(2000.07.10up / 2012.02.20update)

雑誌「四季」(第1次〜第5次) 一覧

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第1次四季

第1次「四季」 1(昭和8.春) 〜2 (昭和8.夏)

 二冊で終わったクォータリー文芸マガジン。「四季」前史とでも云ふべきもの。編輯:堀辰雄。四季社 日下部雄一刊行。

 各冊150ページ以上の内容を持った実に贅沢な作りで、この陣容のまま続けられなかったのは当然といふべきかもしれない。寄稿者も多彩、 主に堀辰雄の畏友先輩にあたる人脈で占められてゐるが、自分が編集者として、何かを主張したり、そこであぐらをかくための雑誌ではなく、 「一度出してみたかったんだ、かういふ雑誌!」 と、刊行関係者と共に完成品を前によろこびあひ、一とほりの満喫を味はった後は、継続意欲が歇まってしまった、 といふ感じのする「カイエ」(詩帖)である。

寄稿者:室生犀星、永井龍男、竹中郁、神西清、嘉村礒多、三好達治、吉村鉄太郎、佐藤春夫、堀口大学、小林秀雄、中原中也、丸山薫、菱山修三、横光利一、牧野信一、 葛巻義敏、丸岡明、河上徹太郎、滝井孝作、増田篤夫、山下三郎、


第2次四季

 立原道造、津村信夫ほか「四季派」と呼ばれる詩人達が活躍した、これが所謂日本の戦前抒情詩の粋を集めた詩誌としての「四季」の実体であらう。 終戦間際の雑誌統廃合により全81冊で終刊。 四季社 日下部雄一刊行。

 当初の編集者は三好達治・丸山薫・堀辰雄の順に三者となってゐるが、詩人である三好・丸山は名義貸しのやうなもので、 実質は小説家である堀辰雄の雑誌であったとは関係者全員の弁である。とは云へ前述したごとく彼が何事かを主張するために創刊した雑誌ではなく、 宿痾となった結核を介し実存の文学に沈潜するやうになった彼が、社会から孤絶することを避け、同時に自らの抒情を憩はせる場所を必要としたこと。 つまり創作モチベーションを維持するため、といふのが一番の理由ではなかったらうか。一方詩人たちの側でも、斯様な“効率のよくない”彼の詩人的創作活動をことのほか奇特なものに思ってをり、 彼がたちもとほる周囲に醸成される一種サロンのやうな雰囲気を、これまたたいへん得難く有難いものに思ってゐたこと。つまりは彼の人徳のなせる業であったのだが、 彼が声を掛けて断った人があったのを聞かないのも事実である。編集実務は後輩と刊行者に任せきりにして、 自分はただ気の向くままドイツ文学の翻訳なんぞを好き勝手に書き散らかしてゐただけだったのだが、同人同士の関係・構図といふのは、堀辰雄を頂点に一対多に結ばれるといふのでなく、 彼を一段上に据えた下で、各者がうまい具合に響きあってゐる=調和がとれてゐる、といった感じを与へずにおかない。 たとへば「三好達治と丸山薫」「室生犀星と萩原朔太郎」「立原道造と津村信夫」といった同年代同士の関係から「三好達治と萩原朔太郎」「室生犀星と立原道造」「丸山薫と津村信夫」といった世代的な関係においてまで、 羨ましい限りにさうなのである。

 堀辰雄の懐刀ともいふべき詩人立原道造の登場により、雑誌はいきなりそのピークを迎へる、そして日中戦争に深入りしてゆく国情のなか、 彼が戦争詩を書くことなく死んだことで、ひとつの伝説に凝った。ここまでが雑誌の前半史であり、以後追随する多くの他愛無き模倣者を生んだこと。そして立原の兄貴分である堀辰雄、 弟分の野村英夫とともに彼らが親炙した信州山麓の景観と気候が、高原サナトリウムの立地条件と一致してゐること。 すなはち「四季、カルイザワ、微熱の詩」といふ悪評判の出所・所以となってゐるのは周知のとほりである。思へば立原道造の信濃追分、津村信夫の戸隠、三好達治の発哺の湯と、 フィトンチッドを濃密に漂はせる四季派の抒情景物に対して、長野県が果たした役割はまことに大きいものがあったと云はなくてはなるまい。

 立原道造の死後、雑誌は「コギト」「日本浪曼派」の人脈および後輩詩人達の参加によって転機を迎へる。そして大東亜戦争に突入した日本が壊滅的打撃を受ける直前、 津村信夫の死をもって終刊した。而して抒情の純潔性を良心と等価のものして大切にした同人たちは、 不文律の配慮を以て最後までこの雑誌のなかに血腥い空気を持ち込まうとはしなかったのである。エコールではなかった一群が、後日「四季派」として外部から指弾され、 また反対にその名を冠した「学会」が発足し身内からも正式に追認されるに至ったこと。昭和戦前期の一等すぐれた抒情詩人たちがこの雑誌と関り、精華をしめし得た、 その個々の業績の位相解明もさることながら、それが大日本帝国の体制内においてのこととして、現代文学につきつけられた課題がそこにわだかまってゐる結果であり証拠ではなからうか。

 これは「四季派」と呼ばれることを忌避し、先輩詩人達を無視して直接堀辰雄と心情的に結びつかうとした戦後詩人達の、高い知性にも拘らぬ詩作失敗を顧みるとき、 そして堀辰雄といふ一君子に対する評価が彼らのなかで戦争を通じていささかもぶれることがなかったことを顧みるとき、一層はっきりと炙り出されてくる事情かもしれない。 拙サイトが掲げる「四季」「コギト」といふキーワードも、二者が近接してゆく各々の個性を明かにすることで、その違ひと融和の意義を、 最も苛烈であった日本の歴史の必然の中に置いて再認識するところにあるやうに感じてゐる。 「日本詩人全集第8巻」創元文庫(昭和28年)において、創刊同人の一人丸山薫がその辺りについて、実に懇切で、正鵠を射る解説を附してゐる。曰く、

 『当時、詩壇の新しい世代を約束する主なグループとしては「四季」のほかに、北川冬彦の主宰する「麺麭(パン)」、春山行夫等のモダニズム派の「新領土」、 草野心平等を中心とする「歴程」などがあつた。これらの系統は今日の詩壇になお形を保つているものだが、それぞれに異色ある理念上、実作上の立場から、いずれもが伝統を認めず、 従つて「四季」の抒情精神を否定する点では一致していた。この間にあつてひとり「コギト」はちがつてゐた。その把持する精神は高度な意味での復古主義であり、 その活動も文化批評やそれのエッセイを主眼にしてはいたが、田中克己をはじめ伊東静雄、小高根二郎等の実作詩人を擁していて、全般に詩人的雰囲気の濃厚なものがあつた。 而して保田與重郎のいわゆる「有羞の詩」と伝統の典雅への郷愁は「四季」のリリシズムに一脈通ずるものがあつたようだ。 たまたまそのような「コギト」理念を抒情にして打ち出したとも言える伊東静雄の第一詩集「わがひとに与ふる哀歌」が出版され(略)両誌は徐々に接近し始めた。 (略)(それは)単に双方の雑誌や詩人達個人に利益したばかりではない。わが国抒情詩史上の祝祭の時として特記していいことかもしれない』

 これが書かれたのが「四季派バッシング」の嵐の中であったことに驚かざるを得ない。

 「四季」と「コギト」については、その両者の編輯同人であった詩人田中克己をキーワードに、 詩人の詩作日記帳「夜光雲」の解題においても拙見を述べたことがあるので合はせ参照されたい。

編輯:堀辰雄、三好達治、丸山薫、(編輯同人:神保光太郎、津村信夫、田中克己)。 四季社 日下部雄一刊行。

その他の同人: 萩原朔太郎、室生犀星、竹中郁、井伏鱒二、阪本越郎、中原中也、桑原武夫、大山定一、河盛好蔵、田中冬二、辻野久憲、神西清、 杉山平一、大木実、高森文夫、澤西健、塚山勇三、呉茂一、山岸外史、保田與重郎、芳賀檀、竹村俊郎、伊東静雄、蔵原伸二郎、岩田潔   (寄稿者: 野村英夫、小山正孝、日塔聡、能美久夫、中村真一郎、)


第3次四季

第3次「四季」 1巻1号 (昭和21 .8) 〜 2巻5号 (昭和22. 12)

 戦後、再び堀辰雄を擁して角川書店から復刊した「四季」。同人制を廃した新たな編集方針を打ち出したが、堀辰雄の病ひが篤くなるとともに5冊で終刊した。角川書店 角川源義発行。

 寄稿者として選ばれたのは、四季同人の生き残りはもとよりであったが、前述の「マチネ」の人々とは同世代ながら、その知性一辺倒の詩作に反発し、 反対から堀辰雄の袖口をひっぱってゐたなつかしい青年詩人達の一群があった。正に「四季」の嫡子と呼ばれるべきこれらの人々が「夢の紙飛行機」を羽ばたかせる滑走路として、 この商業ベースを公算に入れた雑誌が果たしてふさはしいものであったかどうか。堀辰雄自身は彼等をもっと誌面で優遇し、滋養をふんだんにつけさせる必要を感じてゐたやうだが、 彼の意向が十分届かないところで親友神西清と角川源義による編輯基準は、この育ちの甘い若者達を冷たくあしらってしまふこととなる。結局、才能を芽生えさせたばかりの野村英夫の夭折、 そして遂には堀自身の長逝をもって、抒情詩の牙城「四季」の名が担ふべき歴史的役割は、茲に実質的な幕を閉じてしまふことになったのである。

編輯:堀辰雄、神西清

主な執筆者:(第2次同人に加へて) 佐藤春夫、釋迢空、鈴木信太郎、中勘助、片山敏彦、佐藤正彰、中村真一郎、野村英夫、新藤千恵ほか


第4次四季

第4次「四季」 1号(昭和42.12)〜 17号 (昭和50)

 潮流社刊行。丸山薫を中心に据えた「四季」残党の旗揚げは、やがて晩すぎた復刊を悔やむやうに追悼号が次々に出され、薫自身のそれにより終刊を迎へた。潮流社 八木憲爾発行。

 「室生萩原の姫君を擁した落武者の旗揚げ」などと皮肉られやうが、尠くとも同人に名前を連ねた人々の気持には、かつて三好達治による「燈下言」が新人を育てたやうに、 当時の「詩集ブーム」のうちにあってやがて自らの孫世代である若い投稿者から瞠目すべき新人が彗星の如く現れ、清新な抒情詩を再び興して復刊した「四季」を逆に牽引してくれるだらう、 との期待もあったのではなからうか。難解な表現に終始する現代詩が猖獗を極め、抒情精神の担ひ手となるべき人材が、フォークソングのシンガーソングライターとして流れていってしまふ時代に、 結局そのやうな若者への厳しい自持への期待といふのは、望むべくもないものに終はってしまった感がある。けだしその以前、晩年の三好達治をとりまいてゐた現代詩詩人などの、 もとより「四季」など眼中に無い野鍛治詩人達は、同時に「俺達の詩を「おちゃらっぽこ」と一喝してのける、 この御仁さへゐなくなればもう世の中に恐いものは無い」と考へるやうな人達ばかりだったことのやうに私には思はれる。故郷豊橋に隠棲してそのまま終はるかとも思はれた、 堀・三好とならび、鼎の最後のひとりだった丸山薫を、満を持して(?)登場させるべく引っ張り出してきたのは、同郷の後輩で船舶業界誌を経営してゐた八木憲爾氏だったが、 同人はひろく「隠れ四季派(?)」の中からも選ばれ、寄稿した詩人の顔触れも様々で、その「四季」といふ大看板に寄せる温度差は、それが誇りであったり和解であったり果ては恨み言であったりと、 色々に伺はれて一興。加へて抒情詩の再興が「院外団」ともいふべき人たちの願ひによって繋がれてゐるといふのも、やはり面白いことのやうに感ずる。

同人:伊藤桂一、伊藤整、大木実、呉茂一、小山正孝、阪本越郎、神保光太郎、杉山平一、高森文夫、竹中郁、田中冬二、田中克己、塚山勇三、野田宇太郎、山岸外史、萩原葉子、 堀多恵子、室生朝子ほか


第5次四季 イラスト:中嶋康博

第5次「四季」 1号(昭和59.1) 〜11号 (昭和62.2)

 田中克己主宰。発刊の志は堀辰雄敬慕の念に由る。内容はしかし主宰者の人脈から、むしろ「コギト」の後継雑誌「果樹園」の衣鉢をつぐ雑誌といふべきものとなってしまった憾みがある。

 第4次「四季」に投稿の若者達もこの頃は既に30代。あらたに東西で「四」(「東京四季」)と「季」と名前を分けあった雑誌を興し、各々発表誌を確保してをり、 ことさら審美眼の厳しい狷介な強面詩人に自作詩を晒さうとするやうな奇特な仁は居らなかった。また第4次「四季」廃刊後、 同人を留めて引続き潮流社より出された季刊「文学館」が6冊で終刊してしまふと、もはや「四季」といふものが身内で語られるサロン雑誌の可能性も潰えたものと思はれたやうだ。 一体このやうな「第5次」が出されてゐたことさへ幾人の人が知ってゐたらう。生き残った同人も勧誘を断ってをり、主宰者の畏友先輩による寄稿の他、 みな詩人の人柄を認めるごく内輪の人々で固められた個人誌であった。而して終刊号に初めて私は自分の詩が活字になったのを見た。 謂はば「四季」の名のもとに最後の最後に引っかけてもらった同人であります。(さらに事情を知りたい方は詩人田中克己 回想と作品

四季社 田中克己編輯発行。

主な同人:浅野晃、矢野峰人、森亮、小高根太郎、藤沢桓夫、福地邦樹、江頭彦造、藤野一雄ほか


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