2002.12.2up /2008.11.05写真update Back

四季派の外縁を散歩する   第七回

名古屋の詩人達  その2  回想 詩人高木斐瑳雄 (未亡人のアルバムから)


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【はじめに】

 先日懇意の古本屋さんから、高木斐瑳雄に関する「重大な資料」が入ったといふ報せが入りました。駆けつけて見ると、それは綴じの壊れた一冊の古い“アルバム”でした。 一寸出処が信じられない、そしてゴミとして出されたとしか考へられない様子をみつめて、ただ呆然としてゐる私の手に、店主はにこやかに微笑むと「はい」とそれを手渡してくれました。 いな、“託されて”しまったのです。今はすでに亡き夫人の遺品、プライベートな交歓の日々も綴られてゐるアルバム。そして一緒に挟まれてゐた書簡とスケッチブック。 ここに至った伝来経緯に思ひを馳せれば、これはもう、以前私が彼の詩集をテキスト化した際に、 墓前報告をしようと菩提寺を探索して叶はなかったことに対する、霊界の詩人からの再度の合図であると確信するほかはないのでした。
 来年は詩人の著作権が開放される50年忌にあたります。著作権者を訪ねて伺った先でも詳しいことは「もうわからない」と帰され、今や歴史の忘却へ委ねられんとするひとりの戦前詩人の生き様を、 はたして私などがどこまでとりあげて供養できるものなのか。まさに“託された”としか言ひ様のない、詩集といふ質量を超えたこのアルバムの原質の"重み"が意味する処の責任を、 まざまざと感じてゐるところです。

 なほ、詩人仲間の集合写真については現在名前の特定に向けて調査中です。どうか詩人の名前を御教示頂ける向きには是非とも拙アドレスまで御一報いただけますと幸甚です。


【アルバムから】

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若き日の詩人と沙登夫人(大正初年頃)

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大正11年4月1日結婚。(詩人23歳 夫人20歳)

この年の7月に処女詩集「青い嵐」を刊行。
また、9月に春山行夫、井口蕉花、佐藤一英らと詩誌「青騎士」を創刊する。

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スケッチ スケッチ

スケッチブックより(左:大正11年7月29日付   右:大正12年1月1日付)

これらの絵は裏面に「KT」の署名入りで、スケッチブックには別に「Shinichi.T」サインのものも描き足されてゐる。
「KT」・・・或は詩集「哨吶(ちゃるめら)」を出版した実弟喜代治のものである可能性も否定できないが、
未亡人遺品の一つであるところから、斐瑳雄の作品としてここに紹介した。

いづれにせよ、彼の関係した中学大学がともにキリスト教を奉ずる学校であったことは、
人道主義を標榜するホイットマンを信奉する口語詩派との繋がりとともに再検討されるべき事柄であらう。

この年2月に青騎士同人を包括するかたちで「名古屋詩人連盟」を結成、
翌年刊行の第二詩集「昧爽の花」に向けて爆発的な作詩活動を開始した。
地方詩壇の嚆矢として当時の名古屋は、全国でも一等地を抜きん出た存在であった。
次々に上京をとげる詩友を見送るうちに、彼は名古屋に残らなくてはならない己の運命を甘受し、
また地方詩壇における自らの使命についても悟るやうになったものと思はれる。


【同時代の証言 1】 伴野憲 「高木斐瑳雄論 サロン・ド・ポエート」

新潮社がバックの日本詩話会が詩誌「日本詩人」を大正九年十月に創刊し、この中で先輩詩人たちがスクラムを組み、かつ群雄割拠の様相をもって、 親分顔をひけらかして子分を擁して闊歩するという、大変なときがあった。この堅塁に割り込むには叩頭するより他に手はなく、楯ついたが最後、黙殺というのだから恐い。 高木君は、そこの処不思議にすらすらと、大正十三年三月に会員の座に辷りこんでいた。もちろん、これは大正十一年に出した処女詩集「青い嵐」の実力がものを言ったのではあるが、 すこしの無理もない。むしろ彼にとって平坦な道であったとみてよい。続いて、翌年第二詩集「昧爽の花」(金子光晴装幀)を出し、彼の確固たる地歩は新人中の新人として、 馳に足が着いたようだった。それから七年後の昭和四年に第三詩集「天道祭」を出し、また近刊「黎明の林檎」を予定していたが、これは出なかった。作品的にみて彼の内容、形式、 レトリックなど、すべてはそれらの十年間の詩業の中へ奔流のように、猛烈な勢いで注入されてしまった感があり、それ以後は前の一大ピークを打ち立てたような探求も、 努力もなされなかった処に、彼の安易性と脱力のあったことは見逃せない事実のようだった。全身の意慾はあったにはあったが、もう作詩の上では、 作詩そのものが創造という意味では、たんなる意欲の引力では引連れていけない巨大な重量のものであるということには、彼としても相当な悩みがあったとも考えられる。 彼のながい間の名古屋詩壇への不断の貢献という面から眺めても、それは彼が自己をよく知り尽くした上での、自己そのものを名古屋詩壇のために、最も適切な形で、自然な状態をもって、 これこそが本然のものとの考慮によって、自己を投げ出したのではあるまいか。

詩の交友関係も過去四十年間、名古屋の詩人としては、だれよりも一番振幅が広かった。詩人の誰もが強い個性者であるのに、彼は寛容と広い度量で、だれとでも付き合った。 しかしながら彼との長い付き合いの間に、彼が詩友に対して一度だけ激怒したことを見たが、彼の対人交渉における真の誠実さの奥深いのを知り、そのとき、美しいまでの恐ろしさを感じた。


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松坂屋写真館にて(大正〜昭和初期)

昭和4年に第三詩集「天道祭」を刊行、
また名古屋に残った同士、野々部逸二、中山伸、伴野憲らとともに「東海詩集」1〜3集の編集に尽力した。

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薬種問屋「伊勢久商店」にて。(当時の建物は今も名古屋市東区大津通りに現存)
当家長男に生れた彼は、結局終生を名古屋から離れることはなかった。

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写真拡大(昭和10年代?)


沙登夫人の書簡1938

【沙登夫人の書簡 その1】

(封筒表面 消印名古屋13.11.26后4-8)
信州上林温泉上林ホテル桐七号 高木久一郎様 御もとに

(封筒裏面)
十一月廿六ゝ
名古屋市東区大津町一 高木さと子拝
 (鉛筆書きで)廿七日荷場到着 廿八日着信

(文面)
 いろいろ御心配かけました。今朝お手紙いただきありがたう御座いました。あの長い汽車中考へ考へ家へ七時頃つきました。御安心下さいまし。家へかへって もまだ汽車に乗ってゐるやうで大変つかれておりました。家はどうにかくらしてゐたやうです。ホーシャの會合が二十二日にあったそうで、座ふとんやら茶碗が わからず大忙しでした由、その後おできは如何ですか。
 こちらの暖かさにおどろきました。同じ内地でもこんなに気候がちがってゐるものかと不思議に思へます。
 昨日早速御注文のもの松坂やへまいりましたところ寸法が大変大きく書いてあってそんなのはない由、困ってとにかく目方を十七貫五匁と申してあふのを買っ てきました。(店員曰く、物指のない國へいってみえるのかとの事、思はずふき出しました。)
 家へかへって進之さんに相談しましたら、それではきれないだらうとの事に進之さんのお家へいってもらひジャンパーだけ買ってもらひました。大変安くして ゐたゞきました。十三円五十銭を十円五十銭にしてもらひました。
 ズボンはないそうで、進之さんの兄さんがみえまして貴方によくにた太り方の人で、これでははけないと申されましたので、また進之さんに松坂屋へ行っても らって一番大きいのとかへてもらひました。ですから柄等一定しかなくうつりがわるくお気に召しませぬか知りませぬが注文しなければいけませんそうでまあが まんして下さいまし。
 荷造りして客東で送りましたら客東は行きませんそうでもどってきましたので又小包で送りました。
 松坂やでは夜しか出せないと申しましたので家から出しました。でもあれこれしてゐましたので出荷が6時頃になりました。この手紙と一緒頃つくかと思って ゐます。
 今伊藤さんがみえましたけど丁度おひるで関戸さんがみえませんでしたので改めてもたして出すことにしました。百林と書いてくれと申してみえました。
 栄ちゃんから御礼の手紙がきてゐました。※一と太希、喜良から手紙がきてゐました。何か奥の方がごったがへしておりましたので、あとかたづけに大忙しでした。

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 昨晩伴野さんが見舞にきて下さいました。奥さんが又お里へかへってみえます由、何んですか妙な病気(にげ出したりかみそりを出したり首をつって死ぬとか 云ふ)、今まで私共に内密にしてみえたそうですけどいままで三度里へかへした原因が前のやうな事でした由、これは誰にも話してくれるなとの事でした。お話 きいて皆様がお気の毒でしやうがありませんでした。
 汽車中京都の帝大の外科の助教授といふ人とその奥さんとかと一緒に乗り合せ、いろいろお話をうかゞって一寸気楽にふるまへずつかれましたけど、千種まで きました。名刺をいただきましたので貴方の名刺をもってゐたので私も出しました。その人の名前は大澤達といふ人でした。
 すじむかひに夫婦連れか何んですか大変仲のよい人がのられあてられました。今元様がみえましたのでアンゴラ兔の申込書をとゞける事にしました。
 どうぞお大切に遊ばして早く直って下さいまし。もう一度行きたく思ひますけど思ひにまかせません。
 栄ちゃんの時の寫眞が出来てきました。お目にかけたいけどかへられるまで楽んでゐて下さい。ではお大切に。
 溝口さんによろしく、それからお春さんにも皆さんによろしく。私は元気です。安心してゆっくり養生をして下さいまし。
                 では又 さと子

                           

(解説)
三好達治に私淑したものでもあらうか、「おでき(痔疾?)」療養のために態々遠路信州上林温泉の逗留に及んだ詩人を、見舞に訪れた夫人の帰郷後の第一信である。
詩人の胖大漢は夙に有名であった。彼が場所を違へて「四季派」にあったなら、素質として丸山薫やむしろ津村信夫にかよふ詩風を育て上げたかも知れない。そ のやうに温厚で、こだわりのない育ちの良さが詩のモチベーションとして大正口語詩界に場所を得たのは、ひとへに伉儷沙登夫人との、子供は育たなかったもの の、否それ故に睦まじくも純粋な愛情に満ちた「陽だまりの生活」のおかげであったのだらうと、私には思はれる。


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姪御さんたちと?(昭和10年代?)

丸栄写真館にて

丸栄写真館にて(昭和17年?)

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くつろぎのスナップ(昭和20年代?)

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(昭和20年代?)

詩人は店舗裏の自宅が戦災に遭ったのを契機に昭和20年11月、夫人とともに、
「愛知県丹羽郡大口村大字小口野田野山28」に居を移し、家業の一線から退いた出勤生活を始めた。
当時の野田野山は草深い田舎であった。戦争からの開放と相俟って彼の詩心は再び目覚め、
遺稿詩集「寒ざらし」にまとめられる抑制の利いた抒情詩が、閑雅な田園生活からつむぎ出されることとなる。

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昭和27年、愛知県警察学校校歌選定にあたった。12月の式典にて


【同時代の証言 2】 杉浦盛雄 「名古屋地方詩史」1968

 生前彼が名鉄犬山線柏森駅への通勤道を自転車で走った。冬枯れた寒い村の小径が、葉を落して寒々とひろがった桑畑家の中をまがりくねっていた。 雑木林を抜け、田ん圃道を通り、小さい橋を渡って、狭い桑畑を抜けると、林の中に一軒だけの家がある。それが彼の家だ。伊勢湾台風で、太い松や檜の深い繁みをもぎとられた家は、 素肌にされて、広い雑木林の中にかくれていた。戦前まで<野田野山>といわれ、土地の人は、この森は狐の棲家といって敬遠していた。そんな場所に<高木邸>があることなど、 村の人以外は知らなかった。秋は早く虫の音が家を包んだ。晩秋の紅葉は遅く、夏は涼しい狐界の仙境だった。華麗な都市にあった彼が、名古屋の家が戦災に焼かれた機会を、 どうしてこのような不便な田舎の森に永住の地を選んだのか。詩人としての彼は、早くからこのような心境と環境を好んでいた。

 彼は20代から「森の野鳩」※を恋い、晩年森の住者を実現したのだ。「名古屋にいる時も暇さえあればどことなく田舎へ出て道を歩いていました。混みあう街が嫌いでしたね。 静かな孤独と瞑想を愛していました。」と、沙登未亡人はいった。(※「青い嵐」所載「雨に濡れて歌える野鳩」)

 体躯肥満。色白の豊頬にいつも微笑をたたえ、円満中正で人の面倒をみることが好きで、若い詩人の育成に専心した彼の業績は大きかった。
 私は彼の突発的な発病を村の診療所に見舞った。苦しい急迫した寝台の上の熱い顔に手をあてた。長く伸びたヒゲがこわく手にふれ、私は涙がでてどうしようもなかった。 その翌日、棺に入った彼に寄りそって中山伸、伴野憲と私たちは隣町の布袋火葬場へ彼を送った。森の小径を埋めて、萩が咲みだれていた。


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