Back(2008.05.27up/2011.02.05/2017.01.11update)

『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート 伊藤信著 大正14年 梁川星巖翁遺徳顕彰会[西濃印刷株式会社内]刊行


【ノート1】はじめに

 予告の通り、伊藤信先生の名著『梁川星巖翁 附紅蘭女史』(大正14年,[西濃印刷株式会社内]梁川星巖翁遺徳顕彰会刊行)の読耕を開始しました。

 今日までに梁川星巌とその妻紅蘭を扱った伝記といふのは、この本を嚆矢として何冊か単行本が存在してゐるやうです。 戦前すでに中谷孝雄や地元詩人である武藤和夫による翻案小説があり(『梁川星巖』 昭和18年、『勤王詩人梁川星巌』昭和17年)、東京に移転した子孫の稲津家、 孫曽氏による伝記『先覚詩人梁川星巖』(昭和33年の刊行)があります(資料の引用に誤謬が散見されるのが少し残念)。 大原富枝氏の『梁川星巌・紅蘭:放浪の鴛鴦』(昭和48年)は、若き日の星巌夫妻の“西征”=西日本紀行のことが旅程に沿って描かれてゐますが、 なかで伊藤信については「この種の研究家にありがちな惚れ込みよう…空疎な讃辞があまりにも多く」(84p)と苦言を呈されてゐます。 『房総文人散歩 梁川星巌編』(鶴岡節雄著 昭和52年)は、江戸に玉池吟社を開いて成功した後に夫妻で周游した房総半島の紀行記録を追跡した一冊。その他専門書に載せる解説をはじめ、 最近また『梁川星巌・紅蘭「京への道」桑名・ひとときの休息』(伊藤宗隆著 平成19年)なる地方出版本もあらはれました。しかし要するところ、 詩人に関係する事跡はもらさず伊藤氏のフィールドワークと呼ぶべき尽力によって集められ、最初にして最大であるこの伝記中に収められてゐるのであって、 なかにはすでに散逸してゐる資料群も含んでゐます。『梁川星巌全集』の詩篇解釈の偉業とともに、すべての後続本が、唯一の参考書として本書を仰いだことは、 著者伊藤氏自らの例言を一読すれば納得ゆくところでありませう。このホームページ風に喩へるならば、伊東静雄や蓮田善明の伝記を書いた小高根二郎氏のやうな方、 まづはそんな感じであります。もとより大正時代に成った著作ですから、巻頭の賛序はじめ、古色蒼然たる建前を有してはゐますけれど、 為に詩人が今日忘却される原因となった「皇国思想による贔屓の引き倒し」は、この本においてまだまだ戦争中のやうなヒステリックのものにはなってをらず、私には、 (少なくとも冒頭からしばらく読んだかぎりでは)、憶測を以て断定せず、異説があれば紹介する労を惜しまぬ態度を、却って意外に感じたことでした。勤王思想について一言するならば、 これは江戸時代後期に在野にあった詩人たちの、在野たる自負が、そのひそかな「反骨」のよりどころに据えてゐた概念として理解すべきなのであって、 これを鬱々たる不撓の志として理解してゐる点では、同じ「反骨」でも星巌をヒッピーに譬へる大原富枝氏より、伊藤氏の方が江戸時代のひととなりに近いかもしれない。 さうして今は喪はれた忠孝の倫理が活きてゐた戦前文化圏の叙述に、一度寄り添って読んでみるのもいい、さう考へるやうになったのでした。

※巻頭から、石井研堂(雑誌「小國民」主筆)、江木千之(もと文部大臣)、阪本蘋園(阪本越郎の父)、蘇峰翁、水谷弓夫(もと土岐郡長)といった、厳めしさうな人達の題賛、 題辞で飾られてゐるこの本、象山社による復刻版(昭和55年)には、磊落な人となりをしのばせる冨長蝶如禅師による解題が、巻末ではなく巻頭に付せられてゐますが、 この本を手にとる新しい読者に対する配慮でありませう。長い序文ですが茲に引き、合はせて漢文題辞を書き下してみます。

刊行にあたって

 本書『梁川星巌翁附紅蘭女史』は大垣市の歴史家故伊藤信氏の畢生の労作で、星巌の全貌を詳述した唯一の伝記として、その資料的価値を高く評価されている名著である。 大正十四年に梁川星巌翁遺徳顕彰会より発行されたもので、その内容はまことに精緻をきわめ、詩聖としての、また維新回天の先駆者としての星巌の人間像を余すところなく浮き彫りにしている。 しかも、本書に引用の彪大な文献資料は、文学史上、または幕末維新史の研究には欠かすことのできない貴重な資料でもある。
 だが、この名著も、刊行以来五十五年を経た今日では入手不可能の稀覯の書となり、ために研究者各位から久しく復刊を望まれていた。このたびの復刊は、こうした御要望にお応えすべく、 著者の御遺族伊藤胖氏や関係者の御好意を得て、同書を復刻して再び世に送る次第である。
 なお、復刻にあたっては、新たに、同朋大学教授冨長蝶如氏に『解題』を付していただいて、読者各位の研究の便を図った。

  昭和五十五年七月  象山社

解題

         同朋大学教授 冨長蝶如

八年前のこと、草深い田舎に、意外な客の来訪をうけた。竹林をうしろにした小暗い書斎の乱書の間に通すと、ナント大原富枝さんであった。案内の人とともに来て、 まことに物静かに話しかけられたのは、梁川星巌と紅蘭のこと。こちらも、二人の事蹟については多少調べていたので、喜んでお話をした。その翌年、 昭和四十八年に出版されたのが『梁川星巌・紅蘭−放浪の鴛寄」の一書である。読んでみると、まことによく調べられ、その題名にふさわしく情趣の深い筆致で叙べられている。
 外でもない、ここに取りたてて大原さんの著書を持ち出したのは、「放浪の鴛鴦」という命題に深く心を惹かれたからである。
 思うに、星巌ほど、波乱万丈の生き方をした人は稀であろう。

十九歳、江戸に遊学し、山本北山の門に入る。江戸遊学中、吉原に遊んで放蕩をやらかし、美妓花扇と深馴染となり、今まで田舎者扱いをした悪友どもをアッと言わせた話は有名だが、 こうした艶話にも、その気象と機略がすでにうかがわれるのである。結局は借金がかさんで、散々の目に逢い、郷家に詫証文を入れ、ヤッと許されて、帰郷する。

その翌年には、京都に遊んで文人と交わったが、二十二歳の九月、再び江戸に出て、また山本北山の塾に入る。かくて二十九歳まで七年間、江戸におったが、ここで星巌の才と学、 大いに進んで、詩人としての地歩を占めた。大窪詩彿は『星巌詩集』に序した言の中に、「余ハ、ヒソカニ、異日、騒壇ノ主盟ヲ以テ期ス」と言い、菊池五山は、 『五山堂詩話』を著わして当時の詩家の評論を盛んにやっているが、ここにまた「詩禅」の詩を推称している。その交わるところは柏木如亭・巻菱湖・太田錦城・朝川善庵など、 みな学者文人の歴々である。

それが江戸に見切りをつけて、総髪道服のやつれ姿で、自ら「悪帰」というごとく、スゴスゴと帰って来る。思うに、生活にも疲れたろうし、 故郷なつかしの想いもかさんだのであろう。家に帰ると、その居所を「梨花村草舎」と称し、ここで村の子供たちを集めて塾を開く。

この「曽根」というところは、三方は山で、その麓を湾曲して流れているのが揖斐川の清流。曽根は、起伏した丘陵地帯にあり、水田に連なって一面に梨の花が咲く。ここは、 今もなお梨の名産地である。小高い丘の上にあるのが華渓寺で、住持の大隠和尚は、星巌の祖父長宅の弟で、この人は儒学に通じ、かつ詩書を善くした。この華渓寺の下に、 稲津家の宏大な屋敷があって、白壁の土蔵が並んでいたことは、故老の伝えるところである。

梨花村草舎には、毎日、村の子供が集まってくる。その中に、利発そうなキビキビした少女が目を輝かして、本を読んだり、字を習っている。これが、名はきみ。のちに、 景と改めた。紅蘭そのひとである。時に十四歳。星巌とは「またいとこ」にあたる。文政三年(一八二〇)の春、星巌三十二歳、紅蘭は、十七歳で結婚をする。これには紅蘭が、 星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻とならんことを父に請うたと言われている。「人を識る」のは「明智」の第一だと言われているが、女丈夫の紅蘭のことだ。十七歳にして、 星巌の真骨頂をよく見抜いていたものである。

ところが、結婚後、幾日も経たぬのに、星巌は、新妻に「ワシは近国を旅して来る。お前は、裁縫をやること。それから学問をすること。まず『三体詩』をよく読んで暗誦せよ」と言い残して、 飄然として門を出て行ってしまう。
 それから、三年を経て、文政五年の春、ブラリと帰って来た。いったい、どこを歩き回ったのであろう。新妻をおいてきぼりにして、どういう気持であったのであろう。詳しいことは、 よくは判らぬ。ただ、三河・遠江・駿河の間を漫遊したということだけは、その稀少なる詩によって想像される。

星巌が漂泊している間に、この新妻は、どえらいことをやってのけた。命ぜられた『三体詩』の、「絶句」だけではない、長い「律詩」まで全部、 暗誦したというのであるから、その頭脳の明晰なこと、また、その勝気なこともにも驚かされる。しかも、五言の詩を一首、詠出している。

   無題

階前栽芍薬 堂後蒔當帰

一花還一草 情緒雨依依

 第二句の「當帰」は、草の名。オホゼリ、カワゼリ、ムマゼリ。芹の一種で薬用にする。人を待つ心に寄せて、この「當帰」の名をきかせたのである。
きぎはしの前には、芍薬を植え、座 敷のうしろには、當帰をまきました。花には、わたしの姿をうつし、草には、わたしの心をこめて。ああ、わたしの想いは、この花と、この草に、離れたことはありませぬ。

 郎君を想う深い情を、直叙せずして、草の名を借りて、巧みに表現している。まことに凡手の及ぶところでない。これは『紅蘭詩集』の中の絶唱とすべきであろう。
 星巌が、新婚早々にして、こんな新妻を家においたまま、足かけ三年もあてどもなく諸国を巡り歩いていたということは、まことに奇異なことだ。
 このご両人には、いわゆる「蜜月」はなかったことになる。その甘美なる蜜月を放りすてて、いったい何のため、何処をうろついていたのであろう。星巌の伝記を読むごとに、 ここに到ると、不可解至極の疑問に突きあたる。結婚早々、二人は喧嘩をしたわけでもない。新妻はおとなしく留守居を守って、針仕事をしながら一生懸命に『三体詩』を開いては、 その詩を暗謂していたのである。
 この、駿府旅行については、考えさせられるモノが多いが、結局それは、星巌その人のみの知るところである。余人がアレコレ瑞摩推測しても、判ることではない。

ただ、判ることは、星巌には、その生涯、旅から旅へと歩き回る漂泊性があったということである。西行も芭蕉も、漂泊の一生ではあったが、星巌になると、珍しいことに、 その妻を同伴しているのである。今日では想像もできぬ難儀な旅行を、よくも扶け合って歩き回ったものだと思う。
 例えば、文政七年(一八二四)五月、広島を発して九州に入り、福岡の西端、西新町の海岸の百道松原に、亀井昭陽を訪ふたときのこと。昭陽は「儒侠」と称せられた亀井南瞑の子。 父子ともに学名が高かったから、星巌はこれを訪ねて、一首の詩を贈った。やがて辞して去ろうとすると、これを見送った昭陽は、紅蘭のうしろ姿を目送しつつ、 「艶冶、あだかも娼婦のごとし」と罵ったということだ。冷罵もここに至っては、極まれりと言うべきである。
 紅蘭、ときに二十一歳。元来、紅蘭は派手な粉飾はしなかったことは、文政五年に画かれた「白鴎社集会図記」を観ると、よく判る。星巌を中心として描かれた十一人の人物の中に二人の女性がいるが、 前に坐った江馬細香のうしろに、つつましく控えているのが十九歳の新婚の紅蘭である。これをみると、容色は美しいが、しかもこの図記の文を作っている村瀬藤城は、この紅蘭のことを、 「珠翠ヲ装ハズシテ、天然ノ采顔アルモノ」と記している。派手な粉飾をしないで、自ずから気品があるというのである。紅蘭ほどの女性である。低俗な風態をするはずがないと思われる。
 それを、九州の田舎にいるこの無骨な老学者の目には、ベラベラの美装をまとった娼婦に見えたのであろう乎。

こうした一片の挿話は、畢尭、鴛鴦の放浪の旅の苦難の一端をのぞかせている。
 長崎に到ったときは、古寺の小部屋を借りて住み、生計は、窮苦であったと伝えられている。しかも漂泊は、際限なく続く。九州から中国、中国から四国。京都には二年余も住み、 頼山陽夫妻とも親しく交わったが、やがて帰郷。そして、それが半年も経たぬうちに、また大垣を発して桑名へ。
 津に到って、津坂拙脩の家に寓する。月ヶ瀬に梅を観たときは、多くの人が同行して盛観を極めたが、やがて京都に入り、京に在ること四年。天保三年(一八三二)、 こんどは東行して江戸に入り、八丁堀で借屋住いをする。このときは、最も貧苦のどん底にあった。かくて弘化二年(一八四五)まで江戸に在ること、実に十四年に及ぶ。
 この江戸住いは、星巌、四十四歳より五十七歳まで、紅蘭は二十九歳より四十二歳まで。この江戸生活では、あるときは火事に逢って、家を焼くのみか、 紅蘭が愛していた白兎が行方不明になって大騒ぎをしたり、一度は夫婦喧嘩の末、紅蘭が郷里に帰るといって家を飛び出したのを、門人がヤッとなだめて連れ戻したり、 といった事件が両人のうえに起こる。こうしたことは、いずれもその生活の窮苦に関連するものと見たい。しかし、この十四年間の江戸生活は、 星巌の詩人学者としての地歩を確立したものとして観るべきである。
 『孟子』に「天下の広居」という語があるが、実に江戸は政治と文化の中心であり、「天下の士」の集まる「天下の広居」である。
 星巌の人物と才と識と学とは、ここに、その嶄然たる頭角を現わしてきた。その交わるところは、安積艮齋・菊池五山・林檉字・林述齋・大窪詩彿・大沼枕山・朝川善庵等で、 ことに注目すべきは、華頂法親王から道服道帽を賜わったことだ。この栄誉に対して興味があるのは、最も文望の高かった松崎慊堂を、早くその羽沢の隠居に訪ねたことである。 また藤田東湖とも親しくなり、火事のときには、東湖の世話で、水戸邸の中の小屋に一時居を構えたりもした。
 かくして星巌の「玉池吟社」は、その盛を極めることとなり、また詩集も刊行される。

この江戸における盛名を負って、弘化二年(一八四五)、星巌は「玉池吟社」を閉じて江戸を去り、故郷の曽根に帰る。
 七月、江馬細香とともに小原鉄心を訪い、曽根を去って大垣に住した。鉄心との交わりが深くなったのは、この頃である。星巌と鉄心とは文墨の交わりのみならず、 ともに気味合いの相投ずるものがあって、知己として交際の始まったことは、星厳が寄せた鉄心宛ての手紙でうかがわれる。その気慨、その憂国の情、その詩人としての情藻など、 自ずから肌合いの通ずるものがあって、両者には「知己の感」が最も深かったろうと思われる。
 『鉄心遺稿』の巻頭に、星巌の手紙が原寸大の図版で載せられているが、その文中に「読書吟詩十年来、等身の書を読み、詩も千五百作り候」と書き送っている。この自負と自信を、 腹うちわって書き送っているところに、惺々は惺々を識るとやらで、両者の真の交情が判るというものだ。
 さて、星巌五十八歳、紅蘭四十三歳。弘化三年(一八四六)四月、両人は郷里を発して再び伊勢に行き、津にて斎藤拙堂に会い、九月までここに留まる。この間注目すべきは、 紅蘭が星野、緒方、山北の三氏について琴を習ったことだ。
 それは七絃琴で、これは古く明の心越禅師が日本に帰化したときに琴法を伝えたとされるもので、その伝来と流布については、中根香亭の『七絃琴の伝来』に詳しく考証されている。 ところで、紅蘭はこの七絃琴にとりつかれ、寝食を忘れて熱中する。それがのちになって、紅蘭四十九歳のとき、古琴一張を「釵を抜き、裙を脱して」金に換えて買い求めることになるわけで、 これが今なお遺物中の逸品となっている「老龍琴」である。ここらにも、紅蘭の床しい豊かな情藻の程が偲ばれるのである。
 この年の十二月、押し詰まって京都に入り、三條木屋町に宅を買って住むが、やがて東三本木に移って、ここに定住、その漂泊の生涯の幕を閉じる。

弘化三年(一八四六)から安政五年(一八五入)にいたる十三年間の京都での生活は、その詩に観ると、書や画の潤筆銭による貧しいものであったらしいが、 これは当時の文人生活としては、致し方のないことだった。頼山陽ほどの高名のものでも、潤筆銭を催促する手紙を残しているほどで、山陽の場合は潤筆銭を踏み倒す非礼を責める意だろうが、 やはりそこに、潤筆にたよる文人生活の姿の一面もうかがわれる。
 古来、道を求めるものは、清貧に徹した。この素純なる精神から、学は成り、詩や歌が生れてきた。星巌の漂泊の一生も、常に一つのものを追求したのだ。その姿は、速き昔、 漢の司馬遷が「千里ノ道ヲ行キ、萬巻ノ書ヲ読ム」と言ってついに不滅の大著『史記』を著したが、星巌もまた、生涯、この道を行ったのである。その晩年の京都での生活は、 静かに書を読み、深く道を探求した。
 そこから生じ来たったのが『香巌集』三巻、『自警録』十一巻、『春雷余響』十巻である。
 これらを読むと、仏道と儒道に沈潜し参入することの如何に深かったかが思い知らされ、ただただ驚歎の外はない。すなわち、その漂泊の生涯は、漫然たる旅浪の旅行ではなかったのである。 常に真を求めて己まなかったのだ。ここでまた、しみじみ思うのは、星巌の学識の深いことである。
 当時、頼山陽とは深く交わったが、学問に於いては、山陽はとても星厳に及ぶものではない。もちろん山陽は、史学には最も深く、才や学や識、ともに一世を風靡したものだが、 その学は『書後題跋』によって知るぐらいで、これでは星巌のごとき深遠なる学識を観ることはできない。

かくて、大成したる星巌は「詩壇の梟雄」と目され、しかも時代の大転換期に処しては、多くの勤王の志士の指導者となり長老となった。 佐久間象山をはじめ吉田松陰・西郷隆盛・梅田雲浜らのいわゆる「天下の士」が集まってきた。こうなると、この瘡せこけて眼光のみ爛々たる老詩人は、憤慨家であり、志士であり、 陰謀家でもあった。こうしたところにも、真を求めてそれに邁進するその熱烈なる血性を観るのである。
 安政五年九月二日、星巌は疫病にかかって、にわかに没した。そして同月十九日、幕吏が入京して、志士たちは捕縛された。

紅蘭、時に五十五歳であった。捕えられて獄に投ぜられたが、厳しい吟味にもビクともしなかったという。かえって役人をやり込めたりしたが、一つ心を惹かれる話が伝えられている。 それは、可愛がっていた一羽の鳩で、主なき家の籠の中におって、餌をやる者がいない。紅蘭はそれを思うと、ワーワー大声あげて獄中を狂い回り、 事情を聞いた奉行が人をやって鳩に餌を与えたというエピソードである。先の江戸での火事のとき、白兎がいなくなったことで大騒ぎをしたということともあわせて、紅蘭の情愛の深い人柄を思い知らされるのである。
 紅蘭は、夫亡きあと、明治十二年、七十六歳まで生きのびた。明治二年には、お上から扶持米を賜わり、同六年には七十の賀延が行なわれ、それは平和な余生であった。その間に、 山水や梅を描いたりしたが、その風懐は今に伝えられている。
 また、今もこの地に語りつがれているものに、こんな興味深い話がある。七十四歳の時、京都から郷里の曽根に帰ったが、その頃の話に、この老婦人は、時折、 近くの神戸(ごうど)という町に買い物に出かけたらしいが、そんな時には、よく八百屋の店先きなどで、菜っ葉や芋やらを腰をかがめて見入っていたという。その人が誰であるかは、 土地の者はもちろん知っているので、その姿を遠くから眺めながら、噂し合ったものだというのである。この老婆、しかし、ただものではない。 かつては九州の田舎学者の目を驚かせた美人で、それが年をとるに従って、史上にその名をとどめていく女詩人、女丈夫なのである。

伊藤君竹東の『梁川星巌翁』は、その考証が最も精詳で正確、伝記としては、まことに名著として推称すべきものである。わたくしは、この人とは詩の上で深い交わりをしたが、 人柄も温和で寡黙、話というと、郷土の先賢のことがもっぱらで、俗事は絶えて口にしなかった。わたくしが教えられることは極めて深く、ただ詩文の上では、つねに相談をかけられた。 その真を探求した姿は、まことに貴いものだと今も思っている。
 この書の成るについて思うことは、高瀬代次郎著の『佐藤一齋とその門人』の一書である。発行は大正十一年で、この『梁川星巌翁』は大正十四年。両者の相隔たること、 わずか三年である。一齋は、美濃岩村の人。その学は深く、その徳は高く、文章は松崎慊堂と併称された人である。
 しかし、曽根より出た星巌は、この一齋と声望や事績において、優るとも劣るものではない。おそらく伊藤氏は、高瀬氏の影響と言わんよりは、むしろ自然に、 この郷土の偉大なる先賢を顕彰したいという意気に燃えたのであろうと観たい。
 『梁川星巌翁』を読むと、その資料を蒐集探訪するには、労を厭わず、よく身力を傾注したことが歴々としてわかる。巻末に載せられた「人名索引」に観ても、 その量の多くして層の厚きには、ただただ驚嘆の外はない。
 ことに最も多とするのは、星巌の詩が、豊富にかつ広汎に引用されていて、しかも、その時の史料として最も適確なる詩が、うまく掲出されていることだ。近ごろは随分と前人の伝記が出版されるが、 その引用するところの漢詩や漢文を読むと、全く出鱈目至極のメクラ読み、よくもまあ、こんな奇怪な読み方をしたものだと、ただ寒心させられる。伊藤氏は、流石に、詩を作り、 よく詩を解した人である。この人にして、梁川星巌の詩を読みつつ、その史伝の筆を執って、この好著をやりとげたのは、まことにその所以のあることで、実に、その人を得たものだと思うのである。
 畢竟、わたくしの贅言は要しない。この書に序した徳富蘇峰の文は、すでに本書の真価を正しく重く評価したもので、これを獲たのは、生前の著者ばかりでない。 今日のわたくしどもと雖も、深く感動するものである。

題辞

文耀森芒角。西濃出軼材。    文耀(美しい光)の森たる芒角。西濃に軼材出づ。
騒壇名自重。峻節學相該。    騒壇、名は自ら重く、峻節、学は相ひ該し。
眼藐三槐貴。胸藏八斗才。    眼は藐(軽ん)ず、三槐の貴(紳)、胸は藏す、八斗の才(詩才)。
後賢興范陸。先路闘歐梅。    後賢として范陸(范成大・陸游の愛国心)を興し、先路として歐梅(欧陽修・梅尭臣の平淡な詩境)と闘ふ。
鴨水安吟榻。螽湖倚鉤臺。    鴨水(鴨川)の吟榻に安んじ、螽湖(琵琶湖)の鉤台に倚れり。
妖雲東海起。陰雨北門來。    妖雲東海に起る。陰雨北門に来たる。
老涙欲成血。雄心難作灰。    老涙は血に成らんとし。雄心は灰と作し難し。
空思咸有徳。其奈式微哀。    空しく思ふ咸有の徳(国民皆が持ってゐる筈の徳)。其れ式微([皇室]衰微)の哀しきをいかんせん。
身死不蒙辱。婦言能免災。    身死すとも辱は蒙らず。婦言能く災を免る(安政大獄時の処方)。
千秋詩巻在。餘響震春雷。    千秋詩巻在り。余響の春雷を震はす(遺著『春雷餘響』)。

 大正甲子秋初  後學 蘋園 阪本」拝題

序文 蘇峰學人

 我が星巖先生、詩を以て天下に鳴る。著作は当時に冠たり。世、仰ぐに以て詩壇の泰斗と為す。然るに先生、特に詩を以て称する者に非ざる也。其の晩年、京師に在り。 幕府の末造に属して、皇威振はず。外患日に逼る。国歩甚しく艱し。是に於て慨然、回天之志を発す。苦心焦慮、籌策万方、或は縉紳に出入し、或は志士と交接す。 窃かに以て盟を主するを自任し、『[龥]天集』を著す。以て其の志を見るに、悲壮沈鬱、忠憤之氣、楮墨の間に横溢す。蓋し先生、(杜)少陵に尸祝(私淑)す。少陵、天宝之乱に当り、 其の身は官に在り。流落飢寒、備(つぶ)さに艱苦を嘗(な)む。而して一飯(の恩)、未だ嘗て君を忘れず。先生、身は布衣(在野)と為る。而して独り君を忘れざるのみならず、 進んで其の実(まこと)をして、以て国家に靖献を挙げんと欲す。則ち其の功労は同日にして論ずべからず。宜(むべ)なる哉。 朝廷、特賜四位の栄を追賞する也。抑(そもそ)も少陵の慷慨、 先生の忠憤、共に道義を根とす。是を以て其の詩に性情の正しきを得、天地を動かし、鬼神を感ぜしむか。輓近、西学隆起し、各自専門を称す。若し其れ詩は、繊巧淫靡、罔徳・背倫の事と雖も、 曾て避けず。曰く、詩は自ら詩のみ。胡(なん)ぞ道義の拘束する所と為さんか、と。之を要すれば一種無用の具と為すに過ぎず。是に至り、益々先生の詩の性情の正しきを得るを見る。 而して世道人心に関する者有る也。况や靖獻の功の万世不朽に於てをや。伊藤君竹東、先生の伝を著す。辛苦數年、博捜遺すことなし。其の労、多かるべき也。余と先生とは同国。 夙に私淑す。君の序を徴するに迨び、平生の所感を叙し、以て責を塞ぐと云爾(しかいふ)。

 大正十年七月   於東京礫川僑居
                  奥嶺 水谷弓夫識

我星巖先生以詩鳴於天下。著作冠於當時。世仰以爲詩壇泰斗矣。然先生非特以詩稱者也。其晩年在京師。屬幕府末造。皇威不振。外患日逼。國歩甚艱。於是慨然發回天之志。 苦心焦慮。籌策萬方。或出入縉紳。或交接志士。竊以主盟自任焉。著龥天集。以見其志。悲壮沈鬱。忠憤之氣。横溢於楮墨間。蓋先生尸祝少陵。少陵當天寶之亂。其身在官。 流落飢寒。備嘗艱苦。而一飯未嘗忘君。先生身爲布衣。而不獨不忘君。欲進而擧其實。以靖獻於國家。則其功勞不可同日而論。宜哉 朝廷追賞。特賜四位之榮也。抑少陵之慷慨。 先生之忠憤。共根乎道義。是以其詩得性情之正。動天地。感鬼神矣。輓近西學隆起。各自稱專門。若其詩。繊巧淫靡。雖罔梍w倫之事。不曾避。曰詩者自詩耳。胡爲道義所拘束乎。 要之不過爲一種無用之具。至是益見先生之詩得性情之正。而有關世道人心者也。况於靖獻之功萬世不朽乎。伊藤君竹東。著先生傳。辛苦數年。博捜靡遺。其勞可多也。余與先生同國。 夙私淑焉。迨君徴序。叙平生所感。以塞責云爾。

例言
一、梁川星巖翁は我が郷美濃より出たる幕末の偉人なり。予成童、詩を先師高木竹軒先生に学ぶ。先生は大沼枕山の高弟にして、枕山は即ち星巖門下の高足たり。 故を以て予少時より屡々翁の事蹟を聞き、また其の遺著を読みて、年来深く翁の風格を景慕し、多年意を用ゐて翁に関する諸方面の資料を蒐集し、苦心十余年、遂に此の書を成すに至れり。 是れ一に翁の隠れたる事績を世に伝へんとの老婆心より出でたるものに外ならず。

一、世に翁の碑を記載せる書籍数種あり。「殉難録」・「近世偉人伝」・「学海一滴」・「日本勤王篇」・「日本百傑伝」.「徳川三百年史」.「西濃人物誌」・「近世人傑伝」・「勤王烈士伝」等是なり。 されど是等は概ね二三葉乃至十数葉の簡単なる略伝にして、中には誤謬をさへ伝へたるものあり。また「陽明学派の哲学」.「大日本倫理思想発達史」の如き、 一二、翁の儒学説を紹介せるものあれども、亦其の一端に過ぎず。若し夫れ翁の全伝に至りては、世未だ一も存せず。是れ此の著あるに至りし所以なり。

一、初め予が本書の編纂を企て資料の蒐集に着手せしは、大正三年の事なりき。同四年八月、予は翁の出生地曽根村なる華溪寺に加藤至誠師を訪ひ、 翌五年一月には大垣なる翁の詩友金森匏庵令孫毅庵氏及び翁と血縁ある河合二郎氏を訪ひ、越えて六年一月には京に上りて翁の門人江馬天江令息章太郎氏、及字田栗園令嗣豊四郎氏を訪ひ、 同四月には東都に出でて、翁の侄孫稻津頼三氏・粟田素一氏及び翁の門人小野湖山令息正弘氏を訪ひ、夫々秘藏の文書の提供を受けたり。此の他、広島なる頼山陽曽孫彌次郎氏、 尾道橋本吉兵衛氏、東京杉山令吉氏・坂本箕山氏、京郡熊谷直之氏、彦根宮崎鉄幹氏、岐阜佐々木建彦氏・郷佐太郎氏・安田公平氏等よりも、或は資料を提示せられ、 又は諸種の便宜を与へられたり。此の間、又予は東西両京を初め各地の図書館を訪ひて、翁と関係ある学者文人志士等の著書遺稿二百部内外を渉猟し、関係記事を抄録蒐集したり。 かくて大正五年八月より、公務の余暇を以て筆を執り、稿を改むること数回、大正八年五月を以て略ぼ脱稿するを得たり。然れども尚幾多の欠陥あるを以て、 未だ世に公にするに至らざりき。

一、本書起草に臨み予の最も苦心せるは、翁が晩年国事に尽瘁せる事績なりき。蓋し当時往復の文書は安政の大獄に際し、所在尽く火中に投じて其の証跡を湮滅したれば也。 其の後、予は他の編纂事業の為め、東京帝国大学史料編纂掛、京都帝国大学国史研究室等に出入したれば、資料を発見する毎に追加増補を怠らざりしが、会々大正十年一月上京して、 維新資料編纂会を訪へる際、久木田龍太郎氏より、東京帝国大学所藏の「梁川星巖氏書類」数十通、当時同会へ貸出しある由を聞き、古在総長に之が閲覧謄写を願出して許可を得、 久木田氏に謄写の労を煩はし、次いで又史料編纂掛に於て九條家及び井伊家の文書を鈔録蒐集し、かくて漸く翁が国事に関する事跡を髣髴せしむるを得たり。

一、本書起草の初より発行に至る迄、陰に陽に多大の援助を与へられしは金森毅庵氏にして、また江馬章太郎氏よりは翁が未刊の遺稿自警編・香巌集及び紅蘭手録の星巖事蹟等を、 小野正弘氏よりは未刊の紅蘭遺稿及び門外不出の秘書簡を提示せられ、本書編纂上尠からざる便宜を得たり。此の他既記多数の諸賢よりも、幾多の資料を提供せられ、 諸種の便宜を与へられたるは、何れも予の感佩措く能はざる所、特に記して深甚の謝意を表す。

一、巻頭の星巖翁並紅蘭女吏の印譜は、字田豊四郎氏の襲藏せらる印章を特に改めて押捺して製版せしめしものにして、同氏の好意により之を掲ぐるを得たり。 星翁及紅蘭女史の書画を鑑定する際有力なる参考となるべきを疑はず。

一、翁の著書の上木せられたるは、「西征詩」二巻、「星巖集」三十二巻、附「玉池吟社詩」五巻、「紅蘭小集」二巻、「星巖遺稿」十五巻、「春雷餘響」十巻、「[龥]天集」一巻等なり。 未刻の遺稿に「香巖集」・「自警編」・「涵三集」・「贅肬集」・「農圃談餘」及び紅蘭女史の「紅蘭遺稿」三巻あり。但し「涵三集」・「贅肬集」の二集と「農圃談餘」とは、惜しい哉、其の所在を失せり。

一、出版に臨み更に大に修補を加へしと雖も、研究猶未だ尽さず、疎漏杜撰の点少からざるべし。希くは大方諸賢の指摘教示あらんことを。

  大正十四年春三月      伊藤信識

2008年 5月17日up / 2010年10月05日update


【ノート2】名前について

 稲津善之丞長澄、通称新十郎がいつから梁川星巌または詩禅と名乗るやうになったのか、「梁川星巌」といふペンネームについては、 伊藤翁は詩人の家系を説明する序でに以下のやうな考察をされてゐます(10p)。

(附記)星巖の号に就きては、諸書調する所皆誤れり。曰く「邑に星が岡あり、星巖の号此より出づと云ふ。」と。然るに曽根邑に星が岡無し。邑の西(不破郡赤坂町)に金生山あり。 全山、巖を以て成り、奇巖怪石、突怒偃蹇、奇怪万状なり。山上に金生山明星輪寺(みょうしょうりんじ)あり。弘法大師の開基にして、 大師真作の虚空蔵菩薩の像を巖窟中に安置す。寺門扁して明星閣といふ。山下の杭瀬川に明星津あり。即ち翁が珍愛措かざりし「明星巖」を出せし所、古名明星ケ浜と云ひ、 是より以東は往昔滄海にして曽て弘法大師東下の途次、此処より航程七里の渡を渡り、乙津洲(今の稲葉郡鏡島村乙津寺の所在地)に赴けりと云ひ伝ふ。 蓋し星巖の号此に取りしものなるべし。(河含三郎氏の説に拠る)。
 或は云ふ、曽根邑の北方に白石と呼ぶ地(揖斐郡鶯村大字公卿の内)あり。そこに白石とも星岩とも、又八畳岩とも云ふ巨巖あり。上面平らにして、縦横凡そ一丈四五尺ほどに見ゆ、 星巌の号は此の星岩に取れるなりと。(佐々水建彦翁の説)。如何にや。思ふに前説を是とすべし。
 川崎紫山氏著『日本百傑伝』に曰く、『然れども星巌は正徳の名家にして「海内文章布衣に落つ」と絶叫したる梁田蛻巌を慕ふ所あり。適々其の姓亦梁の一字を同じくせるを以て、 終に其の号に附したるなりと云ふ』と、其れ或は然らん。但し梁川の姓は翁が本来の姓(稲津氏)に非ざること上記の如し。
 然らば梁川の姓は何に基けるか。思ふに翁の郷曽根邑の東に揖斐川あり。其の上流房島は美濃九景の一にして、古来漁簗の奇観を以て名を遠邇に知らる。 梁川の姓は蓋し此に拠りしものならん。(佐々米建彦翁、河含三郎氏の説亦是に同じ)。紫山氏の口吻を学べば、梁川の姓、また梁田に傚へるに非ざるか。

 つまりこれらを総合すると、まるでその厖大な詩に対する評言のやうに混然一体としてしまふのですが、 ヤナダゼイガン・ヤナガハセイガンなどといふ児戯にも類した語呂合はせを感じさせる姓名を、終生改めなかったところに、人間性の磊落さ、豪胆ではない諧謔を解する軽みをいつも身に纏ってゐたと、 云へるのではないでせうか。

 次に「詩禅」です。「梁川星巌」がすでに氏姓とまったく関係のない半ばこじつけに近いやうな名前なのですが、「詩禅」の別号は何も悟りを気取ってのものではなく、 若年の放蕩に由来してゐることが、たいへん面白い逸話とともに紹介されてゐます。いったいに星巌七十年の生涯のなかで逸話として面白いのは、詩人たちとの通交と頻繁な卜居とを除けば、 若年の放蕩、紅蘭との結婚と「征西旅行」、そして晩年の政治奔走といふことになる訳ですが、とりわけ破天荒なのが、江戸游学での若気の至りに係る思ひ出。以下一節を全掲します(19〜25p)。

三.誘惑

 文化四年、郷関を辞してより、江戸に留ること三年、其の間悪友の誘惑に陥り、北里に流連して還るを忘れし事あり。伝へ云ふ。翁の北山塾に在るや、同塾生屡々北里に誘ふ。 然れども翁、敢て応ぜざりしかば、書生等みな之を憎み、嘲り罵りて曰く、

「君何ぞ怯懦なる、一たび大都の遊廓の盛昌、青楼の宏壮、遊女の艶麗を見て、以て浩然の気を養ひ、又其の膽を大にせざる。」と。

 翁もと天性剛毅にして、事々人後に落つるを愧づ。乃ち胸中一策を画し、一夕、独り仲ノ町の一茶亭に到り、当時有名なる妓は誰なりやと問ふ。亭主某楼の花扇なる旨を答ふ。 然らば余を其の楼に伴へよとて、行きて花扇に接すれば、風姿婉約、面桃花の如く、茶亭聴く所に背かず。翁、驩飲、寝に就き、徐(おもむろ)に告ぐるに実(まこと)を以てし、 かつ数日の後、諸生と共に再び来るべければ、願はくは旧知を以て余を遇せよと請ふ。花扇も当時の名妓なれば、直に快諾して他日を約せり。両三日の後、翁、一夕諸生に向ひ、

「兄等、曩(さき)に屡々僕に登楼を勧めたれども、僕の之に 従はざりしは誠に怯懦の致す所、僕今日幸に嚢中若干の金あり。願はくは諸兄僕を携へて解語の花を手折らしめよ。」と。

 諸生大に喜び、乃ち相携へて北里に行く。既にして仲ノ町に至り、花扇の楼を過ぐれば、翁之を仰ぎ、故らに喫驚して曰く、
「壮なるかな大都の遊廓、今にして不夜城の称の実なるを知る。」と、足を留めて嘆賞す。諸生等議して此の楼に登る。門を入れば花扇、靚粧服、徐々として出で迎へ、 翁の手を執りて、頻に其の疎闊を詰る。衆相ひ見て愕然たり。既にして翁は妓に誘はれて花扇の房に入る。衆また踵(つ)ぎて至る。了鬟錦茵を薦め、花扇銀管を進め、翁を遇する殊に厚し。 翁得意満面、意気大に揚る。諸生盆々大に驚く。時に楼丁数妓を拉して諸生に配す。皆花扇の容色に劣ること数等なり。諸生かつ怪しみ、かつ愧づ。翌日塾に帰りて後、翁従容として笑って曰く、

「兄等、嚮に屡々余を辱しむ。故に柳か之に報ゆるのみ。」(近世名家書画談)

 後、翁深く花扇の然諾を重んずるに感じ、屡々之を訪ひて綢繆甚だ密、衣物其の他の所持品を典し尽して、赤貧洗ふが如く、屡々学資の送付を家郷に請へり。悪事千里の譬あり。 太随和尚の烱眼、何ぞ之を看破せざらんや。忽ち巖重なる叱責の書は到れり。翁、是に於て深く前非を悔悟し直に一通の詫状を送りて過を謝し、 かつ起誓文を認めて再び遊蕩に耽らざるを誓へり。詫状に曰く。

 尊翰忝く拝誦仕り侯、仰せの如く甚だ暑に御座候処、益御機嫌好く御凌ぎ遊ばるるべく候の由、珍喜奉り候。然らば私の身分不埒の義、御察当下し置かれ、 一言の申し分これ無く候。最も去年中の放逸は、志願と為す渠計(不詳。友をだました「落とし穴」と解すれば「当地の」が解せない。)にて、遊興に相耽り申し候事実は正なり。 然るに当地にての放逸は思外の出[き]心、全く以て羅護星(羅喉星らごうせい。九曜星の一。大凶。)の歳難と嗟嘆につき、先祖及び両親への不孝を顧みて後悔仕り候。 向後は屹(きっ)と心底相改め、勤学専一仕るべく候、右、御疑惑の為の起証文を相ひ認め、照覧に呈し候。此上は当家の難渋は相察し申し候得共、何卒御慈悲を以て、先後両便に申上置き候金子、 都合二十五両御遺はし下さるべく候條り、偏へに偏へに希ひ上げ奉り候。右の條々、多内公(後見役稲津長好)へは、別状仕らず候間、憚りながら御伝語願ひ上げ奉り侯。 恐々敬白

          稲津長澄上 高隠老和尚様 猊座下     (華溪寺蔵文書 もと候文管理人送り仮名付与)

(附記)右文中「去年中之放逸云々」は、翁在郷の頃屡々青楼に遊び、或時の如き、酔ひて隣村柳瀬の堤上に横臥したりと云ふ。蓋しこれを指せるなるべし。

 また起誓文に曰く、

    起証文之事

一、此度、各方へ私の所存し候処を申上げ候処、逐一の御尋ね御察当、申し訳け之なく候に付き、末々までもの事、御立会御実見下さり、急度(きっと)承知仕り候事、箇條
一、此度、何方へ入門致し候ても、師の教へ一事も相ひ背かず、学文出精致すべき事。
一、弟子中、睦じく相ひ暮し、仮令何様の妨げ之ありとても、私相ひ掛はらず候様、常々嗜み申すべき事。
一、身持の事、師の心に随ひ、私の心体出し世渡り候事、屹と相ひ慎み申すべく候。
右之條々、一も違変御座なく侯。若し相ひ背き候はば、天神地祇四方八百万之神々の御罰被るべき者也。仍って起証文、件の如し。

                   稲津善之丞長澄(血判)   (華溪寺蔵文書 もと候文管理人送り仮名付与)

詫状

左:詫状                                                     右:起証文

 翁の家もと資産裕なりと雖も、巖格なる太随和尚の在るあり。豈に法外の学資を送るべき。是に於て債を青楼に負ふ数十金、楼夫来りて督責甚だ厳なり。 翁策の施す所を釦らず。塾中に潜匿して懊悩、衾を擁す。八丁堀に獄吏某あり。人と為り残忍酷薄なりと雖も、また文雅を嗜み、時に北山の塾に来る。翁の窘窮せるを憐み、窃に翁を招き耳語して曰く、

「君、若し髪を愛(おし)まずんば、我、能く君の急を救はん。」と。 翁即ちこれを諾す。某曰く、

「然らば君、先づ髻(もとどり)を断ちてこれを楼夫の前に出し、以て金に代ふの旨を謝せよ。彼必ず諾すること無けん。此に及びて余、出でて債主を威嚇せん。」と。

 翁一笑、遂にその言の如くせり。今日にありては頭顱を丸むること敢て難きに非ずと雖も、化政の当時に在りては、その情頗る重し。さるを翁、惜気も無く直に髪を断つ。 また以てその淡泊、物に拘らざるを見るべし。
 然るに楼夫、果して首肯せず。某乃ち闥(とびら)を排して座に入り、辞色ともにq(はげ)し。

「咄(おいコラ)汝、狭斜の一傭奴、梁川氏に幾何の罪ありて、その師門にまで闖入して恥辱を与へしぞ、為に氏は自ら髪を薙(き)りて再び世に出でざる決心を示せり。 然らば斯かる有為の青年を無惨々々殺したるに同じ。汝、何が為に梁川氏を殺せしぞ。余はその復讐として汝を刎(は)ねん。汝、知らすや、余は伝馬坊の獄吏某といふもの也。」と。

 楼夫もと某の名を釦る。故に大いに驚き、戦慄して辞の出づる所を知らず。倉皇、罪を謝し、翁の債を許して、逃ぐるが如く塾を去る。翁は斯くして一條の血路を開きたれども、 既に髪を失ひたれば、師友に見(まみ)ゆるを恥ぢ、潜(ひそか)に塾門を出で破衲を身に纏ひ、笠深く面を蔽ひて北里に托鉢し、狎妓の門に至るや、朗々として仏経を誦せり。 狎妓その踟躊(たちもとほり)去らざるを怪しみ、遂に其の星巖翁たるを知り、顛末を問うて悲惋哀痛、若干の費を給して行を餞すと云ふ。其の行事に検束なき、 殆ど唐六如居士の風ありと云ふべし。(近世名家書画談及徳川三百年史)

 想ふに是れ二十歳(文化五年)の事ならんか。『五山堂詩話』に云ふ。

 梁卯、字伯兎、美濃人。また来りて竹堤社に参ず。青年詩を好み、才は等夷に冠す。嘗て烟花の癖あるも翻然、節を改め、自ら髠(こん:剃髪)して以て誓ふ。號して詩禅と曰く。 去って京師に入る。詩禅の名、稍(やや)著はる。云々

 と是なり。後年翁が自ら衣緇小影に題する詩に「莫怪尚餘脂粉氣 也曾乞食至歌姫( 怪しむなかれ尚ほ脂粉の気を余すを また曽て食を乞(こ)ふて歌姫に至る)」と云へるもの、 此れ即ち当時の事を詠ぜしなり。

 木蘇岐山、其の著『五千巻堂詩話』に記して曰く、

「星巖、早年笈を江都に負ふ。其れ山本北山塾に在るなり。磊落にして検せず。屡々北里に遊ぶ。値を償ふ能はず、遂に青楼の拘する所となる。北山これを聞き、 児緑蔭を遣はす。楼主と商し、星巌をして削髪披緇せしめ、日(ひび)に里中に丐(こ)ふて以てこれを償はしむ。然れども其の数に充てるを望む能はず、数日後緑蔭さらに主人を諭し始めて脱するを獲る。 今、丙集に載せる所の「自ら衣緇小影に題する十二首」乃ちこの本事を詠める也。岡鹿門の説、これを大槻磐溪に聞けると云ふ。」と。是また一説として掲ぐべし。

 当時江都詞藝の徒、詩酒徴逐、流連荒亡の癖をなすもの多く、翁また此が悪感化を被りて烟花の疾に感傷す。まことに白璧の微瑕と謂ふべきか。然れども是れまた時代の罪なり。 此を以て独り翁を責むるは聊か酷なり。時は恰も維れ文化文政の世、彼の白河楽翁公の寛政改革も漸く弛み、江戸昌運の極と称せられし文恭院(十一代将軍家斉)全盛の奢侈時代にして、 世を挙げて泰平に酔ひ、華奢淫靡遊惰風を成し、人は「通」と称し、「粋」と呼び、花に憧憬がれ、月に浮かれ、雄健の気、豪宕の風は己に業に世に滅び、町人と云はず、武士と云はず、 天下滔滔乎として堕落の淵に沈めり。学徒また此が悪風潮に染まざるを得ざりき。殊に異学の禁以来、朱子学以外の学者は、不平の極、放蕩自恣に流れたる者少からす。 当時文人学者と遊とは殆んど附物の如く、甚しきは一種の幇間に類する者さへ出でたり。かの亀田鵬齋の如き、放縦の甚しき者なりき。彼かつて夏夜人の招に応じ、裸体にして還る。 妻怪みて問ふ。曰く「脚を失して溝に落つ。」妻曰く「なんぞ衣を提げ来らざる。」曰く「臭穢何ぞ触るべけん。」曰く「別に更ふべき者無し。」彼笑って曰く「好し、裸にして生れ、 裸にして居る、妨なきなり。」と。かつて古賀精里は其の子穀堂が詩佛五山鵬齋等と共に、船を墨水に浮べて豪興をともにせるを聞き、いたく叱責して曰く、 「船中の者はすべて妖怪に非ずや。何とて彼の麼(魔)者とともに交遊するか。」と。かかる先輩同僚を有せる翁が、花柳の巷に出入して、債を青楼に負へるも、また怪しむに足らざるべきか。


 最後に、名「卯」と字(あざな)「伯兎」についてですが、この本の中では述べられてゐませんが、今関天彭著『江戸詩人評伝集 2』から名前の由来についての尤もな意見を引きます。(2017.1.11追加)

星巌は稲津なるにどうして梁川と称したのか。
星巌の故郷曽根村東に揖斐川が流れ、その上流なる房島は、漁簗の美観を以って美濃九景の一つであるから、梁川とはこれを取ったといふ。
また星巌の号も、故郷金生山上に明星輪寺があり、弘法大師の開基に係り、山門に明星閣の扁額を掲げ、 山下の杭瀬川に明星津があり、そこから取ったといふ。
さうであらうが、かうした来歴がある。
星巌は初め梁川といはずに、ただ梁の一字を用ひ、名を卯、宇を伯兎といった。
思ふに星巌は後漢の梁鴻の隠君子たるを慕ひ、梁鴻の姓の梁を取り、その名は鴻、字は伯鸞に対して、名は卯、字は伯兎と称した。 伯兎は白兎に通じ、「旧事仙人白兎公(旧と事ふ仙人白兎公)」(『三体詩』七言絶句の初めに収めてある韓翃コウの詩)に掛けてをる。
その意は恐らく美濃山中の白兎だとの事であらう。高田松屋の記するところによると、星巌を梁卯と書し、 「やなのしげる」と読んでをり、梁は梁川の省約でないことは、星巌以外の人を記して、決して姓を省約してをらぬのを見ても明かである。
その頃、大窪天民の別号を詩仏といふに対して、星巌は詩禅と号したが、二度目の江戸游学の後期に姓名を改めて、名は緯、字は公図、別号を星巌とした。
これは何れも星から出た文字であって、緯は星緯、公図は図象であり、公図の図はまた伯兎と同音の関係があるから、それは以前のを踏襲したまでである。
さてかうなって始めて梁へ川の字を加へて、姓を梁川と称したのであらう。
星巌の故郷に近い加納には、名高い詩人の梁田蛻巌がゐた。
それに紛れやすい姓名を用ひることは不思議であるが、星巌は以前にも梁鴻を真似たことがあり、さうしたことが星巌の癖とも思はれる。

(『江戸詩人評伝集 2(詩誌『雅友』抄)東洋文庫 866』今関天彭著/揖斐高編、2015年11月平凡社刊 12-13p)

 序でにいふと金生山は奇岩(巌)を産する山としても有名です。


【ノート3】帰郷の前後── 詩風の転換

 尻尾を(頭を?)丸めて故郷に帰った星巌は、悪評の届かぬ京都の地で孜孜黽勉。やがて再度の江戸入りを果たし、師友を刮目させるのですが、 一度笑ひ者となった風評は仕官の道を完全に閉ざす「烙印」となったことでせう。元来、平民の身で昌平黌に入れず古賀精里の許を去ったのが、 この人の「出世街道とは無縁の人生」の始まりでもあってみれば、或はこの時もうそんなことは眼中になかったのかもしれない。やがて己の実力だけを恃みに、 関東・信州各地を行脚する旅に出かけます。

 望淺間燄氣(44p)
信地多高峻。茲山最是雄。雖然似大度。憤悱鬱其中。萬古氣不滅。條條騰太空。往年弩機發。飛石闘豊隆

 浅間の焔気を望む
信地(信州)、高峻多し。茲の山、最も是れ雄なり。然(しか)く大度(大度量)に似ると雖も、憤悱(ふんぴ)其の中に鬱す。万古、気、滅せず、條條として太空に騰がる。往年、 弩機(石弓)を発し、飛石、豊隆を闘はす。

「憤悱鬱其中。」なんとなく三好達治の「霾つちふる」を感じさせる一篇です。「ロン・ロン・ロン、ワ゛ッハッハ、ワ゛ッハッハ。」 越年したらしい別所温泉の倉澤氏いふのは、 現存する上松屋といふ立派な旅館のことかもしれません。

 さて都会の情報に飢えた田舎の縉紳・豪商好事家たちを喜ばせた新参の宗匠は、三たび江戸に戻って、葛西因是など自分を理解してくれてゐた知己からはその成長を瞠目されたやうです。 そして書籍の編輯を依頼されたらしい。現在確認されてゐる星巌の名の見える刊本は、江戸で親交を深めた同門の郷友、柴山老山との合同の撰に係る『宋三大家律詩』(文化八年)、 そして市河寛齋・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山の四先輩の作品をあつめた『今四家絶句』(文化十二年)が早いですが、その文章が初めて上せられたのは、 宋詩推重から唐詩再興に立場を転じた『徐而庵詩話』(文化十四年)の跋文に於いてのやうです。そしてこれによると、星巌の運筆が、菱湖師匠譲りの「懸腕直筆」によるものであったことが、 また察せられる訳であります。

 近時諸家詩話陸續上刻。要之宋明諸人膚淺之見爲等閑之話。無益於作詩。余獨於清人詩話。得金聖嘆徐而庵両先生。其細論唐詩。透徹骨髄。則則皆中今人之病。 眞爲緊要之話。學唐詩猶書字懸腕也。其初極難。及其熟也。虎臥龍跳。筆筆自在。儻因循自便腕必著紙。掌終不虚。決無長進之理。詩人惡習。宜蕩滌其腸胃。 先読金徐二家詩話宿毒早解大半。三島朝日文卿請先刻徐氏詩話。余爲下旁譯付之。丁丑(文化十四年)仲春上弦。星巌居士梁緯題於中倫堂(47p)『徐而庵詩話』(文化十四年)自跋

 近時諸家の詩話、陸続として上刻さる。之を要するに宋明諸人の膚浅の見、等閑の話と為す。作詩に無益なり。余孤り清人の詩話に於て、金聖嘆・徐而庵両先生を得る。 其の唐詩を細論して骨髄に透徹。則則として皆、今人の病に中(あた)る。真に緊要の話と為す。唐詩を学ぶは猶ほ字を書するに懸腕するがごとき也。其の初めは極めて難し。 其の熟するに及べばまた、虎臥龍跳、筆筆自在。もし因循にして自ら便ずれば、腕は必ず紙に著く。掌は終に虚ならず。決して長進の理は無し。詩人の悪習は、 宜しく其の腸胃を蕩滌(洗浄)すべし。先づ金・徐二家の詩話を読めば宿毒も早やかに大半を解かん。三島の朝日文卿、先に徐氏詩話を刻することを請ふ。余、為に旁訳を下し之に付す。 丁丑(文化十四年)仲春上弦(二月上旬)。星巌居士梁緯、中倫堂に於いて題す。

 次は盟友、村瀬藤城の属せる序文。帰郷後に企画した本のためのものですが、やはり唐詩を持ち上げてゐます。

 星巖居士。輯晩唐李義山(李商隠)杜樊川(杜牧)絶句而梓之。二家風格大不相類。而其有類焉者。以時代也。夫以時代辨之。初盛中晩。雖人人而異。而可推而概見矣。 猶如彼書體有欧褚顔柳。淵源同而流派自別。試論之義山詩似褚書。深奥繁縟至其妍麗處。有金生玉潤之態。樊川詩似顔書情致豪邁。氣格峻峭。其骨力古健。在時習外。 別開一局。皆一代高手。孰優孰劣。若夫得其衆妙。以爲己有者。在於人人眼目手腕焉(52p)『晩唐李杜絶句』(文政元年)村瀬藤城序文

 星巖居士、晩唐の李義山(李商隠)・杜樊川(杜牧)の絶句を輯め、而して之を梓す。二家の風格は大いに相ひ類せず。而して其の類する有る者は、時代を以て也。 夫れ時代を以て之を弁ずれば、初(唐)・盛・中・晩、人人の異ると雖も。推して概ね見るべし。猶ほ彼の書体に欧(陽詢)・褚(遂良)、顔(真卿)・柳(宗元)の有る如し。 淵源は同じくして流派自ら別なり。試みに之を論ずれば、義山の詩は褚書に似る。深奥にして繁縟、其の妍麗の処に至っては、金生じ玉潤ふの態有り。樊川の詩は顔書に似たり。 情致、豪邁。氣格の峻峭たる、其の骨力の古健は。時習の外に在りて。別に一局を開けり。皆一代の高手、孰か優、孰か劣なる。若し夫れ其の衆(多)き妙を得て、以て己が有と為す者は、 人人の眼目・手腕を在(あら)はせり(明らかにする)。

 しかしこの度の江戸游学においても、星巌は仕官だけでなく、都邑で門戸を張ることも諦めたやうです。まだ若すぎたのか、終に自ら「悪帰」と呼ぶ都落ちを決意。 故郷の子供たちに徒を授ける「雌伏の生活」に入るのであります。

 回郷絶句(47p)
嚢空裘亦敝 何面見諸親 誰言惡歸者 尚勝美遊人

 回郷絶句
嚢空しうして裘また敝(やぶ)る 何の面(おもて)か諸親に見(まみ)えん 誰か言ふ「悪帰の者、尚ほ美遊の人(都で昇進して帰らぬ者)に勝る」と。

 かつて高啓の詩に「富老は貧少にしかず、美遊も悪帰にしかず」と云ったとか。「そんなもんぢゃあ、ありませんぜ。」といったところでせうか。


【ノート4】美濃大垣にて

 美濃の詩人たちの星巌評。まづは後藤松陰による『星巌集』跋より。松陰と村瀬藤城の二人が、初めて星巌を訪ったとき(文政七年か)の回想です。 本書に紹介されてゐますが、手落ちでせうか、後刊の星巌全集には未採録の一文です。序跋は刊本により異同があるものですが(管理人は甲集の末尾または玉池吟社詩の末尾に載せるものを実見)、 以下に本書の書き下しを掲げます。

 星巌居士以詩先鳴我濃。世莫不之知矣。余年舞勺(礼記曰。十有三、學樂。誦詩。舞勺。)。欲一徃叩詩法焉。而居士方遊江戸矣。比舞象(礼記曰。成童舞象、註十五以上、 謂之舞象)。偶訪友人邨瀬士錦(藤城)於北濃還。拉之與赴大垣。途過其門。居士欣然出迎。鷄黍留宿。酒間鬮[門亀キュウ]韻且談詩。居士曰。當今之詩。率皆楊之糟粕耳。陸之余唾耳。 苟自非乗李杜之船。泝陶謝之源。豈可悟五七字哉。後略(49p)

 星巌居士、詩もって先づ我が濃(美濃)に鳴る。世に之を知らざるはなし。余、年十三、一たび徃きて詩法を叩かんと欲す。而るに居士は方に江戸に遊べり。 十五の頃ほひ、偶ま友人邨瀬士錦(藤城)を北濃に訪ひて還る。之を拉して与に大垣に赴き、途に其の門を過る。居士欣然として出迎へ、鶏黍(もてなされ)留宿、酒間、 鬮[門亀キュウ]韻(くじを引いて韻を決める)、且つ詩を談ず。居士曰く、
「当今の詩、率ね皆な楊(萬里)の糟粕のみ。陸(游)の余唾のみ。苟しくも李(白)杜(甫)の船に乗り、陶(淵明)謝(霊運・恵連)の源に泝るにあらざるよりは、豈に五七字を悟るべけんや。」と。後略

 つぎに後藤松陰を山陽塾に送り出し、自らは嫡子のため故郷に残った村瀬藤城から。星巌と藤城の二人は二年しか齢を違へず、学識も並べるものの、頼山陽に於いては、 かたや友人かたや弟子として遇せらる出会ひをしてをり、私には星巌が幾分背伸びをして九才年長の山陽に向かふところあったもののやうに思はれて、たいへん興味深いところです。 山陽を先生と呼ばなかった星巌は、藤城に対して山陽のことを話題に上すときにはそれなりに気も遣ったことでせう。郷塾「梨花村草舎」の自室に「中倫堂」の額を掲げ直したこの頃の星巌は、 未だ頼山陽とは会ってをらず、四年前にわざわざ岐阜までやってきた山陽の噂を再び聞かせられ、「彼らのヒーロー」に対して内心身構へるところがあったかもしれません。

 中倫堂記(49p)

中倫堂者。余友梁公圖之堂也。公圖自江戸帰。家居盛積古今書。日以誦詠爲樂。或扁舟一棹上下藍水。而與余過從相親。蓋公圖之學。尤長於詩。根据欧公本義。其説足以解人頤。 乃論楚騒六朝及三唐諸家。折衷徐而葊金聖嘆。曰某選善矣。然於某集遺其篇甚爲可憾。某集中有某某篇。最妙矣。某詩當解如是。某篇章法當観如是。凡其議論之精透奔騰。 如燭照亀卜。如快馬入陣。所謂言之中倫者。於是可観焉。推而察之。其平生之言可知也。語曰。行中慮。言中倫。夫行中慮。則言亦中倫。言未中倫。而行亦能中慮者。否也。且言之與行也。 相顧而成。古之學爲然。見今之讀書者。風月其言。而塵土其行。但名利之聘。豈能相顧而不愧哉。公圖學於江府。學成決然歸隱。不復属意於青紫。道帽野服。棲逸樂道。其行與言。 相顧不愧。何必風月塵土之論哉。雖古君子。莫以尚焉。余在百峰嶮巇之中。固乏師友。以爲無復可共言者。乃余而得公圖。實喜而不寐。自今以往。來往愈熟。中倫之深而至者。 將愈與商確之。     『藤城遺稿』54丁

 中倫堂記

中倫堂は、余が友、梁公図の堂なり。公図江戸より帰る。家居盛んに古今の書を積み、日々以て誦詠、楽しみと為す。或は扁舟一棹、藍水(長良川)を上下して、余と過従(訪問)、 相ひ親しむ。蓋し公図の学、尤も詩に長ず。欧公の本義(欧陽脩の『毛詩本義』)に根据し、其の説、以て人の頤(おとがひ)を解くに足る。(「解頤」は笑ふことだが、 ここは欧陽脩『詩解頤』を踏まへる。) 乃ち、楚騒(離騒)・六朝及び三唐の諸家を論じ、(清の)徐而庵・金聖嘆を折衷す。曰く、「某の選は善し。然れども某集に於て其の篇を遺すは甚だ憾むべきと為す。 某集中に某某篇有るは最も妙なり。某詩は当に是の如く解すべし。某篇の章法は当に是の如く観るべし。」と。
 凡そ其の議論の精透・奔騰は、亀卜を燭照するが如く、快馬の陣に入るが如し。所謂「言の倫(みち)に中(あた)る」者、是に於て観るべく、推して之を察すれば、其の平生の言も知るべき也。 語(論語)に曰く、「行ひ、慮に中り。言、倫に中る。」と。 夫れ、行ひの慮に中れば、則ち言もまた倫に中らん。言未だ倫に中らずして行また能く慮に中るは否なり。 且つ言は之れ、行ひとまた相ひ顧みて成らん。古への学は然りと為すなり。今の書を読む者を見るに、其の言を風月として、而して其の行ひを塵土(世俗)とす。但だ名利に之れ聘せる。 豈に能く相ひ顧みて愧ぢざらんや。
 公図江府に学び、学成りて決然として帰隠す。復た意を青紫(高官)に属せず。道帽、野服、棲逸して道を楽しむ。其の行ひと言と、相ひ顧みて愧ぢず。何ぞ必しも風月塵土、之を論ぜんや。 古の君子と雖も、以て尚(くは)へる(凌駕する)莫し。
 余は百峰嶮巇(けんき)の中に在り。固より師友に乏しく、以て復た共に言ふべき者無しと為す。乃ち余にして公図を得て、実に喜びて寐ねられず。今より以往、来往愈々熟せば、 中倫の深くして至る者、将に愈々ともに之を商確(計り定める)せんとす。

 『藤城遺稿』刊本には、

「文は両意の扭捏(ジュウデツ:もじもじする)たるを忌む。当に単刀直入なるべし。」

 といふ山陽の言葉がありますが、これは何を指すのでせう。『論語微子篇』の解釈は、世に隠れることを最上とはしない、孔子の隠者評ですから、 経世の才を有した藤城に対して「いいたいことがあったらはっきりいいなさい」との謂を含んでの一言とも解せますが、穿ちすぎでせうか。また頭評には合せて、

「世張云ふ。文また詩また畢竟みな閑言語なり。而して其れ肺肝より流露する者は自ら倫に中る。また数句は至当なり。」

 との松陰の言も載せます。

 続いて『藤城遺稿』編集時にはすでに散逸して失はれた貴重な一文「心遠亭記」(50p)を掲げます。

 陶詩云。「結廬在人境。而無車馬喧。問君何能爾。心遠地自偏。」梁君伯兎取以名其亭。徴余記之。余以爲地猶跡也。心遠而跡偏者少矣。跡偏而心不遠者或時有。 至於跡不偏心不遠者則比々皆然。今夫士之在都會。以一能一伎聞者。輿迎舟送。食必梁肉衣必軽煖。雖然都會盛衰。朝暮以變。方其盛時戸外客屨累々者。忽而雀躁蝿弔。 移奪於瞬息間。孰獲其心之遠耶。余懐一及之。未嘗不爲之愁然焉。是跡不偏。心不遠者也。如吾伯兎捲身山埜寂寞之間可謂跡偏矣。名不必求聞也。伎不必求售也。可謂心遠矣。夫心而能遠。 淵然以静。浩然以廣。遇喜而喜。遇怒而怒。至於毀誉得喪之觸于中。與夫世變否泰現于前。皆不能眩乱反覆我心。猶何跡之偏不偏是問哉。雖處於四通五達之會。其心遠者自若也。 而况我濃之僻乎。絅生長於濃。嘗苦其僻。湖海飄蕩之想與城郡奔逐之念。常交於胸次。跡已偏矣。而心不能遠。爲可愧也。今得伯兎與相往來。啜茗山窓。挹酒水檻。論文評詩。 不知人世之樂何以換之。深得伯兎避喧遯世所以心遠不待問何能爾也。(庸齋三稿)

 陶詩に云ふ。「廬を結んで人境に在り。而も車馬の喧しき無し。君に問ふ、何ぞ能く爾るやと。心遠ければ地自づから偏なり。」と。
 梁君伯兎、取って以って其の亭に名づけ、余に徴して之を記せしむ。余おもへらく、地は猶ほ、跡(在り処)のごとき也。心遠くして跡の偏(辺鄙)なるは少なし。 跡の偏にして心遠からざるは或は時に有り。跡偏ならず心も遠からざる者に至っては、則ち比々(頻々)皆然り。
 今、夫れ士の都会に在りて、一能一伎を以て聞ゆる者は、輿にて迎へ舟にて送らる。食は必ず梁肉(美食)、衣は必ず軽煖たり。然りと雖も都会の盛衰は朝暮以て変る。 其の盛時に方(あた)り、戸外に客屨(はきもの)累々たる者も、忽而として雀躁蝿弔(門前雀羅の謂)、瞬息の間に移奪さる。孰か其の心の遠を獲るや。余は懐ふ。 一たび之に及べば未だ嘗て之の為に愁然たらざることなからん。是れ跡の偏にあらずして、心の遠からざる者也。
 吾が伯兎の如き、山埜寂寞の間に身を捲(おさ)めて、跡偏なりと謂ふべきなり。名は必ずしも聞くを求めず、伎は必ずしも售(売)るを求めず、また心も遠しと謂ふべきなり。 夫れ心をして能く遠からしめ、淵然以て静かに、浩然以て廣くす。喜びに遇へば喜び、怒りに遇へば怒る。毀誉得喪に於て之れ中(心のうち)に触れるのと、夫れ世の変じて否泰(吉凶)前に現るのと、 皆な我が心を眩乱反覆を能くせざるに至るならば、猶ほ何ぞ跡の偏・不偏のごときか、是を問はんや。四通五達の会する処と雖も、其の心遠き者は自若たる也。
 而して况や我が濃(美濃)の僻をや。絅(けい:藤城の名)、濃に生長す。嘗て其の僻に苦しむ。湖海を飄蕩せん想ひと、城郡を奔逐せん念ひと、常に胸次に交(こもごも)す。 跡は已に偏たり。而れども心は能く遠くせず。愧づべきと為す也。今、伯兎を得てともに相ひ往来し、茗を山窓に啜り、酒を水檻に挹(く)む。文を論じ詩を評し、 人の世の楽しみ何を以て之に換へるか知らず。伯兎の、喧を避け世を遯れ、心遠き所以(ゆえん)を深く得れば「何ぞ能く爾るや」と問ふを待たず。(庸齋三稿)

 当時の星巌の詩篇には、後にはみられないやうな陶潜風の老成した詩がまとまってみられると、著者も特筆してゐるのですが、志を述べること自体、 慰めるべき無念が未だ鎮まってゐない証拠でもあります。さきに藤城の序文を掲げた『晩唐李杜絶句』といふ本ですが、刊行されたかどうかも疑はしく、 また別に『唐詩金針』といふ名前でなんと全30巻にも及ぶアンソロジーも計画してゐたらしい。しかしいくら実力はあっても、片田舎の無名青年たちの周旋では版元が動くとは思へません。 結局野心を含ませた原稿は散逸し、轗軻不遇の思ひばかりを深めたことでせう。星巌はこれ以後、この手のアンソロジーには手を染めなくなります(晩年に編集した『高青邱詩集』を除く)。 このまま田舎に埋もれてもをかしくない彼の人生ですが、狂瀾を既倒に廻らすきっかけとなったのが紅蘭女史との出会ひ。美濃の詩人たちとの親交もできて、 かの「白鴎詩社」をやがて結成、村瀬藤城とともに盟主以て自ら遣り、金森匏庵といふ、丁度「中原中也に於ける安原喜弘」のやうな気の置けない友達にも恵まれます。

 雜詩(51p)

杲杲日欲昇。海霞寝已紅。群動從此始。鐘鳴鼓逢逢。鳥雀出林翔。路有負版蟲。農夫就畎畝。商價喧衚衕。嗟余胡爲者。亦在蠢蠢中。攤書坐窓下。 句讀授兒童。衣飯之駆人。将毋牛馬同。有生乃有累。営営何日終。

杲杲(煌々)として日昇らんと欲す。海霞、寝已(ややすでに)紅なり。群動此より始まる。鐘鳴り、鼓は逢逢たり。鳥雀、林を出でて翔る。路に負版の虫(何でも背負って歩く小虫)有り。 農夫、畎畝に就く。商價、衚衕(路地)に喧し。ああ余、なんする者ぞ。亦た蠢蠢中に在り。書を攤(ひら)き窓下に坐す。句読、児童に授く。衣飯、之れ人を駆る。 将た牛馬と同じこと毋らんか。生有れば乃ち累有り。営営、何の日か終らん。

 藍川舟中二首(54p)

秋風吹皺一川波。潑潑香魚飛玉梭。六尺幽崖露如雨。蓼花紅滴釣人蓑。

秋風吹き皺む、一川波。潑潑たる香魚、玉梭を飛ばす。六尺の幽崖、露、雨の如し。蓼花、紅は滴る釣人の蓑。

緑長行舟儘自由。金華山影漾中流。咬咬不盡沙禽語。聽到西溪十八楼。

緑長じて行舟、まま自由。金華山影、中流に漾ふ。咬咬として尽きず沙禽の語。聴きて到る、西渓の十八楼。


【ノート5】柏木如亭をめぐって

 梁川星巌の人生に影響を与へた詩人は沢山あると思はれますが、生き方を倣ふほどに心酔した、同時代の先輩といふのは柏木如亭山人につきませう。 周知のとほりその遺稿の編集・刊行に奔走してゐて、その浪漫的な「企投の人生」を自らにも課したやうな感があります。『如亭山人遺稿』跋に曰く、

  『如亭山人遺稿』跋(59p)
右如亭山人遺稿三巻爲山人生前所録。山人生寶暦癸未長余二十有六。甞締忘年契。而各爲口所驅東西奔走。不相見者幾六歳。去年己卯春相逢勢北。叙舊問新。而話及於詩。山人曰。 余老憊又獲水腫患。意餘生已促。適理舊藁存一百九十餘篇。子盍爲余謀不朽。其言悽惋。余謹諾之。而山人之京。余徙勢南。而後亦復沓然。至秋忽得訃音。急治装入京。遍捜其所識。 獲之紀伯擧許。遂校正上木。吁嗟山人畢生用力於詩。如此巻。具眼者讀之、必知山人之苦心也。夫苟有知山人苦心者焉。則山人可以不朽。而余與山人之交亦不朽也。文政庚辰秋七月美濃梁卯謹誌

  『如亭山人遺稿』跋
 右、如亭山人遺稿三巻、山人の生前の録する所と為す。山人宝暦癸未(十三年)に生れ、余に長ずること二十有六。甞て忘年の契を締(むす)ぶ。而して各々口(糊口)の為に駆られる所に東西奔走、 相ひ見ざること幾んど六歳なり。去年己卯(二年)春、勢北に相ひ逢ふ。旧を叙し新を問ひ、而して話は詩に及ぶ。山人曰く。「余は老憊し、また水腫の患を獲る。意ふに余生も已に促さる。 適ま、旧藁を理して一百九十余篇を存したれば、子よ、盍ぞ余の為に不朽を謀らざらる。」と。其の言、悽惋れば、余謹しんで之を諾す。而して山人は京へ之き、余は勢南へ徙る。 而後また復た沓然たるも、秋に至り忽ち訃音を得。急ぎ装を治めて入京、遍ねく其の識る所を捜す。之を紀伯擧(浦上春琴)の許に獲、遂に校正上木す。吁嗟、山人の畢生たるや、 力を詩に用ふる、此の巻の如きか。具眼の者、之を読めば、必ずや山人の苦心を知らん。夫れ苟も山人苦心の者を知る有らば、則ち山人以て不朽たるべし。 而して余と山人との交も亦不朽なり。文政庚辰(三年)秋七月 美濃梁卯謹みて誌す。

p2

 またその際には、一緒に獲られた『詩本草』の原稿も続けて刊行されました。私の所蔵する『如亭山人遺稿』には袋があって、この『詩本草』の名も一緒に刷られてゐるのですが、 もとから一冊用に糊付けがしてあって、つまり『如亭山人遺稿』はかうして単体で売られたこともあったが、付録扱ひの『詩本草』は二冊一緒に売られたことが判るのです。『詩本草』は 非常な稀覯本らしいのですが、理由は所縁の人々へ小部数作ったといふ他に、星巌の後記を裏付けることにもなりますが、あとから『如亭山人遺稿』の残部の数に合せて刷ったから結果的に小部数になったのだ、 とも考へられます。太平書屋版『柏木如亭集』では復刻されてをらず、揖斐高先生が岩波文庫に記されてゐる刊行経緯を補足する書誌資料になるかもしれないので合せて画像を紹介します。

  『詩本草』後記(岩波文庫による)
遺藁刻既成。忽又獲詩本草。是書爲山人最愜心之筆、生前頗有梓行之志而不果者也。因亦謀之二三旧知、追刻以伝。壬午秋八月、梁卯誌

  『詩本草』後記
 遺藁、刻既に成る。忽ち又た詩本草を獲たり。是の書、山人最も愜心(心にかなふ)の筆にして、生前頗る梓行の志有りて果さざる者と為すなり。 因つて亦たこれを二三の旧知に謀り、追刻して以て伝ふ。壬午(文政五年)秋八月、梁卯誌す。

 そして『詩本草』には、如亭とは関係ないものの、遺稿に序跋を書いた頼山陽と梁川星巌の二者から最も親しい村瀬藤城からの手紙も、合せて、 山人を紹介する一文として刷り込まれました。

 與梁伯兎(58p)(『詩本草』跋)
如亭山人遺稿校刻竣否。詩本草閲了返納。僕於山人、其交太淺。然誦其書、想其爲人、知不特筆墨凡百事皆別具一家法。故刪潤之際、宜務不損其本色。拙處雖不充一咲、至其超妙處或逼明清名家。 恐世文士少能及者。是所以爲山人歟。山人常下視世儒、不翅草芥。故世儒亦皆仇讎視之、非笑不置。不解山人所爲復有何等趣也。噫、推奨之世有幾人。公其勉之。

 会末 邨瀬絅拝啓
 梁伯兎仁兄盟 臺下

 梁伯兎に与ふ
 如亭山人遺稿の校刻、竣るや否や。詩本草閲了し、返納す。僕の山人におけるやその交はり太だ残し。然してその書を誦してその人と為りを想ふに、 特に筆墨のみならず凡百の事皆な別に一家法を具ふるを知る。故に刪潤の際、宜しくその本色を損なはざらんことを務むべし。拙き処は一咲(一笑)にも充たずと錐も、 その超妙の処に至りては、或ひは明清の名家に逼らん。恐らくは世の文士の能く及ぶ者少なからん。是れ山人たる所以か。山人、常に世儒を下し視ること、ただに草芥のごとくのみならず。 故に世儒も亦た皆な仇讎のごとくこれを視て、笑ふに非ざれば置かず。山人の為す所、復た何等の趣有ることを解せざるなり。ああ、これを推奨するもの世に幾人か有らん。公、 それこれを勉めよ。(庸齋三稿)            会末※不詳 邨瀬絅拝啓

  梁伯兎仁兄盟 台下

星巌自身が、当初に獲られた遺稿篇数とともにこれを載せたのは、「刪潤の際、その本色を損な」ふことなど、無論しなかったよ、との表明に他ならないでせう。 藤城には他にも別書翰があって、今度は山人を活写した師山陽の文章について語っています。前回紹介した「心遠亭記」と同様、 今は散逸して本書からしか窺ひ知る事のできない「庸齋三稿」収録に係る一文です。

見示頼翁如亭山人遺稿序。借河西野諸家爲陪講。而山人峻骨盡露。讀到訪郊居一段。淒愴淋漓。殆使人泣下。信非頼翁不能道也。公常稱翁古詩韻範序不措。今以此視彼。 亦別手法。葢随題変化者耳。(庸齋三稿)(59p)

 頼翁の「如亭山人遺稿序」を示さる。借りに(たとへ)河西野(市河寛齋)諸家は陪講と為れども(上流に陪席すれども)。而れども山人は、峻骨尽く露はし、郊居を訪ふ一段に読み到っては、 淒愴淋漓、殆んど人をして泣下せしむ。信(まこと)に頼翁にあらざれば道(言)ふ能はざる也。公は常に翁の「古詩韻範序」を称して措かざれど、今以て此れ彼を視るに、亦別手法たり。 葢し題に随って変化する者のみ。

 ともあれ梁川星巌と柏木如亭、共に放蕩の前科によりちょんまげを切ったオールバックの放浪詩人であり(このころ「詩禅」僧の星巌は復び髪を蓄へはじめます)、 家督を放擲した長男坊にして真面目な弟があり、世儒を嫌ひ(嫌はれ)、詩には一徹、強情なれど傲岸ではなく、伝へられる風姿にはアルコールやコレステロールとは無縁の、 鋭い精力を感じます。さらに星巌に至っては、新婚の花嫁を抛ったらかして三年も帰らなかったり、或は江戸で一番の詩塾を突如閉じてしまひ、京都で警世の士に転ずるなど、 むしろ衣鉢を継いで余りあるフットワークの軽さと云ふべきかもしれません。異なったのは二十六歳もの年上で、完璧な夜型だった如亭の磊落さが、育ちの良い江戸っ子らしさに基づき、 時に譏誚骨を刺すシニズム・デカダンスを隠さうとしなかったのに対して、星巌には、毀誉褒貶に練られた田舎出身の都会人らしく、それを面に表さない世古に長けたところがあったやうです。 星巌がひとに問はれて後輩を指折り数へた順番に対して、門下で一等詩の上手かった大沼枕山がへそを曲げて先生と呼ばなくなってしまったなどは一例です。 後年、僻字癖とともにさういふ人柄が誤解・敬遠され、「日本の李白」などといふ大看板も空々しく響くやうになり、戦後には、明治政府による叙勲と靖国神社への合祀といふ身後の表彰が、 漢詩人気が底を打つ中でさらに逆に作用することになった。さうしてやうやくやってきた江戸漢詩の再評価の際にも梁川星巌は、「日本のボードレール」柏木如亭 とは切り離され、俳壇史に於ける各務支考の位置と同様、配下の勢力をそつなく拡げることに成功した、俗たる美濃人の一典型(苦笑)、とまで蔭口を叩かれさうな氛囲気であるのが、 郷土人として口惜しいです。前述したやうに「詩禅」の名の由来は、悟りとは無縁の自嘲によるものだったし、仰々しく響く「日本の李白」の呼称にしたって誰が云ひ出したものか。 星巌はかつて柏木如亭の事を、「盧前、王後、名位を占む」と、初唐四傑(王勃・楊炯・盧照隣・駱賓)のうち二番目の楊炯に擬へて詩を呈上してゐます。つまりすなはち

「何でぇ俺れっちが楊炯なら、(今四家:市河寛齋・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山の後に続く)おめいはさしづめ(盛唐の)李白だよな。はっはっはっ。やられたねぇ。」
位にはそのとき揶揄はれた筈です。故事・僻字を多用する星巌の詩も、鹿爪らしい学識には違ひありませんが、むしろ、例へば近代詩における日夏耿之介のやうな、 偏屈にして愛すべき清廉の人格とともに尊ばれたといふべきではなかったでせうか。如亭山人のやうに蕩尽できる財産も、黄眠道人のやうな大学教授の肩書きもない彼にあってみれば、 狷介をそのまま面に出すことができなかったのはむしろ斟酌すべきところ。

 梁川星巌の詩が本当に面白いと云へるためには、慥かに日夏耿之介の詩文を楽しむのと同様、その書痴ぶりを傍から見て好ましいと思へる程の「姿勢」が必要でありませう。 その上で、江戸でも京都でも彼の許に雋鋭が次々に集まってきた理由に目を転じてみると、詩の強面とは裏腹に、その人柄には他人を威圧する説教臭さが全く感じられないのが不思議にも思はれることです。 むしろ詩人の生涯を外から眺めると、漢詩人の妻、紅蘭の存在をはじめとして、死に際に至るまで、一種の「ドタバタ感」が付きまとひ、鹿爪らしいところが却って可笑しさに見えてきます。 新婚時に三年も帰らなかった星巌ですが、妻を抛ったらかしにする非常識は如亭と同じでも、山人が京都の狭斜で愛人と晩年を過ごす様が如何にもダンディに映えるのに対して、 今度は付いてゆくと聴かない花嫁と、そのままおしどり道中をきめこんでしまふ星巌には、以後、世の常識に対して二人してふんぞり返ったれ、といふ、まことに散文的な、 肚を括った居直りが付きまとひます。これは女性にモテモテだった色男、柏木如亭や頼山陽とは決定的に異なり、 やがて一介の詩人が一国の歴史の転換点の政治に関与するといふ前代未聞の生涯に一本通った筋となってゆきます。そんなに大袈裟に云はずとも、星巌といふ大詩人が他の誰とも決定的に異なるのは、 年の離れた勝気な才女と結婚したために、浮気すると家のなかの色々なものが飛んでくるといふ、さわやかな伝記をもったところ、ではないでせうか(笑)。(つづく)

【資料】

  如亭山人訃至勢南。余恐其遺稿散亡。遽入京遍索之故舊。云紀十千持去。乃又抵浪華。就而請之。得古今體二百餘首及詩本草一巻。遂與桑公圭、高卓公二子相謀以上刻。

遣譜飄零何處尋。高山流水舊知音。京華探遍浪華去。不負平生一片心。(56p)
如亭山人の訃、勢南に至る。余、其の遺稿の散亡するを恐れ、遽かに京に入り遍ねく之を故旧を索む。紀十千(浦上春琴)持ち去ると云へば、乃ちまた浪華に抵(いた)り、就て之を請ひ、 古今体二百余首及び詩本草一巻を得。遂に桑公圭(桑原苾堂)と高卓公(高須鬳堂)二子と相ひ謀り、以て上刻す。

遣譜は飄零として何処にか尋ねん。高山流水、旧知音※、京華遍ねく探して浪華に去る。負かざるは、平生の一片の心。   (※「知音」は琴の名手伯牙とその鑑賞者鍾子期の故事ゆゑ「遺稿」ではなく「遣譜」。)

  弔如亭山人墓(岩波文庫『詩本草』題詩による)
平安城外花如錦。只愛春風不要官。旧句看君胸宇濶。近唫覺我鼻端酸。烟籠宿草香魂遠。雨滴空山白骨寒。憶得去秋藁殯日。藤条手縛木皮棺。        梁卯拝草

 如亭山人の墓を弔ふ
平安城外、花は錦の如し。只だ春風を愛して官を要めず。旧句、君が胸宇の濶きを看。近唫、我が鼻端の酸なるを覚ゆ。
烟は宿草を寵めて香魂遠く。雨は空山に滴りて白骨寒し。憶ひ得たり、去秋藁殯の日。藤条手づから木皮の棺を縛りしを。         梁卯拝草

  過如亭山人埋骨処潸然成長句(『星巌甲集』による。本文59p)
平安城外春如海。只愛鶯花不要官。空負輪囷詩胆大。可堪流落客衣單。煙籠宿草幽魂遠。雨滴荒山白骨寒。囘想涼風埋殯夕。枯藤條束木皮棺。

  如亭山人埋骨の処を過ぎる。潸然として長句成る。
平安城外、春、海の如し。只鶯花を愛して官を要せず。空しく負ふ、輪囷(屈曲)詩胆の大。堪へるべけんや流落客衣の単(ひとへ)に
煙は宿草を籠めて幽魂遠し。雨は荒山に滴りて白骨寒し。回想す、涼風埋殯の夕。枯藤、条もって束ぬ、木皮の棺。

2008年 6月20日


【ノート6】白鴎社の詩人たち

 梁川星巌、村瀬藤城らを中心に結成された美濃地方の漢詩サロン「白鴎社」については、藤城の「庸齋三稿」同様、 原図が大水ですでに失はれた「白鷗社集会圖」の写しが、今に参加メンバーの面目を伝へる貴重な資料となってゐます。文献に乏しく、 年歯の上下を知ることができない人々もありますが、江馬細香によって「極めて其の形を肖せんことを要」められた図には、その立ち位置にも微妙な配慮が払はれてゐる筈であり、 伊藤氏の調査記述と合せて絵解きを試みるのも楽しいもの。

 画面を見渡してみると、まづ異風の総髪人物、梁川星巌の眼光が鋭い。隣の同志、柴山老山とともにリーダー格であるのは瞭然で、詩社であるから老山が一歩退き、 星巌に何事かを図る態となってゐます。江戸帰りの二人の先輩の背後に寄り添ふのは服部笙岳(のち星巌門下)と、最年少らしい塚原篁圃(藤城門下)。京に頼山陽を戴く村瀬藤城と、 師を持たぬ孤高の医儒石原東堤が、倶に画面中央に配されてゐますが、書を検分する藤城の自然体に対して、東堤は、孤り超然たる面持ちで胸を張り少し浮き気味にも見えます。 前面には最年長と思はれる栢淵蛙亭が座し、これに澤井樵歌、日比野草川といった残りの詩人たちが(おそらくは年齢順に)並んでゐる。対する女性陣は画面の華ですが、 細香は中でも(この図を依頼したのであるから当然ですが)星巌とともに結社の象徴的存在として描かれてゐるやうに見えます。当然一緒にゐてをかしくない卜部氏金英の姿がみえないのですが、 経学一筋、吟哦を事としなかった夫の柴山老山のもと、或は肖像となるのを断ったのでせうか。さういへば、後藤松陰と牧百峰はすでに京にあったとして、不思議なのは神田柳溪と、 金森匏庵の姿もみえないことです。眇だった柳溪と、後年失明する匏庵は、ともに肖像を故意に遺さなかった可能性はあります。次の村瀬藤城の手紙からも分かるやうに、 実弟秋水もゐていいのですが、これは正式なメンバーといふより、当時は陪席扱ひだったのかもしれません。

栢淵蛙亭(1785天明5年〜1835天保6年 [養老郡]養老町高田)

江馬細香(1787天明7年〜1861文久元年 [大垣市] 藤江町)

柴山老山(菅原琴)(1788天明8年〜1852嘉永5年 [揖斐郡揖斐川町])

梁川星巌(1789寛政元年〜1858安政5年 [大垣市] 曽根町)

村瀬藤城(1791寛政3年〜1853嘉永6年 [美濃市]上有知)

石原東堤([安八郡] 墨俣町大字下宿の人。名:和、字:子周、医家桂園の子、業を継ぐ)

日比野草川(1792寛政4年〜1872明治5年 [養老郡]養老町高田の人。名:孔武、字:士力、通称:松二郎、画家鶴翁の子)

村瀬秋水(1794寛政6年〜1876明治9年 [美濃市]上有知)

神田柳溪(1796寛政8年〜1851嘉永4年 [不破郡]垂井町岩手)

後藤松陰(1797寛政9年〜1864元治元年 [安八郡]安八町)

金森匏庵(1798寛政10年〜1862文久2年 [大垣市])

服部笙岳([養老郡]養老町高田の人。名:参、字:生萬、通称:称六、のち玉池吟社門下、『星巌集』校訂)

塚原篁圃(藤城門下 [関市]下有知)

澤井樵歌([安八郡]墨俣町)

牧 百峰(1801享和元年〜1863文久3年)

卜部金英(柴山老山妻)

張 紅蘭(1804文化元年〜1879明治12年 梁川星巌妻)

 【資料】

 與菅太古
春首在中倫堂。遂披雲之願。恨相見之晩。幾乎一年。鷗社交態。不覺交淺。他日或散西方。恍惚魂夢。未嘗去藤江(大垣藤江町:細香居所)蘇彌(曽根:星巌居所)之間。僕從得老兄。 疑輒質。惑輒問。隠如一外府。然於交誼。宜有犯無隱也。同閲詩本草。疏一二與老兄異意者。亦是。幸勿深罪。積雪新霽。遙想揖斐山水明麗皎潔。豈勝馳情。深寒。惟望爲時自重。

菅太古(菅原老山)に与ふ
春の首め中倫堂に在りて、披雲の願を遂ぐ。恨むらくは相見ゆるの晩きこと、幾ど一年。鷗社の交態、交り浅きを覚えず。他日或は四方に散ずるも、恍惚魂夢、 未だ嘗て藤江(大垣藤江町:細香居所)蘇彌(曽根:星巌居所)の間を去らず。僕、老兄に従ひ得 て、疑へば輒ち質す。惑へば輒ち問ふ。隠るること一外府の如し。然れども交誼に於ける、宜しく犯すこと有りて隱すこと無かるべし。同(とも)に『詩本草』を閲す。 疏の一二に老兄と異意あるは、亦た是れ、幸ひに深き罪には勿らん。積雪新霽、遙かに揖斐山の水明の麗皎、潔きを想ふ。豈に情を馳せるに勝へんや。深寒なれば、惟だ為に時の自重を望む。

  與 管太古、梁伯兎、菅拙修、細香女史等
因冢温還。審諸兄文候萬福。社盟加修曷勝喜抃。承拙兄所約集遊。以復月七日爲期。鴎社之集亦期其五日六日。而一往兩濟。甚好、甚好。忽聞神己先馳。獨奈家弟疾勢、未辨安危。 察其病因非復一端。嗜好之多。耽書耽畫。近又耽學。得頼家日本外史廿巻。至以數月謄盡。其刻苦率此類。而且晝則家事蝟集。亦以身當之。毫無倦色。凡百所學皆取諸短檠下。 得無霜露之冒乎。使渠至此。其責誰任。故不得不竭力保護。調膳煎藥不付奴僕。諸兄諒察。雖然集期豈可違乎。自五日至七日候其疾少滅。必當趨赴。或不得往、更遣冢温相謝耳。 唯願諸兄維持社會。勿以僕故致闔社盟寒則幸。寒冷日至。萬萬珍嗇。(庸齋三稿)

 管太古(菅原老山)、梁伯兎、菅拙修(菅原拙修)、細香女史等に与ふ
冢温(塚原篁圃)(美濃下有地へ)還るに因りて、諸兄の文候万福を審かにす。社盟に修を加へる、曷ぞ喜抃に勝へん。拙兄(菅原拙修)に集遊を約せし所を承るに、復月(十一月)七日を以て期と為し、 鴎社の集また其の五日六日に期すと。而して一往、両つながら済まん。甚しく好し、甚しく好し。忽ち聞く、神すでに先づ馳せると。孤り家弟(村瀬秋水)の疾勢、未だ安危を弁ぜざるを奈んせん。 其の病因を察するに、嗜好これ多きは復た一端に非るか。耽書耽画、近くはまた学に耽る。頼家の『日本外史』廿巻を得て、数月以て謄し盡すに至る。其の刻苦、率ね此の類ひなり。 而して且つ昼は則ち家事蝟集して、また身を以て之に当る。毫も倦色なし。凡百学ぶ所は皆これを短檠の下に取る。霜露の冒す無きを得んか。渠をして此に至らしむるに、 其の責を誰か任ぜん。故に力を竭して保護せざるを得ず。調膳煎藥、奴僕に付けず(自ら行ふ)こと、諸兄、諒察せよ。然りと雖も、集期は豈に違ふべけんや。五日より七日に至る候、 其れ疾ひ少しく滅ずれば、必ず当に趨き赴くべし。或は往くを得ざれば、更に冢温(塚原篁圃)を遣し相謝るのみ。唯だ諸兄の社会を維持するを願ふ。僕の故を以て闔社の盟に寒を致すなかれ、 則ち幸ひなり。寒冷日に至る。万々珍嗇(御自愛)。(庸齋三稿)

2008年 7月4日


【ノート7】へ続きます

Back