四季の人々      「新潮」(vol.63,No.7,1966.7.1)所載 田中克己

その1(編輯同人たち)

1. 掘辰雄

同人詩誌「四季」の発刊は昭和九年十月のことで、それに先だつて季刊「四季」といふのがあり、これにはちやんと掘辰雄編輯となつてゐる。 この季刊がそのまま月刊となつたわけであるが、わたしは堀さんの雑誌といふのに長いあひだ気がつかず、三好達治主宰と誤解してゐた。季刊の方は店頭で見たおぼえはあるが、 つひに二冊とも買はないでゐるうちに、わたしは大学を卒業し、就職難の中をうまうまと大阪の中学教師になつてしまつた。うまうまといふのは他人の見たところで、 わたしは東京を去るのが大不平、中学の教師も絶対に天職と考へてゐなかつたので大不満であつた。その不平不満の中学教師が通勤の途中、雑誌売場で「四季」を見たときは、 何だか救はれたやうな気がして、すぐ買つてしまつた。
「四季」は最後まで発行部数がせいぜい一千部どまりだつたから、わたしが買つたのであとはその売場にはなくなつたわけである。ちよつと目次を見ただけでわたしを魅惑した創刊号は、 萩原朔太郎の「断章」、室生犀星の詩、佐藤春夫の訳詩、丸山薫、中原中也の話、ついで堀さんのリルケの翻訳、津村信夫、竹中郁、三好達治の詩、桑原武夫のアランの翻訳、 また三好さんの朔太郎詩集「氷島」の批評と、わたしの好きな人、尊敬する人のものばかり並んでゐる。なにこれなら季刊の時と少しも変らないのだが、 よほど東京を離れたわたしはさびしかつたのだと思ふ。
 先ほど同人雑誌と書いたが、この時は同人もはつきりせず、堀さんが季刊の時と同じく自分の好きな人を選んで、たのんで書いてもらつたのに違ひない。 いはば堀さんの個人雑誌ともいふべきなのだが、わたしを三好達治主宰と誤解させたのは、堀さんがこのころ新進作家として有名になり、わたしが堀さんの詩人だつたことを知らなかつたこと以外に、 最後に三好さんの「僕の言葉」といふ欄があつて、あたかも編輯後記のやうに思はせたからにちがひない。今あらためて読むと、この後記は三好さんが
「この雑誌で、読者から詩稿を募るから、君が撰者になつてくれると都合がいい」
と堀辰雄氏にいはれ、今後詩の選をするから応募しろ、といふ至つてはつきりした文章である。堀さんが詩人としての三好さんを盛りたてたとも考へられるし、 忙しいばかりでつまらない応募詩の選を三好さんに押しつけたともとれるが、こんな風に三好さん――相当の怠け者だつた――を動かすところ、 やはり一群の首領たる人徳を堀さんがもつてゐたことを証明してゐる。佐藤春夫先生なども親友芥川龍之介の可愛がつた――そして自分も可愛く思つた堀さんのため、といふので、 季刊の時も書き、この創刊号にも書いてやつたのだと思ふ。序でながらいふが、同人雑誌になつてからも、同人費はとらないかはり、執筆料は一文も出なかつたと思ふ。 刊行者の日下部雄一君はまだ東京のどこかにゐるやうに思へるので、一度合つてたしかめてみたいと思ふ。
 この“堀雑誌”が「四季」である(ただし創刊号以来ずつと、表紙には三好・丸山・堀三氏の名が編輯人として明記されてゐる)。堀さんは思へばふしぎな人で、誰からも好かれた。 そして誰をも好いてゐるやうに思はせた。わたしなどなかなか信用しないたちなので、堀さんが本当に誰をも好いたのか、少くともわたしを好いてゐるのか、たびたび疑問に思ひ、 亡くなられた今となつても時々それを自問してみる時がある.。「文藝」で「堀辰雄読本」といふのを出し、「掘辰雄を好くか」といふアンケートがあつたが、諸家の答は一様に好き、 好きであつた。ただ一人「何とも思はない」といふ人があつて、わたしをびつくりさせたが、それが誰だつたか、罵言を得意とする杉浦明平でなかつたことはたしかであるが、 手もとにこの雑誌をもたないので明記できないのが残念である(大岡昇平かと思ふ)。
 好きな理由はおほむね一目ぼれである。近ごろ出た「堀辰雄全集」(角川版)の第十巻は、「堀辰雄案内」と題し諸家の堀辰雄評を集めてゐるが、 もとより好きだつた人たちの文章ばかりだからこれは問題にならない。しかし堀さんのどこが良かつたのだらう。佐藤春夫先生はこの案内で、
「僕はよい作家としてよりも以前に好もしい人がらの青年として彼を認めたのであつた。温直で高雅な人なつつこい人であつた。 (中略)彼はまるで文学上の叔父さんに対するやうに素直な敬愛の情を示してくれた」
としるしておいでである。この先輩に好かれた人は後輩のわたしたちに対しては、兄さんぶりを発揮した。わたしは昭和十二年信州追分の油屋で彼を見て、一目ぼれした。 そのときまはりには立原道造や野村英夫がゐたと思ふが、この二人があとで喧嘩するのは、堀さんの愛情のとりあひからではなかつたらうか。この時、 廊下を歩いてゐた二人のお嬢さん――加藤多恵さんと恩地三保子さん――のうちどちらかが堀さんの奥さんになるのだと、わたしは感づいてゐたが、加藤多恵さんが掘夫人になつたあと、 わたしは軽いやきもちをこの夫人に対して抱いた。肺病の、青いやせた物いはずの中作家(絶対にドストイェフスキーではない)の、このどこがよかつたのか。
 断つておくがわたしはこのごろになつてやつと堀さんの閲歴を承知した。一高・東大の秀才コースを歩んだ人とは知つてゐたが、東大は仏文だと思つてゐたし、 一高で理乙(ドイツ語を第一外国語とし、医者になるのが多い)だつたなどゆめにも考へなかつた。東大が国文で、卒論のテーマが「芥川龍之介」だなんて想像もしなかつた。 わたしはやさしい親切な文壇(詩壇ではない)のお兄さんとして、堀さんに会ひ、その通りの待遇を受け、死んだと聞いた時、教へ子たちから「先生お悲しみでせう」との悼辞を受け、

「浅間山みねの煙のいつまでもゐますと君を思ひしものを」

との弔電を打つた。
 堀さんは一目ぼれさしたあと、これをつづけさす手をご存じだつた。昭和十七年一月、大東亜戦争の第二次徴用文士としての厚生省の令状を受けた時には、 久しぶりの四季の同人会が開かれることになつてゐた。わたしは半ば昂然、半ば悄然としてこの会に出ると、浦和の神保光太郎も来てをり、同じく令状を受け取つたといふ。 編輯同人(この時は前述三大人に津村、神保、わたしが加へられてゐた〕中から二人をとられたこの日の編輯同人会には三好、丸山二氏は来ず、堀さんだけが来てゐて、 わたしたちの話をきくと
「あとは僕がやるよ」
と仰しやつた。わたしは堀さんを見直したと思つた。そしてその約束通り、朔太郎が亡くなると追悼号を編み、年譜を書き、それからわたしの留守宅へ子供の見舞ひに御夫妻でお出で下さつた。 これは誰にも出来ないことで、わたしはいまだにありがたく思つてゐる。お礼にわたしはシンガポールで買つた漢詩のフランス語訳のきれいな小冊子を持参した。 追分のお宅にこれがのこつてゐるかどうか。十七年の年譜を見ると、堀さんは李白や杜甫をおよみである。偶然かわたしのお土産は堀さんを喜ばしたはずである。
 堀さんが「四季」の主宰であることを知つたのは昭和十九年に用紙統制の為、「不要不急」の出版物には紙を与へないとの制裁を前捏に、 廃刊勧告が「出版統制会」(?)から来た時のことである。堀さんはこの報を受取ると
「仕方がないやね」
と仰しやつて、終刊号を編輯された。三好・丸山の両大人は来ず、津村・神保も来ず、わたしが行きあはせて成宗の堀邸で編輯した。十九年二月六日のことで、 塚山勇三、鈴木亨、小山正孝など若い人も来てゐたが、堀さんは独断専行、執筆依頼者もさつさつとおきめになつた。この号(「四季」八十一号)は六月やつと刊行され巻頭が三好さんの詩、 次がわたしの「四季なきくに」といふ皮肉の詩、神保、井伏の二同人の詩の次に、堀さんはモオリス・ド・ゲランの訳をのせておいでである.終刊の言葉は神保が書いた。 二月は日本軍がガダルカナル島から敗退して、日本の敗北は時期の問題と識者は知つてゐたのである。 堀さんはそんなことより津村信夫が副腎の病気で回復おぼつかないことを話されて暗い顔をされた。この編輯の二月から発刊の六月までに米軍の勢はいよいよ強く、六月はサイパンに上陸、 暗いにぶいわたしをしても悲観失望せしめたが、国内は召集相次ぎ、竹内好のごとき三十五歳の老兵も出てゆく。 わたしも念のため体重を計つてみたら三九キロで生涯の最軽量だつたので兵にもなれないと悲んだ(現在はまた下つて三七キロで、人間はどこまでも痩せられるものだと思ふ)。
 もう一度、堀さんはわたしをして見直させなすつた。昭和二十年二月末、わたしは華北で敗戦国の兵士となつてゐるのがつらく、現地除隊して、北京、 天津をへて地方人として佐世保に着いた。帰宅は三月六日で、幸ひ焼けてもゐなかつた。翌々日ぐらゐから先生、先輩、親友のところへご挨拶お見舞をかねてゆく。 堀さんのお留守宅(追分へ疎開のことは知つてゐた)へゆくとちやうどご帰宅中ただし外出しておいでとのことで、夜参ると堀さんは元気でわたしの兵隊の苦労をきき、 ついで「詩を作るより田を作らう」との決意を長長とおききになつたあと、
「やつばり君は詩を作るんだね」
と仰しやつた。わたしは呆然とこの先輩の顔を眺めて、そのあと再刊「四季」には二度ばかりいやいやの詩を送つた。
 思へば「四季」同人にわたしを推薦して下さつたのも堀さんである。
「田中君はひとりでおいておいたので詩が悪くなつた」
と神保あての手紙にちやんと書いてある。処女詩集「西康省」には長い批評――むしろほめことば――を書いていただいたが、その手紙はなくした。 わたしは堀さんに好かれてゐたのだとこのごろ思ふ。
 堀さんのことでも一つ。堀さんをわたしは永い問、キリスト者だと思つてゐた。多磨墓地のお墓の示す通り、彼は無神論だつたやうである。なるほど大和の古寺や仏教はお好きだつたが、 手をあはせ拝んでゐる様子はない。軽井沢の協会へは「見物にいつて」牧師さんから叱られ、二度とゆかれなかつた話は多恵夫人から承つた。 これは「堀さんは絶対キリスト者でありませんよ」と、毎年一人はあるわたしの学校の国文専攻の女子大学生が、「堀辰雄」といふ卒論を書きながらわたしをびつくりさせたあとである。 知らないで好きになる、これを一目ぼれといふのはわたしの誤用だらうか。

2.三好達治

 三好さんは早くからわたしの詩を好いて下さつてゐると聞いた。「四季」同人にしてもらつたのは三好さんのおかげだと、わたしがまちがへた理由である。 そんなわけで昭和十二年には二人で追分の油屋へ行つて堀さんに紹介してもらつた。この時、さういへば三好さんは堀さんにだいぶ遠慮してゐた、と今になつて気がつく。 この人もしかし人には好かれた。わたしは堀さんの場合とはちがつて、この詩人を詩から好きはじめた。昭和五年に第一書房から出た「測量船」は永い間、わたしの愛読の書であつた。 冒頭に、

  春の岬 旅のをはりのかもめ鳥 浮きつつ遠くなりにけるかも

 といふ名吟があり、中ほどに(題は忘れたが)

  太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪降り積む
  次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪降り積む

 といふのがあつて、詩とはかういふものだとよくわたしは人に講義した。堀さん訪問の前に関口台町のお宅に伺ふと、新婚早々?の奥さんは出られなかつたか、 おぼえがないが、詩人の住居にふさはしい小さい家と小さい庭、しかもその庭には一本の銀杏の木が天までとどくほど生えてゐる。 わたしは早速それを使つて「公孫樹に寄す」といふ詩を作つた。
「我が家に一本(ひともと)あり」とわたしの家に作り直してゐるが、この家からすぐの佐藤春夫先生の家へ、三好さんは連れて行つて下さつて、 おかげでわたしはこの巨匠の門弟三千人の一人となつた。ただし三好さんが二人の子供までなした奥さんと別れたことなどは、いつのことか一向に気がつかなかつた。 思へば次にわたしが三好さんを訪ねたのは、小田原に住んでをられたころだが、奥さんは全然姿を見せられなかつた。 一回など茶を持つて出て来たのが居候してゐた坂口安吾氏だつたとおぼえてゐる。三好さんは実はわたしの話よりわたしの学問の方を認めて下さつた。親友の桑原武夫さんにでも、 篤学の士とお聞きになつたのだらう、小田原の古本屋で見つけた明刊の資治通鑑を一箱贈つて下さつた。わたしはこの貴重本に恐縮したが、お礼も十分いはなかつたやうに思ふ。端本で、 わたしの勉強にはあまり役立たなかつた。その頃、三好さんは某書房から「陶淵明」を出すことになつてゐて、その善い版本を贈つたのがたぶんお礼だつたらう。 借金の名人(桑原博士の説)だつた三好さんはたぶん印税を先どりしてゐたかと思ふ。
 三好さんの破縁の原因が萩原さんの末妹との恋愛だつたことは、今となつては納得がゆくが、わたしはそんなこととは知らず、三好さんとは時々会つてゐる。 おぼえてゐることでは、南方から帰つて来ると、従軍詩集を出せといつて神田の出版社につれて行つて下さつた。折から阿部知二さんが来合せたが、三好さんは横を向いて話さず、 出版社主にわたしの詩集を出すことを承知させた。「南の星」といふので、印税はいくらだつたか、シンガポールの風景を歌ひ、スマトラを歌ひしてその出版でやれやれ肩の荷をおろしたと思ふと、 神田が空襲にあつて、この詩集はおほむね焼けたやうである。
 三好さんから貰つたものがもう一つ家にのこつてゐる。朝鮮の筆箱で、年譜(昭森社、「本の手帖」編輯部編)によれば、昭和十五年に二か月朝鮮に行つてるから、 その時の土産であらう。何をどう見たかはきかず、ただ「これをやらう」といつて頂いた。こんな風な愛情の表現はわたしはあまり会はなかつたので、変な顔をしていただいたらうと思ふが、 戦後、三国に疎開してゐて、突然わたしが勤めてゐた奈良県にあらはれ、「会ひに来い」といふ。当時、養徳社といふ出版社があつて、そこの重役が庄野誠一さんだつたので、 この人を通じての伝言であつたらう。出版社への用事は印税前借だつたらうか。たうとう本は出なかつたと思ふ。ともかく三好さんは大和郡山一の大きな宿屋に室をとり、 なつかしげに話されたあと、翌日はわたしの勤め先まで来られた。三好さんは一目ぼれさす人だと前にかいたが、例外はある。この時わたしの同僚で詩を作るT君は三好さんを見て「あんな顔してたのか」と、 一時に三好さんをきらひになつた。それはともかくこのあとだつたか三好さんは「象徴さんよさやうなら」といふ詩を作られた。戦争中の詩とともにこの詩はわたしの好かない詩で、 わたしはこれで三好さんとは緑が切れたと思つた。それで昭和三十二年に上京してもお訪ねもしなかつたが、わたしの末弟(ドラマ作家で西島大といふ)はよく渋谷のすしや「六兵衛」で会ひ、 わたしのことをなつかしさうに話されるといふので、渋谷へ行く序でに「六兵衛」へ寄つて見るが、もとより会ふこともない。 朔太郎先生の愛女葉子さんが「父・萩原朔太郎」といふ名著を出してお祝ひがあつた。三好さんは宇野千代女史と故蔵原伸二郎さんの間に坐り、わたしは蔵原さんの次に坐つたが、 ほとんど話すこともなくて閉会となつた。その後、わたしはキリスト協会にゆくやうになり、洗礼を受けたといふことを弟から聞いた三好さんは

「それはいけない、それぢや詩も出来ない」

と歎息された由である。前半はともかく、わたしは詩はバイブルの「詩篇」をよむことで満足してゐる。そんなわけでわたしはこの親切な先輩のお葬式には参れなかつた。

3. 丸山薫

 丸山薫さんがそんなわけでただ一人残つた「四季」の創刊以来の編輯者である。わたしはその温厚な性格はきらひでないが、話しにくくつて、堀さん、 三好さんほどはおつきあひが深くなかつた。それでも四谷のお宅に訪ねて稲垣足穂氏が五十銭の借金に来てゐる現場にゐあはせたおぼえがある。丸山さんは苦笑しなが ら五十銭をわたし、ここへの往復の電車賃を引いたらいくら残るかと心配しておいでだつた。やさしい人である。中野区の辺僻にお住ひのころにも訪ねて「三分間待つてくれ」といはれ、 本当に三分間で詩を清書し雑誌社への封筒に入れられるところまで、ポカンと見てゐた覚えはあるが、そのあとどうしたか覚えはない。後で書く津村信夫とは大変お顔がよく似てゐて、 わたしが南方からボケて帰つて来て、歓迎会のあつた時、まづ挨拶し、そのあと津村を見て、おやおや丸山さんが二人ゐると思つた。戦後なつかしくなり、 昭和三十五年かに豊橋のお住まひへたづねてゆくと喜んで下さつたが、「何か用は」といはれるので宿のお世話と古本屋のありかをお教へをといふと、まづ古本屋へゆけ、 そこから宿を紹介してもらへといふことで、その通りした。古本屋にはあまり本がなく、宿は騒しかつたが、わたしはもう一度お訪ねするつもりでゐる。
 萩原朔太郎先生が「四季同人印象記」(「四季」昭和十一年初秋号)といふのを書いておいでなので、 その中の丸山薫さんのところから引いてわたしの知ること少い丸山さんのイメージを補足しよう。
「丸山君と知つたのは、極く最近である。或る日女中が顔色を変へてやつて来て、玄関に恐ろしい人が来て立つてゐるといふ。行つて見ると、それが丸山薫君であつた。 ・・・逢つて見ると、割合に打とけて話をするし、性質が素直で単純なので、すぐザックバランに親しい間柄になつてしまつた。僕は今迄かつて、丸山君のやうに純情の男を見たことがない。 その純情さは、時々いぢらしさを感じさせる位である(下略)」
 野田字太郎氏の「日本近代詩事典」によると、三好さんとは三高で同期だが、一つ年上で、大分県の生まれ。豊橋中学に学び、東京高等商船学校に進んだが、 一年で病気退学、目的を変へて第三高等学校に入学し、東大国文科に進んだが卒業しなかつたといふ閲歴なぞも、その苦労人だといふこととともに、純情を証明してゐるやうに思ふ。

4.萩原朔太郎

 朔太郎先生のことは、昨年前橋へまゐつて大方語つてしまつた。しかしその談話をのせた「朔太郎研究会月報」を読む人は少いだらうし、補足したいこともある。
 先生は創刊号以来「四季」に書いておいでだが、同人と明記されたのは、昭和十一年二月発行の第十五号からである。この号の編輯後記に
「四季は今月から組織の上に多少の改変をした。これまで同人であつた、三好、丸山、堀、津村、立原の五名に事実上同人同等の厚志を寄せて貰つてゐた九氏を加へて、 いまここにはつきりと四季同人として発表する」
とある。この後記は誰が書いたのか、どうも神保光太郎の文章のやうに思はれるが、新同人九名は井伏、萩原、竹中、辻野、中原、桑原、神西、神保とわたしとであつて、 大詩人朔太郎はやつと同人になり、犀星先生はまだ加へられてゐない。きびしいものである。順序からいへば、いつのまにか同人になつてゐた津村、立原のことを述べるべきだが、 筆の具合で朔太郎先生のことを述べる。
 先生は明治十九年十一月一日のお生まれで、亡くなられたのは、神保とわたしとが南方に行つてゐた昭和十七年五月十一日であるから数へ年で五十七歳、満五十五歳何か月であつた。 今の年齢でいふとその通りなのだが、先生は早くからサバを読んで二歳若くいつておいでだつたから、わたしなど新聞の訃報をシンガポールで見て、例の通り新聞のまちがひと判断した。 年のサバなぞどうでもよいが、先生の詩人であることは(詩人には現実の美化、醜化、いづれを問はず現実と空想とがはつきりしない特徴がある)、早くから知つてゐながら日本一の詩人、 従つて日本一の“うそつき”であることはわたしなどこのごろやつと発見した。三好さんはもとより堀さんも詩人としては犀星よりも春夫よりも朔太郎を買つてゐたことは、 まぎれもない事実であるが、わたしはなかなか気がつかなかつた。三好さんの詩に「師よ、萩原朔太郎」といふのがあり、

 いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
 旅行嫌いの漂泊者
 夢遊病者(ソムナンビユール)
 零の零
 そしてあなたはこの聖代に実に地上に存在した無二の詩人
 かけがえのない 二人目のない唯一最上の詩人でした

 といふ一節がある。これは先生の弔歌だと思ふがいひあててズバリである。ただしわたしはこの詩人の詩はひとつも読まず、三好達治、安西冬衛、西脇順三郎、 佐藤春夫などから詩を勉強して、詩人といはれるやうになつた。昭和十年の六月、先生は大阪放送局で「蕪村の詩精神」と題する講演をするため、御下阪になつた。 他にも話人たちの下阪があつたので、関西在留の詩人の大歓迎会があつた。数十人集まつて会が終つたあと、前の年に詩集「わがひとに与ふる哀歌」を出し、 先生から激賞された伊東静雄と小高根二郎と三人ならんで、先生に近づいた。初対面のわたしを先生に紹介してくれたのは、たぶん小高根二郎であつたらう。 先生はわたしを一瞥すると横を向いてしまはれた。わたしは「先生に嫌はれた」と思つて早早に帰宅した。 もとより先生が大阪府中河内郡三木本村(大正村)南木ノ本を故郷とした医師密蔵氏を父として生まれられたことなぞゆめにも存じなかつた。前橋の血統(母方)の人と思つてゐたのである。 同じく「四季」の同人でありながらと思はないでもなかつたが、わたしは認められないままに安心して帰宅したのである。(のちに先生の嫌人癖を識つて、 そのころから好かれだしたのでよけいうれしかつた)。
 先生とわたしとの間に交際――師弟ではない――関係が結ばれたのは昭和十三年七月に教師をやめて、上京してからであるが、それにもだいぶひまがかかつた。 わたしは四年半の退職手当百五十円だけをもつてゐて、妻子と妻の実家に居候し、「コギト」の同人費はかんべんしてもらつて、処女詩集「西康省」の印刷にとりかかつた。九月十七日、 コギトの会を新宿でしてゐると「颯々と眼の下の道を」先生がゆかれるのが見えた。十九日には詩集が出来上り、二十三日の四季の会に参ると、三好さんが宇野千代さんを連れて来、 やがて神西、津村、神保、丸山、阪本越郎の諸氏も見えた。犀星、朔太郎先生はやや遅れて見えた。これらの人人に出来上つたばかりの詩集を進呈する。 バラバラめくつた人もあつたらうが何もいはれない。やがて朔太郎先生がクダを巻き出された。要点は「春夫、大学、耿之介の三人は怒りつぽの三すくみでつきあひにくい」とのことで、 わたしは目を丸くして聞いてゐた.会のあと三好さんはわたしを新橋の「久兵衛」といふ店に連れてゆかれた。ここには河上徹太郎、佐藤信衛と「文学界」の二同人がゐて紹介される。 職をなげうつて詩を作りに来た勇ましい奴だといふのがその紹介の語であつたらうか。佐藤さんは内藤湖南先生のことを盛んにほめられた。わたしが東洋史学専攻と自己紹介したからであらう。 わたしはわが意を得たりと喜んで聞いてゐた。
 二十四日は秋季皇霊祭といふ日であつた。わたしはこの日も偶然みちで先生に会つた。先生は前日お目にかかつたわたしの顔と見るとそつぽを向かれたので、 近づいて挨拶しようとしたわたしも早早に逃げた。この時は新婚の御夫妻づれであつたのではづかしがられたのかも知れない。新婦は詩人大谷忠一郎氏の妹美津子氏で、 御結婚は四月だつたのである。
 十月二日ごろには詩集寄贈の礼状が来だして、「怒りつぽ」の一人日夏耿之介先生からは「寒鳥」「多島海」「植木屋」の三作をほめて来られた。 斎藤茂吉先生からは簡単な受取りのハガキのみであつたが、読んでいただいたことは後で判明する。
 十月十六日には保田與重郎の結婚披露宴が東京会館であつた。参会者は朔太郎、春夫両先生をはじめ、倉田百三、中河與一夫妻、川端康成、林房雄夫人、外村繁、亀井勝一郎夫妻など、 おほむね当時新しく出来た「新日本文学の会」の人と「コギト」の旧友とであつたが、朔太郎先生はもとよりお話しかけも下さらなかつた。 同月二十四日に津村信夫(後述)を目黒の宅に訪ね、つれだつて丸山薫さんを訪ふと「萩原さんは中野に転居された」とのことだつた。 その場所などはくはしい伊藤信吉氏「萩原朔太郎像への照明」にもしるされてゐない。
 年が明けて昭和十四年、四季杜で中原中也賞銓衡会といふのがあつた。三好、丸山、津村、神保とわたしの五人しか集まらなかつたが、ハガキで推薦状が来てゐて、 わたしの「西康省」を推薦した六人の中に萩原先生があつたので、わたしはふしぎがつた。同点だつたか次点だつたか競争相手の立原道造はこの時もう危篤だといふので、 二月十二日の決定の会では室生、竹村(後述)、堀、神保、阪本、三好、わたしたち相談のうへ、第一回の受賞者は立原ときまつた。わたしはもとより異存なかつた。
 こんなわけで朔太郎先生には詩は認めてもらへたが、人間を認めてもらふやうになつたのは、この年七月二日に有楽町の帝国農会の地下にあつた喫茶店「パノンズ」で、 先生の詩の講義が開かれ、わたしが「四季」の他の同人とともに助講として出席するやうになつてからであつた.先生のお気に入つたのは、わたしの出席率がよかつたことが第一だつたらう。 この御講義は十年に出された「純正詩論」の書き直しのため、明治大学で講義をされたが、一向に受けないので「君たち専門家の意見をきく」といふことで、 「四季」会員を集めて行はれたのである。一、二回は夏のこととて地方から会する者もあり、 中にフイリッピンのレイテ島で軍医として戦死した薬師寺衛(本名倉田淳之助)など京都から来た者もあつた。しかし明治大学でと同じく、一向に受けなかつた。皆、 朔太郎見物に来たかとわたしは考へたが、わたしももとよりその一人であつた。先生は助講たちに協力を求められたが、津村、神保みな何もいはない。わたしは
「田中君、中国の詩の大体を説明してくれないか」
といふ先生のご命令に応じて、詩経が四言を主とし、晋唐より七言、五言が主となり、脚韻だけはそのはじめからあるのだ、といふことを簡単に説明しはじめると、意外にも先生は、 はじめて聞いたといふ風にノートをおとりになつたので恐縮した。伊藤信吉氏によればこの会は十一月五日で終つた由であるが、二回以後はおほむね新宿の「エルテル」といふ店で開かれた。 武蔵野館の筋向ひにあつた喫茶店である。会の名も二回目に先生の発議で「パノンの会」ときめられた。発会の場の「パノンス」にちなんだのであるが、 「スなんかいらないやね」といふのが先生の理屈で、わたしを非常に喜ばした。ついでながらパノンスといふ片かなはわたしの字引には見つからない。 パンノンならフランス語の「槍につける小旗」である。
 これから先生と親しくなつたわたしは、会ふたび話していただけるやうになつた。パノンの会以外にも中河與一氏の「文藝世紀の会」といふのがあつて、そこでお会ひすることもある。 詩人の団結を計らうといふ会もある。草野心平氏の「蛙」の出版記念会などもある。これらの会のあと、わたしは二次会ではかならずといつていいほど先生のおともをした。 このころになると「先生を見る」のと「聞く」のとが半々になつた。詩の話を聞くのではない。聞きとりにくいほど小さい声で、愚痴をこぼされるのである。 愛娘葉子さんが「悪い恋愛をしてゐる」と聞かされたのはいつか(葉子さん、この悪い恋愛はもう書き終へなすつたらうね)、毎日のお小遣ひは十円で「田中君、 僕にばかり払はさないで君も時には払へよ」と叱られたこともある。第三次の会にお金が必要だつた時だらう。わたしは恐縮してますます先生が好きになつた。 小高根二郎君が上京してともに先生を呼び出し、「君もたのめ」といつて先生にむりに書かした色紙は今も残つてゐるが、小高根君が先生の詩について何も知らないわたしに、 彼の暗誦してゐる一行を言つて書いていただいたのである。先生の手品は一度見て失笑した。先生はこの失笑で気を悪くして、その後わたしのゐるところでは手品をなさらなくなつた。
 先生の「恋人」を見たのは、昭和十五年のことか、新宿の呑み屋で働いてゐる女性で、
「田中君あの人をどう思ふ」
ときかれ、ふしぎがるわたしに先生は
「僕の好きな人なのだ」と仰しやり、
「先生、あんな人のどこが良いのですか」
といふ質問に、先生は
「大きな声をするな、聞える」
とあわてられた。本当にわたしは先生の弟子ではなかつたと思ふ。

 わたしは今、この時の先生と同じく数へ年五十六歳、本当に自分のにせものであることを痛感する。パノンの会のあと、武蔵野館の前を歩いてゐて
「田中君あの三人の中どれが好い」
ときかれ、あわててその三人連れの少女を見ようとした時には、もう行き過ぎてゐた。先生は
「君、よくそれで詩が作れるね」
とわたしをおたしなめになつた。その通り、このごろわたしは詩は作らず、女性はひとりむすこの嫁にどうかといふ点でしか見ない。にせ詩人だつたことが明らかでないか。
 世田谷中原(いま世田谷代田と駅名が変更になつてゐる)のお宅へ伺つたことは数回。「朔!」ときびしい声でお呼びになる母堂に、先生は「ハイ」と答へて、 すなほに奥へ入つてゆかれた。よほどこはいお母さんだつたと見える。二番目の夫人との離婚もお母さんとの折合ひがうまくゆかなかつたからだと聞いた。 この御離婚のあと、わたしが先生を訪ねると
「この間、君のおかげでひどい目に会つた」
との仰せである。わたしが合点のゆかない顔をすると、玄関で「田中」といふので通したところ、某新聞の記者で、御離婚をタネに先生をゆすつたといふのである。鈴木、田中と多い姓である。
「田中克己はお電話ではつきり申し上げてないと、伺ひませんのに」
とわたしは先生にさかねぢをくはした。
 前述のやうに昭和十七年一月、神保とわたしとが南方へ徴用された時には、先生はもう面会謝絶をしておいでだつた。御病気は何だかしらないが、わたしは丁度、 編輯の当番になつてゐたので、先生をお慰めする特輯を提案し、桑原武夫氏と保田與重郎の二同人がそれを果してくれた。わたしはシンガポールで先生の死を聞き、 そのあと先生のおはがきを頂いた。四月二十六日附で、亡くなられるわづか二週間前のものである。小学館発行(昭和十八年)の「朔太郎全集」は三好達治氏が頑強に主張されたにも拘らず、 日記書翰集を欠いてゐる。わたしあてのこのハガキも書翰もなくなつてしまつた。三好さんが「後ではむりだ」と犀星先生をどなられたのも当然であつた。 ただこのハガキは「コギト」一二六号の「萩原朔太郎先生を憶ふ」といふ文章に写されてゐて、

 御近況想像して羨しく存じます。いつか御令閏が遠方から土産を持つて見舞に来られ御厚志恐縮しました。小生の病気その後追々悪化し、目下は病床中に絶対安静、 万事人手を借りてゐる仕末、医師からは重態を宣告されてゐる有様、日夜の苦悩、床中で泣きわめいてゐる惨状、御哀憫下さい。

 といふのであつた。さて拙妻の土産は何だつたかは同じ文章にあるお手紙で知られる。これは二月十日附で、

 寒中御見舞申上げます。
 「四季」二月号の編輯後記を拝見。君を始め同人諸君に御心配をかけて居る様子で、たいへん恐縮に存じます。小生の病気も旧冬以来大分長びいて居ますが、 別に憂慮すべき状態ではなく、ただ一種の習性的な全身衰弱症で、いはば虚脱ともいふべきものです。しかし身体非常(に)疲労し、夜間睡眠困難で昼間も常にうとうとして居る有様で、 神経衰弱のため、いつも目まひがして呼吸が苦しく、そのため一歩も外出が出来ません。医者は転地をすすめますが、今の状態では、 あの寿司詰めの満員列車に乗ることはとても恐ろしくて出来ません。訪問客と対話することも非常に苦しく、五分もすると目まひがして倒れさうになるので、用件の客にも一切逢はず、 面会謝拒を続けて居ます。一日の中の大半は寝床に居て、時々炬燵にあたる外、何物も為ずに暮して居ます。ただ睡眠薬の代用として、 酒だけは毎夜床中で飲んで居ますが、それも近頃は手に入らないで困つて居ます。君の方 で御都合がついたら、少々御配慮していただけると有りがたい。

 とあつて、先生の病気がノイローゼだつたことを示してゐる。妻はこの手紙を見るとすぐ、わたしに配給になつてゐた酒をもつて伺つたのである。 このつづきにはわたしの詩文集「楊貴妃とクレオパトラ」の読後感をしるされ、透谷賞に推薦して下さつたことが記されてあつた。読後感は何であつたか、 ともかくわたしは第五回の透谷賞を伊東静雄、大山澄太の二氏とともに受け、この賞はこれが最後であつた。
はじめに先生をうそつきとしるしたが、それは昨年、前橋へはじめて参つて承知した。 故郷の人のつれなさを詠ずる「純情小曲集」は先生の詩集の中でも一番わたしの好きなものであるが(わたしは先生が亡くなられてからそのお作を読みはじめた)

  いかなれば故郷のひとのわれに辛く
 かなしきすももの核を噛まむとするぞ

  といふ「公園の椅子」などから、想像してゐたのとは大ちがひで、先生は前橋の名医の坊やとして大切に扱はれてゐた。 先生の父君もこの「仕方のないむすこ」が「日本一の詩人」と入沢達吉博士から聞いて、大切にされた(妹君津久井夫人のお話)などから、 先生の話はみなこの悲観や被害妄想から来ることを知つた。
 伊東静雄は悲観の点ではちよつとちがふが、被害妄想の点では似たところがあつた。だまされたのをわたしは快くうべなつて、先生こそ日本一の詩人だと確信した。

5. 津村信夫

 昭和七年の「毎日年度人名錬」といふのを見ると、「津村秀松、兵庫県、東京高商、法博、大阪鉄工所取締役会長、外三会杜重役、神戸市籠池通七ノ一〇」とある。 この秀松博士が津村信夫の父君で、のちに朝日新聞記者として「Q」の筆で、日本映画の各作品をコテンコテンにこきおろした秀才津村秀夫は詩人の賢兄である。お父さんにとつては、 賢兄より愚弟の方が可愛かつたらう。彼の目黒の家をはじめて訪ねたのは昭和十三年の八月二十六日であるが、芝生の広い前庭と、つたをからませた洋館にわたしは目を見張つた。 ただし奥さん(もう結婚してゐたと思ふ)は留守を告げられたので、辞去し、初対面は九月十三日、立原道造からの速達で、「明日四季の同人会をする」と承知し、四季杜で会へた。 いかにも金持の坊ちやんらしく、おつとりとしてゐた。立原は明日から岩手へゆくといふので、わたしは送別に中村屋へつれていつて中華饅頭を食はしたが、 津村は岩手をわたしほど遠い国と思つてゐなかつたらしく、四季杜で別れたままですましてゐた。そんなわけで「淡淡タルコト水ノ如キ」君子の交はりをつづけてゐるうちに、 犀星先生が彼を愛されていつも「ノブスケ」と呼んでおいでのことなど承知した。実は令兄Qさんももと詩人で、昭和八年かに新しい詩人の代表として六人を「詩と詩論」(シュールレアリズムの季刊雑誌、 春山行夫ら編輯)がピックアップした時、いま弘前で教師をしてゐる川村欽吾、行方不明の酒井正平(文化学院の学生だつた)、富士宮で大きな酒屋をしてゐる加藤一と、 津村兄弟とわたしとがその六人になつた。同じジェネレーションといふのはなつかしいもので、今でも忘れないが、加藤君は訪ねて行つても嬉しさうな顔をしなかつたし、 Qさんも話は忘れたやうな顔をしてゐる。
 ともかくシュールレアリズムの詩人として選はれた中に、津村兄弟とわたしとは、ちよつと首を傾けさせる作品を見せた。津村秀夫の詩は忘れた。信夫の詩は、

 小扇   かつてミルキイ、ウェイと呼はれし少女に

 指呼すれば、国 境はひとすじの白い流れ。
 高原を走る夏期電車の窓で、
 貴女は小さな扇をひらいた。

 といふたぐひのもので、わたしは今も好きである。「四季」創刊号から書き、いつのまにか同人になり、編集同人として働き、わたしが南方呆けして帰つて来たとき、 丸山さんと見ちがへたあと、会ふこともなかつたが、「四季」廃刊のあとの昭和十九年六月二十七日に、鎌倉で死んだといふ通知が来た。わたしは先づ堀さんを訪ねると、軽井沢と。 仕方なく「この非常時に」としぶしぶ三十日の葬式に出ると(わたしは式が大きらひなのである)、室生さんが葬儀委員長で川端康成、茅野常々、佐藤信衛ら会葬者少数で、式後、 秀夫氏が「アヂソン氏病といふ直らぬ病気で」と挨拶された。わたしの辞書には(よほど辞書が好きだと思はれるだらうが、頭の中の字引である)アヂソン氏病といふのは、 なかつたので怪訝な顔をしたまま、早々にわたしは鎌倉を逃げ出した。日本の敗戦は全く決定し、各地で戦死全滅相次ぎ、他人の生死なぞかまつてをられない時節だつたが、 わたしは遺族弥生ちやんを長く見るに耐へなかつたのである。実はわたし自身この前年、満二歳になつたばかりの次男をなくし、その哀しみをまぎらすのに困つてゐて子供は見たくなかつたのである。
 津村信夫とはそんなわけで「四季」同人でも親しいやうな、親しくないやうな仲であつたが、もう忘れられたかと思ふこのごろ、彼の文集が二冊出版された.保田ら「日本浪曼派」、 「四季」「コギト」の連中の本ばかり出したグロリア・ソサエテから出た「戸隠の絵本」はわたしも好きだつた。津村信夫を見直してもらへればありがたい。 しかしお嬢さんはもう奥さんになつたのだらうな。それより若いはずのわたしの長女がもう丸々とした赤ん坊を産んだのが去年だもの。 (ひまに「映画と批評」といふ津村秀夫氏の本を読んでゐたら、わたしを泣かせた「弥生」といふのは秀夫氏の長女で、信夫の姪である。 信夫の嬢は初枝と(犀星「我が愛する詩人の伝記」)。一度合ひたいものである。)

6. 立原道造

 「四季」初期同人のしんがりは立原道造である。津村信夫が明治四十二年生まれで、わたしより二つ年上なのと反対に、立原は大正三年生まれで、わたしより三つ年下である。 わたしはこの後輩を愛した。堀さんや室生さんから可愛がられてゐるのにもやきもちがやけないほど愛した。昭和十二年には東大の工科を卒業して石本建築事務所につとめ、 大建築の設計原図を一つ書いて(本人の話)喀血し、休職となつて追分の油屋にとまりこみ、五月には「萱草に寄す」といふ詩集、十二月には「暁と夕の詩」を出した。 詩人としてはわたしよりは早熟で大成したわけだが、わたしはやきもちを焼かなかつた。前述したとほり昭和十三年にわたしが上京すると、彼は一見旧知のごとくわたしを案内してくれた。 日本橋の商家に生まれ、旧制一高に入るところ、堀さんとは似た境遇で、堀さんから可愛がられたのも当然だが、父を早く亡くしたのではないか、先輩にはよく仕えた。 わたしもある時は先輩として、ある時は同時代人(コンタンポレーヌ)としての待遇を受けた(内心では田舎ものと軽蔑してゐたかもしれぬ)。「四季」には第二号に「村ぐらし」といふ短い詩を沢山、 四頁にわたつて書いて以来、同人としての待遇を受けたのだと思ふ。大学の工科の一年生として、詩を書くなんてふしぎな男だと思ふが、前述のごとく卒業して工学士となつたのだから、 数学も物理もよく出来たのだらう。結核は堀さんから感染したのでもなささうだが、堀さんが同じ病気で、仕事をしておいでなのが、彼の気を楽にさせると同時に、むりをさせたのだと思ふ。 近ごろ気がついたが結核は早期に発見され、国費で療養をさせられるので、「立原道造が結核で死んだ」といふことは、たいへんロマンチックに感じられるのださうである。 しかしパスも外科手術もないこの時代では、安静にして自然に直るか、むりをして忽ち死ぬかのどちらかだつたのである。立原は安静にすべきところを、詩を作つて死んだ。 しかし詩人としての名をのこしたのだからいいといふ人もあるだらう。わたしの日記に出て来る彼は、今から思へば死を急ぐ人としか思へない。死後すで出た彼の三巻の全集中、 長い名文の手紙が一巻を成してゐる。この努力(わたしなどハガキをかくのがせいぜいである)。体重はいまのわたしくらゐで、大学卒業の年に受けた徴兵検査では丁種不合格であつたが、 彼はそれを意に介せず、旅行をし、交際をし、恋愛をした由である。
 わたしとの交際は前述した昭和十二年の追分油屋ではじまり、十四年の三月二十九日には、二十六歳(いまの数へ方では二十四歳)で亡くなつてゐるのだから、短い淡いものであつた。 死ぬと「四季」は特輯号を出したが、この時、堀さんはまた喀血、発熱で書けず、年譜を神保光太郎が書いた。それによれば水戸藩の大儒立原翠軒ならびにその子画家杏所につないでゐるといふから堂堂たるものである。 わたしがそれを写して一文を書いたら、さつそく千葉周作(幕末の剣豪)の孫といふ女性からたよりがあつて、会つて話したいといふ。戦争中の忙しい中を会ふと、立原杏所は子なく、 娘が千葉家へとついだのだけだから、道造は翠軒・杏所両先生とは無縁だといふのである。あるひはさうかもしれない。彼はある日、わたしに名刺をくれたが、 その裏のアドレスは浦和市某所某番地ヒアシンスの家とあつて、いくぶん恥づかしげに「近々そこに建てます」といつたが、なに頭の中ではもう建つてゐたのである。 恋人がこの追悼号に書いてゐる水戸部アサイといふ女人だとしたら、彼が最後に近いころには約束の見舞をすつぽかし、痰がのどにつまつた臨終には看護婦ともどもゐあはせなかつたので、 恋人かどうかも怪しい。
 ここまで書くと編輯者がお越しになつて「四季」の運動について、重点を置いてもらひたいといふことである。「運動」だつて──立原は短い一生に血を吐き熱を出しながら、信州、 伊豆、土浦、紀州、京都、奈良、山形、盛岡、山陰、長崎へ歩きまはつた。文学運動にか、いな詩を作り、死ぬためである。肺病の堀さん、気の弱い三好さん、温厚な丸山さん、 津村君に運動などあるはずはない。ただ第一次大戦後、大分おそくなつてから日本に来たシュールレアリズム(詩形破壊)とマルクス主義の詩(「文学より政治を」)への反動としてなら、 幾分の意義があらう。堀さんは、「驢馬」の同人中野重治、窪川鶴次郎、佐多稲子などみな左傾(社会主義化)した中、ただ一人藝術至上を考へてゐた(唱へなどしない)人であるし、 三好、丸山二氏は「詩と詩論」から脱退して「詩・現実」といふ季刊誌に拠つたシュールレアリズム、キュビズムなどモダニズム反対の人だつたからである。 これらの人たちが萩原さんを中心にして集まり、しかも主導権が堀さんにあつたのが、初期の「四季」である。
 執筆者の顔を見ればそれはもつと明瞭となる。創刊号の大家たちはすでに列記した。二号から第十二号までで主なものをひらつてみると(第二次同人─既述─をのぞく)、 増田篤夫(この人の経歴をわたしは知らない)、乾直恵、室生犀星、宮澤賢治(遺稿)、茅野蕭々、堀口大学、佐藤惣之助、小穴隆一、永井龍男、福原清、蔵原伸二郎、宇野千代、佐藤朔、 瀧口武士、北川冬彦、稲垣足穂、富士川英郎、千家元麿、草野心平、保田與重郎、淀野隆三、山岸外史、笹澤美明、片山敏彦、河上徹太郎、丸岡明、澤西健(生死不明)、岩佐東一郎、 菊岡久利、村野四郎、内田忠、伊東静雄等である。ただし第十一号には編輯後記(無名、日下部雄一君?)があつて、「四季誌上に編輯同人の方々がどうしてもつと書かないのかとのお叱りを屡々受けますが、 今月号にも、掘辰雄氏は御病気のため、丸山薫氏は御旅行のため何れも御原稿を頂くことが出来ませんでした」とのわびごとがある。変な同人雑誌である。 なんとかしなければならないと痛感したのは、たぶん堀さんであらう。

その2(つれづれの記)

 「四季」は前述したとほり、第十五号(昭和十一年二月号)から同人がふえ、同時に神保、津村の二人が編輯同人となつた。津村のことは前に書いた。 神保光太郎は山形に明治三十八年生れた。津村やわたしよりちよつと年上である。京大独文科を卒業、北川冬彦の主宰する「磁場」や「麺麭」などに加はつたのち、 「日本浪曼派」の創立者の一人となり、ついで「四季」の編輯同人となつたのである。堀さんや三好さんとちがひ、その点、政治への関心が強く、第十七号の後記にみづから、
「四季のやうな、いはば甚だおつとり構へた雑誌の編輯を僕のやうな何かいつも闘つてゐたい人間に委ねることは尠からず危惧の感もあるだらうが、人徳家津村がついてゐるし、 三好、丸山、堀の旧編輯者の後見もあるから安心の由。」
 と書いてゐる。この号の出た昭和十一年三月は二・二六事件の直後で、政治に関心をもつものならば国内改革ないし革命を考へてゐたわけであるが、 二・二六の青年将校と同じく天皇革命の気分も強くなつて来る。そんなこととはよそに「四季」のこの号は朔太郎先生の「純正自由詩論」をトップに、中原、竹中二同人の翻訳、 三好、田中、津村の詩につづき、辻野、堀二氏のエッセー、桑原さんのアランの「詩論」、これについでまた立原、神西、井伏三同人の詩のあと、「四季」会員の詩がのつてゐる。 「四季」はそのはじめから、詩誌によくある会員、すなはち定期購読者をつのり、その資格があれば投稿を許し、その中の二、三を三好達治氏が選んで誌上にのせることにしてゐた。 これがいまでも詩誌の経営の奥の手なのではないかしら。
 さてこの号の会員の詩のトップは葛巻ルリ子。珍しい苗字だから芥川龍之介の甥葛巻義敏氏(堀さんとともに「芥川全集」の編輯をした)の令妹と気がつけば普通だが、 わたしは一向にそんなことも無頓着でゐるうち、二十年たつて、芥川るり子といふ方が詩集を出したから出版記念会をするといふ通知が来た。「四季」と縁故のあつた人だといふだけで、 ノコノコ出かけると、これが旧姓葛巻さんで、いまは芥川比呂志さんといとこ夫婦、芥川さんは照れながら主賓席に坐つておいでだつた。堀夫人も列席、 あとは誰もゐないので年よりのわたしが乾盃の音頭をとつた。老いたものである。
 神保、津村編輯の「四季」第二期の巻頭は前述のとほり、朔太郎先生の「純正自由詩論」で、これが先生の「純正詩論」(昭和十年四月、第一書房)の要約ないし書き直しで、 前にのべた明大の講義もこの線のものだつたかと思ふ。

 学校は卒業したがどうしても食へないと言ふ杜会を知つた

 といふ“三十一文字”をお引きになつて、これが詩歌の範疇に入らないことから説き起し、詩の本質をまじめに考へ論じておいでである。しかし日本語の本質から、 外国流のメカニカルな韻文には適しないとして、無定形自由律(ボードレールによる)を主張しながら、その例として古事記の神武天皇作「みづみづし久米の子等」を引き、 次に日本武尊の歌を引くなど二・二六事件の世相がこの世捨人にも反映してゐるのを顕著に感じる。
 先生は内在律を強調しながら、また音楽効果を重視され、百人一首に出る人磨の、

 足曳きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかもねむ

 は「の」の押韻、

 瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて尚きこえけれ

 は「な」の押韻と論定しておいでなのは、先生らしく大変奇抜だが、わたしなどフフンと笑つただけですましてしまつた。申しわけないことで、 何が詩かといふことをもつと論じあはねはならなかつたのだと思ふ。
 ついでながら先生の「郷愁の詩人與謝蕪村」は、この論文のあとで出た(三月、第一書房刊)が、永い間わたしの愛読の書であつた。 詩人でなければいへない蕪村のかんどころをよくつかんでおいでである。ただ先生のいつものくせで誤読しておいでなのが、一層先生の御面目をあらはして、 名著たらしめてゐる旨は八、九年まへになつて読み直してざつと書いた(栗山理一等編「蕪村・一茶」昭和三十二年、角川書店、古典鑑賞講座)。
 朔太郎先生の次にならんでゐる中也の訳詩はアンリ・シャルル・リードといふ一向に知られてゐない詩人だが、

  私は神が、私の生れる時には
  あんまり身を入れられなかつたと思ふ、
  神が私に下された心臓(こころ)といへば
  それは最初から、あんまり古ぼけたものだつた

 といふ一章からはじまつてゐて、リードよりむしろ訳者に当てはまる詩である。彼がこのころカソリック信者をもつて任じ、子どもが死ぬと、仏教になり、 彼が死ぬとその夫人の新しい御主人が中也賞の賞金を出してくれたことは、前述したことの補ひにならう。この中也賞の提供者も早く逝かれたか、戦争中、 中也未亡人は軍人の奥さまになつてゐたと思ふ。それ以外の中也は面接もなかつたわたしは、ただ愛読者としてしか語れない。

 とまれ「四季」第二期を形づくつた新同人十人の中、わたしの一番よく識つてゐるのは桑原武夫博士である。 三好さんとの厚情から「四季」にいままでもよく書いてをられたのが今度は同人になつてフランス風のエッセーをお書きになる。「君山先生」といふ文章は、この間、 本になつた「人間素描」にのつてゐるので再読したが、同人になつてから大分あと、昭和十二年の「四季」にお書きになつたもので、 危篤の父隲蔵博士を狩野君山(直喜)先生がお見舞になつて落涙なさつた場面など、両博士の友情をよくあらはしてわたしを感激させた名文である。
 武夫博士とはわたしの母校のフランス語の教授として仲好くしていただいたから、わたしが処女詩集をパリ(当時留学中だつた)にお送りすると、受け取りのハガキをいただき、 それを共産党の大詩人(名は忘れた)にお見せになると「なかなか宜しい」との評があつたことをエッセーで拝読した。その話は例の三好達治さんの公孫樹のある家の詩だつたのである。 この共産党の詩人が別荘をもち、ゆたかなくらしをしてゐることも、桑原さんは驚いてしるし、わたしをも驚かせたが、中野重治氏が別荘をもつてゐるいまならおどろくことはないだらう。 武夫博士は二、三年まへ学術会議の副議長として、わたしの恩師のお葬式に会葬しておいでなのを遠望してびつくりした。白髪になつておいでなのである。
 わたしをして桑原さんに近づけたのは、実は申しわけないが、父博士の東洋学である。内藤湖南、白鳥庫吉など東洋学の創始者につづいて、深い広い研究は中国の人をおどろかせた。 代表作「蒲壽庚の事蹟」は永久にのこるであらう。わたしは東京大学出でありながら、湖南、隲蔵博士を好いて、そのあとを継がうとの大望をもつて昭和十三年に職をなげうつて上京する。 わたしの恩師は東洋学に不勉強なわたしを「文学をしに上京した」と思つてふりむいて下さらなかつた。そのあと「文学をやめます」といふと、お世話下さり、 ついでわたしの詩が雑誌や新聞にのると、「どちらかきめろ」とお叱りになり、三度目には「君は両方ともやれるね」とお許しいただいた。わたしは武夫博士の白髪と恩師の温情とで、 そこそこに退去したので、武夫博士との旧交は復活しない。もとよりわたしの怠惰のいたすところだが、「四季」同人のつきあひはみなそんな程度だつたかなと思ふ。

 「朽助のゐる谷間」で小説家としてデビューした井伏さんを「四季」に引つぱつたのも堀さんの人徳であらう。もつとも井伏さんが詩を作り詩が好きなことはだんだんわかつたが、 この先輩にはわたしは好かれなかつた。
 中也賞の候補に推薦して下さつたので、元気を出して、村上菊一郎君の附添ひでお宅へ参ると、将棋をさしておいでである。「田中君いつちやうやるか」といはれて、 わたしはおぢ気づき早早に退去した。シンガポールでも数か月一緒にゐたわけであるが、わたしはこの先輩がこはくてならないのである。 「阿佐ヶ谷あたりで大酒を飲む」といふ風にならなければ附きあつていただけないと覚悟してゐる。こはいといへば太宰冶がこの先輩を大いにこはがつた。 思へばわたしも太宰と同じ病気なのである(診断書を見せませうか)。井伏先輩のせゐでないことを明らかにしておく。

 神西清さんは堀さんの一番の親友であらう。この紳士はわたしをこはがらさず、失職中のわたしをその師(友?)に紹介して下さつた。 国立某研究所で珍しい言語(たとへばモンゴル語、インドネシア語)を能くするなら、といふのにあてはまつたわけである。しかしわたしはこの研究所には再三手をつくして運動し、 一度は山本五十六(当時、海軍次官)元帥の手を通じてまで運動したのがハネられたので、わるいながらおことわりした。ツルゲーネフを愛し、その散文詩を訳したこの先輩とは、 その後もお目にかかつたが、この人ももう亡くなられた。朔太郎先生ぢやないが「わが草木とならむ日に、誰かはわれを語るべき」で、一度はこの先輩から叱られておけはよかつたと思ふ。

 第二次の同人発表の時に名ののらなかつた犀星先生が第十七号にはちやんと同人名簿に加へられてゐる。先生は創刊号からお書きで、当然、同人だと思つてゐたのが、 やつと名をお貸しになつたのである。犀星先生はわたしにとつては詩の先生で「鳥雀集」を大切にもつてゐた。軽井沢で三好さんとおたづねしたことは前述した。 「怒りつぽ」でないからこはくはなかつたが、道造や信夫のやうには慣れなれしくできなかつた。
 ともかく朔太郎、犀星の二同人を加へて「四季」の色彩ははつきりした。色彩であつて主義や動向でない。このころも一つの有力な詩誌に「歴程」といふのがあつて、 これとならんで売れる雑誌となつたわけである。神保は日下部君に「せめて編輯費ぐらゐは出せ」と思つてゐた(神保の気の弱いことは、彼が政治家でなく詩人である証明であらう)が、 いひだせなかつた。
「田中、二人でいはうぢやないか」
といつたのはだいぶあとで、わたしはこれに同意しなかつたから、この提案はなされなかつた。

 「四季」の昭和十一年六月号には、巻頭に中島健蔵氏の「詩の勃興について」といふ論文がのり、三好さんと三、四年前、詩の前途について論じあつたが、 このごろ詩の勃興といふことばを聞く。しかし政治に勝たなければ詩は本当に勃興するものではない、といふ至極もつともな御理論で、神保が後記で中島氏の詩論は珍しいといつてゐるが、 わたしなどはこの先輩は詩がわかると思つて、あとで大失敗した。くはしくは述べる必要もないが六年ほどして同じく文士徴用に会ひ、みどり丸といふボロ船にのせられて台湾の高雄港外に泊つてゐた時、 暮れてゆく高砂の山々をいつしよに眺めてゐると、この大先輩はわたしの方を見て
「田中、きみはかかあと一週に何回ともねするか」
 といふ。旧制高校の経験では、愛妻家の家郷を懐ふ時に発する笑談がこれだと思つて、わたしはまじめな顔をして
「さうですね、×回ですかな」
 と、キンゼー報告よりうんと下廻る返事をした──もとより出たらめで、定期的に発情する人間ではないのである。先輩は急にわたしの方を向いて叱責した。
「そりや多すぎるぞ」
 わたしは朔太郎先生の顔をなつかしく思ひ浮べながら、この夜は軍人軍属を甲板にあつめて、折しも煌々とかがやく南極老人星(カノープス)を指し示し、南の星の名を一々教授した。 ついでながら三好さんは鳥を鳴き声で判定してわたしをおどろかせたが、わたしは植物と天文とはしろうととしてはなかなかくはしいのである。

 七月号は「ボオドレエルの精神分析」といふ松井好夫氏(経歴を知らない)、次には澤西健氏の「少女の死」といふエッセーがのつてゐる。この間、堀多恵夫人から澤西健氏の生死を問はれ、 わたしは返事に窮した。このひとはわたしの詩の愛読者で、生きてゐてくれればいいがと思ふ。のちに同人になる杉山平一氏の詩がはじめてのつたのもこの号である。 杉山氏は芦屋のお金持の坊ちやんで、そのくせ「夜学生」といふ詩集を出して中也賞をもらふのだが、わたしの知る限りにおいて、「四季」八十一冊をそろへてもつてゐるのは、 日本中この人だけである(他にあれば名乗り出てほしい)。
 朔太郎先生はこの号で「氷島の詩語について」といふ論文を書き、なぜすべて漢文調の文章語で書いたか、これは「たしかに後方への退陣である」と悔いておいでである。 歯切れの悪い日本語の欠点を逆に利用したのが「青猫」だつたから、といふのである。「僕は既に老いた、望むらくは新人出でて、僕の過去に敗北した至難の道を、 有為に新しく開拓して進まれんことを」といふのが結語であつて、これが先生の待望であると同時に、わたしどもに対する大きなはげましであつたと今にして思ふ。

 「四季」の初秋号は神保の「現代詩論考」といふ「世界を通じて暗澹とした、歌を喪失した詩の絶望的空気を感ずる」嘆きのエッセーを巻頭に置いてゐるが、 台湾の矢野峰人先生がグレーグの訳をおのせになつてゐる。戦争中「台湾文学」といふ雑誌があり、そこに実に美しい詩を書いておいでだつたのが、若き日、 三高の「行春哀歌」をお作りになつた大先生だとわたしはうすうす感づいてゐた。戦後、関西に住まつて台湾から引き揚げて変られた先生をお訪ねすると、 先生は「四季」を再刊するやうにおすすめになつた。角川の第二期「四季」のぽしやつたあとだつたが、堀さんにさつそくその旨お伝へすると、 奥さんの代筆で「三好君丸山君と相談しろ」といふことで先生の御意にまかせなかつた。これに先だつ七月号から犀星先生と竹村俊郎先生が同人に加へられてゐる。竹村先生は朔太郎、 犀星両先生と同年輩で、わたしは上京後、三、四度お会ひしたが、お話を伺つた覚えもない。山形かの御出身で、静かな方だつたと思ふ。 十一月号は石中象治先生の「シルレルの詩」といふエッセーが巻頭、井伏さんの「なだれ」といふ詩、桑原さんの「遠野物語を読んで」といふエッセーなどがのつてゐる。
 柳田国男先生の名をわたしが知つて戦後、お近づきになつたころには先生は「もう同じことばかり仰しやる」(某女史の言)老齢になつておいでだつた。 「柳田国男集」三十数巻を座右においてわたしは自らの怠惰を恥ぢるのみであるが、「四季」も桑原さんも思へば良い雑誌、よい同人だつたと思ふ。 のちに知りあひになる杉本長夫教授が朝鮮から「かむるち」といふ詩を投稿してゐるのもこの号である。

 「四季」の第二十三号(昭和十一年十二月号)は河盛好蔵、吉村正一郎、若林光夫などの訳がのつてゐる。みな三高で三好、丸山二氏とともに矢野峰人先生の「行春哀歌」を高唱した人たちである。 吉村正一郎氏とは戦後しばらく大和に住んだ時、お会ひすると
「田中君、君その皮肉だけはよせよ」
 と御忠告を受けた。わたしはその後この御忠告をなるべく忘れないことにしてゐる。朔太郎先生は「狼言」といふエッセーで、 三好さんの丸山さん著「一日集」に対する手きびしい批判をなだめておいでのほか、京都の庭見物を書いておいでである。古寺の庭に先生がどんな御感想をおもちになつたかは、 ご案内した桑原武夫博士の「人間素描」で知つてわたしは微笑を禁じ得なかつた。

 第二十四号(二月号)は朔太郎先生の「詩の孤独とその原因」を巻頭に保田與重郎君の「帥宮を悼んだ歌」といふ和泉式部論がある。 保田はかうして国文学をわたしたちに講義したが、わたしはこの号では、あのこはい先輩井伏鱒二氏の「按摩をとる」といふ詩を愛した。

 ここは甲州下部鉱泉の源泉館
 その二階の一室である
 御一泊は一等四円五十銭
 二等三円五十銭
 三等二円五十銭と書いてある
 私は右枕に寝ころんで
 按摩に肩を揉ましてゐる

 按摩は毛糸の袖なしを着て
 ロイド眼鏡をかけてゐる
 彼の目にはまつ毛も目蓋もない
 その目はまるでコスモスの実の一粒である
 私が青い鳥を朗読してゐると
 しかしそのコスモスの実から
 じつとりと涙が流れ出る

 こんないい詩を作る人をなぜわたしがこはがつたか。この号の萩原、三好、丸山、神保、立原五同人の「現代詩の本質に就て」といふ座談会で、朔太郎先生が結語として、
「無から有を出さうといふことが無理なんだよ。だが、それは詩人の使命だ。絶望ぢやない。絶望しちや困る」
 といつておいでである。この勇ましい声明をわたしは励ましとしてゆかうと思ふが、一体「有」つてなんだらう。先生の「有」は「無」であり、 世間の「無」が先生の「有」なのだつたことを思ふとき、わたしは先生よりもつと高い存在を信じるよりほか仕方がない。一時はそれを“あらひと神”と考へ、ついで絶望し、 いまはおちついて「詩篇」をよんでゐる。ここには「有」があり、永久の詩があるのだが、丸山さん神保君の考へはまだききただしてゐない。

 三月号は第二十五号で、巻頭は神保光太郎の「與謝野鉄幹」である。この忘れられた大詩人、大歌人を綿密に周到に愛情をもつて書いてゐる点では、神保の生涯の傑作であらう。 わたしの父は與謝野夫妻と仲好くしてゐたが、わたしが訊ねると
「よく夫婦喧嘩したよ」
 の一言でおしまひになつた。終戦後、わたしは北京の西単市場に日本のお嬢さんをつれてゆき、日本語以外で話すことを厳重に約束し、結局ものをいはずに古本屋へ行つただけですんだが、 そこには岩波文庫の「晶子集」があつたので、買つて来て、引き揚げの時、松山生まれといふみつともないが気だての良いお嬢さんに「よめ」といつてわたした。彼女はよんだかどうか、 わたしは読むに耐へなかつたのである。鉄幹先生では父の友金尾文淵堂が戦後出した「来花集」にのせる短い詩がよい。

   肥えたる女

  世界の男みな疲れ
  葦の如くに痩せほそり
  風の如くに呻き臥し
  肥えたる女 家毎に
  薬調ずる世は来る

 といふのなぞ、神保も引いてゐるがカカア天下は戦後にはじまつたのではないのである。神保はまた編輯後記で、
「われわれは過去においてたとへは明星初期のやうな美はしい時代をもつてゐる。…現在のやうに詩の不運はたしかに変態である」
 といつて、「明星」を羨んでゐるが愛する弟子みなろくでなしで、カカア殿にゐばられた鉄幹先生のどこが美はしい時代か。詩(人)の不運なんてもつて生まれたもので、 わたしは詩人でこざいといつて天下を横行できるなど、とんでもないことである。「四季」は「明星」よりさらに天下に知られず(前述のごとく発行部数が証明する)、 総帥(とわたしが考へた)三好さんなど詩一篇に百円を払ふ時代をゆめみておいでだつたし、わたしは詩人の虚名を負ったばかりに親戚一同から今でもばかにされてゐる。 鉄幹先生の晩年わたしの妻の姉は女学生であつたが、電車で前におかけになつた(そのころは国鉄は坐れたのである)のを知ると、わざとキヤアキヤア笑つてみせた。鉄幹先生は一言
「若い人はうらやましいですね」
 とそばにゐた人に仰しやつたさうである。しかし京都府の貧僧の家に生まれ、弟子たちみなからそむかれた先生の一生にいつ美しい時代があつたか、これも緑あらば神保と議論してみたい。 わたしは老いの片意地でこのごろ人をみると自説を披露して、「ごもつとも」とのおせじを開いて喜ぶやうになつたのである。 もつともそんな経験は大学生に対して以外にはあるはずもないので、止むを得ず精勤な教師として出講してゐるのである。

 閑話休題、五月号は上州の生んだ大手拓次氏の遺稿を多くならべてゐる。同郷の親友朔太郎先生の配慮であるが、この四十何歳かまで童貞ですごした「詩人の病理」については、 次号に松井好夫がくはしく説明しておいでである。極端なナルシシズム、なんと仕合せで不幸なことであらう。
 鈴木信太郎先生といふ仏文学の大家がその次には「リヤン君の詩」と題し梁宗岱といふ詩人(中共治下生きてゐるか)とヴァレリーとのことを書いておいでである。 盧溝橋一発に先だつ三月前はまだこんなに友交の精神があつたのだが、このあと中国人の日本を語るものは「漢奸」、日本人はわたしの小学校の友、 野砲兵第四聯隊で鬼軍曹といはれた男(強かつたからでない、部下を撲るのがひどかつたからである)が南京の大虐殺をつぶさに話し、 殺し犯し盗む戦争の実態を教へてくれたが(城壁を背に三千人の捕虜をたたせ重機関銃で三十分掃射し、みな死んだかと思つたら、無傷が三百人ゐたので、 おどろいて殺し直した由である)、わたしはそんなことをゆめにも知らず、梁さんでないが、

 記憶のなかの母親よ
 情人中の情人だ(ヴェルレーヌ「露台」)

 だとうたつてゐたのである。
「茉莉花」といふわたしの文章がその証拠にこの号にのつてゐる。森鴎外の愛嬢マリさんと安西冬衛氏の名著「軍艦茉莉」を思つての文章で、 冬衛さんはこの間なくなつて堺市立図書館長の業績をもつて勲章を授けられた。わたしはこの尊敬する先輩を訪うて、
「あなたの詩を愛読しました」
 といふと
「それが今ではわたしより“おえらく”なられましたね」
 といはれ、返答に窮して早々に退去した。
「軍艦茉莉」については達治の「測量船」、冬彦の「戦争」とともにぜひよむべき詩集だと書いてゐるから、わたしはお愛想をいつたのではないのである。 この文章もお愛想をやめようと思つて書き出したが、今の時勢では「本当をいふのはバカかキチガヒだ」と昨夜、親切に忠告する人があつて、とみに筆がにぶる。わたしは原稿料もいらないし、 悪名は立たなかつたかはり抹消されて、いま思ふは主のみこころによつて可哀さうな孫を二、三人枕もとに置いて昇天するのだけが望みなのである。
「詩を作るなんて、なんとバカげたことだ」
 と歌つたことはあるが、こんな文章を老年になつて書かされるのは一層バカ気てゐる。後生だから読者(もしあれば)は編輯者の人選を誤つたのを叱らないで、 「四季」の人々のうち最も悪いヤツを後におのこしになつたみこころを浄罪のためと信じてともに祈つて下さい。朔太郎先生にも「浄罪詩篇」といふのがあつて、 ずゐぶん身を責めておいでだが、わたしは責めかたがまた足りないのである。(了)

各項小題は中嶋が便宜上付したものである。(2004.7.12update)


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