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たなかかつみ【田中克己】散文集


コギトの思ひ出      「果樹園」(vol.96,1964.2.1)〜(vol.128,1966.10.1)所載

                                                    田中克己

     ★ 1

 十二月十三日、小高根二郎氏より九日消印の葉蓄をいただいた。「四季」「コギト」に関する記録を連載しろと、森亮氏と御両人で希望との意味である。 「果樹園」を九年間もお世話していただいたわたしとしては否応なしである。「四季」のことは後まはしとして、まづ「コギト」の思ひ出を記さしていただく。 わたしは記憶をなくしたが、幸ひ日記があってまんざらの嘘も書かないだらうと思ふ。

 コギトの結成に関しては、それの母胎になった「R火」のことを述べねばなるまい。ただ「R火」は手もとに一冊もなく、同人や同人費など全く記憶からなくなってゐるが、 わたしの日記(「夜行雲」と題した)の昭和五年十二月十日の条に廃園「R火」戯頌といふのがのってゐる。これは明らかに、「R火」の廃刊といふ よりは実は三年生のわれわれが編輯をやめたことを証明してゐる。たぶん九月号までわれわれが出したのだと思ふ。われわれといふのは、この戯頌で湯原冬美、三崎皎、大東猛吉、鋭二、 厚見壮吉(西川英夫、東京建物重役)、北能(友真久衛、判事、死亡)、佐波とだけあかしされるが、その他にいま弁護士の丸三郎、八戸市助役の中野(本宮)清見もゐたことは間違ひない。 さてこの湯原冬美が保田与重郎、三崎皎が杉浦正一郎(故人、九州大学教授)、大東猛吉が故人松下武雄、鋭二が中島栄次郎(比島で戦死)であるといへば、 このプリントの歌誌がコギトの母胎であったことが証明されよう。

 翌年三月われわれは高校を卒業して大学に進んだ。松下、中島の二人が田辺哲学を研鑽するため、京大に進んだのを例外として、旧「R火」同人はみな東大に入った。 クラスの三分一を占めた文科入りは、ほとんど全部みな文学を志向した。その結果が昭和七年三月のコギト発刊である。

「R火」の同人ではなかったが、このころ肥下恒夫が富豪であり、また文学に一番熱心であることは皆に知られてゐた。彼は東大文学部の美学美術史学科(保田も同じ)に入学すると、 結婚して家を構へ、同時に文学をやると宣言したのである。正月に一度われわれは原稿をもって肥下の家に集まった。自分のことはなるべく言はないことにするが私はこの時、 評論をもって行った。「R火」の時からすでに理論的に指導者であった保田は、コギトといふ雑誌の名を提案し、ついで原稿を一瞥して、 創刊を一月のばすこととした(私は原稿をとり返し、その後つひに評論家たることを断念した。)

 昭和七年三月一日付コギト創刊号には、同人が全部顔をならべた筈である。当時われわれの同人の定義は、同人費(コギトは各人毎月十円で、足りない分は肥下が負担することになってゐた)の納入のほか、 配本(店頭に置くこと)、発送(読者ならびに寄贈者への)みな手分けして行なひ、また原稿は毎号かならず書き、書いたものは出来の良し悪しに拘らず、各人の名誉にかけてのることとなってゐたのである。

 創刊号の表紙も保田の案であらう。白地でコギトと活字を用ゐ、ナンバーだけが薄緑になってゐる。これより簡単な装幀はないが、われわれはみな当時の他の同人誌の装幀にくらべて、 その特異なのを自慢としたことをおぼえてゐる。

 さういへば、コギトといふ名そのものが特異だったので、デカルトの「われ思ふ故にわれ在り(コギト・エルゴ・スム)」から採ったこの誌名は、 われわれが配本に行った本屋でよく“コトギ”と預り証に写された。(各人地域をきめて、主な本屋に頼んで置いてもらひ、次の発刊のとき取りかへてもらふのである。) わたしは阿佐ヶ谷地区を受けもたされ創刊号が既に売れたことを知った(散歩の時たちよって引っくりかへして冊数を見るのである)が他の地域でも売れたことは他の同人が売揚げをもちよったので証された。 然り、コギトははじめから売れたのである。而してその主なる理由は、装幀が当時ほかに見られぬ清楚なものだったからだらうと思ふ。

 本末転倒ですまないが、内容は肥下、保田、若山隆(大阪学芸大教授相野忠雄)、薄井敏夫(故人)、三崎皎、園玲治(室清、明治生命秘書室長)の小説、 沖崎猷之介(中島栄次郎)と私と山内しげる(産経大阪支社、中田英一)この詩、それに保田の印象批評といふエッセー、 服部正已(現大阪市大教授、文博)の「ジンメルの言葉」の訳(これは言語学科の服部が保田に強要されて訳したのである)がのり、すでにこの創刊号で、 翻訳(訳そのものよりも訳する対象の指定)とエッセー欄の特異性が見られる。(vol.96,1964.2.1)

     ★ 2

 病気で書きかけたままの前稿をよみ返して気がついたが、同人の義務中には、編集、印刷(校正をも含む)の大仕事をぬかしてゐた。さて編集はほとんど保田が手早くやってくれたが、 印刷の方は肥下が責任をもった。創刊号から二五号までは野方町上沼袋一五日本印刷学校といふので印刷してゐるが、ここは肥下が見つけたのだと思ふ。何とかいふ宗教的な団体の経営で安価なうへ、 係になってくれた人に赤川草夫氏といふのがゐて、ひどく誠実な人で親切にしてくれた。この人はのちに詩人だとわかり、コギトにも一、二度書いてもらってゐる。 ここへ肥下が通って再校、三校までやった。もっとも初校は在京同人が集ってそれぞれ手分けしてやったが、肥下は校正に実に熱心で、誤植を実に気にし、 これがないのを自慢にしてゐたと思ふ。

 前にも述べたやうに肥下は富豪のむすこだったが、実は父祖の財産を受けついだのではなく、堺の肥料問屋のあとつぎになったので先代の死後相続だったかと思ふ。 肥下といふ珍らしい苗字はこれで帯びることとなったが、肥下の代には商売をやめ、土地邸など莫大にもってゐたのである。その中の宅地が肥下の出征中になくなり、農地は不在地主として小作に取られ、 肥下家の財産は彼一代といふことになったのを、肥下はひどく気にした。これはコギト創刊当時にはもとより予想もされなかったが、そんな性質の彼なので、もとより文学は好きだったが、 コギトにこんなに熱心だった一面には、不労所得の財産をすこしでも有益に使ひたいといふのがあったのだと思ふ。慈善事業に寄附したらだって?われわれは若いころには、 さういふ風には考へなかったのである。

 創作にも不熱心ではなかった。日本印刷学校から四谷の杉田屋へ印刷所を変へるまでがコギトの第一期であるが、この二五冊の中、 肥下は一七冊に創作(その少数は詩)を発表してゐる。毎号かかさなかった点では保田だが、創作ではこれも故人となった薄井、杉浦の二人とあはせて最熱心であった。 杉浦の創作については、この間よそに書いた。肥下の小説の方が同人たちにも好評だったが、も一つ押しが足りなかった。ケレンの味のないまじめな性格がわざはひしたのだと思ふ。

 評論欄は保田、中島のほか三号から松下武雄が書きはじめ、三人ともほとんど休みなく書いた。しかも認められること早く昭和八年の「思想」の特輯藝術論に寄稿を求められた。 谷川徹三さんに認められたのだと思ふ。谷川さんは三人の中でも、中島を一番好んだと見えて、その直後、再び寄稿を求められた。私は「コギト」のため、 中島のため大喜びしたことを覚えてゐる。「思想」はそのころ、それくらゐ権威があったのである。

 やはりこの年の夏か、それとも前年の夏かに、発行所へ無名のハガキが来て、コギトの詩よろしい、しっかりやれとの意味だった。消印は大阪の住吉で、 夏休み(編者註:春休み)に休暇した私が中島に会ふと、“大阪高校(旧制)の前の本屋(畠山)に配本にゆくと、毎号一冊売れており、本屋にきくと「買手は住吉中学の先生で伊東といふ人、 私どもにもしっかりやるやうにと伝言たのまれた」と聞いた”とのことである。このころコギトに詩を書いてゐたのは杉浦、中島と私とだったので、二人で相談して本屋にところを教へてもらひ、 天下茶屋の伊東先生宅を訪れた(編者註:昭和8年3月18日)。幸ひ在宅して来意を通じると会ってくれ、ハガキや伝言と同じ意味のことをくりかへし、自分たちで出してゐる雑誌「呂」といふのをもって来て見せた。 なんだ呂の詩人だったのかと私もうなづいた。コギト発行所へ送って来てゐて、私は愛読してゐたのである。呂の同人はやめなかった中に寄稿してもらつたのが、 十五号(昭和八年八月発行。編者註:“病院の患者の歌”)で、そのすぐあと同人になったのだと思ふ。

 こんな風にややおくれて同人になったのが高校で一級上だった野上吉郎(石山直一)、三浦常夫(実名小高根太郎、二郎氏の実兄旧道)の二人である。 反対にだんだん怠ける者も出来て昭和九年の六月号、すなはち同人の大部分が大学を卒業した月は、執筆者わづかに七人、その前号も九人で、 コギトもなんとか考へねばならないところへ来てゐた。東京に残った保田、肥下によって打開の策が建てられコギトは二六号以後、全くちがつた体裁となる。 (vol.102,1964.8.1)

     ★ 3

 コギトは第二六号(昭和九年七月号)に至って第二期に入った。その理由は前にも書いたが、同人ほとんどが就職して分散すると同時に、 文学への熱情もなくしてしまったかの看を呈したことである。同人費を送り原稿を送ることがどんなに面倒なことかはわかるが、書きたいこともなくなったかの様に見えた。 ここで終るのが普通の同人雑誌だが、大転換をしてつづけさせたのは肥下と保田の二人だった。肥下はこの号以後はほとんど書かずに雑務と会計とを大部分、引き受けた。 保田は東京にゐて卒業後も文学をやることを明らかにしたので、同志を方方に見つけた。コギトはここで表紙と見開きに模様を入れ、同人以外の寄稿を求めた。 第二六号には京都の中井正一・大山定一の両氏、東京では亀井勝一郎・本庄陸男の二氏が書いてゐる。京都の二氏は中島もしくは松下、東京の二氏は保田がたのんで書いてもらったのだと思ふ。 保田はこの変換を編輯後記で「同人雑誌としてのゆき方の一そうの前進であらしめたい」為にしたのだといひ、「今日の良心を最高に表現したい」ともいってゐる。 これにはうそはなかったと思ふ。

 中井正一氏は、わたくしは面会の機会をもたなかったが、当時は京大の助手だったか、その「リアリズムの問題に寄せて」といふのが、巻頭にのってゐるだけでも、 今までのコギトとは全く違った趣きが見られた(同氏は戦後国会図書館副館長に就任、まもなく亡くなられた)。旧同人では中島が張り切ってゐて、二篇エッセーを書き、 あとの方は藤原定氏とのレアリズム論争だった。くはしく紹介する必要もなからうが、レアリズムの全盛の時代に、そのになひ手に対する論争を買って出るのは、 このすぐあとに「日本浪曼派」が結成され、中島がその発起者の一人となったことを予定してゐる。もっとも論争の常として同じことばを用ひて、ちがふことをいふ例にもれず、 中島はレアリズムを不可といふのでなく、その証拠にこのコギト第二六号につけられた「六月号雑誌要目」といふのを見ると、「現実」に当の藤原定氏とならんで保田、 中島がともに執筆してゐる。この雑誌こそレアリズムの牙城だったからふしぎなものである。

 コギト第三〇号は「独逸浪曼派特輯」と題をつけ、シュレーゲルのゲーテ論を薄井が訳し、またティークの論文を肥下が訳してゐるほか、神保光太郎、松下武雄の訳をのせ、保田、 玉林憲義、興地実英、大山定一、芳賀檀、亀井勝一郎などのローマン主義に関する論文が満載されてゐる。総ページ数一七〇、「大変なものを出したな」と、 大阪にゐて校正や経営からのがれてゐたわたしなど驚き、ありがたがるばかりだったが、この号に「日本浪曼派広告」といふのが掲載された。もとより作者は保田で、

「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪曼派を創めるもの、一つに流行への挑戦である。 僕らは専ら作家の清虚俊邁の心情を尊び、藝術人の不羈高踏の精神を愛する。此の日その美を展き、その果を始めることに、僕ら現代の文学人の賦命を感じて禁まぬ」

 からはじまって、稀代の名文であるが、署名は神保、亀井、中島、中谷孝雄、緒方隆士と保田の六人となってゐる。この「次代の文学人」がみな二十代であつて、 世俗レアリズムヘの蔑視をいふところ、わたしなど大いに同感したが、わたしにはつひに同人に参加の勧めは来なかった。「役人と教師とはやめとこ」といふ保田の主張が通ったのだといふことは、 当時、同じく大阪にゐた伊東がわたしに教へてくれた。

 前にも書いたと思ふが、伊東は学校の教師でありながら、三号から日本浪曼派に加入してゐる。反対に中島は発起人に名をつらね、 その創刊号に「浪曼化の機能」といふ論文を書いて、トップにのせたまま、四号に詩を発表しただけで、いつのまにか浪曼派からのいてしまった様である。その理由はわたしも聞いたおぼえがないが、 勤勉でまじめな彼として、何か“おくれ”を感じたのかと思ふ。何にしてもコギトと日本浪曼派は保田一人のつながりで大丈夫だといふ気持がわたしなどにもあって、 熱心に書きまくる気持を中島も失ひはじめたやうに思ふ。わたしはよく勤め先の帰りに中島を訪ねて将棋を指した。指しながら二人ともつまらない顔をしてゐたやうに思ふ。(vol.103,1964.9.1)

      ★ 4

 コギトが第二六号から内容の一変したことは、前にものべたが、この同人雑誌から同人プラス同志といふ形になったについて、 同志といふのが甚だ曖昧だったことは認めねばなるまい。日本浪曼派の主導者の一人である亀井勝一郎氏が書いたことは、やはり前に述べたが、同氏は当時「現実」の同人であった。 手もとに一冊もないので、どんな雑誌か覚えもないが、雑誌の名から推量すればレアリズムを主張するものであったのであらう。コギト第二十七号に附載されてゐる同誌八月号の執筆者を見ると、 藤原定、田辺耕一郎など日本浪曼派と関係のない人たちの名が見られる。ことにふしぎなのは保田もここに「正しいやうな意見への態度」といふ題で執筆してゐる。題名からではわからないが、 所謂レアリズム反対の議論でも書いてゐるのではなからうか。

 同じく附載された雑誌広告のも一つは「麺[麦包]パン」で、これは北川冬彦氏の主裁する雑誌、神保光太郎氏はしたがって、ここから日本浪曼派へとぬけてゆくのである。

 浪曼派のことはしばらく置く、コギトには第二十八号以後、蔵原伸二郎氏が、「東洋の満月」いふ題で、多くの詩を連載してゆく。蔵原は伊東、 宮沢賢治とともに保田の好きな三詩人の一人で、誰しもコギトの同人のやうにいふが、これは訂正しなければなるまい。既に有名で、 私たちは一時のプロレタリア文学の理論家蔵原惟人氏の従兄弟とかいふことまで承知してゐた。ただし詩は舞台を幻想の曠野や沙漠にとり、 そこに住む動物の気持になって作られた無類のもので、のちに一冊の本にまとめられた。

 わたしは第二十五号以来、ノヴァーリスの「ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲン」を訳してゐたが、これは大阪に帰って中学の講師をし、中島栄次郎と将棋をさしながら、 すすめられてやったのだと思ふ。テキストも持たなかったのを、中島か松下か、どちらかが貸してくれた。誤訳だらけだが、本邦初訳で高校でも出来の悪かったドイツ語の力でやったのだから当然である。 のせる勇気といふより、それさへ感じなかった若い自分を私自ら今となっては他人事のやうに思ふ。本当に老いたものである。 序でながら太宰治らが「青い花」といふ同人雑誌(一号だしただけでつぶれた?)を出したのは、いつのことか。もし昭和十一年ごろだったとしたら、私の翻訳が第一書房から、 その題で本となって出たことと関係がある筈である。

 年が明けて昭和十年となった。コギトは第四巻となり、私は大阪に住みつくことになった。コギトのことは、中島とよく話した。遠くにゐると批判的になるもので、 私もいったかもしれないが、この年三月号の編輯後記に保田はかう書いてゐる。

「大阪にゐる中島の意見にとよると、「コギト」をもっと高踏的にせねばまさに意義ないといふ。僕ら高踏的なることを主旨とし、三年に亘り微力をつくしたもの、 恥ぢてこの忠告を尊ぶ云々。」

 ロマンチックであれとはいはないが、風俗小説や出世主義はこのころの青年の最も恥かしく考へた卑しい考へだったのである。 詩ばかり書いてゐる私とのつきあひのせいか、中島はこの号に珍らしく詩を書いた。「河の上」といふ題で、四篇から成ってゐるがその第三をためしに引くと、

 それがわたしの自惚なのやら
 それがわたしの祈りなのやら
 たヾ意味もなく苦笑を浮べ
 すくすく生えた蘆の葉よ
 わたしは懐中人知れず両手をにぎり
 その暖かさにほっとするのだが
 それがわたしをどぎまぎさせ
 やがてわたしは思ふのだ
 こんな秘密の悪徳があると
 ただ芸もなく苦笑を浮べ
 ..................
 目をつむれば
 あゝ沢山な鹿の群が
 次から次へと
 脚をあげて
 あの中へ躍り込む......
 わたしはただ芸もなく苦笑を浮べ

 田辺元博士に傾倒し、哲学に専心しながらも、詩心をゆたかに享け、怒りも悲しみも苦笑ですごしてゐた故友をいまわたしは惜しくなつかしく思ふ。 彼は前にもいったかもしれぬが、補充兵として三十すぎに召集され、フィリッピンで戦死するのである。あとには著書もなく子孫ものこさず、 書物は私が整理していま名古屋大学と帝塚山学院短大との書庫に入ってゐる。(vol.104,1964.10.1)

      ★5

 コギトはわたしが関西で就職してゐる間にずいぶん変ったと記したが、中心はやはり保田で、彼なくしてはページも足らず、内容も無きに近かったらう。 昭和十年四月号は通巻第三五号で、中島が巻頭に「抒情の客観性」といふ論文を書き、「今日文学界は非常に混乱してゐる」といって、リベラリズム、行動主義、能動精神、リアリズム、 知識階級論、転向文学など、当時の文学者が唱へた文学的主張を列挙して批判してゐるが、あたかも同じテーマをとりあげてゐるのが民話と註した松尾苳成の「新版西域記」である。 このペンネームは当時も今もたしかめたおぼえはないが、保田の作だとわたしは信じて疑はない。

 大変な名文で、しかも惨酷なまでに混乱した文学界を諷刺してゐる。彼はこの号にはその朝鮮紀行「仏国寺と石窟庵」を書き、また巻末には「雑事記帳」としてエッセーを書きながら、 なほ足りぬページを充すため、速席に書きあげたのであらう、奇才の真価を証するとともに、中島の論文より、なほたしかに混乱した文学界を批判してゐる。 この諷刺小説の主人公は風狂癇生と自らを号し、一管の筆、一壷の墨のみを携へて、片足に靴、片足に草鞋をつけて大唐へゆき天竺へゆく。

 西域でまづ遇ふ諸悪鬼は摩瑠[拘]珠経、那智経を唱へて前後をとりまくが、みな迫つ払はれる。マルキシズム、ナチズムを文学の手段とし目的としたのは、 誰々だったか、昭和文学史をひもどいて見たまへ。わたしにはその暇もない。

 次に過ふのは経薄魔児といふ一魔、風狂生の言をきき、喜んで星菫派を創めたといふから、卑俗ロマン派をいふのであらう。日本浪曼派がそれであるか、それともその中の誰々がそれに当るか、 これもわたしにはわからない。

 赤水河畔小竹林といふところでは利耶慄魔にとりまかれる。「群魔もとより師の説法を喜ばず」とあるが、リアリズムとロマンティシズムとの対立さもあるべしである。 その中の一魔はこれらの群魔とはなれ能可山文妖洞に頸飾を納め、自ら赤水聖者といふが、他人は呼んで顚落魔といったといふ。ナウカ社といふマルクス主義専門の出版社、 左翼から出たものをもとの仲間が脱落者と呼び、顚落者と呼んだことは、わたしも覚えてゐる。

 赤水魔に属せずその退陣を嗤った納導を営業する一魔といふのは、能動主義を唱へた某氏をいふのであらう、「師も亦わが能逃派の一人也」といひ、別に能商派といひ、 大檀那にとり入り盛んになったといふ。当時の文壇を写してあますところがない。

 顚落魔たちが次に拠ったのは仏国寺巴里庵実吐道士と記すが、ジードがはやりヴァレリーがはやったことは覚えがあるが、これを文学的に営業にかつぎ上げたのは誰か、 中島はヴァレリーが好きで、その死後、蔵書とノートの整理に当ると、ノートはほとんどヴァレリーのぬき書きであった。関係ないことだがついでに記す。

 雷音如来薬師諸菩薩を喝仰し、「青日流」をはじめる一派、那成果洞にすくふ一老魔といふのが次には出、みなみな風狂師のそばへやって来る。保田が当時つきあった人々の中には心覚えもあらう。

 わたしは前にも書いたが中学の歴史の教師として日本史、東洋史、西洋史を教へ、また一組を主任として受けもたされてゐた。たのしみは中島、松下、 服部など在阪の諸同人とのつきあひであったが、文学の話はほとんどしなかった。伊東静雄もよく集りに出たが「コギトの同人は集まれば、 冗談ばかりいって文学の話をしない」と本気で恨まれたことを覚えてゐる。少年含羞のほか、関西人の気風になじまなかったのであらう。

 服部は当時どこにも勤めずにゐたと思ふが翌五月にはディルタイの「体験と文学」といふのを第一書房から出した。語学の達人であることは知ってゐたが、この文学論もたくみにまた正確に訳して、 コギト同人中はじめて著書をもつこととなった。出版社は第一書房といって、戦争中になくなったが、文学書を主とし、豪華といふより、センスのある装幀をするので有名であった。 社主長谷川巳之吉氏はいまどうしてゐるか。「セルパン」といふ十銭の雑誌を出し、わたしはここへ詩をたのまれて書き、三円もらったのが原稿のとりはじめだった。 その時の編集者は辻野久憲氏でのちには春山行夫氏になった。はじめての原稿料のうれしさはいまだに忘れられないので特にしるしておく。辻野氏は第一書房をやめたあと、翻訳をし、 再婚をし、コギトにも書いた。この先輩が「私はやめるがあとへ来ないか」といってくれたのを、そのまま聞き流したのもわたしであった。(vol.105,1964.11.1)

      ★ 6

 話が前後するが、昭和九年卒業前後の日記を見てゐると(この日記は冒頭に「わが恋とわれとを飢餓と霜雪とより守りたまへ、神よ」とドイツ語で書き、「恋は過ぎやすく、 飢ゑは永遠なり」との箴言をも附してゐる)、昭和九年の二月十三日からこの日記帳ははじまるが、ずいぶん詩を作ってゐる、といふより詩で書いた日記みたいで、 散文的にはあまり資料にならない。十三日の詩は、どこにも発表し得なかった、いやな作である。題はなくて、

 せむかたなく愁(かな)しきこころを抱き
 外濠通ふ伝馬船(てんま)を見
 冷き水を見てゐしが
 いつしか心は大いなる愛の上に移りにき

 われは愛すべからぬ人をおもひ
 ひとはわれをかなしくしぬ
 われは飯を求めしがひとびと酷くこれを拒みたり
 大いなる天より何ぞも降り来らむその日日の飯

 心と腹とひもじければ ひとびとに交らひ
 ふたつながら満すことを得ず
 ただひとりのひとによりて共に泣きしが
 かれにさへ権力(ちから)なかりき

 ふたりして思ふらくは「地二つに割れわれらを生きて埋めよ」と
 あるひはわれら一双の豺狼となり
 巷にありて他人(よそびと)を喰ひのまむことを

 かくてわれらとげ得ぬのぞみに焦れ
 われは男なれば外にありて侮(あなづ)られ
 かれは女ゆゑ内にありて哭き
 夜 臥床(ふしど)に入りて人間の営みのみをつくしぬ

 これは想像の唄であるが、全然、対象なしの想像ではないことはお察しの通りである。わたしはいまの妻とこのころ恋愛してゐて、同時にわたしの奉ずる「働かざるもの食ふべからず」との教へを、 彼女にも強ひたので、彼女は敢然と(わたしにはさう思へた)勤めに出たのである。勤め先や収入などの話はよそう。就職率五〜六パーセントといふ国立大学文学部卒業を目前にして、 わたしは未来をかう描いた。これがみな誤ってゐたことなぞ誰が知らう。

 松木悦治氏は自ら詩人でまた伊東静雄の解説者として良い論文を書いておいでであるが「日本ロマン派の抒情−伊東静雄論」と題する論文(日本文学九ノ九)では、 コギトの仲間は、

「没落者としての心情と、先行者としてのプロレタリア文学へ入って行けぬ不安とを「生の意識」の烈しさによって超えようとする願望が見られる。一口にコギトといっても、 保田や肥下恒夫の如き豪農、豪族の子弟から田中克己のように就職先を探して歩かねばならないものまで、その生活態度にかなりの差はありながら、 彼等をコギトといふ一つのサロンに集らせた内的原因は、その時代閉塞感からの脱出という点にあったといえよう。」

 と見事にわり切っておいでである。わたしの定義はまことに敬服のほかないが、その生活程度がかなりの差を保田、肥下との間にもってゐたとは思へない(資産程度といふ言葉なら認める)。 なるほど保田は両国の大相撲をカブリツキで見る贅沢をしてゐた由である(級友の話)が、 わたしはわたしなりに卒業論文の資料探しに名を借り(実は佐藤春夫先生の「女誡扇綺談」や「霧社」に惹かれて)台湾まで旅行したりしてゐるのだ。 高見順や亀井勝一郎などの同時代の大学生とくらべて、少しもミミっちいことをささなかった父(すでに亡くなった)に感謝すると同時に、わが家を没落せしめた明治維新をのろふよりほかない。 しかしこの同じことが豪農肥下家に十何年して訪れることなぞ、わたしたちは想像もしなかった。ただブルジョア支配の末期でわれわれは一様に没落しつつあると感じ(考へたつもりであったが)、 悲愴になってゐたのである。ともに父や母を早く失って兄姉に育てられた中島、松下の両哲学青年、ドイツ語をやった薄井に比べると、わたしは現世的に恵まれてゐたが、 働かねばならないと感じこれをかなへささない社会を悪罵してゐたのである。現に翌日はケロッとして、

 ゆふぐれになると帰るひとびとの様に
 わが魂はいつか性(ナトウール)として汝の魂を索める

 といふフラグメンテと、

 山腹に隠れた村村から挨拶が送られる
 街は日食で忙しい
 天文台ヘは臨時に電車が出
 新聞社では新しい社員が叱られてゐる
 わたしは山腹の家へ帰りたい
 老いた父母を慰める方法を一つも
 学校生活では教へてもらへなかった

 と書き、ゲルハルト・ハクプトマンの「青い花」と現する詩を訳しかけてゐる。東洋史専攻のくせにテキストをどこで手に入れたのだらう。(vol.106,1964.12.1)

      ★ 7

 日記が見つかったので、も少し昭和九年のことを書く。わたしは卒論をおへ、毎日詩を書いてゐる。「西康省」といふ一九〇行の長詩を書いたのは三月五日で、 二十五日には大阪に帰ってゐる。四月には奈良にゐた坪井明の家に泊り「春の日」や「曠野」をよんでゐる。

 四月十五日には「鷭」といふ雑誌が来た。これは古谷綱武、綱正兄弟と太宰治とを同人とした雑誌で、一号かぎりでつぶれたとおぼえてゐるがどうか。

 五月には「ひさご」ノヴァーリスの「ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲン」を訳してゐる。このころ尊敬した先輩の名が列記してあるから、念のためにかかげてみよう。 北川冬彦、北園克衛、春山行夫、三好達治、阪本越郎、上田敏雄、安西冬衛ならびに西脇順三郎である。

 灯はゆれる、歌につれて
 悲しい聞きあきた歌だ
 四辻では花が咲く
 こめかみに弾丸の痕がある男
 そのひとはおれにボンボンをくれた
 おれは眠る
 ゆれる灯にゆすられて

 われながら生長不足の大学卒業生だと思ふ。これに教へられた中学生がこの間、三十年記念だといってオルゴール入りの時計をくれた(時計はせまい書斎に置いてあるが、こんなはずはなかった。

 六月五日、東郷元師国喪の日わたしは良寛詩集をよんで訳し、それから(なんと錯乱したことか)次のやうな長い詩を書いてゐる。

 おれは思ふに一生自分の家は建ちつこない
 そこでゆめ見ることにした
 あのノイバラのここかしこに咲いた
 方二〇〇坪ほどの地所がいい
 あすこに南向きの
 日当りのいい家を建てる
 児のためには子供べや
 妻の化粧室 女中べや
 なかでも湯殿とはばかりをきれいにし
 書斎兼応接間をひろくとり
 まはり四面に書棚をくむ
 そこへ英独仏蘭支の書を積み
 おれはゆめのひまによむ
 おれはまた家のうしろに
 花をつくる園をもちたい
 家の前には香気のある
 花咲く木木を植えておきたい
 秋風春風のおとづれごとに
 それらが馨るのがうれしいのだ

 コギトがこの間に大改新を行なったことは前述した。わたしはそれよりも勤め先の帰りに駅の売場で「四季」の創刊号を見つけたときのうれしさの方が印象的である。

 十月が創刊号であるが、それよりまへ季刊の四季といふのがあった。それが月刊になったのである。創刊号は朔太郎、犀星、春夫、増田篤夫の四大先生をトップに丸山、 中原、堀、津村、竹中、三好、桑原と好きな人ばかりならんでゐる。定価三〇銭である。わたしはこのあと出るのをたのしみにして二冊買ひそろへたら、堀さんから詩一篇をかくように云はれた。 昭和九年の末で、この時送った詩は壱月号にのった。「四季」は三好、丸山の二詩人と堀さんとを中心に出来てゐるのだと誰しも思ってゐるが、実際の創立者であり、 中心だったのは堀さんだったことは、このごろになってやっとわたしも気づいた(丸山さんがそれを書いてゐる)。わたしは堀さんが詩が好きだといふことも永いこと知らずにゐて、 「四季」に書かしてもらへたのは三好さんのおかげだとばかり思ってゐた。わたしはコギトの翻訳で手いっぱいである。書きためた詩のなかから「四季」に合ふと思ふものをえらんで送った。 何が“四季風”だって?文学史家は何といってゐるのか。その人人の評価は正しいのか、責任をもって答へてもらはう。わたしは、 恥かしい詩はのせず(さういへばコギトにもずいぶん選んでのせたが)、一応高尚なかまへの詩を選んだ。立原のやうにのびのびと出せる人間をいくらかうらやましく思ったが、 人間のちがひである。そのくせ今とんでもないことを思ひ出したが、この年、わたしは徴兵検査を受けた。三大義務の一つとして受けるのは覚悟してゐたが、結果は丙種合格と決定した。 体重四十五キロだったのである。

「永持ちしない体だぞ」検査官は宣言したあと、わたしをぢろっと見て、「おまえは学校の教師だが、袴もはかず着流しで来てゐるのは、どういふわけか。」
 義務として受けるといふわたしの覚悟とちがひ、陛下の御民として兵になるかもしれない予感に身を飾らねばならないのである。わたしはとっさに答へた。
「貧乏な家に生まれ、教師としての月給もわずかですので買ひととのへる余裕もありませんでした。」
 検査官は「さうか」といって通してくれた。思へば恥かしいことをいったものである。わたしには本能的にこんな時うそをつくくせがある。これを詩人だと買ってくれるひとがあるだらうか。 コギトの思ひ出がとんだところへ行ったが、着流しはその後もわたしのくせ、咄嗟のうそもわたしのくせである。この文章にはなるべくうそを書かないやうにするつもりだが、 一向の訂正もない。読者もないのかと思ってゐたら、一昨日、竹内好君にも少し長く書けよと叱られた。ありがたいものである。(vol.107,1965.1.1)

      ★ 8

 昭和九年わたしは二度上京してゐる。一回目は夏休みになるとすぐであらう。七月九日の日記に「あと二十二日也」としるしてあり、八月はじめには東海道線にのったにちがひない。 わたしはこのころの絶望的な就職難にもかかはらず、肺病になった先生の後任として専門の歴史を中学で教へたのである。 この幸運?は高校時代の先輩で野球部でも親しくした京大の哲学科出身の清徳保男氏が、親友の父の校長をしてゐる学校につとめてをり、同僚の病気の時、 わたしを推薦してくれたという関係からであった。校長は内田先生といってわたしの出身中学にもゐたことのあった人で、これ以前に一度会ったが「口ないね」と気の毒さうに云はれたのが、 偶然、その口があいたのである。

 何でも思ったことを卒直にいはれる人で、はじめての授業をすまして、「やれやれ」と席についてゐると、呼ばれて「君の講義はむつかしくて早すぎると、 生徒がいって来た」とさっそく注意を賜はった。大学出たての若い教師にふさはしく、大学で教はった通りの教へ方をしたのであらう。そのあとは程度を下げて文句をいはれなくなったと思ふ。 上京の目的は他でもなく、東京で勉強をつづける手段をさがすのであった。すでに大学院の入学手続もすましてゐたかと思ふ。あとは学資であるが、 これもむりをいへば相変らず父から送ってもらへさうにも思へた。しかし東京で会った叔父叔母も「一年二年ならね」といふばかりで、現在もらってゐる月給を抛棄せよとはいはない。 そのうちに勤め先からは、この間亡くなられた松根東洋城先生の親類といふ、親しくした同僚がやって来て「みんな好いてゐるのだから」といって職をつづけることをすすめた。 これが一番の泣きどころで、わたしは東京に残って文学をやってゆく保田や薄井、肥下にもわかれを告げて九月の新学期には大阪に帰って来た。肥下には身の上を話したほか、 松浦悦郎といふ音楽好きで在学中に亡くなった親友の遺稿出版について相談したと思ふ。オランダ語を勉強したり、東洋学研究の世界的宝庫東洋文庫へ通ふことも、 上京の予定には記されてあったが、どうだったか。

 帰郷の前、千葉の中学につとめてゐた石山直一氏を訪れて泊めてもらったやうに思ふ。石山氏は高校大学ともに一年上で、人格的にいまだに尊敬してゐる人である。
 そのころの千葉は汽車でゆくので何だか遠かったやうな気がする。日記には、

 たえず海の方へ走る汽車に
 われ忘却の愛人を懐へり
 海風や青き植物や
 挨立て街道をバス走るを見たり
 旗たてて人のゆく
 海沿ひの道よ
 そこらの家に何の花咲くや
 世界は色の豊富さに満溢し
 おれの眼はきらきらと泪ながし
 木かげの椅子が二脚  おれたちが坐らうためにと

 と、犀星ばりの無題の詩を書き、

 はしけやし君津の海や青波の上はろばろに君坐ます見ゆ

 以下の歌をものせてゐる。

 九月また学校がはじまるとすぐ、校長が死んだ。夏休みに生徒の海水浴指導までやった熱心さがこたへたのだったといふことだった。わたしは悲しかったが、 もう教師になる決心にかはりはなかった。後任には温厚な(とわたしは思った)教頭がなった。そのすぐあと近畿大台風といふのがあって、わたしは登校の途中、立ち往生した電車の中で、 トタン屋根の飛ぶのなど見たあと、午まへ学校へ着くと木造の校舎がみな倒れてゐて、翌日からそのとりのけに全職員生徒がかかった。

 東京からは便りがなかなか来ない。わたしは校舎の復興や授業などのことより、それにいらいらしはじめた。十二月には父の次弟と祖父とが死んだ。祖父は八十四才だったからともかく、 叔父は今のわたしの年よりは若かったはずである。わたしはこれらのことを一向詩に作ってゐない(日記にもそれぞれ一行ですませてゐる)。

 年末にはまた上京して、今度は家内の家へゆき、親とぢかに相談した。ぜひ来年、それも早早に結婚させろといふのである。 家内の親は仕度が間にあはないといっていやな顔をした。わたしは何の仕度なぞいるものかといって強硬に主張した。「西康省」といふ詩に書いたやうに、 わたしはこのころ中国の新生活運動といふのに共鳴して、一切の虚礼を廃止するといふ方針だったのである。もとより家内の親のいふ箪笥長持のたぐひは一つもいらないといひ、 それがまた女親の気持に合はないのでなかなか話がまとまらない。父が上京して来てなんとか話をつけたのであらう。わたしは昭和十年の元日を肥下の家で迎へた。 一切の身の上を大晦日に、相談でなく報告してそのまま泊めてもらつたのだと思ふ。結婚を五月ときめてわたしはいくらかせいせいしてゐたことであらう。コギトについても相談を受け、 答へはしたらうが、いい加減な返事をしてゐたことであらう。肥下は一年おくれ大学をもうやめる、出る必要もないからな、といひ、わたしもそれに賛成した。 就職難ながら就職にはやはり免状が必要である。肥下は就職の必要もなく、そのうヘコギトといふ一生の仕事を見つけたと、肥下もわたしも当時はさう思ったのである。(vol.108,1965.2.1)

      ★ 9

 昭和十年は、コギトが出来てから四年目、伊東静雄と知合になってから三年目で、今から三十年前のことである。果樹園は第十三回忌を営むといふ由であるが、 その意味をもこめて以下この年の思ひ出をつづる。

 十年元旦を肥下家で泊ったわたしはすぐ大阪に帰った。コギト二月号は伊東の「田舎道にて」とわたしの「多島海」(小高根説では伊東の詩に影響を与へたといふ)をのせたが、 これは一月末の発行だから、二人とも元旦試作のたぐひであらう。三月号は伊東の「有明海の思ひ出」といふいい詩と、わたしの「昨年中のこと」といふ雑文をのせてゐる。 四月号は朝鮮旅行から帰って来た保田の「仏国寺と石窟庵」といふ名文と、前述した「新版西域記」といふ才文のほか、これも伊東の傑作の一なる「曠野の歌」をのせてゐる。 わたしは五月に迫った結婚にわくわくしたと見えて何ものせてゐない。新婦に先がけ、このころわたしは親の家をはなれ勤め先の近くに、下宿したのである。 今も御元気な小学校の恩師歌人西角桂花先生に会ひに行って、出身小学校の父兄の家を予約してもらったのが、この月のことである。

 家は高師浜一二八〇といって海岸近くの四軒つづきの、新築はよいが、二軒あいてゐて、隣は共かせぎの教師夫妻、裏は松林で、その向ふは火葬揚と墓地である。 わたしは静かなのと家賃の安いのとで(三間で十三円)喜んで予約したが、服部正己はこの間にディルタイの「体験と文学」とを出し、保田はこれも名作「セント・ヘレナ」をコギト五月号に書いた。 英雄としてのナポレオンでなく、悲劇の主人公としてのナポレオンを描いたのである。ナチスやムッソリーニの先人として警醒の意味もあったかもしれぬ。 この年四月ドイツではナチスが総選挙で大勝利を占め、世界中をおどろかせたのである。ついでながらいふが中島も松下もわたしの知るかぎりの知識人はみなヒットラーとムッソリーニを最後まできらった。 わたしももとより驥尾に附してきらひ、そして「旗高く(ディ・ファーネ・ホホ)…」といふナチスの歌だけをおぼえた。 五月号にはまた「ヘルデルリーンの手紙」といふ三浦常夫(小高根太郎)の翻訳がのってゐる。わたしはしばらく、ヘルデルリーン全集をひもどいて創作か翻訳か検したおぼえがある。

 しかしわたしとても結婚のみにかかづらはってゐたのではない。この年の日記を見ると、わたしは難解なへルデルリーンの「多島海」を中途まで訳し、 薄井・中島・坪井・伊東の四友と木曜会なる会を催ほし、ハイネの「ドイツ・冬物語」を訳し出してゐる。前者は完結しなかったが、後者は訳註を了へて桑原武夫博士を介して岩波に出版を申しこみ、 すでに同書店で他人が印刷にかかってゐることを知って失望した覚えがある。

 四月二十七日にわたしは上京し肥下と家内とに会ひ、翌日は六大学リーグ戦を見、翌々日は故友真久衛(静岡地裁判事になって急死した)と赤坂のボントンといふバーへゆき、 三十日には妻の母と三人で東海道線にのった。親友たちは二等車を探したが、見つからなかった。わたしたちは普通の服装で三等にのってゐたのである。

 五月一日わたしはまづ新居にねむり、翌日中国の新生活運動に則って双方の親と、親戚代表二人づつ、合計八人で披露宴を行なった。 席上亡父が「むすこたちのわがままをきいてささやかな宴で」とことはりをいってくれたが、費用はわたしが払ひ、挨拶もわたしがした。

 コギトの大阪支部会(木曜会)にわたしが紹介と披露とをかねて妻をつれていったのはすぐあとである。坪井・薄井はおぼえがないが、 伊東・中島・松下の三人は会場明治製菓にすでに来てゐた。わたしが妻を紹介し、妻が三人にそれぞれ挨拶すると、三人は中絶した文学の話をやりだした。わたしはゐたたまれなくなった. 中島・松下はともかく、世なれたはずの伊東静雄が妻と会との空気をとりもってくれると予想してゐたのである。わたしは早々に妻を促して中座した。含羞の文学といって、 コギト一派には世俗を語り行ふことは忌まれてゐたのである。これが三十年前の伊東とわたしの妻との邂逅で、その後も家族同士のつきあひはつひになかったやうに思ふ。 わたしの妻は従って伊東静雄の追憶はもたないに等しいのである。(vol.109,1965.3.1)

      ★ 10

 わたしの日記は結婚後、七月三日までとぎれる。覚えてゐることでは、結婚三日目に十二時ごろ帰って来て、妻の姿なく、狭い家中みわたしたあと、蒲団を入れた押入れをあけると、 その中に、「こわいので」ねてゐた妻を発見したことである。裸でといふ条件にも拘らず妻は箪笥一掉を持参し、私の方は叔父叔母たちの贈ってくれた洋服箪笥と、 家財はこれだけであった。祝は学校からの金一封と、清徳保男、田村春雄(医学博士、大阪府身体障害者保導所長)の二人で組んでくれた硬いガラスコップ一組とだけで、 みなもらふのが不本意だったが、今となってはありがたい。来訪者は帰郷の途中、一晩泊ってくれた大学の同窓松本善海氏で、妻が朝早く起きて、 裏の松林から拾って来た松葉で火をおこして炊いた朝食をたべてくれた。

 小学校の同窓生が三人遊びに来てくれた。これもいまだに健在でつきあひは疎らだが会へばうれしい人たちである。

 この間、日記を怠けただけでなく、コギトにも投稿しなかった。ついでながらいふと、コギト同人の結婚は前述した肥下の東大入学と同時に家をかまへたのがトップで、 次は松田明(入学後すぐ坪井姓となり、西武線沿線に家をかまへた)。伊東静雄は同人中の最年長でありながら、結婚は全集年譜によれば、昭和七年四月三日で、 わたしどもとの友交のはじまる直前。その次がわたしか、これも同じく恋愛結婚の故杉浦正一郎、もしくは見合結婚の服部正己であらう。あとはちよっと中断する。

 コギトは健在で月刊を欠かさない。佐藤春夫先生が文芸春秋で雑誌をほめて下さり、ついで萩原朔太郎先生が伊東静雄を激賞する手紙を発行所に賜はったのはこの春のことである。

 松下武雄のシェリング藝術哲学の訳は二十回に近くなり、淀野隆三、神保光太郎、辻野久憲の諸氏の寄稿があり、伊東の「行つて、お前のその憂愁の深さのほどに」といふ、 題名からも判断出来る、ヘルデルリーン調の詩がのったのはわたしの結婚の翌月の十年六月号、小高根二郎の寄稿もこの号がはじめてと思ふ。

 わたしは新婚におぼれてゐたのだらうが、三十七号の後記のおかげで、松浦悦郎の遺稿集「五つの言葉」といふのを編輯して五月五日に発行してゐたことを思ひ出した。 松浦は大阪の天神橋筋の旧家「尼惣」の次男で、肥下、保田とともに東大の美学美術史に入学したが、音楽を専攻し、コギト同人には加はらなかった。しかし「R火」に「ワーグナーの悲劇」を書き、 コギト十一号にはファビアンの「クロオド・ドビュツシー、特にその音楽史的印象主義」を訳載し、その直後臥床、三月わたしが見舞ったときには

「わしもうあかんで」

 と結核患者に珍らしい悲観の言葉を吐き(立原はさうでなかった)、昭和八年五月七日死に、コギト十四号がその追悼号に充てられた準同人であった。 この遺稿集はその三回忌にと発行されたのである。十四号の追悼記は十四人が書き、そのうち松下、薄井は同じ病気で逝き、中島は戦死、友真、杉浦はそれぞれ重病で死んでゐる。 肥下の死のことは前に書いた。六人が死に、いま八人がのこってゐるのである。

 四季は前述したごとく三号にわたしを書かせたが、この号の執筆者は茂吉、蕭々、大学、惣之助、朔太郎、犀星、桑原武夫.、竹村俊郎、小穴隆一、永井龍男、 蔵原伸二郎、福原清、津村信夫、竹中郁のほか、堀、三好、丸山の三編集同人がそろひ、立原(二号から書きはじめた)とわたしとが並んでゐる。わたしが一番の新参であるが、 六大家のうちのこるは堀口大学先生お一人である。御健在を祝すると同時に、いつまでもと祈ること切である。立原が死んだあと神保、津村とわたしとが編集同人に加はるが、 これも昨年三好達治さんが亡くなられて、半数となった。

 わたしは三月号にまた執筆を命ぜられ、四月号は伊東が書き、五月号は保田の「遠願寺塔再建」といふ慶州遊記、六月号はリルケ特輯号、七月号、 夏季号と “新婚休暇”をもらったあと十月号(第十一号)にまた書かせてもらった。津村信夫の「愛する神の歌」の出たのは九月のことである。 達治の「山果集」薫「幼年」竹村俊郎「鴉の駄」についでの四季社刊行で「津村信夫は日本の若きドオデエである。 (中略)ドオデエがプロワ゛ンスの旅愁の太陽を愛したやうに彼は信濃高原の透明な自然を強く愛してゐる。(中略)そのうへ、愛しつくされない一人の優雅な神を愛してゐる。 (下略)」と彼を最も愛した丸山薫氏が推薦文をかき、詩集中では

  小扇   かつてミルキイ、ウェイと呼はれし少女に

 指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ。
 高原を走る夏期電車の窓で、
 貴女は小さな扇をひらいた。

といふ、わたしのいまでもおぼえてゐる絶唱でこれを証明してゐる(vol.110,1965.4.1)

★ 11

 コギトに伊東静雄の処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」の近刊予告の載ったのはその第四十号(十年九月号)で、 広告は保田が「今日唯一といふに足る本質上の意味に於てのリリックである」と書き、また発行所宛てに前にいただいた朔太郎先生の文章の一部「日本にまだ一人の詩人が居ることを知り、 胸の躍るやうな悦びと勇気とを感じた」といふ箇所を引いてゐる。伊東はこのハガキに鼓舞されて詩集を出す決心をしたのだと思ふ。日時は忘れたが、伊東の勤め先住吉中学の前の停留所で会ふと、 伊東はわたしに「田中さん(これが最後までの呼びぐせであった、一緒に詩集出しませんか」といひ、わたしが変な顔をすると「それぢゃわたしだけで出しますよ、 コギト発行所から自費出版するのです。」と丁寧に挨拶してくれた。詩集を出さなければ一人前の詩人と認められないといふ詩壇の慣はしも知らなかったし、 もとより自費出版する金などももってゐなかったわたしが、同調しなかったのは当然だといふ気もする。 しかもわたしには伊東に於ける朔太郎先生のごとき知己がないとわたしは思ってゐたのである。
 日記を見ると、それでもわたしはやはり詩を作り、詩を読んでゐる。ギリシャの詩、ドイツの詩、陶淵明の詩など手当り次第である。

 さて伊東の詩集は予定通りすすんで、九月末には出来上った。限定二百部、定価一円五十銭である。(この詩集に帯封がついてゐれば一万円といふ古本屋の広告を見たが、 わたしの所持本には帯封がない。何と書いてあったかしら)。コギトは十一月号を芭蕉特輯にあて、朔太郎の「芭蕉私見」以下、芳賀檀、三好達治、津村信夫、高村光太郎、三浦常夫、 生島遼一、北川冬彦、亀井勝一郎、池田勉、神保光太郎、宮田戊子、岩田潔、中島、保田と同人三名のほかは同志の投稿をもってこれに充てたほか、次の号には故穎原博士の「芭蕉の言葉」をのせ、 三浦の「不易流行論」といふ前号の補足のやうな短い文章をのせてゐる。ついでながらいふと、芭蕉研究で死ぬ数日前に旧制博士となった杉浦はかかず、わたしも書いてゐない。 伊東はもとより詩集のことで頭一杯だったのであらう。しかし穎原博士に教はって芭蕉のことは書きたかった筈である。伊東のもってゐた変な“おくれ”がその原因だったのだらうか。 故人を呼びおこしても「忘れた」といふ答へののみだったらうとは思ふが。

 昭和十一年一月号はコギトの第四十四号である。伊東の処女詩集の誌上出版記念会がこの号で開かれてゐる。萩原さんをはじめ、中谷孝雄、中島、神保、 保田と「日本浪曼派」「コギト」の同人のほか、「椎の木」といふ雑誌の編輯者百田宗治さんが書き、伊東の知己青木敬麿が十分にこれをほめてゐる。これより先、 十一月の末に東京で出版記念会が開かれ、伊東は喜び勇んで上京したが、席上わるよひしたと見えて「コギトの連中たれ一人とめてくれず」(伊東の実話)、中原中也と同宿した。 中原と会ふのはこれがはじめの終りで、中也も酒癖のわるいのでは有名であった(伊東の酒癖は奥さんもご存じないことは歿後はじめて承った。痛烈な皮肉をはなって、 酔ひ方の少ない人間を消耗させるのである。)。わたしはこの号で詩時評を担当し、小熊秀雄、中原中也をほめ、神保はだめ、 伊東は「有明海の思ひ出」「真昼の休息」以後はいい作品がないと書いてすましてゐた。辻野久憲は一号おくれて四十五号に「虚無の詩人」といふ題で、伊東をほめた。 わたしはつづけて詩時評を書き、同時代の詩人を「反撥される詩人」と「愛される詩人」とに分ける保田の分類に従って、前者に小熊秀雄、中原、伊東を、後者に津村、立原を挙げた。 草野心平詩集「母岩」、中野重治詩集をついで挙げて最大にほめてゐる。

 ここまで書くと新聞に蔵原伸二郎の死を報じる記事が見えた。蔵原は本名惟賢、白血病で死去、六十五才といふから、コギトに書いたのは三十才すぎ、 「東洋の満月」といふ題の代表詩集はおほむねコギトにのせた詩から成ってゐるが前にも述べたやうに同人ではない。阿蘇の神官の家に生まれ、東京で暮らし、保田と識りあひ、 その関係でコギトに詩をのせた。これで保田の尊敬する詩人は宮沢、伊東についで三人とも亡くなったわけである。わたしとは淡淡たる交際で、 萩原葉子さんの出版記念会で同座した(この時は室生、三好二詩人もゐた)のが昭和三十四年、その次には堤操(大伴道子)、宮崎智恵両閨秀の出版記念会で会ひ、最後は去年、 佐藤春夫先生の御通夜への途で会ひ、目礼を交はしたのみである。ゴビ、タクラマカンの沙漠が好きで、副島次郎の旅行記をよんだ旨は衛藤潘一氏より承知した。「四季」にも伊東、 山岸、保田、田中冬二、大山定一とともに昭和十六年一月より同人に加はったが、いとこ?の蔵原惟人がプロレタリア文学の指導者として名声走らせたのとはちがひ、 ほとんど散文を書かなかった。「反撥される詩人」か「愛される詩人」か、保田の論定をまちたい。

 火の山のふもとに生まれ烈々の火を吐くひととわれも思ひし
 荒れ果てし砂地に吼ゆる狼を愛すとその詩にうたひたりしか

哀悼の意を表して、敬愛の足らざりしをおぎなふ。(わたしはまだ鬱症全治せず、ものうくてならないのである。)(vol.111,1965.5.1)

★ 12

 昭和十一年三月、わたしは転居した。この最初の家は浜辺の松林の中で、焼場の火が毎晩もえるのが見える。ある朝、妻が裏に出て見ると松の枝に人がぶら下ってゐる。 もの静かな妻はきゃっともいはず、しづかにわたしに告げたが、わたしがこの老人の縊死体を見に行ったかどうかはおぼえてゐない。ともかく妊娠中の胎教にもよくないと、 わたしはすぐ転居の決心をした。夜中に帰って来る時には、男のわたしにもさびしすぎ、あまりに詩人的な住居だったからである。転居先は住吉区の万代池の南で、 池の向ふには大阪府立女専(いまの府立女子大)と帝塚山学院(のちにここに奉職することなどは予想もしなかった)とが見える静かな住宅地であるが、近所隣は多く、便利なので来客もふえた。 住吉区住吉町一六九四がその地で、のちに万代西四丁目二〇と町名変更になった。わたしはここには永くゐるつもりだったやうで本籍までここへ移した。 (そのお蔭でわたしは予備点呼といふのに東京から下阪さされ、昭和二十年の三月には大阪師団の三十七聯隊に入隊を命じられるのである。)

 来客のうち、印象にのこってゐるのは故松下武雄で、京大の大学院にのこり、田辺哲学を勉強し、前述のごとくシェリングの「藝術哲学」を訳しつづけてゐたが、ある日、 とつぜんやって来て、「履歴書をかけ、今の勤め先はあまりよくないから、よい縁故をたどって府立に転任の運動をしてみる」といふのである。わたしはこの親切に動かされていやいや履歴書をかいた。 わたしは教師に適しないので、つとめ先をいくら変へたって同じことだ、と当時かんがへてゐたのである。

 松下は数日すると血相をかへてやって来て「駄目だった。ひどいやつに頼んだものだ。]学派でないから駄目だとぬかしをった」といって履歴書をかへしてくれた。 ]学派といふのは東大でも有名な右翼で、わたしはその首領の]教授の講義はきかなかった。これをいったわたしの母校のZ(仮称)教授は、終戦のあと、 「いままでの論文著書はみなとり消す」といふ声明をし、いつのまにか大阪から姿を消したが、昭和三十二年にわたしが某大学に転任すると、そこで日本史を教へてゐた。 わたしは知らぬ顔をして、挨拶だけしてゐるうち、この大学で騒ぎが起ると、教授会で長い演説をした。「皆さん赤穂四十七士にならないで、大野九郎兵衛になりませう」といふ箇所だけが、 その長い演説の中でおほえてゐる箇所である。わたしはこの講演をムカムカしながら聞いてゐたが、まもなく大学経営上の点から高給でもあるし、 わたしの主として教へた夜学の東洋史専攻は廃止になるからといふ理由で、依願退職を命じられた。「大野派」でなかったからである。退職届を出さない、退職を命じるなら勝手にしろといひはると、 某日のわたしのハガキをもってこれにかへるとのことで、退職手当七千円をもらった。(Z教授のその後は?いふ必要もなからう。)

閑話休題、万代池の南での他の出来事は長男が七月八日に生れたことである。当日の日記に、

午後八時男児分挽、大きな眼、あくびする、大きい声で啼く、くさめする。

としるしてある。女だったら柚梨枝(ユーリヱ)、男だったら登遵堆(トニオ)とつけようと、五月にはしるしてゐたが、実際はさうつけなかった。史(フビト)とつけた。 わたしが“鎌足”なのである。このむすこはもう満二十九才に近いのに恋愛もしないし、縁談もない。顔はわたしに似てゐると思ったが、だんだん妻の系統の特徴をあらはして来た。 妻の家は申しおくれたが維新の時、遠州浜松の殿様だった井上河内守の分家である。このトノサマの血をより多く引いたのであらう。わたしよりいくらかおっとりしてゐるのである。

 再び閑話休題、わたしはコギトと四季にかはるがはる書いてゐる。従ってコギトを休む時があるのだが、保田はこの年一月号に「更級日記」といふエッセーを巻頭にのせ、 二月号には「巷説の感想」といふエッセーで、ソ連を訪問して帰って来たアンドレ・ジードの「日記」への世上の歓迎を批判し、三月号には「童女征欧の賦」といふエッセーで、 自分の親戚(と聞いた)稲田悦子がアイス・スケートの選手としてベルリンのオリンピックにゆくのをはなむけしはげましてゐる。

 肥下はもう編輯後記以外には何も書かなくなってゐるが、四月号の編輯後記では「日本を震骸させた四日間といふ――僕は一途に沈んだ気持に閉ざされ、 火鉢の前にうづくまってゐ」たと書いてゐる。二、二六事件への感想である。

ここまで書いて来ると、「ハットリマサミシス云々」の電報が入った。服部正己が昨年かに一時重態になったが、癒って長嬢に婿を迎へ、別棟を建てたとはきいてゐた。 病名ははっきりしないが白血症のやうである。わたしは弔電をうちお花料を送ったのみで、三十一日の葬儀にも列しなかったが、三年前に肥下恒夫の葬儀に参列したときいて、 服部と肥下とのかつての交誼の厚かったことを実証し得たと思った。それほど形式がきらひで、将棋が好きで酒を好く(量は大したこともなかった)など現世的なエピキュリストであるとともに、 徹底した学問好きであった。自宅は万巻の語学書で埋もれ、コギトは保田と水と栗とを飲み食ひしながら共訳したといふので水栗一郎の名で掲げられたヘンリー・ホームの「藝術批評学序説」(第七号)のあと、 ひとりでディルタイの「体験と文学」中の「ヘルデルリーン」などを訳して、これが昭和十年末に第一書房から出版され、コギト同人中、はじめて本を出したことは既述したが、 彼が同人費を出したかどうかは疑問である。クラスでは、薄井敏夫と並んでドイツ語が出来、薄井が大学では独文を選んだのに対し、彼は言語学を選んだ。 昭和九年の同科卒業は野上素一(豊一郎博士と弥生子女史の令息、現在京都大学のイタリー文学の教授)氏と彼との二人だけであった。入学してすぐドイツヘ単身留学し、 三か月で帰って来た。卒業論文に引きつづき中高ドイツ語の勉強をつづけ、のちにはその方面では日本一の権威者と、自他ともに許してゐた。 コギトに連載した「ニーベルングンの歌」ももとよりこの古典語から訳したのである。わたしとは昭和三十二年まで中断はありながらよく会ったが、得意の語学のことを長々と話すので、 いつも途中でやめさせて将棋をさした。向ふの方がすこし強かったが、夫人にも(学問の計画が立てば必ず話し)将棋を教へ、のちには夫人の方が強くなったといふから大したことはなかったらう。 畸人ではあるが、保田の「現代畸人伝」には録されてゐない。社会改革、宗教、哲学、文学(言語学の資料としてをのぞく)などには全然興味をもたず、しかも現実の生活には強い熱心さを示した。 ふしぎなことである。肥下もこの親友からは同人費をとる気にもなれなかったのだと思ふ。(前号は蔵原、この号は服部と同人ならぬ同志の弔文が入るのは、読者にとってより、 わたしにとって一層つらいのだが、書かねばならぬと思ふ。

大阪市立大学教授、京大講師(泉井教授に言語学を説いて信用されたといふのが自慢であった)。文学博士の称号は旧制の最後にとった。 どんなテーマでどんな本になったか(博士論文は出版の義務がある)、わたしにはいって来なかった。含羞からではない。無用だからである。さういふ男であった。豊橋にゐた時、 スエーデン語をカソリックの尼僧から学び、スカンヂナヴィアヘゆくのを楽しみにしてゐたが、それもかなへられなかったのであらう。「初めに言(ことば)があった。 言は神と共にあった(ヨハネによる福音書一-一)」。言(ロゴス)を愛したよき友人服部正己をおもふ。(vol.112,1965.6.1)

★ 13

わたしは二・二六事件については肥下と別な感想をいだいた。わたしらが入学の年(コギト創刊の前年)に起った満州事変は、翌年上海事変に飛火し、 井上準之助(父は日本観行にゐて、その大阪支店長時代に可愛がられた)蔵相が殺されたあと、満州国は成立したことになった。上海では停戦協定がむすばれたが、 満洲での軍事行動はやまず、昭和八年の熱河への進軍までつづいた。昭和九年には中国共産党は江西省から延安までの大行軍をはじめた。佐野学、鍋山貞親ら共産党として入獄してゐたのが、 転向を声明した。しかし国内改革は左翼よりも右翼にとって一層必要と考へられ、血盟団、神兵隊などの実行組織のあることが発覚した。わたしの結婚した昭和十年には美濃部達吉博士の「天皇機関説」が問題となり、 現人神としての天皇信仰がしだいに力を増した。皇道派といふ派閥が軍内にできて、その一人相沢中佐は、反対側の統制派の一領袖永田軍務局長を殺した。 そのあとで起ったのが昭和十一年の二・二六事件である。この年、満洲に移駐と決定した東京師団の歩兵第一聯隊と、第三聯隊、 これに近衛師団の第三聯隊の合計二二名の青年将校は一四〇〇名の兵を率ゐて、斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監などの文武の重臣を殺し、岡田首相、西園寺公爵、 牧野前内大臣などをも襲撃した。首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部はみな占領され、本拠は赤坂の「幸楽」といふ料亭に置かれた。この日午后三時、「蹶起の趣旨については天聴に達せられた。 諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認める」との意味の陸相の告示が全国に提供された。わたしはこの青年将校たちの行動を純粋な愛国心に基くものと認めた。 なんらかの社会改革がなければならない、これには尊皇討奸もやむを得ない。「奸」とは何か、資本主義であり帝国主義である。経済的利益のために百姓の兵隊を用ひて、 外国へやる奴ばらだと考へたのである。「八紘一宇」の思想はわたしにはまだなかった。しかし天皇の存在価値はみとめ、またこれを尊崇することから起る行動は是認しなければならないと考へたのである。

 わたしは勤め先の黒板に東京の略地図を描いて同僚たちに説明をした。わたしの顔には野田大尉ら二二名と同感の表情があらはであっただらう。しかし二十八日になると、 これらの部隊に原隊舎に復帰の勅令が出、翌日からは叛軍との烙印がおされた。「兵に告ぐ」との放送は「国賊となるな」と日本中に宣明された。「叛軍」の運命は定まった。 わたしはどうしたか。詩にも歌にもならないこの事件の反応をみづからの行動で示さうと決意した。 (この「兵に告ぐ」といふ放送の原文を書いた大久保少佐には、昭和十七年の秋シンガポールで上官として申告するために会った。 「スマトラから命により帰って参りました」といふわたしの申告を隊長はおだやかなか顔で受けた)。

 わたしの勤め先は松下武雄がいふやうに私立であったが見こみのないことはなかった。俸給も安く、生徒の質もよくなかったが、わたしを推薦してくれた清徳保男氏以下、 若い教師がこの頃になってふえた。入学志願者がふえて、教師が必要だったのである。ただし清徳氏はこのころから結核症状があらはになって来た。規定では休職三か月、 そのあとは俸給の三分の一のみが給与されるのである。清徳氏は三か月休んで、一週間出勤した。教頭は清徳氏が咳をし痰を吐くのを見ると、「自分の茶碗」を持参することを提案した。 感染を防ぐためである。清徳氏はこれを聞くといやな顔をしたが、すぐまた休んだ。あとは若手の教師の先任としては慶応出の松根氏といふ、この間なくなった松根東洋城氏の親戚の人がゐるだけで、 わたしが三年目で古参二番日となった。温和で前進座?の友田恭助のファンだった松根氏にかはって(友田恭助は翌年応召、上海で戦死した。田村秋子がその未亡人である。)、 わたしが、「青年将校」の首領とならされた。わたしはこの学校の教育の精神をゆっくり考へた。神官の団体の造った学校としては、教育方針が出たらめである。 わたしは経営者への直訴を思ひついた。これを過激だといって止めたのは、体操担当の小寺君といふまじめな青年だった。この人はかうしてわたしの過激な計画を中止せしめたあと、 召集され、新婚数日の妻をおいて河南省博愛県で戦死した。わたしは一篇の弔詩をたむけた。

詩にも書けない、実行にもうつせないわたしの革新精神は、教育者としての反省を多大に要求した。わたしは退職して、もっとわたしに適した仕事をと考へた。 わたしは大学で東洋史を専攻した。これをさらに究めて日中関係に役立てるわけにはゆかないだらうか。

 このころ、藤沢桓夫氏の叔父で、石浜恒夫氏の厳父純太郎先生のところへよくお伺ひした。先生は山なりに積まれた稀書の中に端坐して学問の楽しさをお教へ下さった。 しかしわたしには「何をやれ」とは指示されなかった。東京の恩師と書籍とをわたしは次第になつかしく思ふやうになった。 今パリにゐる藤枝晃博士(高校の時、竹内好と同級でわたしのドイツ語ぐみとは級がちがつた)が、京大の本をまた貸ししてくれた。 おかげでわたしは桑原武夫博士の先考の文庫から東京にもない本を見つけて写したが、東京にあつて京都にない本の方が多いのだと確信した。

 実は昭和十年の終りにわたしは卒業論文を簡単にして、「歴史学研究」といふ雑誌に発表した。この論文が先生にほめられたことは前述したが、この略述はすぐに中国の「福建文化?」に訳載された。 恩師のお話では卒業論文が一番勉強出来る時で、これが一生の学的履歴を左右するとの話であったが、拙論がともかく中国本土に訳載されたことは、わたしの学問的自信をさらに強めた。 東京へゆけばもっと勉強できると思ったのである。しかし妻子をつれて、勉強に上京するのはなかなかの決意がいる。

 わたしはこの年七月に出た保田の「戴冠詩人の御一人者」やそのすぐあとに出た「日本の橋」(注:改版)のやうなすぐれた散文は書けない。 わたしは詩人として認められてゐる(この年二月から四季同人十四人の中に加へられたことは前述した)が、詩の稿料の何と安く、またその註文の何と少いかはよく知ってゐる。 七月には服部と共訳の「ヒアシンスと花薔薇」(ノヴァーリスの「ザイスの学徒」の訳)が出たが定価十銭の文庫本で、しかも印税はなかった。(vol.113,1965.7.1)

★ 14

 わたしはだんだん意地がわるくなって来たやうである。生徒たちには体操の先生の次にこはがられた。全校生徒の名と顔とをおぼえ悪い事をしてゐると必ず見つけたのである。 清徳氏の病状はそのうちにだんだん悪化して十一年の終りからは病朴したまま、十二年になると喉頭も侵され、家人にはイロハ板を指し示して看病してもらふやうになった。 わたしはよく見舞ったが、もう何もいふこともいはれることもなかった。高校の同級生の森川平人医博がよく珍察してくれた。五十嵐達六郎氏は高校と大学の同級なので、 これには訳しおへてあったハンス・ドリーシュの「形而上学」の原稿をわたして「よろしく頼む」といって、十二年の四月三日に亡くなった。

 この五十嵐氏は旧姓熊野、わたしよりは高校で三年先輩となり、京大のラガーとしてスリー・クォターの雄姿は今も覚えてゐる。この頃は母校大阪高校の哲学担当の教授で、 コギトにも昭和十二年二月号(五七号)に阿部稀男の筆名でアベラルドスの「受難記」を訳載してくれた。わたしには、清徳氏の歿後、前掲原稿の清書を命じられ、わたしがそれを了ると、 恩師天野貞祐先生に序文をお願ひし、自らも附録と跋とを書き、岩波文庫の一冊として昭和十五年出版の運びをして下さった。わたしには褒美として、清徳氏からの手紙を多数賜はった。 両者の友情を示すとともに、清徳氏が哲学、仏教にくはしく、また詩心の篤い人だった証拠となるものである。その外に美しい自筆の詩集があったが、これは死後みつからなくなった。 五十嵐氏は終戦直前、満洲で戦病死した。惜みてもあまりある良き先輩であった。両氏にはコギトは毎号呈したが、清徳氏はわたしの詩はほめず、ただ一度のせた小説をほめてくれた。 五十嵐氏あてのハガキや手紙を三、四通録して、この二先輩の追憶にあてたいと思ふ。

 「つゆの日になった。
一抹のけぶりはかれのむねにありてふさぎの虫をけぶたく思ふ
うたよむとひとののしれるまちの灯をふかく思はずあくびするかな
このとしをあくびのみにてすぎてゆくかかるうれひをよしと思はず
三月まへのことばをおもひだして」

 昭和五年六月三十日の消印で、堺市市之町に五十嵐氏が熊野姓でをられた時に宛てたハガキである。

 「あくびするくまののかほの夢をみる春のあけぼのいまがねむたし
ラグビーの足細りたるこの頃はひにくのたんのさかさまをたんず(注:髀肉之嘆)
若き子が失恋よりも若きものチフスのいたさしるがろノたてき
癒ゆる日に底の若芽のめぶく雨ふれるといふもやさしからずや
叡山のふもとのひろば馳せちがふラガーは今や君いゆるまつ
雀、もず、ひばり来なきて一日をつばめをまちてくらすくまのか
忙しき我は君とふひまあらず何をかしつつくる日を送る」

  これはも一つ古い昭和四年三月八日付のハガキでラグビーの選手だった雄姿のみわたしもおぼえてゐる。五十嵐教授のチブスにかかったことを証するものである。

「学問によりて道のさとりを明めて人境倶不奪の処にある人に申す、二月二六日以来病に臥ぬ、爾来、人境両被奪の裡に苦しみ花を見て花を見ず、 心を病に懸けて三年鬼窟裡に在り。近頃どんな仕事をしているか。花もさかりに、健康をいのる」

 昭和十一年四月十日の消印で、死病になった結核の報告である。たゞ発病はここにある通り、昭和九年で、わたしの同僚となったころ、診断を受けて、 すでに二期と宣告され驚いた趣は、他の便りに見えてゐる。(近ごろ結核予防法のおかげで、肺結核の死亡はめっきり減った。杉浦蕗子(正一郎博士の長嬢)さんのはなしでは、 堀さん、立原が肺病でなくなったといふのを、生徒たちはふしぎがり、かつ「ロマンチックね」といふさうである。

 わたしは前述の如く、学校では生徒にこはい教師であると同時に、同僚(主として公立学校停年退職の老教師)に対してもいやがられる存在となってしまった。 たとへば、あるとき職員会の席上で質問した。
 「本校では伊勢神宮と皇居とに対し、朝礼を行なってゐますが、その順序は何によっておきめになったのでせうか。陛下は神宮に参拝し拝礼をなさいます。本校の順序は反対なのではないでせうか。」
 このわたしの質問に校長は色を失った。誰一人、発言しないでこの日の会議は閉ぢた。(vol.114,1965.8.1)

★ 15

  次の職員会では校長は冒頭にこの問題の結論を得々として述べた。それは、
 「然るべき筋に伺ひを立てたところ、天皇は皇祖皇宗の神霊を現身(うつそみ)に表現してをられるから、もし神宮遥拝とともに行なふなら、皇居遥拝を先にするのが当然である」
 といふのであった。美濃部博士の天皇機関説が問題になったのはこれより先であったので、ずるいわたしは深追ひせず、だまってきいてゐた。 しかしもとより自らがのちに現人神を信ずることにならうなど予想もしなかった。

この年十月十七日の日記には「日下貝塚発見十週年記念会。中島と碁打ち、夕食後、服部をも加へて興地先生を訪ぬ」とあり、次に良い詩を書いてゐる。これは未発表だかが、 このころのわたしの心境を表はしてゐるやうに思ふ。

 小さい市にて

ある日手捉鞄を下げて
小さい駅に降り立ち
木犀咲く練塀小路をゆき
タバコやの角を曲り
濠につき当つて一廻りし
天主閣の跡にのぼる
市は低くて一目に見わたせ
青い秋の海が穏やかにたゝへ
山々は静かにそのまはりをとりまき
目に見えぬ星辰の中央に
輝く太陽はその歩みをつゞけ
光を浴びてつっ立つ建物は
旅館観海楼と
わるい案内人に指ざされはしたが
市中は秋の昼をなごやかに眠り
遠く紡績の煙のみがいきいきと
紡錘形の雲をみなぎらしてゐるのが見えた
手捉鞄の案内記で承知したところでは
ここは百年前までは安部大内記の城下で
わたしもその一族の貴公子と交はつたことがある
彼はその時、泥酔して
電車の駅に佇つてゐたが
その鼻は高くその丈はすらりとして
たゞ少し猫背で人々を見下してゐた
今は宮内省の主馬寮に勤務し
わたしには寒暑にも見舞さへよこさない
案内人は煩杖ついてベンチにゐたが
長いあくびのあとわたしの耳もとで
昔の家老筋の娘の経営する
小さいバーに案内しようといつて
城壁を攀ぢ降りて
タバコやの角を折れ
駅前まで来ると彼女は夜の待機の姿勢を
二階の四畳半で専心してゐたが
訪なひを聞いてトントンと下りて来
店の隅に囲まつてゐた中学生たちの頭を撫でて
わたしたちには静かに会釈を与へたが
そのチリメン皺のかげから
中学生たちのふかす
安いタバコの煙が立ちのぼり
かうして日が暮れるかとわたしは途方に迷つた

つまらない詩を長々と書いたものだが、何だか伊東静雄の詩と関連があるやうにも思ふ。もとよりこの日、その小さい市へ行ったわけではない。教師らしいところもあり、 そのころの退屈した気分は表はれてゐると思ふ。

十二月二十三日には「独乙文学とわたし」といふ顔でエッセーを書いてゐる。これも未発表にちがひない。

 もし僕がペンクラブの使節としてでも、南米あたりの国にゆく。するとどこかの国と同じやうに、さつそく新聞記者がやつて来てインターヴユーをとる。 彼はやはりどこかの国の新聞記者と同じく文学、なかんづくドイツ文学については何も知らないに逢ひないから、僕は昂然かつ悠然と答へるだらう。
「なぜドイツ文学が一番好きなのか」
「それは他国の文学を知らないからだ。僕はイギリス文学もロシヤ文学も、ペルシャ文学も、さらに甚しくは日本文学についてもほとんど知らないからだ。 知のないところに愛はないといふことわざ通りだ。もし僕がもすこし不正直なら、ドイツ文学を愛するのは、その中に現はれる理智であるとか、あるひはモミの木であるとか、 青いバラの茂みになく夜鶯の歌が好きだからとかいふのだが。」
「ではドイツ文学では何といふ作家と何といふ作品を愛するか」
「まずゲーテのファウスト、シラーの或種の作品、最近の作家ではカロッサ云々」

 以下は略するが、カロッサの名をあげたのはコギトがこの年の十月号をその特輯号としたことと関連があるにちがひない。この作家の現在の文学史上の価値判断は、わたしは知らない、 この間、必要あって芥川龍之介の好いたアナトール・フランスが、戦後日本では全く忘れられてゐるのに気がついた)。この特集号はドイツローマン派特集号と同じく、 東西の大家や若手が寄稿してくれて成った。片山敏彦・芳賀檀・松下武雄・石中象治・大山定一・吉田次郎・保田・杉山二十一の諸氏の論評と、 小島貞介・薄井敏夫・高橋義孝・高橋健二・寺田正二・古松貞一・板倉柄音・竹山道雄それに芳賀・高橋義孝氏は訳の方にも顔を並べてゐる。この辺りがコギトの最も盛んな時代だったといってまちがひなからう。(vol.115,1965.9.1)

★ 16

 昭和十年のコギトについてはまだ書かねばなるまい。旧同人中、つづいてゐるのは肥下、保田、中島、松下、薄井、杉浦とわたしの七人になった様子だが、肥下は後記以外は書かなくなり、 わたしも四季には勤勉だがコギトはよく休んでゐる。保田だけは創刊以来、休んだことがないうへ、このころは日本浪曼派への執筆とあひまって若手評論家の第一人者と認められた様である。 十二月号(五五号)には前述の服部、田中共訳の「ヒアシンスと花薔薇」とともに、彼の「日本の橋」「英雄と詩人」の二著の新刊が広告されてゐる。 三浦常夫の弟である小高根二郎氏がコギトに執筆するのは前年の六月号(第三七号)に詩を掲げたにはじまってゐるが、一月おいた八月号にもまた詩をのせ、萩原さん、桑原武夫氏、淀野隆三氏、 辻野久憲氏、十年九月号に「風に寄せて」の詩二章をはじめてのせた立原道造、翻訳をのせられた生島遼一氏などとともにコギトの有力な同志に加はってゐるが、 十年六月にはじめて伊東に大阪で会った時は、まだ同人でなかった(「詩人、その生涯と運命」二七六頁)。 そのほかの主な協力者はわたしたちの高校でのドイツ語の先生興地実英氏(昭和廿一年病故?)、同じく高校で理科乙現にゐて中途退学してしまった伊藤佐喜雄、俳句の評論家岩田潔氏、 日本浪曼派の中谷孝雄、檀一雄、神保光太郎、立原、神保とともに四季の同人だった津村信夫、昨年なくなった歌人石川信雄、太宰治の親友山岸外史、評論家古谷網武、中島の親友独文学者江川英一、 美術史学者隈元謙次郎、横光・川端とならぶ小説家中河与一、これらの人々の協力でコギトは第五巻を了へ通計五十五冊、年が明けると昭和十二年である。

昭和十一年は動揺の年であった。前にのべた二・二六事件以前、この年のはじめに日本はロンドン軍縮会義を脱退し、巨艦大和、武蔵を造りはじめる。 八月にヒトラーの示威運動をもかねたベルリンオリンピックに参加した三段跳びの田島、二百米平泳の前畑両選手の優勝ぐらゐが明るいニュースで、十一月には日独伊三国の防共協定がむすばれ、 日本はファシスト国家に数へられることとなる。対支関係はますます悪化、ぬきさしならなくなって、国内では召集があひつぐが中国でも西安事件といふのが起り、 日本人が殺した張作霖の御曹子張学良が西安に会ひに来た国民党の首領蒋介石を捕へ、これはまもなく放還されたが、 張学良の背後にゐた中国共産党と国民党が協力して日本軍にあたるといふ密約の出来たことがこのあとで判明するのである。

 前述したごとく、わたしが同人となってゐる四季も、コギトとよく似た様相を示してゐる。 すなわち二月に決定した新同人はわたし(わたしの同人加入が堀さんの愛顧によったことは前述したが、新潮社版「堀辰雄全集」第七巻一七二頁には、 神保君あての昭和十二年二月十一日付の手紙に「田中克己君などは論文の書ける人ぢやないの、もつと書いてもらつたら――この頃あの人の詩はすこし悪くなつたやうだが、 一人で放つておかれてゐるからぢやないのかね」とのありがたくもあり情けなくもある箇所がある。この間、辰雄十年忌に出て堀さんをあらたに追悼した)のほか、井伏、萩原、竹中、辻野、 中原、桑原、神西、神保の八人が加はったが、同人以外にも寄稿者が多く、百田宗治、吉村正一郎、乾直恵、萩原恭次郎、岩田潔、中河与一、中島健蔵、山之口獏、大山定一、小高根二郎、 沢西健、阪本越郎、保田、竹村俊郎、矢野峰人、真壁仁、植村敏夫、石中象治など、コギトにも援助してもらったり、コギトの寄贈を行なってゐる人ばかりで、 「日本浪曼派」以上にコギトに近い感じである。ただコギトとちがふところは詩作品の応募をすゝめ、これを三好達治氏が選して毎月一、二篇をのせてゐることである。 これらの投稿者の中では杉山平一、高森文夫などのちに同人になる人がよく選ばれた。杉本長夫氏の「かむるち」という詩もこの応募詩の中にあったかと思う。 葛巻ルリ子という女性の応募者が芥川さんの甥義敏氏の妹でいま芥川比呂志さんの奥さんであることは、四、五年前、夫人の詩集出版記念会に出て、わたしははじめて承知した。 にぶいものである。編輯はこの年から神保、津村二者が当ることになったが、七月号では神保君が編輯後記で次のやうに書いてゐる。

 「雑誌『コギト』が七月で五十冊になる。これは高校時代のクラスメートが大学に来て創刊したものと聴くが、その後、月毎、彼等への理解者を増しその人達の寄稿によつて、 近年は日本の新しく若き文学の薀壌地の観があつた。僕自身も詩その他を通じてこの雑誌との関係が浅からざる一人であるが、この五十冊を貫いて流れるものはただひとつ「藝術」への讃歌といへる。 彼等はただありのままに自分たちが生来愛し続けてきた藝術を語り、文学を論じ、詩に小説に洩らしてきたに過ぎない。その年歯尠少にして云ふところ為すところ或ひは不全拙劣であつたとも云へやう。 しかしながら「文学」を知らない文壇に「詩」を知らない詩壇に「コギト」五十冊の投じた成果は炳として明らかだ、彼等は今後更に語り続け、歌うてやめないだらう。さうだ。 やめさせてはならぬ。かかる末期にかかる歌の響き来りて絶えざるは心強くも愉しきかな。「コギト」を愛する一人としてここにわれらが祝辞を送る」

 頼んで書いてもらったわけではない。終りの方で主語が「われら」となってゐる。神保君と限らず、 わたしたちはこれをこのころの「コギト」への公平な一般的評価として受取ってゐたのである。(vol.116,1965.10.1)

★ 17

 昭和十二年の一月号は通巻六五号で、伊東の「蜻蛉」と無題の詩一篇とを巻頭にのせ、保田は「和泉式部家集私鈔」を、朔太郎先生は「英雄と詩人を読みて」と題して、 保田の本の批評をしておいでである。文中、保田のことを「かかる日本の世紀末を、デカダンスの断崖に立つて歌ふところの、一人の最も勇ましい浪曼派の詩人」と定義し、 「すべての善き抒情詩人は同時にまたすべての善き叙事詩人である。なぜならリリシズム(抒情詩精神)とエピシズム(悲壮詩精神)とは、本来一つの同質的なものであるからである。 (中略)杜甫の叙事詩は、同時に最も悲しく美しき抒情詩であり、(中略)バイロンの長い慷慨詩は、彼の他の恋愛詩と同じリリカルの悲哀に充ちてる。今日没落人の哀歌を歌ひ、 式子内親王や和泉式部やの、艶にやさしい抒情詩に涙流して同感するところの多感の人は、同時にナポレオンの悲哀を知り、英雄の心事に触れて剣を抜くところの叙事詩人である。 わが保田与重郎君が、没落人の悲しいりリリシストでありながら、セントヘレナの英雄を遠く偲び、万感の思慕を寄せて慷慨の志を述べる所以はここに存する」と知己の言をつづっておいでである。

この年のコギトは表紙に法隆寺の金堂の天蓋神女をのせつづけ、挿図にはジオットのマドンナの図を挿む(第六五号)など、およそ藝術的であり、 寄稿者も天野忠(わたしは十数年後この人と友人になった)、馬場久治、板倉鞆音などの諸氏を得て、巻の第一号とし、末尾の編輯後記には保田が島崎藤村、武者小路実篤、 横光利一の三渡欧記を同感して紹介してゐる。こののちわづか十年ならずして、日本が欧米諸国を敵にまはして戦ふことなど予想もしない様子である。後記の裏には保田の二著と、 前にのべた服部とわたしの共訳「ヒアシンスと花薔薇(ザイスの学徒)の広告をしてゐる。保田の名著はともかく、わたしたちの訳には読者があったかどうか疑問にしてゐたが、 近ごろ上林暁氏の「武蔵野」(現代教養文庫、昭和三七年)をひもといてゐると、氏が座敷にねころがって、この本を愛読してゐる箇所を見つけた。意外なところに知己を見つけたわけだが、 服部はすでに亡く、上林氏もお体が不自由のよしである。いつかお見舞してお礼を申上げたく思ふ。

 十二年の三月号は保田の「日本の橋」の誌上出版記念号である。同時に出た「英雄と詩人」については朔太郎先生のおほめの辞が前にのったので、 今度はこの本の批評となったわけだが、二月八日には実際の出版記念会が東京であって、みなほめたので、この号には肥下の主張で、コギトの古い同人だけが書くことになった。松下、 三浦、松田(これは珍しい)、杉浦(これも珍しい)、薄井、中島、肥下とわたしとが、この誌上記念会に加はつた。みな保田のこの本を喜びかつ愛読したと書いてゐるが、 松田の「保田には透谷の生活上の甘さがない。二葉亭の下層社会の研究といつたものもない。」といひながら、「彼はやはり、彼の一つの型をもつてゐる」といふ箇所が一番よく当った批評であらう。

わたしは日本の橋の中で保田が一番美しい橋と呼んだ熱田の裁断橋のことを、馬琴が兎園小説全録にすでに書いてゐることをのべてゐる。ふしぎな本をよんでゐたものである。 しかし近ごろ浜田青陵博士(京大教授、昭和十三年逝去)の名著「橋と塔」との附録のこの橋の記事をよんで、これも名文なのに感心した。名古屋へは娘がとついでゐて度々ゆくので、 この次には裁断橋の銘を見て来よう。三十年間、感動しつづけてゐて実物をいまだに見ないといふこの書斎派的なのが、 わたしを含め(保田や竹内をのぞくべきかもしれぬが)、コギトの特徴の一つなのである。

 この号の巻頭の写真は太秦の広隆寺の如意輪観音の像(立原がほしがつたので、わたしは病院へもっていって、枕頭にかけた。 彼はたぶんその像の下で深夜痰がからんで呼吸困難に陥り死んだのだと思ふ)。保田が巻頭に「批評家の怯惰について」といふエッセーをかき、 次に伊藤信吉氏の「魯迅論(これも珍しい)」朔太郎先生の「日本の橋を読む」、伊東の「夢からさめて」、小高根二郎、立原道造の詩、板倉柄音教授のケストナア詩抄、山岸、 岩田潔二氏の評論に前掲五十嵐教授(阿部稀男)のアベラルドウス「受難記」の二、ヴァザーリの隈元謙次郎氏訳などと、結構にぎやかな編輯であるが、 わたしはこの前の号からハイネの「冬物語(ドイツ)」を訳しだしてゐる。このマルクスの友達、ユダヤ人でありながらキリスト教に転じた背信者、皮肉と譏りとでのみしられた詩人を愛したことが、 わたしの文学には大変な不幸であったが、性来のものかもしれぬ。いまの勤め先の同僚、池田勉博士は今なほわたしの書くものにはかならず一箇所ピリッとからいものがあることを御指摘下さった。 わたしはこれを恥ぢかつ悲しむのみである。(九月廿六日)(vol.117,1965.11.1)

★ 18

 昭和十二年三月号のことを書いたが、その原稿を送ったのはこの年の初めであらう。わたしの日記では、昭和十二年は二月二十二日から始まってゐる。この日、 「塚口利三郎博士逝去の由」と朝礼してゐる。新聞でみたのであらう。大阪医大の外科の教授だったか。御長男塚口克己君はわたしと小学・中学の同窓で高校は岡山の六高へゆき、 在学中に死に、父君の意思で解剖に附されたあと、遺体は大学の研究室に寄附された。そのことはこの日の詩に、

 かつて海辺の小学校で
「克己同士だね」といつた友だちは
その後、肺を病んで死んだ――
おれはある日かれに再会しようと思つた
医科大学の標本室に彼を訪ねると
彼はその骸骨の顎骨を開いて
奥まつた眼窩に常に徽笑を浮べてゐたが
骨と骨のつぎ目からは
すこし錆の来た銀色の針金が見えた
父博士は「わたしもいつかここに骨をならべます」
といひ、老人の笑ひを浮べた口もとが
ほんとによく似てゐられるので悲しくなつた

 この詩はあとで全くかき直して「四季」五号に「再会」といふ題でのせた。わたしのうたはいつもこんな風な悲歌ばかりである。悲歌が好きな反面、 わたしはいつも姑息小規模ながら現実の打解を試みる。その最力な手段としてわたしが考へたのは転居である。例の日記には書いてないが、 わたしは多分この年三月の春休みに第三回目の住居を持ってゐる。場所は初めての住居と同じ町内(高石町)の羽衣四一四である。日記には三月十九日及落会議としるし、 次に内モンゴルでの親日軍の敗れたことを皮肉な口調で詩に作り、次に無題で、

 一日春風吹キ尽シテ
夜風ニ立テバ砂塵 縁ヲ埋メタリ
ワガコノ家ニ住ムモ一年ニ近ク
蝸牛ノ居中 黴埃 堆クナリタリ
シカジ一巻ノ書ヲ携ヘテ
松岳梅林ノ間ニ邁進センニハ

 とあって転居の決心を明らかにしてゐるのみである。転居先は叔父の持家で、線路のすぐ横、日当りの悪いくされかけた家で、永らく空家となってゐるのを、 半ばは同情して入ったのである。コギト六月号(第六一号)はわたしの転居後の刊行だが、別に転居をしるしてなく、ただわたしのハイネの長詩の訳は五回となり、 板倉鞆音氏のケストナア詩抄(このハイネ以上に皮肉な詩人をなんと巧みに訳してあることか)はこの号で終りとなり、石中象治氏のカロッサ評、薄井のレットゲル「ウイリアム・シェークスピア」と同人、 寄稿者ともにドイツ色豊かなといふのが、あひかはらずの特徴として見られる。

 四季の方はこの年五月号(第二六号)には萩原先生の抄になる大手拓次の恋愛小曲集第二で巻頭を飾るとともに、大山定一氏のリルケの訳、鈴木信太郎先生の「リヤン君の詩」といふ、 陶淵明を訳した梁といふ中国書年をほめる論文などをのせてゐる点(この号でわたしはこのころのわたしの住居の番地を知った)、もう決裂状態に来てゐる日中関係など問題外である。

 鈴木先生が問題になさらなかったのはともかく東洋近世史専攻のわたしさへも、盧溝橋の一発を日記にもしるさず(もとより気にもとめず)この夏休みには、 妻の里帰りに便乗して上京してゐる。もっとも全然無関心でもなかった証拠は、コギト八月号に

わが家にしづかに処(を)れば昨日けふ兵ら出で立つけはひはしるし
 北平(ペーピン)の隆福寺街の古本屋な焚けそと思ひゐたるひるあり

 の二首をふくむ六首をのせてゐることであらはれてゐやう。戦争を好いてはゐないが一大事とは思ってゐないのである。 中島もこの事変の連鎖である日米の戦で死ぬことなど予想もせず、この前月号(第六二号)にはトルストイの「戦争と平和」について書き、この号には引きつづき、 「アンナ・カレーニナ」について書いてゐる。主計将校としてのちに中支で戦死する増田晃君の「哀歌拾遺」がこの号にのってゐるのも縁といへば縁であらう。

増田君は東大の心理学?の先生を父ともちながら、詩人として抜群の才のあった青年である。掩護すくなく戦力の弱い兵を部下として全滅したのであらう。 わたしとは昭和十三年以後よく会ったが、この号にのせたのは保田の推薦であらう。

 ともかく昭和十二年の夏わたしは、日本の文化の中心である東京へ、文化的な仕事を見つける足がかりを探すためというよりは、 そこへ移住の決意をつけるために上って行ったのである。(vol.118,1965.12.1)

★ 19

  十二年の夏の東京のことでおぼえてゐるのは、小石川の三好達治氏の住ひを訪れたことである。どうやら思ひ出すと故薄井敏夫はその死病になった結核で、 茅ヶ崎の南湖院かに入院してゐて、それを見舞ったのかとも思ふが、薄井のレツトゲルの訳はつづいてゐるし、これを見舞ったのはたしか沼津の病院だったと思ふので記憶にはない。 彼の発病はもっとあとかもしれない。もとよりわたしより年長ながら彼の結婚は全快まで遅れたので、奥さんに問うても答は得られないにちがひない。

ともかく四季でわたしを一等ひいきにしてくれてゐる(と思った)三好さんを訪ふことは恥かしがりのわたしにとってもさうつらくはなかった。御都合をきいてだったらうが、 関口台町のお宅を訪れると、三好さんは気持よくこの後輩を迎へ入れて下さった。何の話をしたかは忘れたが、庭前といふより、庭一杯に大きな銀杏の木があったのをふしぎがって眺めたのをおぼえてゐる。 一わたり話したあと、三好さんは奥さんのおぢさまに当る(と承知してゐた)佐藤春夫先生のところへ案内して下さった。

「コギトの田中君です、詩を書く」

といふのが、多分その紹介のことばだったらう。佐藤先生もにこやかにお迎へ下さった。この大詩人に初めて会っての感想ははっきりおぼえてゐない。ただ畏まり、 ぼそぼそとご挨拶に、先生の「女誡扇綺譚」や「霧社」にひかれて台湾まで参ったことを申し上げ、つひでにかねてから感心してゐたこれらの作品が書かれたのは、 先生の御渡台のずゐぶんあとなのに、よくおぼえておいででしたね、と先生の御記憶をおほめ申し上げるやうないひ方をすると、先生は御謙遜だったかも知れぬが

「書かうと思ってゐれば忘れないものだよ」

 と仰せになった。このおことばはその後も忘れないでゐて、何年かたって軍属として南方にゆき、兵隊として華北に行った時、もしも生還すれば書かうと決心し、 帰還してから書いてみた。もとより先生のやうな抒情味あふれる小説は書けなかったが、軍属としてのシンガポール生活(前半)と半年の二等兵生活との記録はほぼ記すことができた。 残ってゐるのはスマトラの三か月間と、シンガポール生活の後半であるが、この雑誌がつづけば、そしてわたしの筆が折れなければ書けるかもしれない。 先生は後々までわたしにはたいへん口の重い方のやうだった。わたしはゐたたまれなくなって、三好さんをうながし、早々に引き下った。 しかしこのおかげでわたしは先生の「三千人の弟子」の一人にたしかにしていただけた。そのことは後にたびたび証拠がある。

それは後にまはして、三好さんは別れぎはに軽井沢へご一緒することを約束された。四季の同人と会員とで、上野駅に集まって、まづ追分にゐる堀辰雄さんを訪ねて、 その泊ってゐる油屋にゆく。ここには部屋が予約してあるはずだといふのである。この二泊三日?の旅行はわたしにとってたいへんありがたく思へた。 「萱草に寄す」といふソネット集を最近出した掘さんの愛弟子立原道造君はゐるといふし、津村・神保など同年輩の同人諸君もゐるらしい。同人とは名ばかりで、この年、 文部省留学生としてパリに赴かれた桑原武夫氏以外は、 萩原朔太郎先生に前年六月御下阪の折の歓迎会で小高根二郎氏から紹介されただけ(先生はこの紹介に対していやな顔をして軽く会釈なさっただけであった)のわたしにとっては、 東京では同人や読者の会がすでに三回も開かれてゐるのに、一度も出られなかった田舎者として、この会への招きがうれしく思へたのも当然であらう。

 当日わたしは早めに宿を出て上野駅に行った。約束の柱のところにゆくと、三好さんは黄ろい絹か紗(わたしは和服の地については全然知識がない)の着物姿でもう来ておいでだった。 わたしがゆくとうれしさうな顔をして、

「十人位来るかな」

との話だった。しかし定刻になっても誰も来ない。わたしは期待を半分ほど裏切られて三好さんとただ二人信越線に乗り込んだ。線路は埼玉県から群馬県に入る。三好さんはわたしに

「きみ萩原さんの詩をどう思ふ。」

と訊ねられた。わたしは正直者なので「読んだことがない。」とお答へした。三好さんは目を丸くして、

「朔太郎を読まないで詩を書き出した人間がゐたのか、ふーんゐたのか。」

と二回くり返していふほど驚いたが、やがて高崎から榛名・赤城の見えるあたりからは、坐席によこになって眠ってしまはれた。このことは「上州展望」といふわたしの詩になってゐるが、 三好さんのおどろきは詩には書かなかった。(vol.119,1966.1.1)

★ 20

 三好氏とわたしの同行二人が追分の油屋に着いたのは、夏の日も暮れてからであったらうか。四季拾月号(三十号記念号)にのせたわたしの「上州展望」といふ詩は前述のごとく、 朔太郎の生国上州の展望をうたったが、次には「上州横川」と題してゐるが、

山々は小駅に脅すごとのしかかり
その後方に夕雲は際限なき戯れに
自らが姿を犬猫牛馬に変じゐぬ
忽ち山川の瀬音高まりて
夕咲く花花開き 駅長室に灯つき
汽車は吐息してのろのろ動きそめぬ

 といふのが、実景を歌ってゐるとしたら、妙義山を南に見る横川から、碓氷峠のアプト式の線路といふのを上って、熊の平の駅をすぎて軽井沢に着いたのは晩である。 わたしの胸裏では明るい中に追分の油屋について、その古風な構へを驚き喜んで見たやうになってゐるが、たぶんそれは間ちがひで、暗くなってから着き、 堀さんに出向ひを受けて、大名の間の隣のまっくらな室が予約されてあったので、そこへ入って夕食でもとり、三好さんと堀さんの話すのをきいたあと、まもなくねてしまったのだと思ふ。 堀さんの初印象は、想像通り知的でしかもおだやかな話しぶりの都会人でわたしを喜ばせたが、三好さんはなんだか堀さんには遠慮してものをいってゐたやうに思ふ。 今となってみれば四季の総帥は堀さんだったのだから、当然であるが、わたしは永く三好さんがそれだと思ってゐたので、ちよっとこのことは意外であった。二人きりになった部屋で、 三好さんがふすまに書かれた漢詩をわたしに読んでくれたのは、この夜のことか翌日の朝か、「函館ノ産モットモ名有り」といふ「氷の賦」で、がっかりしたのは、 この宿のことだからもっと古い物だらうとの予想が裏切られたからである。

追分の油屋のことは、この年十一月に焼けたあとで「四季」(第三三号)にわたしが追憶して「信州追分宿脇本陣油屋の記」といふ題で記してゐる。

 「追分宿は中仙道から北国街道のわかれるところゆゑその名が起つたのである。……この二街道を行く旅人のための宿りの中、最も格式の高い本陣に次ぐ脇本陣が油屋である。 本陣は既に古びてしまつて見られないが、油屋のみは江戸時代の名残を留めて残つてゐたのである。彫物のある桁柱、燕の出入りする屋根、脇本陣の表札もそのままであれば、 広い板の間になった入口の間へ、急に下りてゐる梯子段には昔の人のあしあとが凹んでかしいだままのも嬉しい」

 といふのがその一節である。「油屋の最も奥には御大名の間があつて一段と畳が高く」なってゐるのも見た。 翌日には堀さんや立原道造・野村英夫などみな結核でなくなる人人と話しあふ。堀さんの間は大名の間のま上に当る二階の小さい間であったが、南の窓からは蓼科や八ヶ岳が美しく見えた。 それを指ざして説明してくれた人は来年一月には天山やアララットの山(ノアの箱舟の止まったといふ)を見にゆく深田久弥氏で、こないだ堀さんの十三年忌とかの会で、 二十何年ぶりかに再会したが、ちっともお変りなく若若しかった。なにちっとも変りないのは堀さんの奥さんもさうで、この時は加藤姓でお母さんと弟さんの大学生俊彦君もご一緒だった。 俊彦君は変っていまは東大教授である。加藤多恵子さんの親友と見えたこれも美しいお嬢さんがゐて、恩地孝四郎画伯の令嬢三保子さんと教はったが、 このひとにもこの間お目にかかって少しも変っておいででないのに驚いた(よくおどろく男だと思はれるだらうが)。変ったのは大学生で卒業論文を書くために泊ってゐた三輪福松君といふ青年がゐて、 ドラクロアの画集を見せてくれたが、これまたいまは大学教授の由である。

 さて立原は大正三年生れといふから、わたしより三つ年下で、この年はもう卒業して石本建築所につとめ、病気だといふので、油屋に療養かたがた来てゐたはずである(年譜によれば)が、 一向にそんな様子は見えず、この日の午前の散歩に、三好さんとわたしが追分名物の落葉松原を見にゆくと、案内について来てくれ、遊女の墓といふのへも案内し、それから、

「薮に隠れて三好さんをおどろかしませうよ」

とわたしに勧め、それを実行した。わたしはこの後輩の「無邪気さ、可愛さ」にすっかり惚れこんだ。三好さんが鳥のことをよく知ってゐて、鳴き声で、「あれは何」と教へてくれたのに対し、 わたしは植物学の知識を辿りだして立原の萱草が、わたしのくにのカンゾウでないことをも知った。立原はこの両先輩にあまり感心した様子もなかった。かれの詩論によれば、 一切の固有名詞は詩からとりのぞくべくであり、カンゾウもキツツキも実際は「花」、「鳥」といふ形で示せといふのであって、事実かれの詩にはその傾向が顕著であるとわたしは思ふ。 のちにわたしはマラヤに行って原住民と会話して、山の名、草の名が一向に問題にされてゐないのを知ったが、「詩」はこの「原始」の態度に近いのではないかとこのごろ考へる。 それにしてはずいぶん遠まはりしたもので、わたしの作品には地名、人名、鳥獣草木の名が多く、いまの大学生になら随分の注が必要である。(vol.120,1966.2.1)

★ 21

 この日か翌日か、三好さんとわたしとは軽井沢へ、これも立原君の案内で行った。前後がはっきりしないが、三好さんは礼儀正しく案内を乞うて室生犀星先生を訪れた。 朔太郎をよまなかったわたしは、反対に室生さんは読んでゐて、「鳥雀集」といふのを大切にしてゐたから同じく恐るおそるその別荘に参ったのである。 庭一面の苔をふまないやう気をつけながら縁側にゆくと、先生はこれも紺系統の着物で気軽にお出になった。どんな話がかはされたかはおぼえてゐない。川端さんも当時の中堅の作家であったが、 わたしは「伊豆の踊子」さへよんでゐなかった。つる屋といふ旅館の意外に狭い部屋に、先生はわれわれを迎へ入れられ、三好さんに俳句を示して訳をきかれた。三好さんが答へあぐむと、 わたしの方にも問を発せられた。わたしは顔あからめてわからないことを申し上げた。

 軽井沢での思ひ出はこれくらゐであるが、わたしは追分ならびに軽井沢に表はれてゐる東京の文壇にたいへん感激した。 その証拠は今もその時のことをこれだけ覚えてゐるほかいよいよ東京へ出る決心をした様子である。
コギトの第六十三号と第六十四号は私も校正に参加した。前者は「校了の前日に上京した」と保田が編輯後記でしるしてゐる。中島の「「アンナ・カレーニナ」に就いて」が巻頭で、 中島はこのころからトルストイを読んでをり、彼の死後のこされた原稿ではこの一連のみが体系をなしてゐる。増田晃氏が六十三、六十四と二号つづけて書いてゐるのもふしぎである。 主計将校として昭和十八年?に中支で戦死したこの早熟の天才は、出征前に「白鳥」といふ完成した詩集を出し、その出版記念会には高村光太郎先生が出られた。 これがこの大詩人にお目にかかったわたしのただ一度の機会であった。

 九月号である第六十四号には三浦常夫の「遣唐大使藤原清河」といふエッセーが巻頭にのってゐる。唐にわたったまま帰れずにかの地で没した清河に正二位の贈位があり、 同日、同じ運命の阿倍仲麻呂にも同じ位を贈られたとの記載で、このエッセーは終ってゐるが、七月の盧溝橋での衝突につづき、八月上海に戦火の拡大したことが、 このエッセーとは関係あるはずである。三浦は南画をもよくし、中国との戦争を歴史的に見て、決して快感を抱いてゐないのである。

しかしその次にのった倉田百三先生の「くにへの愛」は、先生のただ一度だけのコギト執筆であるが、愛国を説きながら、ダンテを説き、ジォットーやバッハ、 ヘンデルなどを説いて、先づ我々のくにを愛しと説くと同時に世界人類の協和をこひねがっておいでなのは、矛盾のやうだが、「日本浪曼派」と同じくいたづらに戦争のみを喜んでおいででないのは、 のちの右翼便乗乃至神がかり派とは、ちがふものを感じさせる。しかも我らの祖先の文化的祖国だった中国と日本とは現実に戦ってゐるのである。「戦果」のニュース映画をわたしは肥下恒夫、 三浦常夫と三人で列を作って待ってから見たと肥下の編輯後記にしるされてゐるが、この「戦果」にあまり喜んだおぼえはない。

 ともかくわたしは九月にはじまる新学期のため、また帰阪したが、帰ってしたことは、日記によると、九月八日登校して学校内のいはゆる「青年将校」の一人、 饗庭源吾氏の転任の公表に目を丸くしたのがはじまりの様である。同氏は大阪商大を出て英語と商業を担当してゐたが、頭脳明晰でしかも言動キビキビしてゐて私とはちがって生徒に好かれた。 その送別会だったかどうだか、私は生れてはじめて堺の乳守(ちもり)の芸者家に招かれて、夜半までかかって「お伊勢参りの石部の茶屋で……」といふお半長右衛門を歌った小唄を習った。 これが私のただ一つだけうたへる日本の唄である。

この好い教師を見送って私もいよいよ辞意をかためたのであらう、次には履歴書がしるされてゐる。普通のものと異り、文学的履歴書であるので、今まで記したことと重複する所があるが、写しておかう。

一.明治四十四年八月三十一日、大阪府人西島喜代之助、兵庫縣人田中これんを両親として生る。母の家を継ぐ。
一.明治四十五年(二才) 明治天皇崩御。妹千草生る。
一.大正六年(七才) 母死す。
一.大正七年(八才) 嗣母京都府人今井しづえ来る。大阪府泉北郡高石尋常高等小学校に入学。歌枕、高師浜の地也。
一.大正十二年(十三才) 転居の爲、大阪市浪速区惠美第三小学校に轉学。
一.大正十三年(十四才)大阪府立今宮中学校に入学。伊原宇三郎、淡徳三郎、藤沢桓夫、武田麟太郎を出したる学校也。時に三年上級に石山直一(野上吉郎)、船越章あり。
一.昭和三年(十八才) 大阪高等学校文科乙類に入学。同級に保田與重郎、中島栄次郎、服部正己、松下武雄、松浦悦郎、松田明等あり、ロマン的学級と称せらる。隣級文甲に杉浦正一郎、 相野忠雄(若山隆)、竹内好あり。理甲に伊藤佐喜雄、一年上の文甲に、(三浦常夫)小高根太郎ありき。教授佐々木青葉村(歴史)、財津愛象(漢文)を崇拝す。
一.昭和四年(十九才)以後三年、野球部マネージヤーとして学業を抛擲して顧みず、詩誌「璞人」の編輯を野田又夫、奥野義兼より譲られ、松下、中島と編輯。一月にして保田と代る。
一.昭和五年(二十才)短歌誌「かぎろひ」を保田と創刊、編輯に当る。この頃、利玄、順に私淑す。 肥下恒夫、病気休学中なりし爲この年より同級となる。この秋同盟休校あり。
一.昭和六年(二十一才)茂吉、千樫を愛讀す。中野重治を好んで讀む。皆、保田が感化に依る。かぎろひ十号を以て編輯を中田英一に譲り、三月卒業。四月東京帝大東洋史学科に入学。 上京して柏井家に寄る。船越章と同室。この頃、盛にマルクス主義書籍を讀む。満州事変起る。
一.昭和七年(二十二才)三月、コギトを肥下、保田と共に発刊。薄井敏夫及び前掲諸氏夛く同人たり。この頃佐藤春雄、志賀直哉を耽讀、ハイネ、シユトルムの詩を愛して訳に努む。 伊東静雄と識る。
一.昭和八年(二十三才)。松浦悦死す。北園克衞、近藤東等のマダム・ブランシユの会員となる。酒井正平、川村欽吾、饒正太郎と親しむ。卒業論文の爲、やや東洋史を学ぶ。
一.昭和九年(二十四才)。学成り畢つて帰郷職なし。新聞社の試験を受けたれど通らず、遂に大阪市私立浪速中学に奉職す。先輩清徳保雄の推輓による。ノヴアーリス「ハインリヒ・フオン・オフテルデインゲン」をコギトに訳載。
一.昭和十年(二十五才)。五月、柏井悠紀子と結婚。
一.昭和十一年(二十六才)。「歴史学研究」に卒業論文の概要を「清朝の支那沿海」と題して載す。オフテルデインゲン「青い花」と題して第一書房より発行。七月、一子史(ふびと)を挙ぐ。 「四季」同人となる。服部正己と「ザイスの子弟」を共訳、山本文庫より「ヒアシンスと花薔薇」と題して出版。
一.昭和十二年(二十七才)。正月、石浜純太郎先生に就く。清徳保雄死す。夏、上京。佐藤春雄先生に就く。史学、文学に共に師を得たり。支那事変大に起る。(vol.121,1966.3.1)

★ 22

 前掲の履歴書を書いたのは、秋季皇霊祭と呼ばれたいまの秋分の日の休みである。この日、妻子は住吉区にゐたわたしの父母のところへゆき、 留守番のたいくつまぎれに書いたのであらう。この夜は近くにゐて、京大の哲学(西田哲学、田辺哲学の優秀だったことは前代未聞であった)を中島、松下に一年おくれて卒業したが、 同じく職なく、東大の法科に入りなほしてゐた沢田直也君と会ふ(この人はいまも健在で大阪で有数の弁護士になってゐる)。

 翌日、登校すると好きだった饗庭君の後任に温和な吉野さんといふ青年が赴任して挨拶された。わたしはこの人ともすぐ仲好しになったが、今はどうしてゐるか、 最近もらった同窓会名簿の旧職員の欄にも名さへ挙がってゐない。この日の午後は天理高女につとめながら、旧制大阪高校の東側に引っ越して来てゐた杉浦正一郎を訪ねてゐる。 用もなければ話も文学関係ではなかったらう。旧知の奥さんも挨拶に出られたが、わたしとちがってまだお子さんはないので、若々しく気楽さうであった。 たぶんわたしは東京の「良かった」ことを話したのであらう。わたしが翌年、上京すると、彼も上京して千代田女専に転任し、翌年やっと長女蕗子さんをまうけるのだが、 彼ののこしたのは更に莫大な冊数をもつ天理図書館の国文学関係図書(綿屋文庫と呼ばれる)であったことは二十年後にその図書館につとめて、はじめてわたしは目を見はったのである。 天下の秘本、曽良の「奥の細道随行日記」を見つけたことなどは、死ぬまでわたしには話さなかった。よほど国文学のわからぬ男とでも思ってゐたのであらう。

 この年七月七日に華北で戦争がはじまったことは前述した。八月には上海でも戦争がはじまって、同僚松根実君の崇拝してゐた文学座の俳優友田恭助が出征したことは新聞で承知してゐたが、 帰ると召集が相次いで剣道の教師(当時は正課だったのである)富樫氏といふ六段の人も出征してゐた。教育も新体制といふのが叫ばれて盛んにその意味の会議がある。十月一日、 雨の降る日だったが、会議をおへて教員室にもどると、隣席の数学教師、牧(仮名)氏が質問した。氏は数十校を歴任したあとこの中学の講師となって来てゐる人で、もとより会議には出られないのである。

「田中君、けふの職員会議は何の事だったのかね」
「国民精神総動員といふことのためです」
「総動員って何かね。わしゃ金もらへればやるが、くれなけりゃ出来んぞ」
「金と関係ありませんよ。職務を熱心にやったら国民精神が揚るんだとのことです」
「わしは出来ん。わしのこの講師といふ地位を見ろ。それに月給が安いことったら何だ」

 わたしはここで怒を発した。この人は数学の先生だからかしれないが、非常にケチだったのである。月末のツケにうどん屋と口論することがある。 当時一杯六銭だったすうどんしか食べないで、その回数が多くつけてあったといふのでうどん屋をどなりつけたのである。数十回の転任もこれでいやがられたか、 もしくは一円でも高い方へと動いたためかのいづれかであったらう。月給はわたしが八十五円だったのに対し三、四十円位だったらしいが恩給はあり、それに生徒にきつい点をつけ、 落第しさうになると自宅の塾に通はせて点を与へるのである。今はしらず、当時の教育者は自分の学校の生徒はアルバイトの対象にしなかったのである。この人が金のことをいひだしたら、 聞かないのが利口だが、わたしは二・二六以来愛国者になってゐたので、喧嘩の相手になってやった。

「金の問題を教育者がいふのはをかしいですよ。」
「いやもうこれ以上はごめんだ、わしの地位は低いし、月給は安い」
「あなたはいつもそればかり仰しゃってますが、わたしの前ではもう止めて下さい。聞くに耐へません。わたしが校長ならあなたクビになりますぜ。」

 かういつてわたしが教員室を出ようとすると、牧氏(まだ生きてゐて八十以上だから、もう翁といふべきだが)は前に立ちふさがって、
「たのむから校長になってくれ」
 といふ。わたしは
「本当にわたしも早く校長になりたいですな。ともかくいつもの御不平だけはもうききたくありません」

 といって、教室へ掃除の監督にいってしまった。これも当時、常勤で担任クラスのある教員の仕事だったのである。
 さて教員室に帰って来ると、牧氏はまだゐた。待ってゐたと見える。

「わしら二人は退職しよう」
「何をいふですか、わたしは退職する理由なんかありませんよ」
「喧嘩両成敗といふぢゃないか」
「何をおっしゃる。あなたが喧嘩なさったのは、この学校でも今日がはじめてぢゃないですよ。両成敗ならもっと早くおやめになって宜しかったですよ」
「きみ、本当にやめないのか」
「やめるもんですか」
「それこそ日本精神に反してゐるぞ」
「ちがふ」
「だってわれわれ二人が学校にゐたら、学校の害毒になるぜ」
「わたしはさうは思ひません。ともかくその大声だけは学校の害毒ですよ」

 この喧嘩はわたしの勝ちであった。牧氏は翌日もやめずに学校へ来て、わたしに物をいはなくなっただけである。わたしは翌年、職務精励をみとめられて、月給九五円となった。 牧氏の講師手当の方は? そんなことはわたしの知ったことではない。(vol.122,1966.4.1)

          ★ 23

 コギトは十月号には保田の「木曽冠者」を巻頭におき、中島の「トルストイの転向について」を次に置き、いづれも名文で結構である。わたしは「虎」といふエッセーを書き、 「人虎伝」や「水滸伝」の武松の虎退治をかいてゐる。十一月号はやはり「今上陛下幸于紀伊国御製一首」といふ保田の文章をはじめに置いてゐる。 昭和四年南紀に巡幸された天皇の「きの国のしほのみさきに立ちよりて沖にたなびく雲を見るかな」といふお歌のことをはじめにおき、懸泉堂に佐藤春夫先生を訪ねたことなどをしるしてゐる。 保田が春夫先生の門弟三千人の随一であることは、こののち明らかになるが、わたしは先生への渇仰に伴ってうらやましくてたまらない。次は三浦常夫(小高根太郎)の「高市皇子」で、 保田と期せずして日本古典への復帰が見られる。コギトの方向は定まったのである。わたしは「仏南西にゐる友に」といふ詩を書いてゐる。この四月で任期のきれるパリの日本会館長羽田明が留学中であり、 桑原武夫博士も同じくパリにある。日本では友田恭助が上海で戦死し、華北では山西省に日本軍が入ったことをしらせた詩である。日記を見ると、 清徳保男氏を可愛がつた田村金之助氏の五七日が十月六日で、列席の大谷某翁が、四十年前の思ひ出を語って、芸妓の花代が四十銭、うどんが一杯五厘、麦一升が一銭五厘、 米一升が四銭五厘だといったのを興味ぶかくきいてゐる。銭厘といっても、今の人にはなじみがないであらう。百銭が一円なので、物価は七十年間に米で一万倍近くなったのである。

 十月七日が工兵伍長友田恭助の築地座主宰の葬儀である。いまの芥川比呂志さんほど人気のあった人と思へばよい。翌日は中島と碁を打ち、五番のうち三番勝った。 彼とヘボ碁をも一度うちたいものである。十一日は皇典研究所主催の講演会で、わたしは学校の命令で出なければならない。河野省三といふ博士の愚論のあと、陸軍中佐の話があり、 わたしは「かなはないな」と嘆息しながらきいてゐた。十月廿三日にはまた上京する。妹の結婚式だといふのである。わたしはおかげで川久保悌郎(いま弘前大学教授)、 松下善海(いま東大助教授)などと会談できた。みな大学院にがんばって勉強してゐるのである。廿五日には肥下、保田、薄井、小高根太郎、長尾良(新しくコギト同人となった)と印刷所で会ひ、 中原中也の死を保田から聞いた。廿六日には帰阪するが、同席の茨城県筑波郡の出の応召兵と話して、浜名湖のあたりで、「この辺は土地が肥えてゐますね」といふのを聞き、嘆息した。 三十五、六歳の人で五人の子があるといふ。
「早く戦争がすめばいいですね」
といふのがこの兵士の顔ひであった。「四季」にのせた「秋の湖」といふ詩はこの話をかいたので、まだわたしは戦争讃美者になっていない。

 「四季」の同人辻野久憲氏が亡くなったのは、これに先だつ九月のことで、「四季」は特輯号を出した。萩原朔太郎先生は彼を、
「若き日の秀才森林太郎を、さながら目前に見る思ひがした」
 と評された。享年二十九才で、この年モーリアックの「イエス伝」を訳し、その前からは洗礼を受けてカソリックになってゐた。わたしは昭和九年以来、会ってゐず、 訪ねた高円寺の宅で見た奥さん子供のことも思ひ出したが、その奥さんとは「故ありて離別」と三好達治氏が年譜にしるしてゐられる。わたしのところへは死亡通知がおくれ、 間にあった伊東静雄ただ一人が葬儀に出たむねを保田が記してゐる。

 中原中也が「四季」の同人として追悼文を書き、交際の浅かったことと、「からだの弱さうな、気の弱さうな人」と評してゐるのはその通りだが、 「多分三十才前後といふ頃に、人は余り死なないもの」だから訃報を受取ってハッと思ったと記してゐるのは、人間が自分のことを知らないよい証拠となる。 「四季」の次号(第三二号)は中原中也追悼号だからである。病気は全身結核に脳膜炎を併発したといふのであるから、辻野氏の死ぬころにはもはや重態に近かった筈なのである。 この人もランボオを愛し放蕩無頼の詩人と思ってゐたがわたしはきらひでなかった。会へば酔ってからんできらひになるといふことだったが、幸ひにして会はなかったのである。 関口隆克氏の追悼文には、中原は教会に行ったことはなかったが、自らではカソリックの真実の教徒と思ってゐたといふことである。 ただし子供を失ってからは仏教に近づいた由である。昭和十八年に子供を亡くしたとき、わたしははじめてこの変った詩人を真から好きになった。

 「四季」はこのすぐれた二同人を失って、井伏、萩原、堀、竹中、竹村、立原、津村、室生、桑原、丸山、阪本、三好、神西、神保とわたしの十五人となったが、 この十五人もいまのこってゐるのは七人である。(vol.123,1966.5.1) 

          ★ 24

 (※今年1966年の)四月六日から十四日までは修学旅行で、奈良京都と歩き倉敷で解散した。わたしはこの修学旅行が苦手で、はじめの勤め先は、これを遂行したあと、 辞職の決心がついた(後述)ほどであるが、今度は名古屋で孫に会って写真をとり(よくとれてゐる)、機嫌よく帰宅した。
 旅行中で復活集の礼拝には参加できず、京都御所開放の最後の日ということで、これを参観、夜はみずから女子学生たちに課した禁足で宿ですごしたが、 親しくした彙文堂の前を通ると店をしめてゐる。日曜で休みかと思ったが、近所の古本屋できくと、主人は長い病気だといふ。昨日(二十四日)の新聞には、二十三日、筋肉まひのため自宅で死去、 六十四歳だったと出てゐる。東洋学に貢献したことと温厚な人柄で、惜しくてならないが.中学での親友小林太市郎博士が「漢詩大系」の王維の註釈を半ば書いて、 枕頭においたまま亡くなられたのが一昨年だったか、わたしもこの年まで生きれば、停年の一年前である。わが身にひきくらべて、まあまあと思ふ。

 コギトには書かなかったが、詩の友だちとして古い井上多喜三郎氏の声の録音をきいて涙したのは、この日の夕方、同氏の親友依田義賢氏宅においてである。 宿のななめ向うなので、夕食までの時間にたづね、予期せぬその死にざまを聞き、予期せぬ最後の録音を聞いたわけである。静かな近江なまりの若若しい声であった。 そのあと追悼のわたしのことばが録音されたが、七十九歳で死んだ父の死にぎはの声そっくりで、わたしは自らの老いを知った。

 翌翌日の十二日は京都最後の日なので、学生の昼間の自由行動をゆるし、わたしは古本屋をあるく。前日は故友服部正己が昭和二十三年に出して贈ってくれた「言語と文化史」を見つけたが、 この日は今年のゼミに必要な天文学の本一、二冊だけで、宿に一度帰り、天気は久しぶりによいし、電話もないと知って(桑原武夫博士にたづねると、大学で聞けと云はれた)、 まっすぐに上って野田又夫博士を訪ねる。着くとはたして不在で、出て来られたのは、少女で識ってゐた長嬢、「上れ」といはれ、甘いお茶をいただきながら話すと既婚であることを知って、 おめでたいながら時間の経過をつくづくと感じる。クリスチャンときき、「復活祭の礼拝で何をお歌ひになったか」と問ふと、六六番「聖なる、聖なる、聖なるかな」ではじまる三一の神をたたへた歌であった。 とのお答へで、わたしが御所で黙唱してゐた歌であったので、ありがたく思ふ。「博士にはまた」といって宿に帰った。しかし夕刻、思ひがけずも博士の来訪を受けて喜び、 その一番の親友小高根太郎(コギトの三浦常夫)の話をし、肥下、服部などの話をしてゐる中、このデカルト哲学の権威が、コギトに書いて下さったことを知った。 これは博士みずから告げられたからわかったので、わたしは全く記憶を喪失してゐた。

 博士のペンネームは日高次郎、その文は昭和九年六月号にのった「雑考」(コギト第二五号)にはじまる。次に三浦常夫の「文楽」といふのがのってゐるから、 あるひはそのすすめかもしれないが、この年はわたしが大阪に帰ってつとめた年であるから、中島とわたしが書くことをすすめたのかもしれない。田辺博士?の講義のことからはじまり、 デカルトが商人やエズイタ教団とは無関係に、神へまはりみちをしてゆく一生を名文で書いてゐる。野田博士はこの前うつしたわたしの履歴書にある通り、 高校の一年先輩(高校はじまって以来の秀才と聞いたが、このあと入った阪井正夫といふのが、全学科満点に近くこれを凌駕したが、坂井君はわたしと寮の二人一室に半年くらしたあと、 結核になり、まもなく祈りながら死んでわたしを慟哭させた)で、「璞人」といふ詩の雑誌を編輯し、ついで保田とわたしにその編輯をゆずったのであるから、中島、松下と同じく、 哲学だけの人ではなかったのである。九月号にも「二三の友に」といふエッセーをのせ、小林秀雄論からはじまって批評の精神を説く。二三の友は松下、中島らを指すのであらう。

 コギト第三〇号はドイツ浪曼派特輯であるが(同年十一月号)、これにも日高次郎氏は「島々」と題して、若くして狂つたヘルデルリーンを説いてゐる。 夜の讃歌をうたったノヴァーリスより、光り輝くヘラス(ギリシア)びとの精神で作った、

 母なるアテネよ、御身が美はしき丘は
 悲哀よりして更に高まり、花さいた

 といふ詩の方がよい、といふこのエッセーをわたしは読みながらノヴァーリスを訳し了へて本にして出したのである。 「青い花(ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲン)」は夜の讃歌のやうではないと思ってゐたのかもしれない。

 野田博士はかうして桑原武夫博士や故五十嵐達六郎教授とともに、コギトの最上の同志であり、また批判者であった。わたしはなつかしく、うれしく、 宿の玄関まで博士を送り「永遠に」と思はず口をついた別れのことばをのべた。博士はこれに答へずに去られたが永遠は神なくしてはあり得ぬものである。わたしは野田博士といはず、 すべての人が永遠にわが友たらんことを願ふ貪欲者である。この貪欲からいろいろの悲しみも生まれるのであらうが、その悲しみはもう救はれた。 下賀茂の三日間はわたしには一瞬や偶然とは思へない楽しい日々であった。野田博士父嬢に会はしめたまうた主に感謝し奉って、早々にしるす。(四月廿六日朝)(vol.124,1966.6.1)

          ★ 25

 コギト第六八号は昭和十三年一月の発行であるが、原稿はみな去年の十一月ごろのものである。戦争はますますはげしく、日軍は杭州湾に「皇軍百万上陸」の旗じるしをかかげて上陸し、 南京にせまった。コギトは保田の「雲中供養仏」、三浦の「天の鶴むら」、白畑よし女史の「天平の花々」など一連の日本を愛するエッセーをかゝげてゐるが、 次には松下の「天野貞裕博士道理の感覚」といふ書評がのってゐる。内村鑑三の日露戦争当時の非戦論をひいて、
「この時われらの進退を誤って百年の悔ひを残さざらんがためには、先づ道理の感覚を充分に澄ましてかからねばならぬであらう」
 といふのが松下の結語である。次はわたしの「歳晩即事」といふ四篇があって、その三は、

宵(ヨハ)に睡(ネムリ)覚めて天颷を聞く
海より来つて山に向つて走る
今し三国ヶ丘なる伊東静雄が宅(イヘ)も
睡驚かされて物語りたまふや
微かに聞ゆるは病犬か白狐か
長く啼いて遠近(オチコチ)し 彷徨せるが如し

 といふので、小高根二郎氏の伊東静雄伝にはひいてもらへなかった。その四は、

戦大いに発(オコ)つて将士奮励す
電影(シネマ)中に見る、将軍黒貂裘するを
湖中の荷(ハス)枯尽して一望遠く
江南柳葉散つて日影長からん
兵をしてかかる日に死なしむるに禁(タ)へず

 といふ反戦の詩である。
 山岸外史といふコギトのシンパの第一人でわたしを太宰治にむすびつけた一人は「人間キリスト記」のつゞきを書いてゐる。 太宰はこの大先輩をわたしが「山岸、山岸」と呼びすてにするといってわたしを叱った。「おれでも山岸さん」といふのが太宰の理屈であった。その中には太宰みづからが、 わたしより大学で一年先輩だといふ理論があったので、わたしはびっくりしたが、北日本では年齢の高下によって地位がきまるといふ民俗のあるのは、このごろわたしの識ったことである。 三位一体の子なる神を人間と見るところに山岸のあはれさがあって、彼は戦後共産党になり、そのあとわたしに会ふとなつかしさうな顔をした。いい人だが、 何をたのみに生きてゐるのかと心配でならない。

 第六十九号は保田の「饗宴の藝術と雑遊の藝術」といふエッセーが巻頭で、先月号の松下やその師天野博士の鑑三理解を徹底的に弾劾してゐる。
「天野京都帝国大学教授は古いああいふ文章を引いて今の世のことをのべ、我らが己の憤欝を展く代とすることを嫌はれるであらう」
 といってゐる。松下をやつつけたあと、保田は芳賀檀のニイチェ、ナポレオンを、
「今日の日本の正気の形なしたものの一つ」
 とほめてゐる。今から思へばぞっとする文章である。保田のこの弾劾が戦後どんな形で報はれたかは天下周知のことである。もうすぐ死ぬ松下はたぶん疳を昂ぶらせたことと思ふ。 わたしは傍観者としてこの間にゐたことを、今やっと気がついたのである。
 松下はこの保田の弾劾を読まないで、田辺元先生の本の評をこの号もかいてゐる。
 「オメガぶみ」といふ平がなの多い文章は立原道造だが、ペンネームは「風信子」となってゐる。本当にヒヤシンスのやうな少年であったとおもふ。

 第七十号(十三年三月)に「石見路の春浅けれど」といふ歌を寄せてゐる牛尾三千夫氏は今なほ健在で、日本に名を知られた民俗学者である。

たたかひははつべくもなん。つぎつぎに我が知る人の戦死を伝へ来

 といふ一首がその中にある。十二月、中国の首都南京が陥落し、蒋介石政府は漢口に遷都した。 広島師団はこの戦ひに参加して戦死者を出したのである(南京の日軍の大虐殺はわれわれにはしらきれず、欧米にはたちまち写真となって送られた。)。 ただソヴェートの反共主義者の虐殺のみが伝へられ、保田は「かういふ日に十万の未開人を虐殺する如きことは、すでに何らの反倫理でもない」とスターリンを弁明してゐる(「ロッテの弁明」)。 おそろしい時代となったものである。これが四月号で、わたしは、一年の時から受持たされた生徒を五年生として受けもち、 数年後にせまった皇紀二千六百年にそなへて大和橿原に出来る運動場の整理にモッコをかつがされるのであるが、それより先に、この無意味な生活に終止符を打たす事件がおこった。

 文学的でなくて恐縮だが、わたしは月給九十五円を支給されてゐる教師として、担任のクラスを引率して修学旅行を行はねばならない。 五月一行二百人は大阪を出発して日光東京江之島をまはる。江之島の宿で食事をしてゐると、あけはなした廊下を通りすがった一生徒が大声で、

「教師らはわしらより一皿多いぞ」
 とふれた。他の老教師には聞えなかったらう。耳ざといわたしはその生徒を眼で追って、新聞配達をしながら登学してゐる某であることを認めた。わたしは恥じ怒り、 同時にこの賎しい生活をすてることを決意した。この貧乏生徒は、わたしたちの一皿のために新聞配達をしてゐると怒りにたへなかったのであらう。わたしは早々に箸を置いた。
(戦後わたしが奈良県で底ぬけの貧乏暮しをしてゐる時、この生徒は「戦争にいって肺病になった」と病院からハガキをよこした。このころ発行された校友会名簿を検すると、 その名は見えない。肺病で死んだかと思ふ。わたしにとっては大恩人である。死んだとしたら冥福を心より祈るものである。)(聖霊降臨の日基督者としてしるす) (vol.125,1966.7.1)

          ★ 26

 わたしの大阪脱出の計画はもともとありはしなかったが、決心だけは十三年の四月ごろすでにできかけてゐたやうである。このころの編輯になるコギト第七二号は、 松下武雄の「文学と言語」といふ論文を巻頭にのせ、「文学は本来遊戯である」、「経国の大事ではない」。 「文学に対して最初からかゝる真面目を欲する人は文学などやる必要はない」「文学などに迷はずに政治家や教育家になればよい」との論をいはしめてゐる。わたしは教育家がいやで、 遊戯の文学がいやで、もう仕方がなくなってゐたのである。わたしが担任したクラスは四月に五年生になった。これらを卒業させる責任をもとよりわたしは負ふ気もなかった。今から思へば、 なかなか出来の良かったクラスだが(現に戦争から帰って来た連中はみな社会人として立派に一家を横へてゐる)、わたしの理想とした教育は施せなかった。

 この号の松下の論文の次には、高校の教師をやめて、映画監督となった荻原耐教授のことを保田が書いてゐる。 保田は習ったことのない「顔をもはっきりしらない」この先生に「尊敬すべき藝術の気質者」を感じ、その退職を讃美してゐる。荻原先生はしかし小津安二郎など同時の監督とちがって、 到頭、名を成さずに終られたやうである(ただし亡くなられたとは聞いてゐない)。わたしはこの文章にも刺激を受けたのだと思ふ。
 この号にはまた岡本かの子女史の保田の「日本の橋」の批評がのってゐる。松下と同じくこの年の中に亡くなるのだが、しっかりした文章である。他人のことはわかるが、 自分のことはわからない。計画など立つものか、立てる方がまちがってゐるのである。
 山岸外史の「人間キリスト記」は次の第七十三号で終り、すぐ本になり、よく売れた(と思ふ)。ユダの存在も神の摂理と見ず、 主の十字架をも認めないこのキリスト観が日本のインテリにはいちばんわかり易いのであらう。保田は蒙彊まで旅行をする。佐藤春夫先生のおともだったと思ふ。 北京には遊学中の竹内好がゐて、この師弟を親切に案内した。

 このころから山田新之輔、長尾良、小高根二郎の諸氏が同人となったやうで盛んに書きだす。山田、長尾の二者は高校でわれわれの後輩、当時、東大に在学中であった。 小高根氏は前年、大阪に就職して伊東静雄に就きはじめたのである。
 わたしは既に六月の終りには校長に辞意を表明した。校長はわたしの辞意を聞くと「誰と衝突されたか」とたづねた。 「衝突したとすればあなたをはじめとする本校の教育方針である」とわたしは内心思ったが「いいえ」と答へただけで、この辞意は承認された。
 わたしは紀元二千六百年を記念するため、大和の橿原に造られてゐる運動場のモッコはこびをやったあと、夏休みになるとすぐ家をたたんで上京した。そのまへに在阪、 在京の諸友には別れを告げた。コギト第七五号(八月号)にのせる「虹霓」といふ詩は、伊東静雄を訪ねて、ともに堺の大寺餅をたべた記念である。 石橋の病院に入院中の松下武雄は、上京の直前に訪ねて、上京の理由を「大阪はあまりにつまらんからな」といひ、「ほんまにつまらんな」といふ同感を聞いて、 傘を病室に置き忘れて帰った。もう一、二ケ月で松下が死ぬことは敏感なわたしも気がついてなかったやうである。

 コギト第七五号には編輯後記を肥下とわたしとが書いて、肥下はわたしの無暴な上京をいたはり(当分コギトの同人費を免除してくれた)、わたしは上京の理由を書いてゐるが、 いつも今ゐる場所をわたしのつひの住家と思はないのが、最大の理由だといふことを、わたしは気がついてゐないやうである。これをロマンチックと他人はいふだらうが、わたしにとって、 またわたしの家族にとって、どんなに負担になるかは、なかなかわからず、退職手当百五十円をもらって東京の妻の実家に入りこんだ数日後、これからの生活を心細いといって妻が泣いたのを、 わたしはポカンとして見てゐた。この女はわたしの見てゐるところでは三十年間に数回しか泣かないのだから、この時はよほどつらかったのだらうが、 わたしはこの珍らしい涙をおどろいて見てゐただけである。後でも彼女が泣くまでは何でもやる気になって、まだ泣かないかと待ってゐる様子だった。悪い夫だと思ふ。

 故服部正己は大阪にのこして来た友の一人であるが、わたしが上京すると、とたんにニーベルングンの歌を訳してのせはじめた。ドイツの最古典であって、 自分以外は訳せないとの自信をもってゐた。伊東静雄は「田中に先を越された」といふ顔をして、そろそろ上京の決心を堅めはじめたやうであるが、これはあとで判明する。 杉浦正一郎はわたしを見ならって、着実に上京の用意をし(この点ではわたしを見ならはなかった)、転任の場所を見つけた。大阪の杉浦の家での俳句の研究会で知合になったのが、 今の同僚である、伊東静雄の親友池田勉博士であるが、そのほかに国立国語研究所長岩渕悦太郎博士がおいでだったことをありありとおぼえてゐる。岩淵さんは当時、 わたしの母校の教授だったが、今のお仕事は歴史的なお仕事だから、ゆっくりとやっていただければと思ふ。(vol.126,1966.8.1)

          ★ 27

 コギトの思ひ出をかくこととなったのは森亮、小高根二郎両氏の要請で、わたしは「果樹園」の創立者の一人であり(お忘れになったらうが、創刊の辞を書いたのはわたしで、 はじめの十号はわたしの家を発行所とし、校正、発送みな福地君の援を得て、わたしや家族たちがやった)ながら、貧乏したり病気したりで、同人費はかんべんしてもらふ、 原稿は書かないといふ何か月(何十か月かもしれない)があったので、止むを得ず書き出したのである。同人費はやっと払ふやうになったが、それの金額と印刷費とを見あふと、 四百字詰で五枚がせいぜいであらう。それ以上書くと小高根氏の負担になる。わたしは貧乏なせゐで、そんなことまで気にして書いてゐると、一向に意気が上らない。反響がまた全然ない。 さう思ってゐると、この間これを見たからといって、新潮社の人が見えて「四季」の思ひ出をお書かしになった。

 しかしわたしとしては何とも書きづらいのである。新潮の原稿も百枚といふのを、七十枚足らずのところで筆を折り、大あやまりにあやまって、 掲載するかいなかは「み心のままに」(ことわつておくが編集の方のみ心ではなく、主のみ心なのである)といって、のったのを見て、主はおゆるしになったかと思った。 あとこの調子で書くとしたら、

詩集西康省の反響
松下武雄の勇ましい死に方
保田を中心とする事変、戦争中のコギト
太宰治ら日本浪曼派とのつきあひ
蓮田善明、伊東静雄氏らの文芸文化との交流
佐藤春夫先生の師恩
中河与一先生との関係
徴用中の思ひ出
帰還後のわたしとコギト

 などをこまかく書いて、場をふさぐことになるであらう。しかしわたしは実のところをいふともういやになったのである。なにはじめからいやだったのである。 「反響」といふ詩集を伊東静雄が出してゐるが、そのまへには、「わたしの詩の読者は極めて少いといふことに気がついた」とかつは驚きかつは嘆いてゐる。 昭和の珠玉の詩に対してさへさうであった読者は、この雑文に対してはもつと少いとわたしも確信する。
 そんなわけでわたしは前述の企画は、必ず書く、書いておく。しかし果樹園にのせることは勘弁してもらはう。いま午前三時で──わたしは老年のせいで、 夜半にねざめするのである──わたしの横では家内が安眠してゐる。その家内もわたしの書くことには手伝ひはしてくれない(これが評判のわるいのを実証する一番の証拠であらう)。 わたしたちは結婚三十年である。わたしはこの真珠婚(といふのださうである)を祝ふために、この夏とぼしい小遣ひをさいて台湾へ二人で旅行することにした。 「女誡扇」や「霧社」などの佐藤先生のお作をよんで行きたくなり、父に卒論の資料をとるためといひ、少ない月給から百二十円はたかせて遊びに行ったのが昭和八年の夏であるから、 三十三年ぶりである。
 わたしは飛行機の事故も覚悟してゐる(保険をかけるつもりである)。八月の台湾は気温平均三十二度で快適とはいへないが、 教へ子の紹介のホテル(むかしの大稲埕(だいとうてい)といった地域にある)はひよっとしたら冷房があるかもしれない。わたしは暑さにはわりに強いのである。家内はどうだらう。 わたしはそんなことを気にしながら行くのである。召集されたり徴用されたりではないのに、どうして行かねばならないのだらう。わたし自身にわからないのだから、 家内や家族にはわかるはずもない。この旅が象徴するやうにわたしの一生はわからないことだらけである。わかったやうにいはうとし、他人はすでにいってゐるコギトの意義などは、 わたしにはすこしもわかってゐないのではなからうか。「記録だけで結構」といはれるなら、コギトの総目次を挙げれば宜しからう。東京では栗山博士とわたしのところにそろってゐるコギトで、 一夏の仕事として十分である(なに昔のわたしなら一日でやるだらう。)。

 とまれわたしは詩をやめた時と同じく、この文章をかくのがいやになった。詩をやめた理由だけは、はっきり書いておかう。コギトがなくなってから数年して、 わたしは自分の作品が保田から買はれてゐないことを確信したのである。その日から書かなくなったといへばちよっとうそになるが、書く気はとみに減じた。いまはしかし違ふ。 わたしはも一度詩がかきたくなり、書くべきだと思ってゐる。これなら小高根さんに大して(ページの上では)迷惑をかけないですむ自信がある。
 以上、半分は小高根さんへの相談だが、しるしておいて終了の辞とする。

いのちあらばまたかへり見んあづま路の小夜の中山越えし日のこと

                                   (一九六六、七、一〇) (vol.128,1966.10.1)


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