雑誌「コギト」をめぐって 2002/10/1 update

右より長野敏一・田中克己・薄井敏夫 昭和6年4月(後ろは安田講堂) クリックで拡大します。

「コギト」 創刊號(昭和7.3) 〜 145號 (昭和19.8) コギト発行所 肥下恒夫刊行。

 今更に「コギト」の紹介を書く、しかも例へば初めてここへ訪れて(迷ひ込んで?)来た、昨今の詩に興味があるといふばかりの人達に分かり易く、 となると、どんな風に説明したらよいものなのだらう。自信がない。

 「あれは戦争協力した文学者集団が若い日に興した反動的な同人雑誌にすぎない」といふ研究擬ひの弾劾文章が、一昔前なら当然のやうに文学史の上で 罷り通ってゐた時代がありました。テレビのニュース番組で社会的良識を拵へてきた一般の人には、その方が手っ取り早く分かり易く、背後で論陣を張ってゐる 文学研究者にとっても、当時の文学情勢をただ感情的に蛇蝎視することで、自らの見識を一段上げられたやうに感じられた、 さういふ時代が戦後のつい最近まで続いてゐたのです。若い批評家達はさぞかし「紅衞兵の気分」を味はったに違ひありません。 さうして戦前から活動を続けてきた文学者にとっては、戦争中の過去に関はる一切をキナ臭いものとして、殊にも脛に傷持つ者ならば無用な問題が身に降りかかるのを避けるためにも、 これを踏んで通らねばならぬ「踏絵」として、「コギト」および「日本浪曼派」といふキーワードを自らの保身の為に否定してきたのでした。

 ここで単に「コギト」といふ雑誌の沿革をお話したところで仕方がありません。もう少し続けさせて下さい。

 さて、今では「何故文学をするのか」といふ問題について、尤らしく世界平和のためであるとか、有名になりたいからだとか、本音のところ生活のため だとか、幸せにもただ素直に好きだから、と様々に答へ得ることでせうが、突き詰めてゆけば「そんなこと余計なお世話だよ」、といふ自由によってモチベー ションの全てが社会的に保証されてゐる時代です。むしろ重要なのは自分のやらうとしてゐる文学の「対象」やその「装ひ」が時代遅れではないかどうか、その 一点であるのに相違ありません。しかしここに、「何を」でも「どんな風に」でもなく、「何故」といふ動機を文学をする前提としてのっぴきならない問題とし て突き付けられ、明快な解答を見出せぬまま「前のめり」になった姿勢を自らに強いながら、暗闇の時代の真っ只中を直進せざるを得なかった一群のグループが 過去に存在したことを、私は自分の読書遍歴と古書探索の中で知ることになったのでした。彼等は暗闇の中で躓きます。所謂戦争協力についての問題です。それ をあらためて今日的な意義から考へ直してみようと、つまり彼等「コギト」の人々の様相を当時の歴史的な状況の上でとらへ直し、その発生と変態の必然が意味 するところからの反省を汲み取る努力をしてみようと、私は自分の好きな抒情詩の背景に広がってゐるこの政治的な問題についても深い関心を寄せるやうになっ たのでした。生活が次第に豊かなものとなり社会が否応も無く平穏の方向に向かひつつある時に、「何故文学をするのか」はイロニーとしてすぐれて今日的な命 題でもあるとも云へます。さうしてその問ひに答へることができなかったならば、私達は再び別の場所で同じ轍を踏む類比を、さらに後世の批評家から受けるこ とになるのではなからうかとも思はれるのです。

 抒情詩を愛する立場から、その作業は反省を他者に突きつける類のものではなく、彼等の意志を時代相から救ひ上げる鎭魂を目指した、追体験の心情か ら離れることはありませんでした。

 「コギト」とは、デカルトの謂ふ「cogito ergo sum我思ふ故に我あり」における、 内省する自我を指す言葉であると解釈されます。良心に基づいた純潔な抒情といふものを大切にした彼等のエコールとしての特徴は、 時代の混乱のなかで己を打ちたてるべく旗印に掲げた「何故自分たちは文学をするのか」の一点に集約的に表れてゐるといっていいでせう。 彼等が文学的出発点をする前夜の昭和初年の当時は、文学をめぐっても「何のために」のもとで革命の可能性が語られ、 「どんな風に」手工は可能であるかモダニズムが爆発するといった、各種同人誌が乱立するまことに文学的青春が謳歌された時代でありました。 双方はやがて文学それ自身の理由を書き手の中にではなく、文学の効用や手段といった外部に求める方向に変質していったのですが、 元々は彼等もまた「何故文学をするのか」の問ひについて、一方は社会的不正義に対する怒り、他方は冗漫な主観垂れ流しの抒情に対するプロテストとして発生した良心が命ずる革新運動であったには違ひないのです。 それが社会情勢の右傾化するなかで一方は立場の浮薄を露呈しつつ当局に潰され、 一方は完全に政治社会と乖離したところで詩作することに文学の自立を求めていった・・・さういふ具合に時代の青春が一応清算されてゆく落日の中においてでした、 当時高校時代に主宰してゐた短歌雑誌「R火・かぎろひ」の同人を中心に、大学生になったクラスメートたちが鳩合して新しく文藝同人誌を創刊しようと考へたのは。創刊宣言は大変勇ましく高踏的なものです。

「私らは古典を殼として愛する それから私らは殼を破る意志を愛する」

 編集後記の最後に添へられたこの言葉には、共産主義を押し潰した体制が、今後我々をも否応無しに引きずって進んでゆくだらうといふことへの危機感 を踏まへ、ならば反対にこちらから素養としてあった伝統をさらに身に強固に纏ひ、その詩精神の命ずるままに、体制が意図するよりもさらに強い過激なやり方 で自分達の意志をぶつけてやることで、却って体制やそれに尤らしく追隨する俗人文学者に潜んだ「生半可な姿勢」や「嘘」を暴きたててやるのだといふ、彼等 が選択した文学上の方法、所謂「イロニー」の芽生えが注意深く表されてゐます。さうする以外には自分達の文学の根底にある動機を純粋に保つことができない と判断したからでありました。但し雑誌の中にはそれがさうと語られてゐる場所は周到にもなかなか見つかりません。しかし「四季」が知的操作の点ばかりでな く、政治への不干渉といふ態度においてモダニズムとの隣接を色濃く残してゐるとするならば、「コギト」が往々プロレタリア文学との関係において語られるの は、さういふ文学の動機面において高見順が云ふやうな、正義に拘らずにはをれない「ひとつの根」をやはり両者が胚胎してゐたからと云へるでせう。若干の世 代的な相違が彼等を直接的な反抗と屈折した呪詛へとの色分けを決定付けたのです。そして結果として、先輩達(プロレタリア詩人達)は潰され、後輩達(コギ ト同人達)は動機を韜晦したままやがて体制の右傾化の加速度が増すに連れて過激が過激に感じられなくなってしまふ、それ自体イロニックな政治状況のうちに 自然な形で戦争にも賛同することとなってゆくのです。当初若輩の彼等へ向けられた先輩たちからの批判を、「コギト」のリーダーであった批評家、保田與重郎 の韜晦する文体は巧みにかはし跳ね返してゆきます。一方、伊東静雄や田中克己などコギト同人の詩人達の詩作品が精神の「危機の場所」を歌ふことで、彼の文 明批判の詩論の実証として利用され輝きを帯びてゆきます。つまり一人の卓越な批評家と、同志ともいふべき周辺の詩人達とのそのやうな「共同の営為」の関係 の中で、「コギト」は日本の文学史に対して独自の主張をしはじめるのです。

 このHPではおもにその初期の先鋭的な動向について扱ってゆくことになるかと思ひます。しかし今述べたやうなその後の日本の歴史と運命を共にした 彼等の残落、所謂「日本浪曼派」の名で括られて批判される戦争協力の問題についても、私達は今後も思ひを馳せてゆくべきであるでせう。単純に戦争反対を唱 へるのはまことに易いことなのですが、一般人はともかく、また血気盛んなこれら若い文学青年達を分けたとしても、良識ある知識人である筈の文学者の全てが 諸手を挙げて神話の実現、近代否定、戦争賛成に傾いていった事実には何か十分納得のゆく説明が、ただ「あの時代は狂ってゐた」といふことではなくして、歴 史の俯瞰の中でされなくては納得がゆかぬことなのです。戦争への憎しみを被害者として、あたかもそれが自分の与り知らぬ他者のものであるかのやうに批判す ることに終始してきた「コギト」の次の世代の若い批評家達。その心情は理解できるものの、しかし現在21世紀を迎へるにあたってそのまた幾つか後ろの「孫 の世代」にあたる私達にとって、あのやうな時代を生んだ必然性を直視することはそのまま具体的な憎しみに繋がるものではありえない、しかしそれをまた与り 知らぬものとして受け継ぐのではなく、動機のみを救ひ上げ鎮魂の意をもって太陽のもとで漂白しなくては、との思ひが少なくとも私にはあります。さうでなく ては私たちは同じことを歴史の中で繰り返しさうな民族性を、経済至上主義の成功の思ひ上がりの陰に「懷刀」としてやっぱり蔵したまま生きてゆくことになり はしないだらうかといふ回想と反省です。

 ここからは「コギト」といふよりも「日本浪曼派」の問題になりますが、私は以前、あの時代を15年戦争といふスパンではなく、開國明治維新にまで さかのぼった臥薪嘗胆の百年にもわたる戦争の帰結点としてその必然性を位置付けようとした一冊の書物、大変挑発的な書名をもった「大東亜戦争肯定論」とい ふ本に出会って大層うろたへた覚えがあります。古書市の片隅で二束三文で売られてゐるのを非常な抵抗感をもって手にとり、反感とともに目を斜交いにして読 みながら、しかし今お話した私の疑問について、(当時国内の一般人の与り知らぬところで日本軍がアジア各地で行ってゐた残虐行為に対する責任を別にすれ ば)、不思議に一応の辻褄がつけられてゐることについて、非常な衝撃を受けた記憶があります。けれどその著者の言ひ分を全く善意に解釈して私が簡単なモデ ルをもって作り直して自分の中にしまひこんでみた「或る寓話」の結末、つまり今日 これからの日本についての展望については、残念ながらうまく私の中に整理できてゐません。詩をめぐって話をする際にも、個々の詩作品レベルではなく、また 優秀な一詩人の生涯ばかりではなく、「コギト」なり「四季」といった当時の歴史的背景を背負はされた詩誌レベルの括りでもって私の中に蟠りつづけるてゐる のは、結局詩人が歴史と遊離するものでないことは判りつつも日本人としての自分のアイデンティティに決着がついてゐないからなのかもしれません。 が、い づれ避けては通れない。日本人として日本の詩人として、行為と詩作から良心の在り処をこれからも明らかにしてゆかなければならないと考へる所以です。

「何や、カッコええこと云うとるな。わからんわ。御託抜きでもっと簡単に教へてんか、コギトって何やのん?」

 大阪高等学校同窓生が昭和7年に始めた文藝同人雑誌です。終戦間際の雑誌統合で廃刊となるまで計145号が発行されました。

 主な創刊同人は、保田與重郎、肥下恒夫、田中克己、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己、薄井敏夫、松田明、石山直一ら。 昭和10年代に一世を風靡した保田與重郎の文芸評論を中心に据え、抒情詩人の伊東静雄が主要作品を発表した雑誌としても名高い。外部からの同人を迎へ、 「四季」他からも多くの寄稿者が往来し、昭和十年代を通じて日本のロマン主義文学の拠って立つ代表的な文藝雑誌として機能しました。 非営利雑誌としての資金確保を可能にしたのは、同人中の素封家であった肥下恒夫の文学上の友情に賭ける情熱によるものでした。

「まぁええわ。ほんで下が創刊当時の写真とか? 気張って写ってまんなぁ。大阪からけんか売りにきたちうわけやな。」

といふか(汗 笑)。なんやかや威勢よく見えても、結局人情のオチ(サゲ)を大切にする心弱き文学青年達のあつまりであるわけです。

「さよか。」

大阪高校同期生
昭和9年1月、大阪高校同期生(帝国大学図書館前にて)クリックで拡大します。

大阪高校同期生
大阪高校同期生
01 :田中克己
02 :長野敏一
03 :薄井敏夫
04 :紅松一雄
05 :山田鷹夫
06 :鎌田正美
07 :保田與重郎
08 :山本治雄
09 :井上[木+參]しん
10 :原田運治
11 :藤田久一
12 :丸三郎
13 :肥下恒夫
14 :友眞久衛

青色はコギト同人


戻る Back

ホームページへ戻る Top