(2005.5.6up / 2009.03.05 /2016.12.01update) Back

四季派の外縁を散歩する   第九回

郷土詩人素描──岐阜県の詩集から

<前史にして黄金時代のこと>

 郷里に引っ込んでからこのかた、見知らぬ詩集を店頭で検分する楽しみがなくなった事をことあるごとに喞ってきた。それでも地元の詩集と知れば、 作風の不明な詩人であっても目録から拾って買ふやうにつとめてゐる。収集範囲も、下っては相変らず敗戦前後で興味尽きるが、上はたうとう江戸時代の漢詩集にまで広がった。 もともと私の郷里である岐阜県は(特に美濃地方においてだが)、詩と詩人が全国に名を轟かせた黄金時代があって、 それがつまり梁川星巌村瀬藤城・太乙、江馬細香など所謂、 頼山陽の周辺にあった「漢詩人たちの時代」においてなのであった。 私自身、当時のこの地方の詩人たちを網羅したアンソロジー『三野風雅』(1821東壁堂)といふ稀覯詩集ほか、 地元の漢詩集の槧本を相次いでこの一年許りの間に入手するといった僥倖にも与り、実は今、自らの詩的関心が江戸後期の在野文人たちが交歓するSalon文化圏へと、 思慕・韜晦の度を強めてゆくのを現在進行形で感じてゐる次第である。年とともに口当たりが易しい抒情詩では慊らなくなったといふ訳だが、 自ら「修養」と称するこの漢詩愛好癖のきっかけをつくった『江戸後期の詩人たち』(1966麥書房)および『頼山陽とその時代』(1971中央公論社)の作者、富士川英郎、 中村真一郎の二氏も、思ふにそれぞれ四季派と呼ばれる抒情詩人グループの第二世代と呼んで差し支へない人々であった。彼らが戦後の四季派排斥の風潮の中で小説や翻訳の分野に活躍し、 公的には短歌的抒情と一線を画しながら実は奈辺に精神の安寧を求めてゐたのか。ふたりが晩年に称揚することとなったのが江戸時代の漢詩、 つまり明治新体詩によって壊滅を余儀なくされた旧い抒情、制約を前提に破綻無く閉じてゐる伝統文学であったことは、まこと現代詩と戦前抒情詩との関係にも類比が許される如く面白い。

<大正〜昭和初年>

 陸続と著名詩人を輩出した美濃地方であったが、維新後は、森春濤が『岐阜襍詩』(1874成美堂)を置土産に上京した頃を最後に漢詩界は衰微の一途をたどり、 この土地が詩史上でふたたび全国から注目されることはなくなってしまふのである。はるかに下って、大正時代に興った口語詩運動が全国を席巻し、 名古屋の詩人達がいち早く地方詩壇の雄として名乗を挙げた際にも、岐阜は周辺一地区として彼らが興した「東海詩人協会」に数名の参入者を出すにとどまった。
 処女詩集『春のゆめ』をすでに明治末年に東京で刊行しながらも、福田夕咲(1886-1948)は家庭の事情から飛騨高山に帰郷するとそのまま地方の名士と化してしまったし、 一個の異才としてこれも中央詩壇で注目された岐阜太郎丸の深尾贇之丞[ひろのじょう]は、帰省中に突然肺炎を病んで不帰の人となって終った(1886-1920)。 須磨子未亡人にそのまま詩魂を託したかのやうな彼の進取の気性が、果たして郷土における詩壇的求心力となり得たかどうかは不明であるけれど、 森鴎外と与謝野晶子の序跋を付した遺稿詩集『天の鍵』(1921アルス)一巻の、その先に予見される彼の口語詩人としての行方が全く謎に思はれるだけに、 惜しむべき夭折(34才)であった。
 独自の旗幟を掲げたといふ点で云へば、口語詩運動の余波とも呼ぶべき小曲や民謡のジャンルが岩間純(1901-?)ら複数の主唱者のもと、 岐阜市内から気炎を吐いたのは特筆されることかもしれない。しかし遊郭を抱へ、鵜飼のやうな観光名所を持つ土地柄の故であらう、 民俗芸術としての「民謡」はお手軽な口語詩として「竹枝・音頭」の調べへと横滑りしてゆく勢ひであったし、彼らが別途主宰した自由詩の雑誌も、 装丁は豪華ながら「詩魔」といふそのネーミングからして、岐阜竹枝で有名になった先輩漢詩人森春濤の詩風を意識してのことだらうが、 自然主義・民衆詩派の語感から脱し切れぬものも感じられる。当時の中央詩人たちを盛んに講演に招いてゐるが、歌詞作者として成功した彼らを呼ぶことが、 自分たちの世間的認知の後ろ盾にはなっても文学的な地位を高めることになる筈はなかった。揉み手で迎へられた有名詩人達もまた、全く江戸時代の流行漢詩人達が地方行脚を行ったのと等しく、 物見遊山を兼ねたビジネスに訪れたのではなかったか。(※2006.1.27update)「詩魔」を存分に検分できたら思ふところを語りたいが、 彼らが中心になって編輯したアンソロジー『岐阜県詩集』は、(一冊きりに終ったが)故人も拾って広く均一に県内詩人を一覧したところ、功を大とすべきである。 これにより大凡当時の岐阜詩人の詩風を伺ふことができるが、実に民謡調の多いことに驚かされる。(昭和初期の新民謡運動については齋藤桂氏のサイト新民謡の間参照。link 2009.02.06

<岐阜県の詩集リスト>

 戦前の岐阜県詩人の詩集については、前述した『春のゆめ』『天の鍵』を筆頭にして、平光善久氏(1924-1999)が岐阜タイムスの昭和30年4月から9月にかけて37回に亘り 「岐阜県の詩集」と題して書影とともに短い紹介記事を連載してゐる。コピーをとってスクラップブックに貼り付けた「カタログ」を私は重宝してゐるが、 なほ氏が未見の詩集も若干あったやうである。補足して刊行順に並べてみた。(◎印は連載にもれたもの。民謡小曲集の類は省いた。)

○『春の夢』福田夕咲 明治45年 文星堂(東京)刊
『天の鍵』深尾贇之丞 大正10年 アルス(東京)刊
○『大垣の空より』稲川勝二郎 大正12年 角笛詩社(大垣)刊
『隠沼』長尾和男 大正15年 紅玉堂(東京)刊
『月光室』殿岡辰雄 昭和2年 かんがるう社(大阪)刊
○『蛙(詩文集)』高橋廣江 昭和2年 丸善三田出張所(東京)刊
『天の乳』服部つや 昭和4年 服部つや詩集刊行會(岐阜)刊
『暦と地圖』杉本駿彦 昭和5年 東文堂(名古屋)刊
『空虚の猫』石川正路 昭和7年 詩魔詩人會(岐阜)刊
『暮れ行く草原の想念』和仁市太郎 昭和8年 美踏社工房出版部(高山)刊
『白い人形』吉村比呂詩 昭和8年 詩之家編輯部(川崎)刊
◎『明日の分子』永井信夫 昭和8年 (岐阜)刊
『岐阜県詩集1933年版』 昭和8年 岐阜県詩集刊行會(岐阜)刊
『赤い壺』長谷部幸雄 昭和9年 大衆書房(岐阜)刊
『陸橋』石田克衛 昭和9年 山脈詩派社(高山)刊
『放浪兒』堀部辭朗 昭和9年 詩魔詩人會(岐阜)刊
『雪線に描く』吉村比呂詩 昭和10年 詩之家編輯部(川崎)刊
『高原の朝』尾崎辰雄 昭和10年 大衆書房(岐阜)刊
『裸像』武藤和夫 昭和12年 トロカロ書房(東京)刊
『飛騨』山前實治 昭和12年 リアル社(京都)刊
『愛哉(はしきやし)』殿岡辰雄・犬飼武 昭和13年 愛哉發行所(岐阜)刊
『高らかに祖國を歌はん』武藤和夫 昭和13年 育生社(東京)刊
○『石の獨語』和仁市太郎 昭和14年 山脈詩派社(高山)刊
『無限花序』殿岡辰雄 昭和15年 大衆書房(岐阜)刊
『緑の左右』殿岡辰雄 昭和16年 大衆書房(岐阜)刊
『黒い帽子』殿岡辰雄 昭和16年 詩風俗社(岐阜)刊
『ふるくに』山川弘至 昭和18年 大日本百科全書刊行會(東京)刊
『やまかは』山川弘至 昭和22年 白藤書社(東京)刊
『鐡の座』瀬尾貞男 昭和23年 瀬尾貞男遺稿詩集刊行會(岐阜)刊
『四季転々』矢本貞幹 昭和58年 私家版(大阪)刊
『冬の鳥』市橋隆之助 昭和56年 私家版(岐阜)刊
『晝の華』近藤 東 平成13年 私家版(横浜)刊
『こだま』山川弘至 平成17年 桃の会(東京)刊

平光氏の連載に与った詩人のうち、早くに活動の場を中央に移した近藤東、田中令三等の詩集については、一律に「岐阜県の詩集」と呼ぶことはできないと考へ除外した。 刊行地が岐阜でなくても生活基盤を地元に置いた詩人の作物を「岐阜県の詩集」と呼ぶには差し支へない。しかし生地が岐阜県であるからといって、若年に故郷を去り、 さらに詩作の発想を故郷に負はない上京詩人達について、彼を岐阜県の詩人とは呼んでもその作物まで郷土の詩集と呼ぶことはできないと考へたからである。 田舎を嫌って都会へ出奔したモダニズム詩人を例に挙げれば、けだし杉本駿彦にとってここに掲げた処女詩集だけがそれに当るだらうし、 近藤東に至っては近年遺族によって限定出版された『晝の華』においてやうやく出郷前後の作品が明らかにされたばかりであり、 生前の彼が公刊を意図しなかったこの一冊をのみ、むしろ「岐阜県の詩集」として認めるべきなのである。戦前の東海詩壇で活躍した瀬尾貞男、市橋隆之助については、 戦後刊行された唯一の詩集を補遺したが、鵜飼仙吉ほか当時詩壇で名を知られながらも、戦前の作品を収録してゐない詩集は茲に参入しなかった。

<昭和十年代>

 このうち南国土佐の産でありながら、大正14年に岐阜市へ赴任して以来、一英語教師として生涯を岐阜県の文教に捧げた殿岡辰雄(1904-1977)と、 飛騨土着の印刷技師であった和仁[わに]市太郎(1910- )は、ともに戦前戦後を通じて岐阜県詩壇を牽引してきた南北の選手である。皮肉なことに『岐阜県詩集』に二人の名はない。 しかし好悪を論へば、昭和初年の同人誌乱立時代に拠った多くの岐阜詩人達より、「詩魔」の後を襲って能くその詩壇の弊(詞と詩の混同)を払った他郷者である殿岡や和仁の作品の方に、 私は共感するところが多いのである。
 殿岡辰雄に即して語れば、美濃地方のやうに、保守的ではあっても大都市名古屋の周辺都市の位置に安んずる、自立性の薄い県民性を有する土地柄には、 骨太の反抗的詩人気質が御当地で育ちにくいといった事情があるのかもしれない。そして年代的には「詩魔」同人と同世代でありながら、昭和初期の詩壇変革期に詩作を休止してゐた彼は、 夜郎自大のお坊ちゃま口語詩を量産した旧套詩派のレッテルを貼られることもなく、新たな仲間作りの中心から出発し得たといふ事情において誠に幸運であった。 その詩の相貌には、タイトルからも感じられるやうに、短歌的抒情に親近を抱きつつもそれをそのままなぞることを峻拒するリアリズムがいつも潜んでゐて、 青臭いながら戦後現代詩のうちに揉まれても倒れることのない一癖ある個性を打ち出してゐた。第5詩集『黒い帽子』は文藝汎論賞を受賞したが、 この時期立て続けに詩集を刊行してゐる彼の詩業全体に対して与へられたと思しきものであるだけに、「詩集の賞」としての栄誉は戦時色のある本作よりも、 むしろ美濃紙をふんだんに使用した豪華版詩集『無限花序』に冠せられるべきだったと私は思ふ。
 一方、岐阜市のやうな浮薄な温床のなかった飛騨地方に眼を転じてみたい。詩作どころか生活と自然の厳しさに明け暮れる環境であったにも拘らず、 詩誌「山脈詩派」の盟主であった和仁市太郎のもと、こちらでも幸ひなことに発禁と無縁な謄写版文藝を囲む車座が育ってゐる。勿論いろいろな思想の者がゐた訳であるが、 文藝を志すことの困難な辺陬にあって飢えたる者は皆、「囲炉裏の暖かさ」に集まったのだ。これは同じく北国から起った草野心平たちの気概と野心とは異なり、 焚火の熱源となった和仁市太郎の、人徳ともいふべき清貧の生き方に与るものがあったといへば間違ひだらうか。彼が詩作上で私淑したのは田中冬二だったやうだ。 生活の上でもガリ版切りの職人として、和仁市太郎の詩と詩集は自らの手に係る素朴な意匠装丁と相俟ってまことに淡彩愛すべき滋味を放つものである。 作品と解説は久野治氏の『山脈詩派の詩人』(1987鳥影社)に詳しい。
 さてここではさらに注目されることの少ない、周辺に集ったもう一世代若い詩人たち、つまり殿岡辰雄や和仁市太郎ほどにも個性を打ち出すことなく、 慌しく「四季」派の影響を蒙り・顕して・消えていった若者たちの詩集を特に別記して、わが偏愛するところの「知られざるマイナーポエット」の紹介へとさらに話を脱線したい。

<戦中・飛騨>

 飛騨地方の戦前詩集については、西村宏一氏(一九三〇- )の『飛騨戦後詩史』(一九七七すみなわ詩社)の冒頭で触れられてゐる解説が纔かに詳しい。 以下詩人の伝承記事は各詩集に収められた覚書のほか本書の記述に拠ったが、飛騨における若手抒情詩人たちについては改めて別リストを作ってみた。◎印は同様に平光連載にもれたものである。

『雪の夜の歌』奈良進 昭和15年 日本詩壇發行所(布施)刊
◎『田舎物語』桂美津夫 昭和15年(高山)刊
『出發の朝』奈良進 昭和16年 詩文學研究會(東京)刊
『温室』小林正純 昭和16年 詩文學研究會(東京)刊
『山のうた』桂美津夫・住友雄(姉川實造)・森本一雄 昭和17年 飛騨文藝研究會(高山)刊
『風景と處女の歌』奈良進 昭和19年 詩文學研究會(東京)刊
『谷あひの唄』笠俊介・八賀花仙 昭和21年 銀嶺會(高山)刊
『谷間の書』笠俊介 昭和26年 山脈詩派社(高山)刊

 奈良進(1919-?)は秋田から単身やってきた鉱山技師の青年で、和仁市太郎が「山脈詩派」一号分の全頁を使ってデビューさせたといふ異色の同人。 先輩達を一驚せしめた練達の詩句は、初期の詩集において甘い措辞も目にたつが、「戦時体制版」と銘打たれた片々たるガリ版刷の第三詩集『風景と處女の歌』において、 北園克衛や八十島稔が書いてゐたやうな郷土詩、つまり四季派的抒情の終着点ともいふべき枯淡間適の境地に辿りつく。自らいふやう「身装に反比例して最も充実した詩集」となってゐる。 跋文を「北方派遣○○隊」から寄せた彼は、敗戦とともに消息を絶った。彼と同じく秋田出身の鉱山技術者であった秋山潤の詩集『石ころ道』跋文(昭和23年時)において、 和仁が奈良進の消息を案じてゐるのだが、これはどういふことなのだらう。昭和30年当時、平光氏は秋田県在住と記してゐるのだが、その後彼の名になった詩集を聞かない。
 笠俊介(本名笠井正三1920-?)は国鉄の機関士で、奈良進同様「山脈詩派」「詩文学研究」に拠って研鑚を積む傍ら、文藝運動を通じて職場の意識改革に心砕いてゐた青年労働者である。 「詩を創るといふこと自体においてにらまれていた」田舎にあって、むしろ彼は戦後レッドパージに遭ふことで抒情の立場をかなぐり捨て、リアリズムに身を投じる道行をとった。 しかしその変節以前の詩、つまり桂美津夫名義で「山脈詩派」の友人達と発行した共同詩集『山のうた』には、四季派の調和ある自然観が飛騨の山水に遺憾なく映ぜられてをり、 三者ともの作品がそれぞれに瑞々しい。
 小林正純もまた高山機関区にあったひとで、豪北へ出征の後、消息の不明になった詩人である。その戦死は家族の許から飛騨の詩友たちには知らされなかったのであらう。 詩集は未見である。

 思ふに斯様な詩人達は飛騨に限らず、各地方の田舎には相当数ゐたのに相違ない。彼らを「四季」への直接の投稿者にさせず、文学青年らしい素心をつかんで掌握してゐたのは、 彼らの詩集の発行所名からも窺へるやうに、「詩文学研究」の梶浦正之や「日本詩壇」の吉川則比古など、 大正後半期にデビューしてそのまま自分が主宰する全国販路の詩誌上で「お山の大将」をきめこむことに成功した「二流の宗匠詩人」達であった。家庭の事情で上京することが叶はぬ、 文学的失意を抱へた地方の才能にとって、敷居の高い「四季」を避けてさうした同人雑誌に拠ったのは、そこが三好達治の選におびえる必要のないプライドの傷つかぬ「ぬるま湯の寄り合ひ処」であったからかもしれない。 しかし同時にもっと切実な意味合ひもあった筈である。当時、同人誌の集会に全国から集まってきた年代を同じくする彼らが、短い交歓のひとときを一期一会の思ひで臨んでゐた様子を、 たとへば詩文学研究会の会合(昭和17年7月)を回顧する次の一文などはよく伝へてゐる。

 (前略)当日の会の顔ぶれは30名たらず。いい合せたように冴えない顔色と暗く沈んだ表情は戦局の不利というよりも、 自らに迫ってくる運命とのたたかいに疲れきったといういい方が当っていたであろう。その日、梶浦正之師は詩集「三種の神器」を出版したばかりで、 その四六版大の外箱・紫・赤二種色分総生地張の豪華製本は絢爛目を奪うばかり、師の説くところ皇国日本。会する者、ひとしく腕を組み憮然たる面持。 (略)血色のすぐれた師をとりかこんでいる愁訴にみちたまなざしを、その日、全国から集まっている詩人に見たのである。(後略) 上本正夫「木下夕爾との出会いのこと」(『含羞の詩人木下夕爾』一九七五木下夕爾をしのぶ会実行委員会)より

 出征を控へてゐた彼らにとって、詩集は遺書にほかならなかった。韜晦であっても諦めであっても勿論未熟であってよいわけだ。 けだし四季派が啓いた清潔な知的表現を慕って詩作してゐた彼らは、短歌的抒情の時代的意義が終焉を迎へる際[きわ]に、打上花火の一番外縁で瞬いた四季派最後の輝きの群れではなかったか。 否、例へば木下夕爾のやうに、戦後もその孤燈を守り続けたのは、中央から隔たったこのやうなひとたちの生き残りではなかったかと思ふのである。それ故に私は、 模倣と呼んで彼らを軽侮する気持ちよりも、宿命を弔ひ愛惜に傾く想ひを時代の闇夜に仰いで如何ともしがたい。

 今回この項でとりあげた郷土の無名詩集については、書影とともに詩篇の抄出を順次このホームページのなかで掲げてゆきたいと考へてゐる。

初出掲載「人魚通信」2号(2004.6.15人魚書房発行)/2005.5.6改稿up)


岐阜戦前詩誌リスト 書誌確認分

詩誌 『詩魔』 (2013.6.12追加)


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