいろな弁当箱 …… 高田米吉「米吉庵日和」
甘酒のこと …… 興津要編『五文六文』
いかもの食い …… 十和田操「土地官女」
塩煎餅の思い出 …… 滝井孝作「高山の塩煎餅」
お茶について …… 『酒茶論』
大垣の水まんじゅう …… 長塚節「松虫草」
とうふ料理のこと …… 久保田万太郎ほか 歌
にぎり飯の思い出 …… 高見順「敗戦日記」
栗のうまいころ …… 吉野秀雄 歌
鯉と少年 …… 斎藤茂吉 歌
オカラのはなし …… 五十嵐喜広『濃飛育児院』
ごへいもち …… 島崎藤村『夜明け前』
切り漬けのこと …… 江馬修『山の民』
鯛焼き …… 高村光太郎『智恵子抄』
まんじゅう党銘銘伝 …… 池波正太郎『むかしの味』
柳ヶ瀬コーヒー譚 …… 『柳ケ瀬百年誌』
塩イカ煮イカ生イカ …… 島崎藤村『夜明け前』
塩 …… 辰巳浜子『料理歳時記』
かき氷 …… 『枕草子』
旅とうどん …… 松崎慊堂『慊堂日歴』
高山の朝市・夜市 …… 早船ちよ「高山の朝市」
トウガラシの思い出 …… 角田房子『味に想う』
高山のねずし …… 日比野光敏『ぎふのすし』



『郷土史シリーズ 悠久の旅』(岐阜県PTA雑誌『わが子の歩み』連載)道下淳著 2012/12道下郁子刊行 377p

目次:
金華山伝説 因幡社縁起の背景
伊奈婆の大神 日本霊異記の背景
両面宿儺(上) 仁徳紀の背景
両面宿儺(下) 社寺縁起の背景
美濃の一の宮(上) 金属神の背景
美濃の一の宮(下) 梁塵秘抄の背景
美濃の二の宮 伊吹山説話の背景
流浪する美女(上) 小野小町伝説の背景
流浪する美女(中) 和泉式部伝説の背景
流浪する美久(下) 中将姫、照手姫伝説の背景
水を司る女神 泳宮(くくりのみや)伝承の背景
古代安八郡のなぞ 壬申の乱の背景
伊久良河の宮を考える 神鏡奉遷説話の背景
古代の心を探る(上) 神話伝説の背景
古代の心を探る(下) 神話伝説の背景

峠に鎮まる神々
続 峠に鎮まる神々
忘れられた古代の道
大和勢力の美濃進出

将門をまつる神社
防人の道
水没した輪中地帯

吉野神社のナゾ
飛騨の「おばこ」
「おかざき」を追って
青墓の遊女と今様
西行法師の跡を追う
忘れられた信仰
美濃の馬 飛騨の馬
美濃路での水戸藩士
芭蕉は二度来岐した
「ああ野麦峠」
映画化された「夜叉ケ池」
鑑真を招いた美濃僧 映画「天平の甍」にまつわる人物を語る
ふるさとの古川柳 飛騨の巻
川柳でえがく美濃の国(1)
川柳でえがく美濃の国(2)
異聞 飛騨の伝説
濃飛写真事始
隠れた婦人運動家 西川文子
悲劇の親分 弥太郎(上)
悲劇の親分 弥太郎(下)
「赤報隊」東へ
新選組伍長 島田魁(上)
新選組伍長 島田魁(下)
二人の新選組隊土 新選組と美濃
濃飛育児院をめぐる三人
岐阜での蓮田善明 岐阜第二中の教師
正眼寺と詩人 高橋信吉

問合せ先:〒502-0071 岐阜県岐阜市長良982-1 道下郁子様

訃報

 投稿者:やす  投稿日:2013年 2月15日(金)23時04分2秒
  職 場で教鞭を執られた相馬正一先生が亡くなられました(2013.2.5没 83歳)。御存知のやうに太宰治研究家として、山岸外史をめぐっては池内規行氏とは意見対立する一方、私めに於いては、かの編集拙き『夜光雲』をお買ひ上 げ下さった数少ない恩人。御冥福をお祈り申し上げます。

追記:相馬先生の教え子の皆さんが集まり、ご遺族とともに先生を追悼するアルバムのやうなものをホー ムページ上で作成されてをられます。先生の岐阜での御様子を写真などお持ちの卒業生で趣旨に賛同頂ける方には、是非下記サイトまで御連絡を。

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2013年 2月 2日(土)21時02分15秒
  鸕野讃良皇女さま、 御教示ありがたうございました。もちろん『華溪寺』が正しいです。OCRの校正もれでせうか、お恥ずかしいかぎり。火曜日に訂正させて頂きます。
ちなみにcogito1967ではなくcogito1961です。余生をいかに過ごすか計画中。今後とも御叱正よろしくお願ひを申し上げます。
 


ツイッターで呟 くまずいかなと?

 投稿者:鸕野讃良皇女  投稿日:2013年 2月 2日(土)13時05分8秒
  @cogito1967 こんにちは。貴ホームページの梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノートのなかに『華漢寺』と掲載がありますが、多分、『華溪寺』が正しいのではないかと思いま すがいかがでしょうか?
今は水谷弓夫の事を調べています。また、お世話になります。
 

正月十六日夜

 投稿者:やす  投稿日:2013年 1月16日(水)22時17分34秒
  春夜二三更
等間出柴門
微雪覆松杉
弧月上層巒
思人山河遠
含翰思万端

都記由幾者 以川波安礼東毛奴者当万乃 気布能己余非耳 奈遠之可数計利

与板 大坂屋
維馨老尼       良寛


正月十六日夜

春夜 二三更
等間 柴門を出づ
微雪 松杉を覆ひ
弧月 層巒を上る
人を思へば 山河遠く
翰を含んで 思ひ万端

月雪はいつはあれどもぬばたまの けふの今宵になほしかずけり

 

(無題)

 投稿者:やす  投稿日:2013年 1月15日(火)23時36分23秒
   手皮小四郎様よ り、さきの連載の杉山平一先生を語ったところを収めた「聞書きテープ」をお送り頂き、伝説の詩人荘原照子と手皮様の20年前の謦咳に初めて接しました。
 戦前詩壇の当事者御本人の口からポンポン飛び出す固有名詞といふのは語調、アクセントともに格別な響きありますね。ここにても御礼を申し上げます。あり がたうございました。

 また本日は田中克己先生の祥月命日。不肖の弟子もこしかた20年前当時の、不思議な精神状態だった自らを顧みては、人生の区切りとなる本年、不可視のゆ くすゑに思ひをはせて一筆を草してをりました。

『菱』180号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載20回 松江の人々

 投稿者:やす  投稿日:2013年 1月11日(金)11時18分32秒
   鳥取の手皮小四郎 様より『菱』180号を拝受。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 今回の荘原照子伝記連載は、終戦前後の松江在住時代が対象になってゐます。乏しい資料を補填するため、新たに現地に赴いた手皮様が当時の教会関係者にイ ンタビューをされてゐるのですが、紀行的な運筆は導入部に故・杉山平一先生との手紙でのやりとりを配し、昭和初期の布野謙爾・景山節二ら松江高校文学圏を 回想するとともに「椎の木」の分裂騒動が今一度言及されてゐます。さきの「季」97号での木股初美氏の記述はその先生側からの回想であることが判明しまし たが、杉山詩の紹介など特段の配慮をたいへん嬉しく、拙サイトの紹介や、私信で御紹介与りました詩人菊池美和子の御遺族情報も忝く存じました。布野謙爾の プチブル資質をしっかり指摘されてをられるところには、手皮様らしさを感じます。

 さて詩人の在松時代の関係者から聞き取った内容と、詩人自身の聞書きテープとを照合する過程で、聞書きに現れなかったネガ証言として、故意に記憶から抹 消されたと思しき鈴木といふ謎の女性のことが炙り出されて参ります。疎開といふべき田舎暮らしのなか、ハイブロウな芸術論談義を唯一共有できたといふこの 同居人とは時に激しく議論を闘はせてゐたとのこと。すでに詩壇でも名を馳せてゐた彼女にとって一家言ある無名の後輩との共同生活の記憶は、総括すれば余り 快いものではなかったのかもしれません。そしてこの地で洗礼し、正式なキリスト者として終末医療現場に身を置き、患者の心の支へになる一方で、自身の宿痾 も悪化してたうとう長期入院することになったらしい。しかしその費用はどう工面してゐたのでせう?同居してゐた母は?

 死の恐怖・日々の生計と直面するのっぴきならぬ生活を送ってゐた彼女は回復の後、終焉の地となった鳥取へ移住し、手皮様と出遇ふこととなります。存在は 知られてゐたものの永らく確認できなかった当時の写真が発見されるなど、判明した事実と疑問と、鳥取時代に入る直前の時代が一旦整理された格好の今回。羸 弱な体でしたたかに詩作する面影は、聞書きから引かれた当時の歌「コツコツと小鳥の如く叩く音 いばりふと止めわれ応えたり」などといふ一首がよく伝へて ゐるもののやうにも感じました。

迎春

 投稿者:やす  投稿日:2013年 1月 1日(火)01時36分45秒

  今年もよろしくお願 ひを申し上げます。


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