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 田中克己年譜  系図


1911年(明治44年)  当歳

8月31日、大阪府東成郡天王寺村(現在阿倍野区天下茶屋2−5)に生まれる。
父、西島喜代之助(1883年2月11日-1961年8月20日)は西成郡今宮村328(現在浪速区)生まれの人(父喜代三郎33歳、母み津22歳のときの子)。 日本銀行大阪支店の行員で歌人(号西島南峯)でもあった。
母、田中これん(1886年3月4日-1915年10月7日 父甚城(1858.1.10-1910.5.9。甚四郎長男)、母こしげ船越氏)は淡路島賀集(かしゅう)村(現在南淡町)より出で、 大阪のミッションスクール(ウィルミナ女学校・プール女学校専攻科)を卒業。同じく歌を嗜み、 喜代之助とは眷族船越嘉一郎主催の歌会にて出会う。明治43年に結婚。父が長男、母は戸主だった為、長男の克己はただ一人母の家を継いで田中姓となり、 母は西島家へ入った(父28歳、母25歳)。


1912年(明治45年)  1歳

10月、妹千草生まれる。


1913年(大正2年)  2歳

天下茶屋の山荘に移る。


1914年(大正3年)  3歳

8月、第一次大戦の青島陥落を祝う提灯行列を記憶。
10月、双子の弟、光日子、端日子(てるひこ、みづひこ)生まれる(光日子は日経たず早世)。


1915年(大正4年)  4歳

春、東成郡関目村(現在城東区)へ転居。
10月7日、母これん、早産の後に体調を崩し病没(29歳)。
年末、南区馬淵町別荘へ転居。


1917年(大正6年)  6歳

3月、泉北郡高石町羽衣(現在高石市)へ転居。
10月、弟、端日子病没。


1918年(大正7年)  7歳

春、高石町高師之浜へ転居。

4月、高石尋常小学校に入学。成績全優にて級長を務めた。
同月、父喜代之助、神前志ず江と結婚。その後、三男二女(泉、咲耶、真砂、建、大)をもうけた(泉、真砂は夭折)。
この頃、伽羅橋教会の日曜学校に通う。


1920年(大正9年)  9歳

高石町葛葉へ転居。


1922年(大正11年)  11歳

祖父母と同居する為、南区南高岸町(現在浪速区)へ転居。それに伴い恵美第三小学校へ転校。


1924年(大正13年)  13歳

4月、大阪府立今宮中学校に入学。
中河内郡高井田村新喜多2番地(現在東大阪市)へ転居。
中学校時代より父の蔵書から万葉集や鴎外に親しむ。


1927年(昭和2年)  16歳

10月、父喜代之助、先妻これんの遺稿歌集「廉子 遺稿」を刊行。
新喜多10番地へ転居。


1928年(昭和3年)  17歳

4月、高等学校等入試の予備テストに3番となり、中学4年修了で大阪高等学校文科乙類に合格し入学。親許を離れ図南寮に起居す。
同級には後のコギト同人となる主要メンバーが揃った。恩師に佐々木青葉村、財津愛象、R・シンチンゲルあり。高校時代を通じて盛んに万葉の歌枕を巡る。 秋より野球部マネージャーとなる。


1929年 (昭和4年)  18歳

8月、創作ノート「夜光雲」を記し始める。ペンネームは嶺丘耿太郎。


1930年 (昭和5年)  19歳

1月、野田又夫ら先輩から引き継いだ短歌雑誌「璞人」を「かぎろひ」と改名。保田與重郎(湯原冬美)と編集に当る。
7月、丸三郎、能勢正元、友眞久衛らと野球部松江遠征に参加。
9月、「このみちをなきつつわれのゆきしこと」の歌成る。この頃、利玄に私淑。
11月、保田與重郎、竹内好を中心に、大阪高等学校ストライキ事件起こる。その失敗を契機にして「かぎろひ」同人間の親密度が増した。特に克己は保田の感化により、アララギ、 中野重治に親しむ。また肥下恒夫の妹に初恋。
藤井寺に下宿。


1931年 (昭和6年)  20歳

1月、野球部の親友増田正元病没(21歳)。追悼記念 集『夕映え』に寄せた文章が初めて活字に付された刊行物となった。
4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。恩師に和田清、池内宏、加藤繁あり。
母方の遠縁に当たる柏井家(東京市杉並区天沼3−788)に船越章と共に下宿。当家次女悠紀子(立教高等女学校2年)と相知る。この頃左翼文献を読み漁る。
5月、手書き歌集「嶺岡耿太郎歌集」を作成、以後昭和8年まで書き継がれる。
6月、満州事変勃発。


1932年 (昭和7年)  21歳

1月、旧「かぎろひ」同人を結集して文芸同人誌の創刊を計画。
2月、大学構内で帝国主義反対の集会に手入れあり、演説した長野敏一とその場に居合わせ一夜坂本警察に拘留される。その際心配した悠紀子とはその後次第に親交が深まった。
3月、「コギト」創刊。保田與重郎、肥下恒夫と編集に当り、作品の発表を始める。
主な創刊同人は、保田與重郎肥下恒夫、田中克己、中島栄次郎、 松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己、薄井敏夫、松田明、石山直一ら。
肥下の経済的扶助により間断なく発行され、克己の主要な発表誌ともなった「コギト」は、保田の文芸評論を中心に据え、 昭和十年代を通じて日本のロマン主義文学の拠って立つ代表的な文学誌として機能した。
4月、中野重治逮捕。この頃、佐藤春夫とハイネに親しむ。
11月、悠紀子との交際に難色だった柏井家を去り、中野区鷺宮1−268仙蔵院の離れへ転居。


1933年 (昭和8年)  22歳

1月、北園克衛の誘いでモダニズム同人詩誌「マダムブランシュ」の同人となる。酒井正平、川村欽吾、饒正太郎、江間章子らと親しむ。
3月、春休みに帰省の折、伊東静雄を中島栄次郎と訪ねる。
4月、杉並区馬橋4−542 根本方に下宿転居。
5月、コギト同人松浦悦郎病没(23歳)。
8月、卒論資料収集を兼ね、佐藤春夫の小説の舞台となった台湾を一人で旅行。


1934年 (昭和9年)  23歳

3月、詩稿「西康省」一夜に成る。
同月、大学卒業。卒論研究は中国の海賊を題に採った「清初の支那沿海」。
4月、大学院に籍を置き、就職難の中、実家へ帰阪。大毎・大朝の新聞社には学科後の面接審査で落ち、失業中ノヴァーリスの遺稿小説の訳出を始める。
5月、大阪国学院設立の浪速中学校の嘱託講師となり、大学院は退学。
9月、教諭となる。室戸台風襲来。
10月、「四季」(第二次)創刊。堀辰雄より間もなく詩稿の依頼あり。
11月、編集から遠ざかっていた「コギト」に「日本浪曼派広告」載る。克己は誘われなかった。一方、大阪在住者で「木曜会」を催し、中島、伊東、桑原武夫らと度々集まる。 この年、徴兵検査にて丙種合格。
また、手書き詩集「田中克己遺稿集」を作成。昭和11年まで書き継がれる。


1935年 (昭和10年)  24歳

5月、柏井悠紀子と結婚。新婦は満20歳。高石町高師之浜1280に新居を構える。


1936年 (昭和11年)  25歳

1月、ノヴァーリス遺稿小説を「青い花」として第一書房より刊行、処女出版となる。
2月、堀辰雄の推挙により「四季」同人となる。のち神保光太郎、津村信夫らと編集にも携わった。
3月、住吉区住吉町1694(現在万代西4120)へ転居。
7月、長男史(ふびと)誕生。
10月、叔父北村英雄、父方西島氏の系譜を『西島氏歴代考』にまとめ、併せて始皇帝末裔伝説について調査依頼する。
また、ノヴァーリス『ヒアシンスと花薔薇』を服部正己と共訳、山本文庫の一冊として刊行。


1937年 (昭和12年)  26歳

1月、東洋史の石浜純太郎に就く。
3月、高石町羽衣444へ転居。
7月、蘆溝橋事件起こり日中戦争に拡大。
8月、三好達治を訪ね、佐藤春夫に紹介される。その後、三好と共に信州追分の油屋旅館へ投宿。堀辰雄、立原道造らと出会い、東京進出への想いつのる。


1938年 (昭和13年)  27歳

7月、職を投げ打ち家族と共に上京、妻の実家柏井家に入る。再び就職に奔走、合間に多くの先輩文学者と初めて交わる。
10月、退職金150円で処女詩集「詩集西康省」を250部自費刊行 (丸の内「マーブル」にて出版記念会)。 反響大きく、とりわけ斎藤茂吉の感想に感激。三好達治の紹介で佐藤春夫門下の一人に。
同月、コギト同人松下武雄病没(28歳)。また、家庭教師の口を見つける。


1939年 (昭和14年)  28歳

1月、法政中学教諭となる。
3月、同人雑誌「文芸文化」への作品発表始まる。立原道造病没(24歳)。
7月、萩原朔太郎をかこむ「パノンの会」が有楽町の喫茶店「パノンス」で始まる。「四季」の同人、会員を集めての開講は十回余に亙り、克己は助講として朔太郎に最も信頼された。 またこの頃より、増田晃、 薬師寺衛、大垣国司ら「コギト」の後輩と親しむ。
9月、長女依子誕生。
この年、恩師和田清の紹介で蒙古善隣協会内の蒙古研究所に勤務。


1940年 (昭和15年)  29歳

9月、長女依子誕生。伊東静雄の斡旋により第2詩集「大陸遠望」刊行。
この年、法政中学を退職。新設された亜細亜文化研究所(立教大学構内)に勤務。


1941年 (昭和16年)  30歳

1月、中川與一主宰「文芸世紀」の同人となる。
2月、蓮田善明と一度きりの面晤。
9月、次男梓誕生。
10月、「楊貴妃とクレオパトラ」出版、伊東静雄の「詩集夏花」とともに第5回北村透谷賞を受賞。
12月、対米英開戦。


1942年 (昭和17年)  31歳

1月、文士徴用の第二陣として、北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと南方戦線後方へ派遣される。シンガポールで英字新聞の編集をし、 やがてスマトラへ赴く。
5月、日本不在中に保田與重郎の斡旋により第3詩集「神軍」を刊行。萩原朔太郎病没(56歳)。
6月、映画版を案内して赤道を越える。フォート・デ・コクにて近衛師団の帰還命令。
8月、現地で交通事故。
12月、台湾を経て熱田港へ帰国、徴用解除。


1943年 (昭和18年)  32歳

1月、帰還後、亜細亜文化研究所に復職。資料を求めて東洋文庫、東洋文化研究所(東京大学)などに足しげく通う。
7月、増田晃、中支石灰窯にて戦死(28歳)。
9月、次女弓子誕生。夫人の産院入院中、添寝していた次男梓が疫痢に罹り早世。生涯の悲しみとなる。


1944年 (昭和19年)  33歳

4月、『李太白(評伝)』を日本評論社より刊行。
6月、「四季」終刊。
9月、「コギト」廃刊。
11月、三好達治の斡旋により第4詩歌集「南の星」刊行。荻窪警防団副部長となる。


1945年 (昭和20年)  34歳

3月18日、応召入隊(中部23部隊)。北支派遣独立警備兵の二等兵として河北省唐県にて情報室付任務に当たる(至武15696部隊 荒木隊)。
2月、薬師寺衛、フィリピン諸島レイテ島にて戦死(32歳)。
5月、中島栄次郎、 フィリピン諸島ルソン島にて戦死(35歳)。
6月、田家荘のトーチカに屯居。戦友、小林俊文と親しむ。
8月、敗戦。一等兵を命ぜられる。
9月、望都県で京漢線鉄道の警備に当たる。
10月、現地除隊、北京へ逃れる。その後、天津で歯科医を営む義弟宅に寄寓。日本荒廃の噂に一時在住を決意。


1946年 (昭和21年)  35歳

2月、義弟柏井数男一家と共に佐世保へ入港、帰国。
3月、帰宅。自宅(天沼3−788)は焼失をまぬがれるも、疎開先の大垣で十二指腸虫に冒された夫人は暫く病臥。また大垣国司の手許にあった貴重な手紙類が散佚した。 和田清の紹介で外務省調査局の仕事をした後、
7月、杉浦正一郎、服部正己の紹介で天理図書館司書研究員となる。保田與重郎の斡旋で桜井町本町2丁目(現在桜井市)来迎寺の離れへ転居。父君と弟順三郎氏と親しむ
9月、第三次「四季」創刊(角川書店)。堀辰雄の呼びかけで再び作品の発表を始める。 晩年の辰雄が中国古典に傾倒するとともに、加藤家(多恵子夫人と弟)を通じて信頼が深まった。


1947年 (昭和22年)  36歳

12月、第三次「四季」終刊。天理教真柱である中山正善の発議により「大和文学」創刊、保田與重郎を招いてともに同人となるも翌年廃刊。


1948年 (昭和23年)  37歳

1月、愛知大学から板倉鞆音を介して教授への招聘あるも受けず、同僚の服部正己が代った。
3月、遺骨なき中島栄次郎の葬儀。遺稿集刊行に動くも出版社の反応にぶく結局成らず。また保田與重郎が公職追放されるも(26年解除)、戦争詩人達からは指定者が出なかった
12月、図書館の待遇と気風に嫌気がさし、転職先が決らぬうちに父の寓居近く、京都市上京区大宮田尻町32(現在北区)西田方へ転居。


1949年 (昭和24年)  38歳

3月、三女京(みやこ)誕生。
5月、京都近辺の詩人たち、天野忠、天野隆一らとコルボウ詩話会を結成、詩誌「コルボウ」を創刊す。
12月、9月に創刊された保田與重郎らの「祖国」に参加、前川佐美雄の歌誌「くれなゐ」とともに作品発表の拠点とした。
この年、師友の協力を得るも大阪大学その他への口利き話まとまらず、同僚との恋愛も圧力となり精神衰弱。天理教への入信さへ考へる。


1950年 (昭和25年)  39歳

1月、神田喜一郎博士から名古屋大学への口利き話があるも学内に反対者あり、あきらめて彦根高等女学校と関西大学付属第一高等学校への話をすすめる。
3月、天理図書館を依願退職。
4月、滋賀県立短期大学(彦根高等女学校改称)教授に任ぜられる。
5月、関西大学付属第一高等学校講師を兼任。
6月、彦根市尾末町35−1の大学官舎に転居。
8月、井上多喜三郎らと近江詩人会を結成、詩誌「詩人学校」を創刊。


1951年 (昭和26年)  40歳

[1月-2月]、芹橋公舎へ移転。
3月、冬の寒さ耐え難く、滋賀県立短期大学を依願退職。
4月、帝塚山学院短期大学教授に任ぜられる。同僚に杉山平一、小野十三郎あり。布施市西堤町607の1富士ハウス(現在東大阪市)へ転居。 井上多喜三郎らより餞別として詩集『寒冷地帯』が刊行され贈られた。


1952年 (昭和27年)  41歳


1953年 (昭和28年)  42歳

3月、伊東静雄(46歳)、5月、堀辰雄(48歳)病没。
11月、井上多喜三郎らと詩誌「骨」を創刊。


1954年 (昭和29年)  43歳


1955年 (昭和30年)  44歳

2月、「歌集戦後吟」を自費刊行。


1956年 (昭和31年)  45歳

1月、小高根二郎、福地邦樹らと同人雑誌「果樹園」を創刊。発行人となる。「コギト」無き後、克己ら周辺文学者の戦後の主要な発表誌として、小高根の伝記評論などを世に送った。
11月、岩崎昭弥の斡旋により「詩集悲歌」刊行。


1957年 (昭和32年)  46歳

3月末、上京。一旦本郷菊坂町の西川英夫宅に身を寄せ、4月、北区岸町1−7中込アパートへ転居。「果樹園」編集から外れる。
4月、東洋大学文学部教授に任ぜられる。
9月、防衛大学校講師を兼任。


1958年 (昭和33年)  47歳

3月、内部紛争の末、東洋大学を依願退職。
4月、成城大学文藝学部、立教大学文学部大学院、聖心女子大学で非常勤講師として教鞭を執る。


1959年 (昭和34年)  48歳

4月、成城大学文藝学部教授を任ぜられる。同僚に栗山理一、池田勉あり。防衛大学を依願退職。


1960年(昭和35年)  49歳

1月、盲腸手術、武蔵野市吉祥寺本町(吉祥寺2856)へ転居。

コルボウ詩話会解散。


1961年(昭和36年)  50歳

9月20日、父喜代之助死去(78歳)。この冬、癌の恐怖症に悩む。


1962年(昭和37年)  51歳

3月20日、肥下恒夫自殺(53歳)。
12月、日本基督教団吉祥寺教会にて受洗。


1964年(昭和39年)  53歳

2月、「果樹園」に『コギトの思い出』連載開始(至昭和41年)。
2月、父喜代之助の遺稿歌集「歌日記」を刊行。 跋 1 2
4月、杉並区阿佐谷南1−40−8へ転居。
5月、佐藤春夫死去(72歳)。
7月、立教大学、聖心女子大学を依願退職。


1966年(昭和41年)  55歳

7月、「新潮」に『「四季」の人々』。井上多喜三郎、交通事故死(64歳)。
8月、夫人と共に33年振りに台湾を旅行。


1967年(昭和42年)  56歳

11月、「四季」(第一次、第二次)日本近代文学館より復刻。
12月、第四次「四季」創刊(潮流社)、同人 となる。


1973年(昭和48年)  62歳

3月、「果樹園」終刊。


1974年(昭和49年)   63歳

二度目の台湾旅行。


1975年(昭和50年)  64歳

12月、第四次「四季」終刊(丸山薫追悼号)。


1978年(昭和53年)  67歳

8月、執筆の為、木曽へ逗留。


1979年(昭和54年)  68歳

8月、執筆の為、伊豆に逗留。


1981年(昭和56年)  70歳

10月、保田與重郎死去(71歳)。


1982年(昭和57年)  71歳

3月、成城大学を定年退職。名誉教授となる。昭和9年作成の手書き詩集を「田中克己詩集」と改題、麥書房より復刻自費刊行。


1983年(昭和58年)  72歳

8月、詩歌集「神聖な約束」30 部自費刊行。


1984年(昭和59年)  73歳

1月、自ら主幹となり第五次「四季」創刊(四季社)。旧「果樹園」同人らが拠った。
6月「コギト」臨川書店より復刻(解題を執筆)。
10月−12月、「文芸広場」に杉山平一との対談集。


1987年(昭和62年)  76歳

3月、第五次「四季」11号にて終刊。


1988年(昭和63年)  77歳

2月、外出の翌朝倒れ、武蔵野療園病院に入院。リハビリ後、関東中央病院より6月に退院。
10月、自宅改築の為、一時阿佐谷南3−25−7へ転居。


1989年(平成元年)  78歳

4月、新居へ移る。以後長男家族と同居。


1990年(平成2年)  79歳

7月、近江詩人会四十周年記念誌に寄せた一文あり。絶筆となる。


1991年(平成3年)  80歳

7月、悠紀子夫人、癌の為、河北病院へ入院。見舞に足繁く通う。
11月、肺炎の為、八王子市多摩病院へ入院。


1992年(平成4年)

1月15日、多摩病院にて永眠。17日、日本基督教団阿佐谷教会にて葬儀。
3月8日、悠紀子夫人逝去。

墓所(八王子市上川霊園1区1号)。


*本年譜作成に当たっては、御遺族及び関係者の協力を得、自筆略歴他、複数資料の信憑性を照合した。年譜中に表れぬ著作については、 著書目録著作総目録を参照されたい。 (中嶋康博)


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