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四季派の外縁を散歩する   第22回

東北の抒情詩人一戸謙三  モダニズム詩篇からの転身をめぐって

 引き続き津軽の抒情詩人一戸謙三(いちのへけんぞう1899−1979年)の御令孫の晃氏より『詩人一戸謙三の軌跡』第三集の御寄贈に与りました。

 『詩人一戸謙三の軌跡』 第三集

第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩  33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生  43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年〜9年  67-129p
あとがき 129-133p

p1

      編著発行者 一戸晃(青森県つがる市木造野宮50-11)非売品

 詩人としてピークを示した「椎の木」同人時代の前後を押さへた章立てですが、前半は詩篇紹介を中心に、その意義については故坂口昌明氏による簡にして要を得たコメントに譲り、編著者には専ら地元プロレタリア陣営との論争事情についてが、おなじみの創作会話スタイルで説かれてあり、津軽弁なので読みにくいところもありますが、時系列のやりとり一覧など、資料的側面とともに貴重です。
 私もモダニズム音痴にかけては譲りませんから、詩篇の解析などはするつもりもありません。ここはやはり当時の詩人自らによる解説と、そして今回の冊子の目玉とも いふべき後半の「日記抄」とによって、当時の消息を窺ふのが一番です。

 地元プロレタリア陣営との論争は、同人誌「座標」「椎の木」の時代を経ての後、対モダニズムから対地方詩に舞台を変へてからも続けられていった筈ですが、敵陣とのやりとりは、中央詩壇および所属した「椎の木」の有力同人達との交流も少なかったこの詩人の場合、生涯を物語として眺めた際の、数少ない刺激ある一幕になったかとは思はれ、その転身に対しての反応とともに、方言による討論をもっと弾ませてよかったかもしれません。

 その後、ライバルたちは当局に潰滅せられ、今度は師である福士幸次郎の国粋主義からの勧誘に対して、詩人は抗しつつも師弟の礼は守りつづける、といふ微妙な立ち位置を強いられることになる訳ですが、さらに遡ればこの第三集の前史、抒情詩からモダニズムに移行する際にも、詩人にはやはり同様の、変態に至る蛹の時代があった筈であり、私などはそのあたりの消息も知りたく思ったことでした。

 とまれこの時期、詩人としての力量を存分に示した詩人一戸謙三については、圧倒的な語彙の連想とポエジーの奔出とを目の当たりにするにつけ、内容を厳選して出された戦後の総括詩集『歴年』の前半部が、(坂口氏がかつて慨嘆したごとく大正期の純情詩篇をも含めた陣容で)このとき椎の木社から然るべき用紙と装釘とを伴って出版されてゐたとしたら・・・とは、いつもながら思ふところです。「椎の木」の有力同人達との交流が少なかったと書きましたが、

昭和8年11月14日
「高祖保氏から激励のハガキを受けとる。葉書で返事を書こうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立っているような気がする。この辺で詩集を出せたらと思う。」日記より

どうして詩人も、区切りをつける意味で詩集出版については一応は考へてゐたのですね。また、

昭和8年11月17日
「椎の木へ詩を送ることにした。高祖保の力づけにもよる。今度は素直にして書いて行こう。なるべく僚友とは馴れることだ。」日記より

 私には『詩鈔』に採られた「椎の木」掲載のモダニズム錯乱詩篇より「座標」に発表されたモダニズム抒情詩篇(坂口氏は「日本的シュルレアリスムと称されてゐる」)の方が、知的抒情詩を特色とした雑誌「椎の木」に相応しい結晶度を示したもののやうに思はれ、むしろその後は円熟の詩境から煮詰まって、袋小路へと落ち込んで行ったやうな印象さへ受けるのですが、かうした詩境昏迷の時期に同郷の「椎の木」同人、 草飼稔から献呈された歌集『喪しみの詩片』に対する反応が薄いものとなったことは(昭和8年6月4日) 残念でなりません。
 生前、詩集に収められることのなかった当時の散文詩が掲げられてゐますが、「朔」160号で紹介されたものも含め、坂口氏が「詩人の全作品を通じ、最高のピークと 称して憚らない出来ばえ」と口を極めて絶賛されたこの時期の作品をすべて本稿の最後に再掲してみましたのでご覧ください。アンソロジー『歴年』の章立てでは「月日」の章の時期にあたるものです。

 さても高祖保による力づけとは、どんな内容だったんでしょうね。それがもう少し早く、近くで行はれてゐたら、或ひは自分と同類の知的抒情詩人の匂ひを嗅ぎとった高祖保に対して、はっきりシンパシーの意思表示をしてゐたら・・・時すでに遅しといふべきですが、“地方詩に向はなかった一戸謙三”の姿を、ちょっと想像したくもなるところであります。

「私はこのころ(昭和7年)から『椎の木』を通じてひろく全国各地方の人々へも作品を示し得る機会を得た。(中略) 私は此処に(※『日本詩人』以来)再び中央的に──たとへそれは一同人誌上ではあったが──乗り出し得る機会を得たのではあるが、詩を常に魂の問題として受け取る私は、『椎の木』派のモダン詩人の中にあって、その派とは全く主張を異にするようなものへと私の作品を展開せしめて行くよりは仕方なかったのである。」「閲歴─詩作十五年─」(弘前新聞 昭和10年1月12日)

昭和9年4月13日
「今日でようやく詩稿を整理してしまった。こうして見ると大した仕事も私はやっていない。仕事は、むしろこれからのような気がする。もう詩は、まったく書かないことにする。これからいよいよ小説の世界へと入って 行こうと思う。」日記より

 しかし詩人は結局小説ではなく、ふたたび詩に、それも「椎の木」の詩人たちとは「全く主張を異にするような」津軽方言詩といふ新たな着地点を見出すことになるのですが、この転身の過程、つまり蛹の時代の日記に並んで居るのが、『ギリシア神話』から始まり『古事記』、『日本書紀』、『祝詞考』、折口信夫の『古代研究』、『万葉集』、『日本巫女史』、『東北の土俗』、『日本民俗学論考』といった、神話伝統系〜民俗学系の書目であることには瞠目せざるを得ませんでした。
 正直のところ祝詞まで挙がってゐたのは私には意外であり、後年大東亜戦争時代の「時局便乗派」の操觚者連とはもちろん動機は違ふのですが、 日本主義を先取りした形でモダニズムからの転身を図り、独りもがいてゐた事実に、私は、プロレタリア詩はもとより左傾先鋭化していったその後のモダニズムにも、やはり心の底からは身を投じつくすことはできなかった抒情詩人としての実直さを感得した次第です。

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 けだし詩人が摸索した方角には、土着民俗学へ向かふ方向と神話民族学へ向かふ方向と2つの選択肢があったと思ふのですが、詩人は先に神話へ手探りを入れ、それまでの「個人的文壇史」と決別する意味での「大祓」の儀式を祝詞から摂取したのみにて旋回し、以降は民俗学の方角へのめりこんでいった模様です。地方主義文学といふ手堅い地歩から一転、神話民族学へと勇躍して行った師の福士幸次郎とはすれ違ひになった格好であり、資質の違 ひがあったとはいへ、後年評価の明暗を分ける結果にもなったのでした。

 尤も本冊第十一篇には、昭和15年時点で当時を振り返った一文が載せられてゐます。つまり日米開戦が始まる前に書かれた述懐ですが、曰く、昭和8年「それまでの錯乱の散文詩時代を大祓」する意味で作品「祓:はらへ」を書き、「古神道の中心をなす祝詞を真正面へと持ち出した」のだと立言する姿には、しかし当時のトレンドに対する先見之明を若干誇る気味も感じられないではない(かうして自らエポックを位置付けながら閲歴を重ねてゆく姿勢が、坂口氏をして一戸謙三を自覚的詩人と称せられた所以です)。
 で、この詩学のさきにはそれこそ『コギト』や『日本浪曼派』のグループがひらく世界が待ち構へてゐた筈なんですが・・・これも高祖保の場合と同じく、詩人の住居が東北にあらず、或ひは地元の後輩世代に(左翼壊滅期に育った)インテリ詩人が居て、下から意見を求められていったらどうなってゐたんでしょうね。
 戦時中(また戦後も)ガサツな世相に対しては口をつぐみ通した詩人ではありましたが、そんなことまで想像させた、意気軒昂な時代の分岐点における、大変スリリングな詩人の蛹時代の消息を覗き見たやうにも思はれたことでした。


○    詩人一戸謙三の散文詩 『一戸謙三詩集』および『歴年』に所載の「月日」の章(昭和4年12月〜昭和7年5月)より

  妹と鴉 (詩集収録時に「鴉」に改題)

 珈琲を啜らうとして皿を取りあげると、 細長い鏡のなかに妹が華奢な襦袢をひらきながら立ってゐる。
 何処へ行くのか。私は振り向いた。柱時計がとまってゐる。「 ミオ!…… 」目を閉ぢると仄かな声が耳もとで応へた。
 屋根裏の室はもう薄暗い。高く幽かなガラス窓に枯れ枝と新月が映ってゐる。わたしは坐った。それから、ひとりであることの否定について考へふかくして見た。 鴉が、皺がれた声で啼きしぶってゐる……
                                          「座標」 昭和5年6月号

  故い家 (詩集収録時に「古い鏡台」に改題)

 花柏(さわら)垣を折れると冠木門が立ってゐた。敷石路は下駄に音立てない。玄関には影が充ちて杉板が割れてゐる。何時しか私は座敷に坐ってゐた。欄間から枝が出てゐる。
 そしてそれは榲桲(まるめろ)の花をつけてゐた。 私は傾いた畳から畳を歩きまはる。鏡台の中に妻が寂しく囚れてゐた。私は眼を閉ぢる。
 雨戸に雨が降リ出した。そして座敷の中にも、幽かに。私は長い廊下を暗く歩いた。座敷が幾つも続いてゐる。その終りの障子を開けた。欄間から枝が出てゐる。榲桲の花をつけてゐる。しかし、鏡台の中には妻がもうゐなかった。 空虚(から)な床の間を背にして私が蹲ってゐる。
 私は冠木門の前に立っていた。見上げると蝕んだ私の名札がある。私はそれを後にして帰る。花柏垣を折れると秋の淡い空があった。川原には石竹の花が咲いてゐる。私は永い間タ映を眺めてゐた。
                                           「維の木」第九冊、 昭和7年9月

  月日

 鴨居に影が折れ曲って誰かが室を出て行った。柱暦をめくつた指は、妻よ、お前のではない。またわたしのでもない。お前は畳の上に打伏しになって──泣いてゐるのか。
 わたしとお前との間から誰が出て行ったのだらう。わたしは立ちあがる。そして障子を開ける。廊下に幽かな跫音がしてゐる。それは月日を散らす、わたしから、そして、お前から。
 わたしはお前を愛してゐた。秋の薄日が額を照らすやうに。今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。古びた襖と空しい机と。それらがお前の姿を透かして傾き沈みはじめる 。
                                          詩集『歴年』および『一戸謙三詩集』に所載

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  別れ

 わたしの列車は幽かに浮みはじめた。歩廊で、手をあげたまま妻は次第に褪色する。わたしの顔に信号柱(シグナル)が倒れる。白い煙はたちまちアカシヤの林を蝕んでしまふ。
 それが別れであった。わたしは硬い座席で地図をひろげる。そして、青い洋(うみ)を見つめる。いつしか夕焼が染めてゐた、窓硝子を、網棚の麦藁帽子を。
わたしは立ちあがる。誰もゐない車室を横切る。もう淡暗い。曇った鏡、折れ曲ったわたしのネクタイ。やがてわたしは、鏡のなかに歩み入って咳をする。
                                          詩集『歴年』および『一戸謙三詩集』に所載

  花火の下で

 闇の空に花火が碧玉(エメラルド)を砕いて巨きな傘となった。屋形舟の艫で櫓綱にからまりながら銀杏返しの女が横になってゐる。男の麦藁帽は川に浮んでながれて枯れ葦のなかに消えてしまった。手を水にひたして考へこんでゐると、その指先に女の髪の毛が巣のやうになってひっかかった……
 男は女を抱きしめてゐると思ふ。しかし、そこには岐阜提燈が墜落(お)ちて燃えてゐるだけである。あの女は存在してゐたのであらうか。冷たかったものは彼女の歯の味であったのか──この疑問は突然わたしに女の鱗模様の浴衣を憶ひ出させたのである。
                                          「座標」昭和5年6月号

  私の写真

 鴨が蘆の洲から飛び去った。私は玩具を落して探してゐた、柱につかまリながら。私は五才であった、しかしまだ歩けなかった。
 秋の陽が縁側に鳥影を落してゐた。母は琴を弾いてゐた。その爪が赤かった……
 恐ろしい叫びごゑが私の身を包んだ。私は敷石の上に落ちたのである。血が滾々と麦門冬(りゅうのひげ)の闇を染めていった。
 仏壇に新しい戒名が加へられた。丸々とした私の顔がその傍らの写真の中にある。だから、今日もまた笑窪をやさしくつくって母を慰めてやるのである。
                                          「座標」 昭和5年6月号

  旅と叔母

 明日は旅だ。その支度をするために峰の小舎へ行く。しかし蜜蜂は少しもなかった。僕は叔母にそのことを告げる。すると彼女は仄かに笑った。玻璃窓の鳥影を数へながら、明日は旅だ。赤い時間表の下で僕は銀の時計をしらべる。  毛皮の帽子をかむって見る。シャボンで手を洗ふ。さて今日となる。蔦で縁とられた鎧扉をひらいて叔母は手巾(ハンカチ)を振ってゐる。僕は敷石道から決然として馬車に乗りこんだ。やがて、花ざかリのアカシヤの林から馬車は落葉松の林へと走り入った。玫瑰(はまなす)で綴られた砂山の間に潟が死んでゐる。
                                          「座標」 昭和5年8月号

  日曜の雨

 雨に汚れた硝子窓、その窓べに臙脂色の洋傘を忘れて行ったのは誰であらう。螺旋形の階段をめぐりながら僕は降りてゆく。洋傘、それは彼女に届けねばならぬ。図書館はもうおしまひだ。僕は秋の雨の中を鈴懸の肌をいとほしみながら帰ってゆこう。では彼女は何処にゐるか。だがそれにしても何とつれない日曜の終りであらう。さうだ、彼女は加特力(カトリック)の教会堂に行ってゐるのだ。坂の上に立ちあがる灰色の影(シルエット)、真鍮の把手が光ってゐる。蛇の目の傘をひろげると出口が混み合ってゐた。そして、そのおちぶれた群のなかに僕の黒いソフト帽が小さく動いてゐる。
                                          「座標」 昭和5年8月号

  妻

 五月の空と若楓のなかにぶらんこが揺れてゐた。少年は帽子の庇を深くして吐息をついてゐた。少女の脚が過ぎてゆくたびごとに。古い濠の水面の風船玉を緋鯉が食べようとしてゐた。
 私は妻に云って見る、脚を出してごらんと。妻はあたりまへに怒って見せた。そこで窓枠に腰かけて私は煙草の煙の中へと浮んだのである。
                                          「座標」昭和5年10月号

  秋の日記

 また曙が青白く硝子窓を訪れるときになった。枕のしたで蟋蟀(こおろぎ)が啼いてゐる。夜具はこんなに重いものであったらうか。娘は日記を憶ひ出してゐる。(ひとつひとつ淋しいこと云はれて、曇天のベンチに坐ってゐると、落葉はあたしの下駄の緒よりも紅かった。)
                                          「座標」 昭和5年10月号

  桐の花と遺書

 桐の花が散ってゐた。そのなかに叔母が立ってゐた。叔母の丸留の赤い手絡(てがら)がはればれしかった。しかし叔母の頬には涙が滴ってゐた。白鳥が六月の空をわたってゐた。
 私は、金蒔絵の手匣のなかに叔母の遺書を見つけた。遺書は濡れてしまってゐる。二十年、その中に巣にゐる小鳥のやうにこもり、それはもう死んでゐた。
 新しい私の妻は丸髷を結った。赤い手絡が六月の空に匂ふた。さうして桐の花が散ってゐるところへ歩み入った。私は沈んだこころで見まもってゐた。
 二十年、私の娘がまたも桐の花が散ってゐるところを歩んでゐるのを見る。私の頬には涙が滴った。しかし娘は口紅をほころばして微笑してゐた。
 古びた金蒔絵の手匣のなかに、忘れられた三つの遺書がある。
                                          「青森県教育」 昭和6年8月号


【資料再掲】 (2016.05.03 up)


閲歴   ――詩作15年――

                 一戸謙三    (弘前新聞 昭和10年1月12日)

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憶へば青春の扉口、19歳の時であった。私の心臓は忽然とした父の死によって虚無を刻みつけられてしまった。そしてそれに続く流離の相は、若き私をして人生の目的は死以外の何物でもないことを断案せしめたのである。
私は『月に吠える(註1)』を繊弱なる涙とともに読み耿[耽]り。憂鬱なる日々に蝕まれるばかりであった。だが私は何時しかにその羽虫のやうな生活にも生きてありたい。 何かを信じて生きてありたいと模索し始めた。――かくて私は『詩を得たと告げる』

(註1) 萩原朔太郎著の詩集、それを私は如何に愛読したことであったらう。そしてその憂鬱なる幻想は即ちそのころの私の生活でもあった

かつて私は右のやうな感想(註2)を書いたことがあるが、即ち私は詩を詩そのものとして求めて行ったのではなく、 魂の問題として私を圧迫する虚無と不安を克服するために詩を選んだのであった。それ故にそれは必ずしも詩でなくともよろしかった筈である。 詩の代はりに例へば酒や女または政治や宗教などを私は見出したかも知れなかった。そして『これは全世界を失って、その人の霊魂を獲得したものの問題である(註3)』と思ってゐたが、 今にして考へて見れば、それは克服といふよりは詩によって酔はん(註4)と欲したのかも知れない。

(註2)第2次『北』に発表した感想『隻眼片語』の一節。
(註3)アアサア、シモンズ著『文学上に於ける象徴派の運動』のジエラル、ネルヴアルの項にある言葉。
(註4)シヤルル、ボドレエルの散文詩『酔へ』。

それはとにかくとして私の、詩への果てしない追及は、かくて出発したのである。

『哀しき魚はゆめみる(15章)』(註5)の浪漫的な夢は凝って、葦のやうな睫にかこまれた眼の人への『贈り物』を。月の光もて織りなすやうにして作ったが、 その現実的な夢は忽ち破れ去って『願ひ(9篇)』となった。こうして夢を現実の上に展かうとした私は、此の度に更に強烈な夢をもって現実を『炎の塔(12篇)』のやうに彩らうとし始める。

(註5)『哀しき魚はゆめみる(15章)』とは、そのやうに題した私の謄写版の小詩集の題名。以下『○』のついてゐるのは将来もし公刊されるならば私の詩集の小見出しとなるもの、 大体同じ傾向をまとめてゐる。その下に何篇または何章と付いてゐないのは単独の詩の題名。

それは大正8年から大正11年の頃までであった。萩原朔太郎、室生犀星やアルベエルサマン、イエーツ、またポオルフオル、エミイル、ヴフルハアレン、 佐藤惣之助なぞが雑然として私の作品の上に影響を及ぼしている。

その頃、ふとした機会(註6)にジヤン、ニコラ、アルテコウルランボオの作品に触れて、初めて詩とは何物であるかを天啓のやうに悟つたのである。 そして私は故郷の風景や追憶を絵のやうに描くことを始めた。即ちランボオからルコント、ド、リルやホセマリヤ、エレデヤのパルナシオンの方法へと逆行したわけである。 しかしこのやうな外光と色彩の世界から一歩転じて内部の世界へ沈めば、寂寥と孤独のみであった。『水松の下に』私は、すでにわたしの頁はとざされたと歎き秋空に別れてゆく雲を数へ、 籠のカナリヤよりも佗しく私の『老』を見つめるのではあった。

(註6)大正11年の晩秋の某日だと思ふ。当時東京に在住してゐた私は福士幸次郎氏を訪ねた時に犀東日路士氏の訳になるものを教示さる。

以上のやうな経過は大正11年から大正15年頃まで続いて『春と秋(69篇)』を成してゐる。

すでに私は貧しいながらも結婚をし、やがて父とはなつてゐたのであるけれども、かつて全世界を失つて得たと思つた私の魂はこのやうに物淋しいものであつた。 不安と焦躁と虚無は人生の下積みとなり困苦と欠乏との生活の割れ目から痺気のやうに立ち昇り酔ひ覚めの私を再び悩ますやうになる。

私の詩の路は、そこで突然に急回転する。現実からの逃亡と夢の再建設が始まる。超現実派時代である。

私はこの地方に於ける超現実派の主将でもあるかのやうに祭り上げられたのは此の時代であるが、 それは県文壇の全面を蚕食してゐたプロ派に相対して芸術派の孤塁(註7)を守るために立ち上がつた為にそう見えたのにとどまり、私の超現実派としての作品は少ない。 長短取りまぜた『薔薇戦争(25篇)』しかないのである。『夢のコレクシオン(6篇)』を境として私はむしろ『散文詩(31篇)』に於いて私的小説への展開を心がけ、 またその方が私としてスコル、レアリスムの詩よりも好ましくもあり身にもついてゐたと思つてゐる。それは昭和5、6年頃から断続して昨年度の『白い虹』『故い家』『祖父の譜』等にまで脈をひいてゐるのだ。

(註7)私らは当時のプロ派の主張によるとすでに没落してゐる筈であつた。県文壇の殆ど全面的な支持の下にプロ派文芸が盛んであつたが、 私ら詩人だけはこれに逆襲したのである。僅か数年前のことであるがまことに今昔の感に堪へない。私ら芸術派はこのやうに未だ没落してゐない。 従つてプロ派は私らを克服し得なかつたことが今にして明瞭である。然らばプロ派が没落したのであるか、否、彼らは没落はしない、転向したのである。

一方純粋なる詩はピエエル・ルヴエルデイあたりの影響からして『夜々(10篇)』をなしてゐる。 超現実的に新鮮な美しい夢の建設を企図して見たものの再び私の内部へと沈潜して見ればなほも消えやらぬ蒼白なる死の紋章をそこに見出すのであつた。

或る未明に枕をそば立ててガラス窓に流れる水のやうな光を凝視しながら天地寂とした唯中に一点わづかに息づいてゐる私の魂を眺め、 死の刈鎌の幻影をまざまざとその上に見て胸の底から涙がにじんで来るやうな気がしたのを今でも覚えてゐる。 それは十数年前に私の胸に深く刻み印された虚無の観念が燐火のやうにまたも幽かに燃え上がるためであつたらう。

私はこのころから『椎の木』を通じてひろく全国各地方の人々へも作品を示し得る機会を得た。 すでに大正12年の3月には『日本詩人』の舞台に福士幸次郎氏の推薦によつて立たされたのではあつたが、 詩人としての自信もなく且つ心身全くの衰弱時代であつたために福士氏の兎角の好意を無にして地方に埋没してしまつた私は此処に再び中央的に――たとへばそれは一同人誌上ではあつたが ――乗り出し得る機会を得たのではあるが詩を常に魂の問題として受けとる私は『椎の木』派のモダン詩人の中にあつてその派とは全く主張を異にするやうなものへと私の作品を展開せしめて行くよりは仕方なかつたのである。

昭和7年秋、私は従来までの生活へ『別辞』を宣し、錯乱してゆく乱酔した私の魂の解析へ測鉛を下し始めたのである。 そうして私の運命は『悖星の座』にあると観じ、 『街』にあつては私を錯誤の壁に嵌めこまれた煉瓦であるとなし『途上』には深夜の太陽と、悲愁の書を見るのみ。秋は『破局』となり『冬』は私の胸に天の歯型を刻み、 女人は即ち一個の『窩』に過ぎなく思はれ、そして狂へる十三時、酒場の『悪の門』から呪はれた偶像のやうに転落する幻覚を感じた。私の生は闇黒を過ぎてやく鉄の鎖のごとく、 見わたす人生は転変する賭博盤に過ぎない。悪と云ひ、罪と云ひ、また善と云ひ徳と云ふ。すべてはその盤上に播き散らされる賭金ではないか…。

『悪の門(24篇)』を貫いて叫ばれてるのは、かう云ふ昏迷と絶望の声である。それは地獄の季節(註8)に立ち上がる牙のある肖像(註9)であつた。

(註8)アルテユウル、ランボオの散文詩集、私はランボオによつて詩が分かり、ランボオにより過去の詩へと別れたのである。
(註9)逸見猶吉の散文詩(『文学』第一輻所載)このころの私の詩には彼の影響がみられる。

しかし乍らこのやうな過度の緊張は人の魂を『破綻』せしめ『風化』さして了ふ。私は是の如き生活に『跋』を■くなつた。『東』をのぞみ■々の国を何時となく憶ふ人間となり、 さうして私は再び私の『巣』へ帰つて来る…。

同時にまたこのやうな昏乱した私の魂に秩序を暗示してゐるのが、私を囲繞する環境から幽かながらも輝いて来てゐるのでもあつた。

『虚無そのものは、かつての私の柔らかい皮膚を戦がしめたやうに現在の私をば脅かすことはなくなつた。生命の消失は燭火と一般にして、何らの異象とは私の目に映らぬ。 そして私の個体の死滅はあつても第二の私として子がある。それと同時に私の父の死は私によつて尚も生かされつつある。人生の網の目を私は徐々として理解し得た。』(註10)

(註10) 前の(註2)と同じく『北』所載の感想から。

此の人生の網の目をなほもよく探求するために私は素朴な心に立ち返り直りたいと念願するやうになつた。

十数年の詩生活を一年に圧縮したやうな昭和7年の秋から約2年ばかりの月を後にし、かくて『林の序』を書いた。 私の『所有』はどんなものであつたかを謙虚な態度でしらべて見ようと思ひ立ち、私は『舟』のやうにわれわれの魂の故郷である村の生活へと、土の匂ひへと帰って行き、 やうやく神(註11)と云ふことを静かに考へて見るやうになり、そして『林の序(13章)』が編まれていったのである。

(註11)『林の序(13章)』に私は神と云ふ言葉をしばしば使つてゐる。但しもとよりそれはキリスト教の神ではない。如何なる神か。 私は今後神についてエツセイを別に草することがあると思ふ。

此の人生の網の目を結び合せて人間を生物の最上に立たせ悠遠なる古代から現在までわれわれを生かして来たものは果たしてなんであらうか。 私はあのやうに苦しみ悩んで来はしたが、畢竟はその網の目の単なる一個の結び目に過ぎない私の魂であつたと思ひ極め得た時に、 モリス・バレスがかつてその自我を深く究めんが為に自由人として凡ゆる感覚刺戟を受け入れると共にこれを解剖していつたが、その結果として徒らに狂激と疲労とのみを得、 かくて『ペレニスの園』を経て『根こぎにされた人々』を展開せしめたことを思ひ出したのである。

私の魂の型は小さくその苦悩は薄弱であつたと云へども結局は根こぎにされたる一人であつたのに過ぎなかつたのである。 とすればバレスの教理に従ひよろしく私にその根へと魂を結びつけるべきである。

その根は何処にありや、云ふまでもない土の中にある。土の匂ひを感じわれわれの魂の故郷なる村の生活を民間伝承学にたよつて、 すでに摸索し始めてゐた私は此処に遠くモリス・バレスの思想へと触れ始めてゐるのを明らかに確かめ得た。

そこで私は過去の詩作生活に別れて新しい道へと出て行くために『祓』(註12)を東奥日報紙上に発表し、(人にはとにかくとして)私への宣言としたのである。 かうして私は個人主義時代を離脱しわれわれの環境と伝統とに生かされてゐるものとして私の魂を考察し、且つそのやうな自覚から地方生活を新しい関心を以て再検討してその秩序を回復し、 且つそれに意義と内容を与へる(註13)ことを思ひ立つやうになつた。

かくて私は津軽方言詩(註14)への起点に決然として立つたのである。

(註12)『祓』については本紙にその解案を発表したから御覧になつた方もあらうと思ふ。あれを東奥日報に載せる際にそこの職工が活字をひろふに弱つたと云ふ。 日本の思想の中心をなす祝詞の神々の名や言葉が、日本の新聞社の工場でハバゲられると云ふことは考へてみれば少々変な話ではある。
(註13)これ即ちバレスの思想を日本的に展開した福士幸次郎氏の地方主義思想の一端である。私がバレスの思想に触れ得たのは、主として福士氏の影響であつたことは云ふまでもない。
(註14)私の方言詩の主張は、福士幸次郎氏や佐藤一英氏らの唱導している地方主義文学論に拠つて居り、昭和8年8月に『方言詩小論』を本紙上に、昭和9年12月に『詩と地方語』を東奥日報紙上に発表。


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