(2007.04.02up / 2007.09.14update)Back

四季派の外縁を散歩する   第十一回

四季コギトの第二世代 その4 日塔貞子の遺稿詩集再刊本に寄せて

私の墓は

日塔貞子遺稿詩集『私の墓は』再刊本

2006.12.14 桜桃花会刊行 19.0cm, 148p \1800 (ISBN 9784990339012)

 このところ戦争中に詩的開花を遂げた夭折詩人について、復刻・回顧の出版が続いてゐるやうに感じます。当時は思想的重圧が、 ことさら精神の自由を希求する詩人を押さへつけてゐた訳ですが、軍役・戦災ともに関係のなかった日塔貞子といふ詩人について考へるとき、 当時の国全体を覆ってゐた社会的重圧を語る前に、まづは田舎の旧家の女性に生まれたこと(詩人の祖父は風流韻事をこととする漢詩人でした)、そして結核といふ、 不具者宣告・死刑宣告にも等しいハンディキャップに思ひが及びます。それでも彼女は生涯を通じて世界に対する反抗ではなく願ひを歌った。自らの詩の純潔を固く守り通した姿には、 北国の長い冬の雪の重みに巧みに耐へ、春を夢見る可憐な花の蕾をみる思ひがします。そしてこれは私が勝手に思ってゐることなのですが、北海道に生まれた左川ちか、 秋田に下って澤木隆子、そして山形の日塔貞子と、知性の勝った三人のすぐれた女性詩人を北から南へ順番に並べたとき、モダニズムの冷たさが次第に抒情にほぐれてくる在り様を、 世代や都会暮しの有無を論ふより、なぜか地勢に託けて理解したい気持もおこるのです。おそらく彼女の感性=詩語の選択能力をもってすれば、 時代的にはむしろ女学生時代の同人誌「つどひ」の常連だったといふ石垣りん、それ以上の現代詩詩人となったかもしれません。しかし傾いた家産と健康がそれを許さず、 終生田舎での闘病生活を強いられた彼女は、遺された作品からも窺へるやうに、結果的に四季派最後の殉教者の一人として結核に仆れ、 晩年を看取り結ばれた詩人日塔聰によって同じく四季派最後の挽歌を奏でられることになったのでした。日塔聰は自らの処女詩集『鶴の舞』(1957/薔薇科社)において、 かつて「四季」に掲載された第一級の佳作の数々を(それは四季派の作物全体から見渡しても最上のものですが)、故意に詩集には収録してゐません。 そのときの彼にとって詩集を編むといふ行為は、振り返るべき過去の総体といふやうな生易しいものではなかったやうです。

 もっとも四季派の佳什といふのは「孤独な観照」と「貞節な独白」とから生まれるものと私は思ってゐます。つまりさういふ意味から申せば、 彼等ふたりの詩もまたそれぞれ天に向かって捧げられたものであって、心の交感を直接写して読者に示したものではないかもしれません。 それを難じて四季派の詩情を否定しようとする愚は、さすがに流行らなくなりましたが、その裏側にあった生活の充足が実際にはどんなであったのか、といふことが、 この度もう一冊再刊された評伝『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』(安達徹著)の方に詳しく書かれてあります。そこに描かれた、出会ひから臨終にまで至るひたむきな献身の事実に、 私は詩人日塔聰に対してこれまで抱いてゐた誤解、つまり彼女を堀辰雄の小説中のヒロインに擬すことで何物かに酔ってゐた節はなかったのか、 彼女ひとりをキリスト教的ムードのなかに埋葬して山奥から逃げて来たのではなかったか、といふ誤解を解き得、 彼女を喪ったのち生き続けなければならなかった彼がどうしても決断しなくてはならなかった再婚と北海道移住について、同感することができたのでした。 詩人の純潔を守るやり方には封印もまた可なりとは、詩人のその後の生き様を年譜や作品抄の上から見て思ったことであります(雑誌『あらの曠野』 Vol.10日塔聰追悼号1984)。

 本来は一番身近にあった彼が書くべき彼女の評伝であったでせう。しかし憚ることが彼の詩人としての含羞と節操であったし、後輩の安達徹氏が代っ て書いた。私はそれでよかったのだと思ひます。安達氏が日塔聰から託され、粉本とされた詩人の日記帖が縦横に引用されてゐる評伝は、生前の詩人とも面識のあった著者にして、 しかし四季派とは一線を画した現代詩詩人らしいスタンスとしたたかな視線が、身内では書き得なかったらう突き放した俯瞰や遠慮のない肉薄となり、 充分に成功してゐるやうに感じます。ただし新聞連載をそのまま本にしたと思しき進行は、それのどこからどこまでが日記に即した記述で、どこからどこまでが自らの取材、 語り部としての脚色なのか、残念ながら判然としません。そして取捨選択された日記の筆に上せられなかった部分に、さてどのやうな肉声が盛られてゐたのか、 このまま闇に消えてゆくことを考へると些か無念でもあります。同様に評伝の中でしばしば言及されてゐる詩人のアルバムについても、閨秀詩人の面影を一葉なりとも紹介できなかったか、 また彼女が苦労して左手で認めた筆跡原稿の一部なりとも写真で紹介されてゐたらなあ、と思はずにはゐられませんでした。 近々著者自身が手を入れて再度評伝の定本が予定されてゐるとのことですから、その点はぜひ期待したいですし、日記の公開については、 今回の復刻計画全般にわたって周旋された奥平玲子氏のグループ「桜桃花会」から、もちろん発議はあったことと思ひます。 しかし流石に21冊にもわたる日記帳をまるまる印刷刊行するのは難しいのではないでせうか。幸ひ拙サイト上の『夜光雲』のやうに、 現在ならネット上でデジタル復刻することは可能であり、それにはまづ詩人を顕彰するホームページ様のものが開設されることを希ふものでありますが、 もし実現したら本当に喜ばしいことです。ついでながら、初版(1957/薔薇科社) には別冊の栞として「もう一つの故郷の歌 ─日塔貞子素描─」として、詩人諸氏の追想を綴った20ページのパンフレットが付録についてゐました。 内容のみならず資料としても貴重なものなので(下のスナップ写真は掲載された唯一のもの)、サイトでは勝手に公開してをりますが、あらためて正式に印刷に付される機会があればいいなと思ってゐます。

日塔貞子

「山のサナトリウム」

     花ざかりの蕎麦の畑にとりまかれて
     山のサナトリウムが立っている
     玩具のような小さいドアを排して
     のどかな秋が人ってゆくと…

     一つれの、干柿を下げた窓に
     ふとった蜂がふり返る
     幼顔のきえない看護婦が
     多忙な調薬の手も休めてしまう

     カルテには余白がなくなった
     めくられた生の余白もつきている
     長い病気の浸蝕をうけて
     夢はうつろになってしまった―

     間もなく冬が来るだろう
     気象は日ましに冷たくなり
     蕎麦は素朴に実ってゆく
     生と死の小さな対話が聴えてくる

     山のサナトリウムはひっそりかん
     柱時計もゆったりと安静時刻を指していて
     もみじした林の道を
     まぶしい狐雨がとおるばかり

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 昭和24年に亡くなった詩人の遺稿詩集が出たのが昭和32年のこと。晩年を看取った四季同人の日塔聰はその後、 失意の教員生活の中で出会った同僚の女性と再婚して山形を去ることになります。遺された日記をもとに安達徹氏が書き綴った評伝の初版が出たのが昭和47年、 それからさらに35年の時を経て、当時感銘を受けた奥平玲子氏ほか友人の手によって、このたびその評伝が甦りました。有志四人はそのためだけに立ち上がり出版に奔走された由。 さうして昨春刊行された、この28歳で夭折した純正抒情詩人を紹介した本は地元でも話題を呼び、おかげで詩集自体も再刊の運びとなり、なんと現在3刷とのこと。地元の公共図書館以外、 まだ大学図書館にも寄贈されてゐない様子で、研究者といふより詩を愛する読書家の間で詩人の伝説が流布され続けてゐるのです。 此のたびの再刊に際して新聞の紹介記事を拝見し、刊行がこれほど地元で迎へられてゐる幸せな復刻本も珍しいことであると思ひました。純粋であればある程、 しばしば故郷に疎外される詩人といふものについて、地域との和解に心をくだく地元有志の人々の活動に心強く思った次第です。

雪に燃える花

評伝『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』 再刊本 安達徹 著

2006.5.20 寒河江印刷「桜桃花会」刊行 18.2cm, 並製カバー412p \1500


改定版

評伝『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』 改定版 安達徹 著

2007.5.30 寒河江印刷「桜桃花会」刊行 上製カバー325p 
別冊[10p]「手紙 柏倉昌美から安達徹へ」+ 別刷家系図1枚


書籍についてお問ひ合せは
〒991-0023 山形県寒河江市丸内2-4-19 桜桃花会 まで。


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