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【鼎談】 詩神の使徒 ――伊東静雄回想――            『浪漫』昭和48年8月号 (Vol.2(8)) 172-185p


田中克己、林富士馬、西垣脩

田中克己、林富士馬、西垣脩

時代を超えて、いまも日本人の心をとらえる静雄の詩の魅力とは何か。孤高の浪曼派詩人の素顔に触れながら作品の陰に陳された彼の強烈な詩精神の深奥を探る

出席者
      田中克己 (成城大学教授)
      林富士馬 (文藝評論家)
      西垣 脩 (明治大学教授)

【療養生活のころ】

田中:伊東さんは既に古典になっているので、伊東静雄と申さなければいけませんけれども、―夏目漱石さんというばかもありませんし、 ―やはり、僕らは伊東さんと言いましょう。
私が最後に伊東さんに会ったのは一一十七年の三月一一十四日、伊東さんを見舞った時です。実は、それから二、三日前に保田與重郎から、 「君、伊東静雄があぶないから見舞ってくれや」と言って来たので、果物籠を持って、大阪の人は誰でも知っています、大鉄「塩の宮」という所で降りまして、 国立大阪病院長野分院へ行きました。そうしたら、ちょうど奥さんが来ていらしてて、便器をお持ちでしたが、廊下で私と行き会ったんです。面会してもいいかと聞いたら、 いいですよと言うので、行きましたら、たいへんひどい病室なんです。昔の陸軍病院のあとだそうです。そして、もう再起不能だと聞いておりますから、 「ちっとも知らないで、お見舞いも遅れて……」と申しましたら、伊東さんは案外元気で、いろんなことを申されました。
その中で覚えておりますことは、「こういうふうに病室も特に自分で選んだんだ。一人用の病室もあるんだけど、そういう所は入りたい人がたくさんいるから、 俺のような詩人がそういうりっぱな所に入ったらいやだと思って、わざとこういう所に入っているんだ。それから、田中さん知らないだろうけど、 結核にはいい薬がアメリ力から来るようになってるんで、医者が打とうと言うんだが、僕は他の人にどうぞと言っているんだ」というんです。 私はもう困りまして、「あなたは大事な人なんだから、そんなこと言わないで、他の人のことなぞ考えないで、打って貰ったらどうです」と言ったら、 「いや、僕はそういうことはしないんだ」と言ってました。しかし、他の人の書いた年譜には、パス(註.べラアミノサリチル酸の略。結核の治療薬)かなんかを使つたと書いてありますね。 これは林さん本当でしょうか。

林:本当でしょう。注射はストマイを打つんですが、内服用にはパスを使ってました。当時でも、パスは誰でも使ってましたから、特別の薬でもなかったのです。

田中:そういうのはみんな断わって、他の人に回しているというあたりは伊東静雄らしいですね。

林:そうですね。ひどい病室に入る、というようなところはあった方のようですね。

田中:薬をわざと断わって、僕みたいな卑しい詩人が、というような言い方をするのが伊東さんの癖で、僕はそのためにある時は本気になって心配をし、 あるときは非常に困ったし、またうそついてられると思ったりもしたんです。これが詩人の本性じゃないんでしょうかね。
他の人の話では、桑原武夫さんが見舞いに来られたことを話しました。そして桑原さんが、私の進退、将来のことについて漏らされたとおっしやっていました。 それから小野十三郎君のことも申しておられます。お見舞いに一万円も持って来たんで、非常に自分は恥ずかしかつたとおっしゃいましてね。その一万円というのは、 小野君にとっちゃ何でもなかったかもしれませんが、昭和二十何年の一万円というのは大きなお金ですよ。小野さんがそういうことをしたのに、私は果物を持っていっただけなんで、 自分は自分で非常に恥ずかしかったので覚えています。
それからこれも誰も言わなかったことですけど、最後に非常に気になったのは、「私はこのごろ死人のことばっかり思っているよ」という一言ですね。私は立原道造だとか、 松下武雄だとか、肺病になった人たちの瀕死の床にはいつも行っているんですけれども、この人達は将来の希望を言いましたね。末期になると、 結核患者というのはみな希望を言うようになるんじゃないかと思ったら、伊東さんはそうじゃなしに、死人のことばっかり考えていると言ったんで、 これはひょっとしたら病状がいいのかな、という感じがいたしました。その年は、三月二十四日なのに吹雪になって、その中を考えながらとぼとぼ帰ったんですが、それが最後でした。
西垣さんは、最後はいつごろお会いになったんですか。

西垣:私がお見舞に伺ったのは、そんなに遅くなかったように思います。私はすでに東京に来ていましたが、三度ばかり行っております。まだお元気にお話をなさるころでした。

田中:長野病院にね。

西垣:はい。いまおっしゃったことで思い当たりますのは、見舞いに来た人には、せっかく来てくれたのだから、むしろ意識的に心配させてやろうというようなお気持はあったように思います。 それから誰彼が見舞に何を持って来たというようなことを、よくお話なさいましたね。それはもう、こちらがちりちりするような気持にさせられましたが。

田中:教えていましたのが、今の住吉高校、昔の住吉中学なんですが、ここは、大阪のお金持ちの坊やがみんな行く学校なんです。ですから盆暮れはもちろん、 訪問には物を持って来る。伊東さん、貰うことは平気で、日記にもずいぶん貰った、貰ったと書いてますね。三島由紀夫は何も持って行かなかったらしいですね。 これはたいへんなことで。これは失礼だと私も思った。三島さんには気の毒ですけど。

林:ぼくも持って行ったことないけど。(笑)

田中:お見舞いに行ったのが、何月何日だったかは覚えていらっしゃらないんですか。

西垣:私は田中先生のように記録はとっておりませんので。

田中:危篤だというような。

西垣:そんなにひどい時期ではなかったのです。ただ、お薬の話なんかいろいろとされることはありました。

田中:それから同室じゃないけれども、向うの方にかわいいお嬢ちゃんがいて、その娘が歌うと嬉しいんだというようなことをお話しなさってましたね。
林さんが最後にお会いになったのはいつですか。

林:僕は戦後お会いしていません。ただ、薬のことですけど、パスは飲みにくい薬なので、もっと飲みやすい、ヒドラジットというのが出た時に、 それを弟さんが東京に探しに来られまして、僕も相談を受けたことがあるんです。

【三島由紀夫と知り合う】

田中:三島さんのことをちょっと言ったので、三島さんが伊東さんと知り会うまでのことを話しておきましょう。まず、三島さんの学習院の先生だった清水文雄さんが、 蓮田善明先生に、三島さんを紹介したら、蓮田先生が三島さんを高く買って、『文藝文化』に載せたんです。その時、『文藝文化』には、伊東さんが盛んに書いている。それを読んで、 詩人は伊東さんだ、と思ったのでしょう。そこで伊東さんのところに行く気になった、とまあ、伊東さんの何かの日記を見るとこうなんです。

林:それは、伊東静雄全集の中の日記のことだと思いますが、それは、伊東先生のことだから、自分の周囲のことを独特な表現をお使いになるでしょう。それを知らん人だと、 どう受け取るかわからない。それがこわくて、僕自身のことに関して、大急ぎで、ちらっと見たんです。西垣さんのお名前もちょっと出て、おしまいが消してあったりするんです。 そうすると、三島君のは有名なんですけど、たとえば手紙が来て、それが背伸びしたいやな文章だとか、書いててあって、それは消してないんです。 三島君は有名だからきっと消さなかったんでしょうね。他はわりと用心深く編集してあったんだけど、三島君についてだけそういうのが出た。三島君もああいう人だから、 それがショックだったんでしょうね。それまでは三島君は伊東先生を尊敬していて、伊東先生についてたくさん書いているんですが、それから以後は、 尊敬の意味合いなんかは少しも変わらんと思うんですけれども、文章の調子は、あの人、言っていけないことを言った人だとか、小人であったとかいうような風に、 ガラっと戦闘的になっているのです。詩人と小説家の付き合い、両方偉いと思っていたからさわやかな印象が残っています。だから、全集のあの部分を見た時はすぐ思いました、 三島君の悲しみを。田中先生はご存じですか、全集のあすこのところ。

田中:いいえ、知りません。

西垣:私の個所のあとの削除は、小高根さんから気にしなくてもいいことだ、と聞きました。私の記憶では、あらためて先生の詩の弟子にしてください、と申し出て叱られたんです。 詩人は弟子なんぞ持たないものなんだ、萩原湖太郎は偉い詩人だけれど、一人も弟子を持っていない。僕も萩原先生に做いたいと言って、厳粛な顔をされた。――でも晩年、 病院であれは僕の弟子だと斎田君に言われたそうで、私はそれを聞いて実に嬉しかった。

田中:三島さんのことをついでに言いますが、実は僕三島さんには悪感情持っているんです。それはこうなんです。浅野免さんの詩の朗読会をやった時に、 僕も行ったんですが、田中冬二さんが途中で立ち上がって、「私は田中です」と言って名刺を出されたんです。そうしたら三島さんは、「ああ、お名前はかねがね」と言って丁重に挨拶したんです。 その次に僕はちっとも知らないで、「私は伊東静雄の友達の田中です」と言って名刺を渡したら、横を向いちゃったんです。あれはいつのころでしたかね。

林:もう晩年ですよ。

田中:僕は伊東静雄の友達と言ったら向うは喜ぶと思って言ったんです。しまったなと思いましたね。

【『コギト』との出会い】

田中:僕が伊東さんと知り合いになったのは伊東静雄年譜に、昭和七年三月『コギト』の田中克己の手紙というのがあるんで、一応この時ということになります。
しかしその前に、『コギト』あてに、『コギト』の詩はなかなかよろしいという、無名のハガキが来てまして、そのスタンプを見ると、大阪の何とか局になってる。 その大阪の何とか局のある所は、住吉中学や、大阪高等学校(旧制)があるところなんです。当時、私ら学生の同人雑誌は、本屋へ廻すことが出来ないものですから、 同人が代る代る地域を決めて、本屋へ持って行ってたわけです。それで偶然、住吉中学のそばの本屋で、『コギト』を創刊号から必ず一冊ずつ買う住吉中学の先生がいるということを、 中島栄次郎という、僕の親友が聞いて来たんです。
そこで、僕と中島と二人でその本屋へ行きまして、その先生の名前を聞くと、伊東静雄先生だと言うんです。それから学校へ行って、住いを尋ねたら、 坂をたらたら下った所にあると教えてくれたんです。そのたらたらと下った所がどこだったか、それさえわかれば、何年に初めて会ったか分るんですが……。年譜には、 初めて家を持ったのは住吉区阪南町中三丁目と書いてありますが、ここは違うんです。ここはたらたらじゃないんです。たらたらだったのは、 住吉区天下茶屋三の一号と昭和八年越した西成区松原通り二の十六との二つの住いなんですが、どっちに行ったのかはっきりした記憶がないのです。 西垣さんの覚えていらっしゃるのはどっちの家ですか。

西垣:私は西成区の松原通りのほうです。

田中:天下茶屋のほうじゃないんですね。私が行ったお住いは、住吉街道に面していて、口は北向きでした。初めて会った時伊東さんは玄関で僕らに応対したんですが、 これはふしぎな人だ、どうして奥に入れてくれないのかなと思いました。これが初対面の印象です。

林:お年は幾つくらい違うんですか、伊東先生とは。

田中:伊東さんは明治三十九年生まれ、私は明治四十四年生まれですから、五つ違うんです。二十代で五つ違えば伊東さん、伊東先生ですね。僕らにとって、伊東さんは大先輩です。

西垣:先輩、後輩ということだったら田中先生のほうがむしろ先輩じゃないんですか、そのお年の問題じゃなく……。

田中:いえ、そうじゃないんです。実は、こういうことがあったんです。『呂』という雑誌がありまして、そこには原野栄二さんが「風呂屋雑記」という非常におもしろいのを書いたり、 青木敬麿という人がへただけれども素朴な歌を書いたりしていたんですが、これに混って伊東静雄という署名で、短い詩ばっかりが載っていたんです。
当時、詩は長いのがはやりましてね。まあ、北川冬彦だとか安西冬衛などは非常に短いのを書いてましたが。伊東さんの初期の詩はみな非常に短かくて、俳句みたいな感じですね。 四行くらいの詩が載って、しかも、北川、安西と違って、ちっともモダンじゃないですね。そういう点で、これは僕の仲間だ、と私は思った。 そういうわけで『呂』の伊東静雄を知ってたところへ、伊東静雄であるという名前なしに、『コギト』の詩はなかなかよろしい、というハガキを貰ったので、 あるいはこれかもしれんと思って、「あなたは『呂』の同人の伊東先生で、おハガキ下さった御本人じゃないですか」と聞いてみたら、「そうだ」というんで、 それじゃ我々の理解者だというんで、非常にスムーズに話が進んだ、ということがあったんです。
だからやっぱり伊東さんが先輩なんです。ですが、その後私は彼の家に何べん行っても、奥へ通った覚えはありません。彼がヘルダーリンの詩集をそろえて持っていたかどうか、 どんな本があったか、ぜんぜん知らないのです。書斎はどうだったんですか。

西垣:そうですね。本をこれ見よがしに並べて見せる趣味にはむしろ抵抗があったようですね。

林:堺市の三国ヶ丘のお住いを一番初めに訪問した時、玄関の所に本箱があって、僕が行った時、私の詩集の薄いのがちゃんと置いてあるんです。あとはまばらなんですが。 その日は泊めて頂くことになったので、二階に行くと、『子規全集』とかいっぱいあったりして、日常生活でのちょっとしたフィクションなんかがお好きなようでした。 僕が訪問するというので、僕のお送りした薄っぺらな詩集を置いといて、相手の反響を黙って見ておる、というようなところがあったですね。

【作り話の名人】

西垣:そういうことは、僕も感じました。つまり誰か来るということになると、わざわざこの本は二階に上げておこうとか、出しておこうとか。

林:年中そういうことをされていたというのは、つまり、創作ということだけに没頭されていたということですね。僕はそんなことしない、と伊東さんはおっしゃるけど、 御自分はまるで恋人と会っているみたいに嬉しそうにフィクションをなさる。特に、途中酒が入るとそれがうまいんです。

田中:あんまりうまくなかったよ。(笑)

林:こっちは先生に夢中だから、すぐだまされる。それが嬉しそうで、興に乗ると、自分は天井をパ力パ力足を裏にして走ることができるなんて言い出すんです。 みんな酔ってるでしょう。本当にそんな気になる。先生も嬉しそうに話を続けられる。ところが、あとで考えるとおかしいんだけど、その時は、 こちらも本気でそんなことが出来るのかと思う。そうすると先生はパッパッと足を裏にして天井を走れますと、今にも実行して見せられるような気分になる。そんな経験ないですか。

西垣:そういう経験はありませんが、そういう作り話は非常におじょうずだったんじゃないでしょうか。

田中:そうですね。こんな話があります。彼の三国ヵ丘の家というのは、反正天皇の御陵のそばにあって、その辺はあんまり家も建て込んでいませんでしょう。だから、 焼夷弾が落ちた時も、消し止めることが出来たんじゃないかと思うんですよ。ところが伊東さんは、 「大体私は家主と喧嘩しておって、この家が燃えればしゃくにさわる家主が困るだろうから、消火運動をしないで、じっと見ていたんだ」と言うんです。それは嘘ですよ。 一生懸命消そうとしたはずです。このことはだいぶあとまで気が付かなかったんですが、こんな詩人らしい話はないと思いましたね。

林:同感です。うそをついても、最終的には作詩ということだけに打込んでいた。本当に、詩の世界にだけ生きていたんでしょうね。それで、初期には強敵の一人、田中というのがいて。

西垣:田中先生を奥へ上げないというのは分りますよ。気楽には扱えなかったのでしょう。

林:田中先生の詩は針金細工じゃありませんか、と言うと、そういう時だけは黙って嬉しそうな顏をされる。それから、 田中先生がなぜ詩が天下一うまいかを説明して下さる。そういうところが懐しい。あれは非常に懐しい。

田中:僕の詩が針金細工だと言ったとは初耳ですけど、伊東さんの体は、見た感じでは僕より華奢ですよ。ぼくは非常に喧嘩早いんですが、喧嘩になった場合、 勝てるのは伊東さんだけだと思ったぐらい。(笑)、体格は悪かったですよ。西垣さんどうですか。

西垣:それは何とも言えませんよ。喧嘩は体だけじゃないですからね。(笑)。

田中:昭和十二年に萩原先生が大阪にお墓参りに来られた時に、大阪、神戸あたりの詩人がみんな集まって歓迎会をやったんです。その時に小高根二郎君が僕を萩原さんに紹介してくれたんです。 萩原先生、これが『コギト』の田中克己ですと。そうしたら、とたんに萩原先生は横を向いちゃったんです。僕は嫌われたと思ったな。あとで気が付けば、萩原さんという大先生は、 初対面には必ず横を向かれるんですね。それを僕は知らなかった。知らないもんだから、僕はこんなつまらないことはない、としおしおとして帰ったんです。そのあと小高根君と伊東静雄さんは、 朔太郎先生を、大阪で一番悪い場所、新世界へ連れて行ったんです。新世界には「もつ」だとかを肴にして悪い酒を飲ますところがあったんです。ここが一番安いんで、 連れて行ったんでしょうけど。で、そこの沸かし温泉に一緒に入った。そうしたら伊東さん、あとでこう言ったんです。「田中君、萩原先生はいやらしいよ。おなかが出ているんだよ」。(笑)

林:その話はぼくも聞いてます。萩原朔太郎は太ってると、嬉しそうに話をされました。萩原朔太郎生先は、一緒に風呂に入るとフグみたいに太ってる」と。(笑)

西垣:それで非常にがっかりしたというようなことを盛んに言われてましたね。

田中:ぼくはそれからあと、萩原先生ともとうとうご一緒にふろに入るまで親しくなれなくて残念ですね。とにかく、お酒が入ってた時、伊東さんの言ったことは、 みんな本当か噓か分らない。それこそ詩そのものだったけど、実際詩を書く時は、お酒が入ってから書いたんですか。

西垣:それはおそらく入ってないでしょうね。私なんか聞きましたのは、たいへんなことです。これだってフィクションかもしれませんが、 とにかく一カ月以上詩想が持続しなければいかん、と言うのです。そして夜もだんだん眠れなくなって来たら、とにかく銭湯へ行って熱い湯の中にじいっとつかって戻って来る。 それから、紅茶を何杯か飲んで、それでも眠れないという状態をしばらく続けて行くうちに、やっと一行ずつ書けるようになって来る。 詩を書くんならそのくらいの覚悟をしなければいかん、ということを言われました。

田中:これは嘘じゃなくて、私など詩を書く時は酔っぱらったようになって、三分間で書いちゃうけど、伊東さんは書いては消し、書いては消ししていたようですね。 僕にはなかったんですけど。ここはこういうふうに変えようと思うけど、どうだとかいった相談はなかったんですか。

林:僕は朗読を聞きました。

田中:でき上がったものを?

林:はい。全部暗記しておられた。

田中:ぼくは一回も聞いたことがないですね。

林:僕は昭和十五年に佐藤先生に序文を書いてもらった詩集を、一生懸命厳選して二十人くらいの人に送ったんです。その時何でまだそう有名でなかった伊東先生に送ったか、 分らないんですが、九州の人だということでしょうね、きつと。

田中:いまの林さんの発言、ちょっと訂正させてもらいますと、あなたが詩集お出しになったころ、つまり昭和十一年ころには、 伊東さんは、『わがひとに与ふる哀歌』を出版しているし、十一年には文芸汎論賞を貰っているのだから、もうこれは有名な詩人ですよ。

林:そうですか……。『コギト』なんていうのも、今はかえって知られているけども、僕が知ったのは、ずっとあとです。仙台の大学に行っている友だちが来て、 君も文学が好きなら『コギト』という雑誌があるだろうと言った。そういう時代だったから……。「日本浪曼派」だって、一部の人しか知らなかったと思うんです。 僕みたいな文学少年でも知らなかったんです。まあ、佐藤春夫先生の関係で、あとになって浪曼派は知ったけど。

【愛情深い家庭人】

西垣:私が深刻な経験したのは、ひところご家族のことで非常に悩んでおられた時のことです。君は、畳に頭をすりつけて、自分のどうしようもない運命に対して、ともかく、 もう勘弁して貰いたいと祈ったことがあるか、なんて言われまして。私はそのころせいぜい中学生から高校生ですから、そんなことまだありません、と答えるしか仕方がなかったんですが、 やはりそういうお苦しみがあったようですね。

田中:ご承知のように、お父さんの残した借金を伊東さん、一人で背負ったり、それから妹さんや、弟の寿患夫さんに対する愛情なんかも、特別に深かったでしょう。 お子さんを歌ってる詩はたくさんありますね。僕らがもしそういうのを作ったら嘘になるけれども、彼のは本物ですね。

林:気違いみたいだったらしいですね、抱きしめたりして。とにかくおかしかつた。おかしかつたけど、みんなおかしかつた。田中先生も医者の立場で言うと、 だいぶおかしいと思うんですけど……。だけど、学校の先生をしておられたから、思いやりがあったでしょう。田中先生には全然なかったからな。

田中:確かに、愛情の深い人だった。ですから伊東静雄先生には弟子がいるんです。僕には弟子がいないけど。

林:だけど伊東さん、人の悪口言うのが好きでしたね。いま帰った人の悪口を言うんだ。

田中:だから東京での伊東静雄の詩集の出版記念会があった時、済むとみんな逃けちゃったそうです。残ったのは中原中也だけで、「今晩俺の所に泊まれ」と言ったんで、 酒飲んで泊まったんだけど、その時中原が、今日はおまえが主人だから、おまえが払えと言って、飲代を払わしたと、非常に恨みに思ってましたね。

林:小高根さんの書物にも出てきますね。中原さんが、おまえは関西だから知らんだろうけど、東京流はおまえが払うことになっていると払わされて、それでものすごく侮しがって、 その話ばかりしたという。それでまた関西の人と付き合うのを楽しみにしていた。楽しみと言っても、結局は全部詩しかなかったけど。東京の人は何と冷酷だと言ったりして、 田中先生に叱られていますけれども、ああいうところを一生懸命生きていく人生訓とか、そういうのもお好きだったと思う。伊東静雄が、萩原さんが気の毒で、 作品を読めんと言っているんです。それを大岡信氏が、萩原朔太郎先生は伊東静雄を認めたけれども、伊東静雄は萩原さんを全然買っておらんという表現をしている。それから、 川上二郎がヘルダーリンをちょっと訳して、ヘルダーリンと伊東静雄のことを論じていて、その中で、伊東静雄はヘルダーリンをどのくらい読んだのだろうかと言ってますが、彼は、 日本語の全集が出る前に、ヘルダーリンは徹底的に読んでいるんです。

田中:国文出たくせに、どうしてヘルダーリンを読んだかというと、桜井天壇とかいう人のを読んで好きになったんでしょうね。だから始めの分らないところは、 旧訳のスティールで、あとは自分で読んでわかったのだと思います。

林:僕はヘルダーリンは生田春月訳で読んだんですが、伊東先生は本物読んでいます。それは大山定一氏が証明しておられます。

西垣:大山さんは伊東静雄の訳を誉めておられましたね。

林:僕は本を三冊くらい借りていったことがある。

西垣:ご自分でもだいぶ翻訳されているんでしょうか。

林:いや、翻訳は西垣君たちが『山の樹』に貰ったやつだけみたい。

田中:ヘルダーリンが好きになったのは、やっばり『コギト』仲間の服部正己が訳したディルタイの『体験と文学』にヘルダーリンが引用してあるのも関係あるでしょう。

林:保田さんの卒業論文はヘルダーリンと聞いたんですけど。

田中:そうですよ。服部正己に訳させて、それを使ったんです。

林:その内容は、楠木正成のことばつかりだったとか。

【まれに見る勉強家】

田中:保田さんはドイツ・ロマン派から出発されたようですが、ドイツ・ロマン派は音楽を非常に尊重しているでしょう。音楽が最高の芸術だとまで言ってますよね。 ところが日本浪曼派は佐藤春夫、保田與重郎、中谷孝雄などの諸先生、みんな相当な音痴らしいですね。(笑)
 僕がシンガボールで歌を歌った時、海音寺潮五郎が感心して、文士の中にも歌を歌えるやつがいるんだな、と言ってました。それは、私が文士でない証拠でしょうけど。

林:田中先生は本当にうまいんですよ。

西垣:

右文書院の『日本近代詩史』の「コギトと日本浪曼派」というのを担当しまして、やはり伊東静雄という方は、『コギト』との出会いから、ああいう偉い詩人になった、 という気がしみじみしました。小根さんは、ずいぶん詳しくその前の『呂』の時代のことを書いておられるんですけど、作風がガラリと変わりますね。その前にフランス文学や、 いろんなものの影響があったりしまして、その時も、非常に勉強はされたんでしょうが、『コギト』に参加して、『コギト』の人たちの言うことを聞いてもっと一生懸命勉強して、 『コギト』が求める詩をどこまでも追求するために、いつしんに詩をお書きになったのが、ああいう形のものになって行ったんじゃないかと思うのです。 つまりドイツ語直訳的な文体は、意識的に、それも勉強から出てきたと……。

林:素質もあるんじゃないの。

西垣:もちろんそれはそうですが、私はやはりそういう点で、伊東静雄という人は、実にまじめな勉強家だったんじゃないかと思いますね。

田中:確かにそうですね。私が大阪に帰った昭和九年から、大阪には『コギト』同人が多いんで、私が幹事をして会を開いたんですが、その時伊東さんは、 必ず今月の僕の詩はどうだ、という話を始めるんです。あのころが一番よく書いていて、しかも傑作が多いですね。みんながほめるのかと思うと、そうじゃない。批評家の中島栄次郎、 松下武雄、野田又夫、こういうのがみんな元気でしたし、桑原武夫先生も来ていたんですが、世間話ばかりしていたんです。全然文学の話じゃなく。 それが伊東さんには非常に不満だったんですね。何のために集まつたんだと。

林:それは僕も九州人だからとってもよく分ります。

田中:伊東さんがたまりかねて、ちょっと言葉を挾んで、「そんな話を止めて、僕の今月の詩を」と言うと、みんな横を向いちゃうんです。

林:それが関西人の悪いとこですね。ああいうところは、僕にも分りませんでした。

田中:だけど伊東さんの批評をするならば、ついでに田中の批評もしなければならない。もとより中島の批評もしなければいけないでしょう。だからみんな、 むしろ相身互いと横向いて、もっぱら時局談をしてたわけです。

林:しかしそれが刺激になつて、ファイトを燃やしたんです。ともかく『コギト』に引っぱって来たのは田中先生だと……。

田中:僕は会った時から、あんたの詩はいい、敵もあんたしかいない、というような言い方をしましたね。伊東さんも同じように言ってました。 その時横に中島栄次郎がいて、これも詩を書いてたもんですから、「ああ、忘れた、中島さんも」という顔をして、『コギト』と『呂』は同じだと、言ったんです。じゃ、 『コギト』にも書いてください、ということで、初めは『呂』に載せた詩の再録をしていたんですが、そのうちに『呂』が潰れて、『コギト』だけになると一生懸命書いてくださいました。

林:それは『コギト』の何号あたりからですか。

田中:相当たってからで十、ここ(『ユリイカ』伊東静雄特集の杉本秀太郎編「伊東静雄年譜」)に『コギト』に初めて載せたのが、 昭和八年ころの「病院の患者の歌」と書いてあります。だから私が会った翌年くらいからでしょう。

林:とても模索して、『コギト』に惹かれて……。昭和七、八年の、プロレタリア文学が全盛の頃、一生懸命やったのが新即物主義ですね。その新輸入の即物主義から出発したのが、 村野四郎と伊東静雄ですよね。同じところから出発して、あとが全く違う。ああいうのは面白いですね。

【三好達治は大先輩】

西垣:田中先生の「多島海」の詩は、伊東さんにはずいぶん刺激になってる。あれで幾つかの作品が出来ていますね。そういうふうに、何かにぶつからないと、模索が自分のものになって行かないというところが……。

林:小説と、とっても違うでしょう。つまり抒情詩というのは、何千年たったってアィ・ラブ・ユーの手ぶり、身ぶりしかないんです。それを伊東先生から教わったことがある。

西垣:私は小高根さんが書いてておられるような、田中克己を敵視するということは、伊東先生からは一度も聞いたことありません。これは全然隠しておられます。しかし、 それは単に個々の作品なんかの問題じゃないんですね。つまり保田與重郎の『英雄と詩人』ですよ。あれを、あのイデーを、何とか詩に謳い挙げたいという気持が伊東静雄を奮起させた。 つまり、見事にあの要求に応えてみせようというところがあったと思うんです。

林:そんなことないよ。要求に応えるなんて、そんなばかなことはないよ。そんなことが出来るはずがない。

西垣:でも、私は先生のそんなひたむきな律儀さに感動したんです。

林:そういう配慮はあったかも知れないが、それは命の発露です。

田中:保田は僕と伊東の間に、気を使ったんです。伊東と僕がいる時には、この二人の詩人こそ、今度出た新しい詩人だという言い方をした。ところが戦争が済んだら、 彼は言い方を変えましたね。戦前戦後を通じて、好きな詩人が三人いる。それは伊東静雄と蔵原伸二郎と宮沢賢治だと。

林:そのとき田中先生が、非常に興奮されたのを覚えています。保田がいよいよ本音を吐いたと。三人というと、萩原、伊東の他の、もう一人が問題ですよ。 保田さんは天才的なジャーナリストですから、もう一人が難しい……。

田中:萩原さんは別格で上に上がってしまっていたから、保田の世代としては、詩人はこの三人です。それはほんとうだろうと思う。僕は詩人じゃありませんから、それは結構ですけど。

林:そこが田中先生の悪い癖ですよ。

田中:ともかく伊東さんほど熱心な詩人はなかったよ。僕は本当に嬉しかった。丸山桙ウんも本当の詩人ですが、僕が行くと、「しばらく待ってくれ。いま詩書いているんだ」と言って、 三分間で書いてパッと封をして、一緒に速達出しに行くというようなところがありました。三好達治さんもやはり一気に書いたのかな。

林:三好さんは晩年には、ずいぶん長くかかって苦心されたと聞いています。

田中:そうでしょう。これは伊東静雄的なんです。そこで、同じような性質の者同士はあんまり好かんですから、なかなか三好さんは、伊東さんを認めなかったんでしょう。

林:三好さんは大先輩でしょう。

田中:伊東さんが、萩原先生に誉められた時も、三好さんはだいぶ萩原先生に食ってかかったんですね。僕の知ってる三好さんというのは「天井の花」なんか読んでびっくりしたくらい。 そういうことは語らなかったですね。私には先輩として非常に親切で、同時に批評家でもあって、嬉しかった。三好さんと付き合って気を使ったこともあります。三好さんが、 僕を創元社へ連れて行って、社長の矢部さんに会わせてくれた。僕が南方から帰ってからも、従軍詩集を出せと、二回も説得に連れて行ってくれた。二回目に行った時、 亡くなった阿部知二さんが来たけど、三好さんは横を向いていて、近寄りもしないし、話もしなかった。僕は困りましてね。阿部さんを嫌ってるのはわかったけど、 あとで阿部さんと付き合ってみたら、いい人なんですがね。

林:良すぎるんじゃないですか。

田中:私にも似たようなところがあるかもしれませんが、あんなふうに何も訳なく嫌ったり、好いたりしなければ、詩なんか書けないのでしょうね。

【生き続ける静雄の世界】

田中:ぼくがもう一つ言いたいのは、「わがひとに与ふる哀歌」も非常にいいけど、戦後のほうの詩がまたいいということですね。

林:それは嬉しいことです。

田中:家を焼かれ、戦いに負けた男の詩がいいね。

林:それは詩壇に通じないんです。

田中:どうして通じないんですか。

林:そういうものですよ。みんな伊東静雄というのは初期だけで、晩年は衰弱して、心境的になったというんです。

田中:富岡鉄斎みたいなもので、その最後に至るまでいい詩を書いたと思う。普通は一時いいけど、あとはだんだん落ちるんですが、伊東さんはそうでなかった。

林:それが若い評論家たちには、分らないようですね。

田中:本当だよ。それから日記なんか見ていると、僕よりも愛国的ですね。ただ彼は愛国詩はあんまり作らなかった。しかし、愛国的なことは終戦の日の彼の日記を見てごらんなさい。 “天も地も変わりがないのが、不思議でしょうがない”と書いてあります。僕はそんなこと思わなかった。

林:敗戦したのに、何にも変わらんというのは、やつぱり詩人の言葉じゃないですか。

田中:“国破れて山河あり”を、日本語で言うとああなるんでしょうね。

林:確かに伊東先生は頭のおかしいところがありましたね。

田中:しかし賢い人だな。酒の席で乱れるんです。言えないことはみんな言っちゃうんです。さて家に帰った時には酒の気が全然なくて、花子夫人は自分の旦那の酒の席でのことは、 ちっともご存じない。あくまで奥さんを愛していた。これはちょっといまの男には出来ないことですね。

林:出版記念会なんかの挨拶で、ちょっとでもちゃんとすると、御自分で不服なんです。形通りしたというんです。それでいて乱れるとまた頭を抱える。

田中:そんなことがありましたね。それから、僕が非常に恨みに思ってることがあるんです。僕の一番の親友が日本浪曼派の発起人の一人の中島栄次郎なんですが、 彼がフィリピンで戦死して、戦死公報が来て遺骨と称するものも帰って来た。そして、奈良県の櫟本(いちのもと)のお寺で追悼会をやったときに、 伊東さんは酔つぱらっちゃったんでしょうけど、「奥さん、あんたもこれで旦那さんがお亡くなりになったんだから、一刻も早く再婚しなさい」と熱心に勧めましてね。 それを聞いて僕は憤慨したんです。僕がもし中島だったら、僕が死んだあとで親友たちが酔って、俺の家内に再婚しろと言ったら、僕はあの世から化けて出ると思った。

林:その辺が田中先生と伊東先生の違いですね。

田中:僕はそういう、きれいなことを考えすぎ、言いすぎるんですね。

林:田中先生は詩人で、学者だからファンタジーを消すところがありますが、伊東静雄は若い世代に合うんじゃないですか。 ハイジャックの連中が伊東静雄の詩集を持っていたそうですね。そういう魅力を、僕は大事にしたいと思う。

西垣:そうですね。もう七年も前のことになりますが、ご遺族のお宅に伺いましたら、奥さんが先生の日記のその日のところをお位牌の前に開けてひっそり回向しておられるのを見て、 感動したものでした。伊東静雄はいまも過去の人ではないですね。

(2015.03.15 update)。


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