(2016.03.30up / 2016.05.03update)Back

四季派の外縁を散歩する   第21回

東北の抒情詩人一戸謙三  『自撰詩集』未収録の詩篇をめぐって

 このたび津軽の抒情詩人一戸謙三(いちのへけんぞう1899−1979年)の御令孫の晃氏より、 文学資料を紹介する雑誌『玲』別冊として、詩人の戦時中の作品を掲載した『戦時下の一詩人』をお送りいただきました(2016.2.20発行A4,23p)。詩篇がもつ調べにおどろき、 感想を認めてお送りしたところ、続いて昭和40年に刊行された『一戸謙三詩集』の御寄贈にも与りました(ありがたうございました)。 ところがこの、作者による自撰詩集ですが、戦時中の作品は一編も収められてゐないのです。いったいどういふことなのか“再び”不審に感じました。

 “再び”といふのは今から10年前、やはり青森県の詩誌『朔』の特輯号(155-160号)において、故坂口昌明氏が紹介された一戸謙三の初期の詩編群もまた、 作者の自撰詩集から同様の「仕打ち」を蒙ってゐたからです。坂口氏が詩人の為に嘆かれた不可解な選定基準について私もまた不思議に思ったことでした。 そして坂口氏同様、憶測の域を出ませんが、時代とともに変遷や実験を繰り返した「詩のスタイル」と、にも拘らず一貫した「詩人のアイデンティティ」と、 二者が自作評価にどう反映されたのかを、晃氏の許可を得て今回は戦中の作品群を覧ながら、詩人自身は交はることのなかった同時代の「四季派」的視点から、すこし眺めてみたいと思ひました。

一戸謙三の身辺雑詩 抄出 (『戦時下の一詩人』より)

「昭和十六年八月に中央の詩人たちは各地方の詩人たちをも会員として大日本詩人協会を結成して愛国詩を作り、翌年には日本文学報国会に合同した。 私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中の福士幸次郎先生は「そう言うもんじゃないよ」と、入会書を自分で認めて出してくれた。
しかし、私は戦争協力しなんぞ書くのは、どうしても嫌だつたので、発表するあてもなく、また発表されないような身辺雑詩ばかりを、この後四年間の戦争中に書いていたのである。」

                 「雑詩抄(1)」(週刊「暮らしのジャーナル」東北経済新聞社(弘前市) 昭和49年4月14日より)

 さびしい風

北の障子窓に寄せて
机が置かれてあつた、
何かを待つために。

主人の髪は、
すこし白くなつた。
本もあまり読まなくなつた。

窓を開けると、
トタン屋根と銀杏の樹とが見え、
それから曇つた空も。

古びた机に頬杖をついている
主人の額に、
さびしい風が吹いて来る……

これが待ったものであるか
――と、
刻み煙草のけむりを、
主人は、
吐き出しながらさう思つた。

――十八年経つたのである。※       16.8.4

                  ※農商務省を退職して帰郷した大正十二年から

 二つのガラス壷

ガラス壷に、
紫陽花が挿してある。
それは細君が、村の実家から
汽車で持つて来たのだ。

ガラス壷に、
小さな鮒が泳いでゐる。
それは生徒が、
薬缶に入れて教室に
持つて来たのだ。

花の壷は、
海苔が
魚の壷は、
飴が入つてゐたものである。

二つの壷を机に置いて、
先生の夏休みが始まつた。
刻み煙草をのんでは、
それらを眺めて。       16.8.10

鮒の死

水草を取つて来る、
と言ってゐるうちに鮒は死んだ、
ガラス壷のなかで。

小さな姿で、
かわいらしく泳いでゐたのが、
今朝、浮いてゐた、
白い腹を出して。

串に刺してあぶつて、
食つてみたが
そして、そのまま忘れてしまつた。……       16.8.16

夜汽車

汽車がとまると、
屋根のない
プラットホームであった。
降りるひとはない、
じつに暗い夜だ。
向うに小さな駅があり、
二三人の駅員が、
明るいひかりの中で、
仕事をしてゐる。

汽車の音が闇を
切りひらいて
そしてしづかに
汽車は動き出す。
窓から、もう駅は見えない。
灯がひとつ、ぽつんと、
それもたちまち消えて、
真暗になつた。       16.8.24

 丘

松の林の
枯れ草に坐れば、
はるか下の、静かに光る
池の周りに、
笹が乱れてゐる。

――今月の木炭代は、
どうしたら、
などと考へたとて、
しかし、空は青く澄んで、
そんなことが
つまらなくなつた。

ぼんやり霞む遠い街に、
白い糸のやうな煙が、
ゆっくり立ちのぼり、
何故に銭のことなど想ふのか、と語る。

やがて、微風に吹かれて
立ち上がり、
丘の下の谷川におりて
草を分け、
のぞいて見れば
水の底に、清らかに艶やかな小石がある。

このやうに生きてあれば、
明日明日を思ふことはないのだ、と。
小道のわきに咲いてゐる
あざみの花は美しい。       16.10.4

p1

小さな詩集

古本屋棚の、薄暗い電燈の光を受け、
汚れた本のなかに挟まれて、
暗緑色の小さな詩集が
二十銭と札つけられてあつた。

ひらいて見れば、
ロンドンで発行された詩集だが、
いったい誰の手から
場末のこの店に売られたのであらう。

月のひかりの中に白く
長い道がある。
それは、私の愛から私を
遠くへと導いてゆく。

風もなく、垣根は垂れさがり、
しづかに静かに影が落ち、
私の足は、
たえず月に照らされた
塵の上を歩いてゆく。

世界は円い。歩け、歩け。
まつすぐ歩いて行つたならば、
またも、もとへと返って来る、
と旅びと達は言ふ。

しかしその円は、
家路へいそいでゐると、
遠く遠くへ移るのだ。
月のひかりの中に、
白く長い道がある。
それは、私の愛から私を
遠くへと導いてゆく。

立ち読みすると、
こんな詩があつたが、
これはどんな詩人なのか、
私にはわからない。
古本屋の女房に、
いそいで二十銭わたし、
がたびしするガラス戸を開けると、
そとは、秋も終りに近い
肌寒い夜であつた。       16.10.18

※附記より
その詩集は拳に握られる位の小さな本であった。題名は「シュロツブシアの若者(※シロップシャーの若者 A Shropshire Lad)」、著者はエイ・イー・ハウスマンとあったが、 私の全く知らない詩人である。私が古本屋から二十銭で買った小さな本は縮刷にしたハウスマンの選詩集であったらしいが、戦時中に散失してしまったことは、 今になれば全く惜しい気がする。

 炭一俵

ラヂオの前に坐り、
弟は、悠然と
銀色のシガレット・ケースを取りだした。

その妻は、
葡萄色のジャケツを着て、
コーヒーをいれてゐた。

膝のぬけたズボンを、
私は撫でながら、
どもりながら話をした。
炭一俵よこしてくれないか、と。

ガラス窓から、畳にながれる
秋の日ざしのなかに、
白い犬が寝そべつてゐた。       16.10.20

※【註】より
もう炭がなかなか手に入らなくなっていた。金があれば闇で買えたが、一家の生活を、村の先生の月給で支えるのがやっとであった。
ラヂオもなかったし、家でコーヒーを飲めなかった。

 秋

秋の
やはらかい日ざしに
照らされ、
紫苑の花が
倒れかかった堀の前に
咲いてゐた。

何んのこともなく、
こんな日が、しづかに過ぎて、
ふたたびと返らないのか。

ああ、向ひの柾屋根の上に、
空が、なぜに
あんなに青いのか。       16.10.20

p2

 『戦時下の一詩人』に掲載された、これら「身辺雑詩」と題された作品群を一読して感じたのは、 昭和初年代のレスプリヌーボー詩誌『椎の木』同人時代に培はれた知的散文詩のスタイルを去って、ごく易しい言葉で、 他愛ないといへばさう片づけられてしまひさうな短い消息が、諦念によって一種の調べをもって綴られてゐるといふことでした。 含羞の言葉の向ふ側で口ごもってゐるのは、鋭い洞察と、まぎれもないヒューマニズムであり、これらが「私は戦争協力しなんぞ書くのは、 どうしても嫌だつた」といふ心持ちの中で書き続けられたことを思へば、ことさら反戦の詩ではないだけに心を打ち、感慨を禁じ得ません。

 覚え書きには「色々と考えこんだりしないで、さらさらと」自然に書き継がれていった旨が述懐されてゐます。どの詩篇にもみられる自制された含羞の余韻は、 「四季派」を定義する際には必ず属性として挙げられる魅力でもありますが、巧むことなく発揮せられたといふのは、 この進取の気象にとんだ詩人が時代の圧力に出会った際、精神を保つために起こした防衛機制であったかもしれません。
 云はれてみれば「身辺雑詩」の味はひには、モダニズムを封印した戦時中の北園克衛や八十島稔が書いた郷土詩に漂ふ措辞や、一種の無力感を彷彿させるものが感じられるのです。

 象徴的なのは体言や連体形で改行する詩句であり、これはモダニズム詩人が流行らせた措辞ですが、その後も一戸謙三は使用してゐます。 戦後作品は昭和40年にまとめられた『自撰 一戸謙三詩集』の後半に収録されてゐますが、 そこにはもはや『椎の木』の同人時代に採用したかつてのスタイリッシュな散文の面影はみられず、上記の「身辺雑詩」の延長線上に、 分かりやすい言葉で穏当な行分け詩が書かれてゐることに、驚きと、本質は抒情詩人であった彼がたどった道行きに対する納得とを覚えます。詩篇を読む限りでは戦後しばらくの間、 傷心期間が続いたやうにも思はれますが、そこからの快癒を俟って、昭和30年代には再び現代詩として通用するやうな、意味の断絶を織り込んだ詩操も模索してゐます。 しかしその最終地点にみられる詩的な喪失感は極めて閑かなもので、『椎の木』時代に極まった絶望を湛へたニヒリズムではなく、 老境に向ふ人生の諦観を示すものへと、やさしく移行変化してゐるやうです。

 戦争詩にコミットすることを免れた若い詩人たちは、戦後を迎へ自由の空気に触れると、皆それぞれに実存を探るべく現代詩の晦暝な世界へと四散してゆきました。一戸謙三も、 故郷にあって最後まで心情吐露の方法について摸索を続けたといふべきですが、世代を異にする若い詩人たちに伍して現代詩壇に乗り込まうとか、 それまでに成し遂げた詩的理論「方言詩」「定型詩」に続いて更なる新しい詩と詩論を展開しようとか考へてゐた訳ではありません。 世の中の流れを地方から見据ゑ、余生に現ずる虚無を訥々とつぶやくやうに孤塁を護ってきたのではなかったか。それは昭和40年に刊行された自撰詩集が、 戦前作品の表記を改めぬばかりか、戦後の作物も歴史的仮名遣ひを墨守して制作されてゐることに端的に顕れてゐるのではないでしょうか。

 さてこの『自撰 一戸謙三詩集』ですが、「前編(戦前詩)」・「後編(戦後詩)」・「随想」の3つに分けられてをり、 特異なジャンルである「方言詩」と「定型詩」を省き厳選された結果、各時代ごとのスタイルの代表作が一覧できる大変コンパクトな内容に仕上がってゐます。

 「前編(戦前詩)」は、出版事情がまだ悪かった昭和23年に刊行された自選詩集『歴年』の内容をほぼなぞったものになってゐます。 厳密にいへば、作者はその直前に企画された「一戸謙三選集」といふべき一大叢書計画の途絶を経験してをり(『追憶帖』一冊のみ刊行されてゐます)、 本人監修による大規模な業績の編纂が放擲された結果、『歴年』といふコンパクトにすぎる選詩集の陣容に凝り、ある種の頑なな信念となってその後の『自撰詩集』にも踏襲されたのだ、 といふべきかもしれません。
 その際、初期の佳作の多くが割愛されたことが残念に思はれるのですが、 それは外部の研究者であった坂口昌明氏が詩人の没後、実に四半世紀も経ってから声高に指摘しなければ分からなかったことでした。

「しかしことは必ずしもそこで終るわけではなかった。こうした後年の自己検閲は、本人の意図とは裏腹に、トータルな見晴しをさまたげ、ひいては力量に対する軽率な判断を生じやすくし、 不遇にもつながる因をなしたのではないか。折しも高木恭造の派手な演出に目を奪われた世間は、文学者としての真の力量差を誤認し、一戸を時代遅れの古典主義詩人としてしか見ず、 単に儀礼的に奉って事足れりとしてきたのではないだろうか。」(※『朔』155号 5-6p)

 といふ、坂口氏の歯痒さうな義憤は、頑なな詩人に対してばかりでなく、そのまま放置しておいた周りの世間にも向けられてゐるがごとしです。
 ただし『自撰詩集』において『歴年』の中からさらに削られた一章「策迷」時代(昭和7年〜8年)の8篇について、 坂口氏は「戦後において大幅に改訂した」「二つの隔たった時間同士を一つの文脈にからみ合わせた、 二次的な双頭作品」であり「そこだけが難解で、周囲とは水と油ほどなじまない異域」であったために削除されたのだらうと推測されてゐますが、 私には異論があります。 といふのも、昭和8年に刊行された『椎の木』同人アンソロジー『詩 鈔』に掲げた自信作として選ばれてゐるのが、 正にこの時期の作品であり、「別辞」「破局(※秋の破局)」「没落(※鴉)」の3作(※『詩鈔』所載時)が収められてゐるのですが、 『歴年』所載形と較べても、若干の措辞の異同は認められるものの、内容において坂口氏が云はれたほどの大幅な改訂はないからです。

 私は萩原朔太郎を中心とする大正口語詩の気圏から出発した一戸謙三が、昭和に入りあたかも三好達治の『測量船』を髣髴させるやうな散文詩を書きはじめ(「月日」の時代 昭和4年〜7年)、 「夜々」の時代(昭和6年〜7年)を経て、「神の裳」時代(昭和8年〜9年)に至るまで、自意識の強い知的センテンスを駆使したおよそ5年間ほどの詩作期を、 この詩人の、詩史の潮流(レスプリヌーボー)と共にあった黄金期と呼ぶことにやぶさかでありませんが、その際、「策迷」期の作品といふのは期間の中心に位置するもので、 ましてや自らアンソロジーに推したそれまでの代表作であった筈です。センテンスの結合に妙を競ふ前後のモダニズムスタイルが勝った時期より、 ある意味では「策迷」期の散文詩の方が、気分は読み取り易く、主人公がより生に、はっきり出てゐるといっても良いかもしれません。
 むしろそれ故に、おそらくは人生に対する絶望の情調や悲劇的な身ぶり(ポーズ)がはげしく、戦後も随分経って思はせぶりなものとして目に立つやうになったのではないでしょうか。 戦後作品の閑寂な詩境へと落ち着いた作者にとって、或ひは生々しい当時の境遇や創作モチベーションを、個人的事情から愧じ嫌って外したのではないかとも考へられます。

 とまれこの「策迷」時代といひ、方言詩の「百万遍」時代といひ、最初の自撰詩集『歴年』におさめられた章立てのうち、謂はばこの詩人の抒 情詩人らしい本領を外したものばかりがアンソロジーに収められたり、 最初の詩集にまとめられたりした(『ねぷた (昭和11年刊)』)といふのは、 確かに何かしらこの詩人が自ら選びとった皮肉で頑なな運命だったやうにも思はれます。私自身、一戸玲太郎(謙三)といふ詩人を、高木恭造と共に方言詩でデビューしたアナキズム系の末裔詩人かとおもってゐた位です。

 そして最初にも申し上げたやうに、「身辺雑詩」をはじめとする昭和10年代の作品もまた、『歴年』にも、そして最後に編まれた『自撰詩集』にも収められてゐないといふ訳であります。 しかしどうでしょうか。詩人が遺すべくして遺した自信作の数々と比べ、勝るとも劣らないものに私は思ひます。 初期の瑞々しい作品群を推された坂口氏と同じく、四季派の詩が好きな私には、何ゆゑこれらの佳作が詩業を集成する選詩集から見送られたのか、 もちろん紙数の制約はあったのでしょうが、やはり優先順位は解せないのでした。

 およそ自撰詩集といふものは、作者自身の詩人たる所以(アイデンティティ)を自ら語り、作者の意図に従って読者を自作の詩境にエスコートする役目を負ふばかりでなく、 かうなると、却って選から漏れた作品に興味を抱かれるやうに読者をいざなひ、楽屋内の事情を披露する材料として後世の研究者の前に提出されるものだといふことがはっきりとわかります。 ことは戦時中の戦争詩に限らず、モダニズム詩人にとってはモダニストに変身する以前の作品は「黒歴史」として封印されるに違ひありませんし、 また一戸謙三のやうに人生に対する俯瞰と観照の境地に達した詩人が、晩年になって、若き日の幼いロマンや青いポーズを愧じて封印したくなるのも、人情であるといへましょう。

 地方隠棲を余儀なくされたことで、人間性まで保守的に固まったとみるのは戦後果敢に挑んだ訳詩について語るまでもなく、妥当ではありません。 ここは坂口氏が「隠された未刊詩篇の背景を知る好個の手がかり」と指摘した「不断亭雑記」といふ回想録が存在することに注目し、いずれ著作権継承者の御令孫晃氏によって編纂紹介されることを希望したいと思ひます。 恰度『自撰詩集』が編まれた当時の連載なのですが、『自撰詩集』に収められた「随想」が、多く鑑賞映画の批評に割かれてしまってゐるのを見ると、この一件についても残念に思はれて仕方ありません。 モダニズムに親近性をもつ気質から、やはり物質娯楽技術(映画)の威力に屈してしまった結果のやうにも、そしてやはり直近の作品に対する自信と愛著は争はれないものだと、 自作に対する選定が厳しかった一戸謙三のやうな詩人にあっても、かくあるかと思ったことでした。

 その詩歴と人柄とによって、青森県の特筆すべき郷土詩人として遇されている一戸謙三。大正期に始まった近代詩史の激変期を体現し、自ら理論と実験にも明け暮れた感がありますが、 渝らぬのは自己洞察への冀求とそれに伴って色濃くなるニヒリスティックな絶望や喪失感、その表白だったやうにも思はれます。 それはアンデパンダン団体である『椎の木』同人として、新しい詩の実験へ参加することでスタイリッシュに先鋭化しましたが、時代の右傾化と共に意味を失ったことを自覚し、 始めた方言詩運動も中止して長い沈黙に入ってゆきます。その間、全く作詩してゐなかった訳でも、国家主義者に変貌した福士幸次郎に師事してゐたとはいへ、 戦争詩をかいてゐたといふ訳でもないことが、今回の特輯号の紹介によって明らかにされました。冒頭には、作品が書かれた背景について、 当時の詩人の心持、戦争協力に対する考へ方が引かれ、録されてゐますが、「戦争協力しなんぞ書くのは、どうしても嫌だつた」といふ一言は、 同郷の後輩詩人である村次郎同様、東北詩人らしい反骨の人柄を真直に感じさせるものです。 そして「身辺雑詩」を戦後随分経ってから自分の主幹する週刊新聞「暮らしのジャーナル」に掲載した同郷友人の平田小六氏、彼によって描かれた福士幸次郎像が併録・紹介されてゐますが、

「福士幸次郎とは、昭和十一年ごろから東京の長崎というところで、しばらく隣り合って住んでいたので、大いにケイガイに接した訳だが。 そのころ福士さんは詩や文学の話題を白眼視するようになり、国粋主義と思われる観念の裏づけに熱中しているように見受けられた。 日常的には親愛な間柄を保っことはできたけれども、思想的には近付きがたくなっていた。私は文筆活動ができなくなり、昭和十三年日本脱出を企てて、 いよいよ福士さんと別れる時、私に一幅の書を贈られた。それには「いさこどもたわわざなせそあめつちのかためしくにぞやまとしまねは(※[雑魚?]ども戯業なせそ天地の固めし国ぞ大和島根は)」と書いてあった。 私はその美しい字で書かれた半折を破りすてて北京に去った。それ以来、再び福士さんとは再会の折がないままに終った。」
                                              「一戸玲太郎さんと私」(「暮らしのジャーナル」昭和45年4月連載より)

 といふもので、プロレタリア文学出身らしい戦後ジャーナリズムの視点から描かれた肖像ですが、一戸謙三自身による福士幸次郎の回想といふのは、たとへば有難迷惑な翼賛会への入会エピソードについても

「私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中の福士幸次郎先生は「そう言うもんじゃないよ」と、入会書を自分で認めて出してくれた。」(前掲)

 といふものでした。戦後の文章であるにも拘らず、先師として敬ひ、決して馬鹿にしたり怨み言になってゐないところに、この詩人ならではの天稟の気質を見る思ひがします。

 思想的なことは措いても、抒情詩の血統は、戦時下においては時代の圧力に対し「冷静に断乎として明らか(平木氏評)」なスタンスを取り得る詩境にあった、 一戸謙三のやうな少数の詩人たちのみによって護られてきました。さうして戦後においては、翼賛詩人に代はって詩壇の主導権を握った民主主義を声高に掲げるアプレゲール詩人ではなく、 却って戦時中に変はらず同じやうに田舎に隠棲し続けた一戸謙三や木下夕爾、渡辺修三といった詩人たち、そして反対に戦争の現実を知らぬまま捧げた理想が裏切られて失意に沈んだ、 日本浪曼派につながる旧世代の屏息詩人たちの作品に、主情低音のごとく伏流してきたやうに、私は考へてきました。 戦争を経験しない自分もその流れを汲む末輩として、身びいきに考へるところがあるかもしれませんが、このたびはその実証としてまたお一人、 抒情の血脈を同じくする先達の「素顔」に接し得た想ひで、ここに紹介できる幸せを感じてゐます。

【参考文献】
津軽方言詩集『ねぷた』 詩集『歴年』 詩誌『朔』特輯号(155-160号)
『詩抄』(椎の木同人アンソロジー第一集)
坂口昌明 著『みちのくの詩学』(2007年 未知谷 刊)

以下に、戦時中の作品とともに、坂口昌明氏が惜しんだ、ニヒリズム以前の、自選されなかった大正時代の未収録作品から詩篇を幾つか抄出します。合せて昧読ください。

 眼

わが心にうつれる君の眼は沼の如し……
汀に生えならぶ葦の睫よ!
清らかなる姿を水面にうつし整然と並びつつ
愛欲の風にふかれるその葉ずれの音は
ゆるゆるわれをゆする眠りのしらべなり。
ああ、しかれども
今、狂ほしい欲念にわれはふみにじられて思ふ。
水面はるかなる圓き瞳の島に、
鬱々と茂る褐色の森の奥なる、
陶酔.の泉の底ふかく、深く
いつさいの自分を忘却に封じて眠る時こそ!と。

                                  『光の芽』パストラル詩社、第四詩集 1920年10月より

  憂はしい原つぱで

なにかにの草は
いつのまにか肺病にかかり青ざめ、
ところどころに集りぼんやりと涙ぐむ。
うれはしい原つぱを とほくまで歩いて来て
ここにうづくまる私のさびしい裸か身は、
流るるぷらちなの血液で透明になり
腐つたひとつの心臓がもう動かなくなると、
太陽がにじんで粉つぽいふらんねるの空へ
しんしんと尖つてゆくいつぼんの枯れ木をかすめ
雲につつまれ白く流れてゆく肺臓のかたち。
そのとき、地面のそこ遠いところから、
とぎれとぎれになきはじめる蟾蜍(ひきがへる)、
ああ、そのこゑこそ、わたしのこゑ、
わたしのこゑなのですよ。

                                  手書き詩集『哀しき魚はゆめみる』1921年より

  散歩にて

広壮な家の絶壁の間を、
渓流のごとく流れてゆく道路に浮んで、
街にさ迷ひ出る私は一枚の落葉である。
娼婦の朝の額のごとく蒼ざめてる夕空には、
新月が横雲に黄金の釘のごとく突きささり、
百合の花粉のやうな光を撒いてゐた。     1922.1

                                  初出『胎盤』1922年4月

  空

奇怪なる数字や記号の模様を織る仕事は、
私の心臓を蜘蛛の巣だらけにした。
硝子窓に黝んだ視線を投げると、
岩丈な肩をすり合せてゐる建物の間から、
小さな青い花のやうに、空……。
寂しい故郷の市街を其虚に建築して、
私は陸上の魚のごとく喘ぐ。      1922.2

                                  初出『胎盤』1922年4月

  時

沈殿した空気の底を、
『時』が青とかげのやうに這つてゆくのをふと私は感じる。
しつかり押さへつけてみた。
しかし彼はゆるやかに指の間をながれでて行く……。      1922.3

                                  初出『胎盤』1922年4月

  絵本

日に日に雪が消えてゆき、黒土が優しくあらはれ、垣根には青草の唄がからみつき、陽は柔かに心に溶けこむ。
そのころ、隣に越して来たお貞さんが、窓をあけてタベごとに唄ふのを、聞くともなく、聞きおぼえたわたしを、
「遊びにいらつしやい」と、桜の咲く日には呼びかけさせた。

ああ、あのころは未だあざやかであつたわたしの唇を見つめてほほゑみ、うしろから両腕投げかけて、ふたりで眺めた朝顔には露がほがらかに輝いてゐた。ああ、あのときの頬ずりのなつかしさよ。

葡萄棚の下に仰ぎながら、ゆたかな腕さしのべてお貞さんが一房もぎとれば、 後れ毛を夕日が金色に照らしてゐた。落葉の匂ひの中に味つたその葡萄よ。そして何故あのときに、お貞さんは黙つて帰つて行つたのであらう。

炬燵の上に指をならべ、「ほらあたしのより細いわ」と、お貞さんの顔は桃のやうにうるはしかつた。窓には牡丹雪の降りしきるささやきがして夜が更けてゆけば、 絵本の上に眠りほけたわたしが、握られる手にふと気がつけば、さすがにお貞さんの指はふるへてゐた。      1922年9月

                                  未完撰集『追憶帖』1947年刊より

  追憶の頁

土手に咲き盛る野薔薇の上を飛ぶ黄金の虻よ。
青空の下のはるかなる稲田よ。
白い塵を蹴立てて一隊の生徒が歩いて来る
帽章の輝き。紅玉の頬頬。ああその胸の清らかな泉!

丈高き白楊の梢に囁く微風よ。
その新緑の葉が身をゆすりて密かにする微笑よ。

芝草に寝て眼を閉ぢる私は、
荒野の果(はて)、山山を越えてゆくあの白雲か。

                                  『日本詩人』1923年3月号

  四季

青空には真珠色の雲が羊のやうに群つてゐる。
微風ははにかみながら私の頬に接吻する。

春だ。春だ……

私の指先には桜桃のやうな艶がある。
私の胸には黄金色の蜂がうなつてゐる。

春だ。春だ……

私は素足でうまごやしの野に行かう。
私は王者の寛いだ心で世界を眺めよう。

      *

縞璃璃の大空-……

麻の葉の帯の影を流れに漂はせ、
娘は繊い手もて琺瑯の足を洗ふてゐる。

朽ちはてた塀の蔓草はくろずみ、
桐の葉の間に星が銀砂のやうに散つてゐる。

白鳥は黒く垂れさがる柳の葉蔭から泳ぎ去つた。
青磁の花瓶にさし入れるために、私は白百合の花を折り取つて帰らう。

      *

夕陽は貴金の泉に溺れて死んだ、そして、
紺青の蜜には悲しみが今ひろがつてゆく。

私は土手の枯れ薄のなかに坐り、
水柳が影うつす沼の青ざめた面を眺めてゐる。

ああ、ものさびしき、さびしき水門の昔よ。
それは何を思ひ出せと私に囁くのであるか。

中空には真珠の月が輝きでて、そして、
平和な村の藁屋根からは青い煙が立ちのぼる。

      *

庭に雪が降る、降るよ。
紅薔薇の蕾や紫陽花の葉の上に……

牡丹の模様ある坐布團を敷き、私は
珊瑚のかけらのやうな炭をつみあげてゐる。

雪はたちまちに消える、消えるよ。
濃い紫色にしめつた地面の上に……

爐の向ふには銀色の長い針をきらめかし、
緋の毛糸もて妹は編物をしてゐる。

庭に雪が降る、降るよ。
さわら垣の枯れ蔦や落葉松の金の葉の上に……

                                  『パストラル』第9号 1923年より

  曇つた鏡

曇つた鏡にうつる煤ぼけた壁、
灰明るい天窓、亜鉛屋根を走る時雨の音…

塵の白い机の上に目を閉ぢるとき、
軋りながら柱時計が打つた、頭の上で。

何物もわたしを遠ざかれよ、今は。
蟋蟀が鳴いてゐる、押入れのなかで……

壁のとなりに幽かな話しごゑ、
徐ろに梯子段を誰かが下りて行つた。

                                  『北方詩風』第4号 1926年8月


【追記 1】 (2016.05.03 update)

 晃氏より、昭和10年当時の詩人が、あらたに方言詩制作へと狼煙を上げた際に、それまでの過去の詩歴を振り返って総括した地元新聞記事のコピーをお送りいただきました。

詳細に区分を立ててみせる律義さは、また自覚的に詩作をしてゐた証拠でもありましょう。「閲歴」といふタイトルも『歴年』に似て、 つまりひょっとすればこの時『歴年』が処女詩集として刊行されてゐてもをかしくない訳で、なればその内容は坂口氏が惜しんだやうな割愛はされなかったかもしれず、 また体裁も『歴年』のスタイルを正に理想的な形で実現し得たに違ひない椎の木社から相応しい装釘が用意されたことと思ひます。『ねぷた』ももちろんエポックな名詩集ですが、 それ以上に(最高レベルに達してゐた)戦前の昭和詩壇が、そこに当然趾を遺すべき一冊の名詩集を失った、といふのが私の見解です。

 物には時宜時節があります。『歴年』はその装釘が象徴的にもの語ってゐるやうに、正しく昭和10年前後に刊行されてゐれば、 当時椎の木社から刊行された『希臘十字(高祖保)』『肋骨と蝶(乾直恵)』『園(滝口武士)』といった詩集たちと同等の地位と名誉が確実に保証された筈の詩集でした。その機会を逸し、 理論の実践として喫緊の課題だった『ねぷた』を先行刊行させて熄んだことは、その後の不遇ともいへる文学的みちゆきとともにいかにも一戸謙三らしく、ですから『歴年』における装釘は未練として、 また過度の自己検閲は、坂口氏がいふやうな自己裁断の意思とともに、(『追憶帖』以降の編も途絶したこともあり)、刊行時機を逸したことについての諦念的判断と両方があったのかもしれません。

閲歴   ――詩作15年――

                 一戸謙三    (弘前新聞 昭和10年1月12日)

p4

憶へば青春の扉口、19歳の時であった。私の心臓は忽然とした父の死によって虚無を刻みつけられてしまった。そしてそれに続く流離の相は、 若き私をして人生の目的は死以外の何物でもないことを断案せしめたのである。
私は『月に吠える(註1)』を繊弱なる涙とともに読み耿[耽]り。憂鬱なる日々に蝕まれるばかりであった。だが私は何時しかにその羽虫のやうな生活にも生きてありたい。 何かを信じて生きてありたいと模索し始めた。――かくて私は『詩を得たと告げる』

(註1) 萩原朔太郎著の詩集、それを私は如何に愛読したことであつたらう。そしてその憂鬱なる幻想は即ちそのころの私の生活でもあつた

かつて私は右のやうな感想(註2)を書いたことがあるが、即ち私は詩を詩そのものとして求めて行ったのではなく、 魂の問題として私を圧迫する虚無と不安を克服するために詩を選んだのであった。それ故にそれは必ずしも詩でなくともよろしかった筈である。 詩の代はりに例へば酒や女または政治や宗教などを私は見出したかも知れなかった。そして『これは全世界を失って、その人の霊魂を獲得したものの問題である(註3)』と思ってゐたが、 今にして考へて見れば、それは克服といふよりは詩によって酔はん(註4)と欲したのかも知れない。

(註2)第2次『北』に発表した感想『隻眼片語』の一節。
(註3)アアサア、シモンズ著『文学上に於ける象徴派の運動』のジエラル、ネルヴアルの項にある言葉。
(註4)シヤルル、ボドレエルの散文詩『酔へ』。

それはとにかくとして私の、詩への果てしない追及は、かくて出発したのである。

『哀しき魚はゆめみる(15章)』(註5)の浪漫的な夢は凝って、葦のやうな睫にかこまれた眼の人への『贈り物』を。月の光もて織りなすやうにして作ったが、 その現実的な夢は忽ち破れ去って『願ひ(9篇)』となった。こうして夢を現実の上に展かうとした私は、此の度に更に強烈な夢をもって現実を『炎の塔(12篇)』のやうに彩らうとし始める。

(註5)『哀しき魚はゆめみる(15章)』とは、そのやうに題した私の謄写版の小詩集の題名。以下『○』のついてゐるのは将来もし公刊されるならば私の詩集の小見出しとなるもの、 大体同じ傾向をまとめてゐる。その下に何篇または何章と付いてゐないのは単独の詩の題名。

それは大正8年から大正11年の頃までであった。萩原朔太郎、室生犀星やアルベエルサマン、イエーツ、またポオルフオル、エミイル、ヴフルハアレン、 佐藤惣之助なぞが雑然として私の作品の上に影響を及ぼしている。

その頃、ふとした機会(註6)にジヤン、ニコラ、アルテコウルランボオの作品に触れて、初めて詩とは何物であるかを天啓のやうに悟つたのである。 そして私は故郷の風景や追憶を絵のやうに描くことを始めた。即ちランボオからルコント、ド、リルやホセマリヤ、エレデヤのパルナシオンの方法へと逆行したわけである。 しかしこのやうな外光と色彩の世界から一歩転じて内部の世界へ沈めば、寂寥と孤独のみであった。『水松の下に』私は、すでにわたしの頁はとざされたと歎き秋空に別れてゆく雲を数へ、 籠のカナリヤよりも佗しく私の『老』を見つめるのではあった。

(註6)大正11年の晩秋の某日だと思ふ。当時東京に在住してゐた私は福士幸次郎氏を訪ねた時に犀東日路士氏の訳になるものを教示さる。

以上のやうな経過は大正11年から大正15年頃まで続いて『春と秋(69篇)』を成してゐる。

すでに私は貧しいながらも結婚をし、やがて父とはなつてゐたのであるけれども、かつて全世界を失つて得たと思つた私の魂はこのやうに物淋しいものであつた。 不安と焦躁と虚無は人生の下積みとなり困苦と欠乏との生活の割れ目から痺気のやうに立ち昇り酔ひ覚めの私を再び悩ますやうになる。

私の詩の路は、そこで突然に急回転する。現実からの逃亡と夢の再建設が始まる。超現実派時代である。

私はこの地方に於ける超現実派の主将でもあるかのやうに祭り上げられたのは此の時代であるが、 それは県文壇の全面を蚕食してゐたプロ派に相対して芸術派の孤塁(註7)を守るために立ち上がつた為にそう見えたのにとどまり、私の超現実派としての作品は少ない。 長短取りまぜた『薔薇戦争(25篇)』しかないのである。『夢のコレクシオン(6篇)』を境として私はむしろ『散文詩(31篇)』に於いて私的小説への展開を心がけ、 またその方が私としてスコル、レアリスムの詩よりも好ましくもあり身にもついてゐたと思つてゐる。それは昭和5、6年頃から断続して昨年度の『白い虹』『故い家』『祖父の譜』等にまで脈をひいてゐるのだ。

(註7)私らは当時のプロ派の主張によるとすでに没落してゐる筈であつた。県文壇の殆ど全面的な支持の下にプロ派文芸が盛んであつたが、 私ら詩人だけはこれに逆襲したのである。僅か数年前のことであるがまことに今昔の感に堪へない。私ら芸術派はこのやうに未だ没落してゐない。 従つてプロ派は私らを克服し得なかつたことが今にして明瞭である。然らばプロ派が没落したのであるか、否、彼らは没落はしない、転向したのである。

一方純粋なる詩はピエエル・ルヴエルデイあたりの影響からして『夜々(10篇)』をなしてゐる。 超現実的に新鮮な美しい夢の建設を企図して見たものの再び私の内部へと沈潜して見ればなほも消えやらぬ蒼白なる死の紋章をそこに見出すのであつた。

或る未明に枕をそば立ててガラス窓に流れる水のやうな光を凝視しながら天地寂とした唯中に一点わづかに息づいてゐる私の魂を眺め、 死の刈鎌の幻影をまざまざとその上に見て胸の底から涙がにじんで来るやうな気がしたのを今でも覚えてゐる。 それは十数年前に私の胸に深く刻み印された虚無の観念が燐火のやうにまたも幽かに燃え上がるためであつたらう。

私はこのころから『椎の木』を通じてひろく全国各地方の人々へも作品を示し得る機会を得た。 すでに大正12年の3月には『日本詩人』の舞台に福士幸次郎氏の推薦によつて立たされたのではあつたが、 詩人としての自信もなく且つ心身全くの衰弱時代であつたために福士氏の兎角の好意を無にして地方に埋没してしまつた私は此処に再び中央的に――たとへばそれは一同人誌上ではあつたが ――乗り出し得る機会を得たのではあるが詩を常に魂の問題として受けとる私は『椎の木』派のモダン詩人の中にあつてその派とは全く主張を異にするやうなものへと私の作品を展開せしめて行くよりは仕方なかつたのである。

昭和7年秋、私は従来までの生活へ『別辞』を宣し、錯乱してゆく乱酔した私の魂の解析へ測鉛を下し始めたのである。そうして私の運命は『悖星の座』にあると観じ、 『街』にあつては私を錯誤の壁に嵌めこまれた煉瓦であるとなし『途上』には深夜の太陽と、悲愁の書を見るのみ。秋は『破局』となり『冬』は私の胸に天の歯型を刻み、 女人は即ち一個の『窩』に過ぎなく思はれ、そして狂へる十三時、酒場の『悪の門』から呪はれた偶像のやうに転落する幻覚を感じた。私の生は闇黒を過ぎてやく鉄の鎖のごとく、 見わたす人生は転変する賭博盤に過ぎない。悪と云ひ、罪と云ひ、また善と云ひ徳と云ふ。すべてはその盤上に播き散らされる賭金ではないか…。

『悪の門(24篇)』を貫いて叫ばれてるのは、かう云ふ昏迷と絶望の声である。それは地獄の季節(註8)に立ち上がる牙のある肖像(註9)であつた。

(註8)アルテユウル、ランボオの散文詩集、私はランボオによつて詩が分かり、ランボオにより過去の詩へと別れたのである。
(註9)逸見猶吉の散文詩(『文学』第一輻所載)このころの私の詩には彼の影響がみられる。

しかし乍らこのやうな過度の緊張は人の魂を『破綻』せしめ『風化』さして了ふ。私は是の如き生活に『跋』を■くなつた。『東』をのぞみ■々の国を何時となく憶ふ人間となり、 さうして私は再び私の『巣』へ帰つて来る…。

同時にまたこのやうな昏乱した私の魂に秩序を暗示してゐるのが、私を囲繞する環境から幽かながらも輝いて来てゐるのでもあつた。

『虚無そのものは、かつての私の柔らかい皮膚を戦がしめたやうに現在の私をば脅かすことはなくなつた。生命の消失は燭火と一般にして、何らの異象とは私の目に映らぬ。 そして私の個体の死滅はあつても第二の私として子がある。それと同時に私の父の死は私によつて尚も生かされつつある。人生の網の目を私は徐々として理解し得た。』(註10)

(註10) 前の(註2)と同じく『北』所載の感想から。

此の人生の網の目をなほもよく探求するために私は素朴な心に立ち返り直りたいと念願するやうになつた。

十数年の詩生活を一年に圧縮したやうな昭和7年の秋から約2年ばかりの月を後にし、かくて『林の序』を書いた。 私の『所有』はどんなものであつたかを謙虚な態度でしらべて見ようと思ひ立ち、私は『舟』のやうにわれわれの魂の故郷である村の生活へと、土の匂ひへと帰って行き、 やうやく神(註11)と云ふことを静かに考へて見るやうになり、そして『林の序(13章)』が編まれていったのである。

(註11)『林の序(13章)』に私は神と云ふ言葉をしばしば使つてゐる。但しもとよりそれはキリスト教の神ではない。如何なる神か。 私は今後神についてエツセイを別に草することがあると思ふ。

此の人生の網の目を結び合せて人間を生物の最上に立たせ悠遠なる古代から現在までわれわれを生かして来たものは果たしてなんであらうか。 私はあのやうに苦しみ悩んで来はしたが、畢竟はその網の目の単なる一個の結び目に過ぎない私の魂であつたと思ひ極め得た時に、 モリス・バレスがかつてその自我を深く究めんが為に自由人として凡ゆる感覚刺戟を受け入れると共にこれを解剖していつたが、その結果として徒らに狂激と疲労とのみを得、 かくて『ペレニスの園』を経て『根こぎにされた人々』を展開せしめたことを思ひ出したのである。

私の魂の型は小さくその苦悩は薄弱であつたと云へども結局は根こぎにされたる一人であつたのに過ぎなかつたのである。 とすればバレスの教理に従ひよろしく私にその根へと魂を結びつけるべきである。

その根は何処にありや、云ふまでもない土の中にある。土の匂ひを感じわれわれの魂の故郷なる村の生活を民間伝承学にたよつて、 すでに摸索し始めてゐた私は此処に遠くモリス・バレスの思想へと触れ始めてゐるのを明らかに確かめ得た。

そこで私は過去の詩作生活に別れて新しい道へと出て行くために『祓』(註12)を東奥日報紙上に発表し、(人にはとにかくとして)私への宣言としたのである。 かうして私は個人主義時代を離脱しわれわれの環境と伝統とに生かされてゐるものとして私の魂を考察し、且つそのやうな自覚から地方生活を新しい関心を以て再検討してその秩序を回復し、 且つそれに意義と内容を与へる(註13)ことを思ひ立つやうになつた。

かくて私は津軽方言詩(註14)への起点に決然として立つたのである。

(註12)『祓』については本紙にその解案を発表したから御覧になつた方もあらうと思ふ。あれを東奥日報に載せる際にそこの職工が活字をひろふに弱つたと云ふ。 日本の思想の中心をなす祝詞の神々の名や言葉が、日本の新聞社の工場でハバゲられると云ふことは考へてみれば少々変な話ではある。
(註13)これ即ちバレスの思想を日本的に展開した福士幸次郎氏の地方主義思想の一端である。私がバレスの思想に触れ得たのは、主として福士氏の影響であつたことは云ふまでもない。
(註14)私の方言詩の主張は、福士幸次郎氏や佐藤一英氏らの唱導している地方主義文学論に拠つて居り、昭和8年8月に『方言詩小論』を本紙上に、昭和9年12月に『詩と地方語』を東奥日報紙上に発表。


【追記 2】 (2016.05.03 update)

 また詩人の初期詩篇が顧みられなくなった理由について坂口氏が唱へた、金子光晴の『こがね虫』期の詩篇からの「影響」について確かめるべく『こがね虫』の復刻本を手にとってみました。 その「影響」を過度に愧じた詩人の「含羞」によって、佳作が不当に割愛されたといふのは創見ですけれど、実際に『こがね虫』を繙いてみてところ、私にはこれといって愧じる程の相似は感じられませんでした。 さうして「含羞」は詩篇によるものでなく、あからさまに、書かれた内容に対するものではないのかといふ推論に達しました。 つまり現在の妻や家庭に対する遠慮配慮といふ極めて世俗常識的な理由によって優先順位が下げられたのだとは云へないでしょうか。それなら審美眼が確かな筈の作者が佳作を見捨てる理由も、 決して不当でなく頷けます。あれらの詩が書かれたとき、すでに(晃様の祖母様と)恋愛・もしくは妻帯して居れば、かうした考へも間違ひなわけですけれど、 年譜に家族のことが明らかでなく、判然としません。

 ただこのたび実際に復刻本を閲して面白かったのは、偶然の一致かもしれないのですが、『歴年』とサイズと色がそっくりだったことです。坂口氏がこれに言及されなかったのは、 テキスト主義で『こがね虫』を手にとられたことがなかったのかもしれません。装釘を考へるのは詩人にとってもっとも愉しい時間ですから、その際、もし『こがね虫』の造本が意識されてゐたとすれば、 著者による(内容以外について触れた)刊行の覚書が、雑誌や新聞に残されてゐれば面白いと思ひました。

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