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『杉浦明平暗夜日記1941-1945』

2015.07.05 一葉社 若杉美智子, 鳥羽耕史 編

本文575p 19.5cm上製カバー 5000円(税別) ISBN:978-4-871960571


【紹介文】

 小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。 編者の若杉美智子氏は、個人誌「風の音」にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、 小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、 晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。 しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、 『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

暗夜日記

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、 芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。 読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。 でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。 編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」“証拠物件”であることもまた、読まずとも分る気がいたします。

 さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちのことを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、 私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ斯様に口ひびく毒舌を、当時のそれにたち戻り、俯瞰して理解できるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇の東洋的ヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、 敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情に溜飲を下げたい人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、 残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、起きてしまった以後の戦争の悲惨さや理不尽さを、 文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、 そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、 杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、 同じく皮肉屋で生涯を通した直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。そんな心構へで、 あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。 興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、 結局どのやうなものであったかさへ生涯口にはされませんでした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。 むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」
 といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。


【読後感】

 新しくなった岐阜市立図書館に入ってゐたので、早速借りてきました。

 編者がまえがきで述べてゐる感想の通り、『暗い夜の記念に』における憤懣一色の内容とは落差が激しく、たしかに徴兵を逃れた豪農の「坊ちゃん」の厭戦日記といふ感じではあります。 とはいへ、万一憲兵に差し押さえられた場合を考慮して、詳細に書かれてゐる戦局は日本についてではなくドイツのことですし、アッツ島玉砕のことなどに触れて箇所のは珍しい。 また敢て空白の字数で伏せた箇所もありますが、

「ドイツではゲーテの少数を除けば、文学より哲学者のライプニッツ、へーゲル、フォイエルバッハ、更に〈九文字空白〉こそ文字でかかれた人類の師範である。 しかしハイネを忘れてはならぬ。ルターを逸してはならぬ。(中略) ロシア文学については長々しくのべるのをやめよう。(中略)それから〈四文字空白〉の凱切な論文集を。」(昭和18年5月7日の日記より)

 ここはもちろん〈マルクスエンゲルス〉と〈レーニン〉なのでありましょう。

 若き日の片思ひの数々が書き綴られるくだりなど、著者の愛読者にとっては微笑ましくも意外な読みどころに違ひないのですが、今読んで意味があるとすれば、 本書の宣伝文句のために今国会の安保法案騒動を意識して引かれた

「敗戦後に一箇の東洋的ヒットラーが出現し、民を殺すことを草を薙ぐごとく……粛然として声なからしめるかもしれないのである。しかしてその可能性は、 あらゆる民衆利益 の擁護者を掃蕩することによって、今日本においては準備せられつつあるのだ」 (昭和19年1月19日の日記より)

 といふ言辞ではないやうに、やっぱり思ひます。彼は日本の敗戦の後にワイマール憲法に擬へられるべき日本国憲法が布かれる事を、この時点で予言した訳でもありませんし、 20年にも満たなかった悲惨な第一次大戦後のドイツを、戦後日本の驕奢と飽食を極めた70年間に擬へるのもをかしいです。教条的なイデオロギーを嫌った彼ならではの姿勢を慮るならば、 ここは解説において共編者の鳥羽耕司氏が指摘された箇所、敗戦後にやってきた進駐軍が自宅から酒をいいやうに接収してゆく様子に対し、

「そうした過程を経て、一九四五年の日記が「しみじみいやになる」ことで閉じられていることの意味は大きい。戦時中にも豊かな食生活を送り、 地主の息子としてのメリットを享受していた杉浦が「民主化」を進めているはずの米軍への不満を、生活の中から感じたことを意味するからである。567p」

 といふ部分にこそ、大きく頷かざるを得ませんでした。

 以下に拙サイトと関係する立原道造や富岡鉄斎への視点を示す、当時の杉浦氏らしいところを少し引いて紹介にかへさせて頂きます。

昭和16年4月18日(金) 曇・夕立
(前略)
立原の校正をして今日も怒る。「風立ちぬ」(※堀辰雄論)の終りでやってる保田の尻馬へ乗ってのファシズムヘの奉仕はきたならしい。醜悪だった。

昭和17年1月31日(土) 晴
(前略)
 生田と富岡鉄斎の展覧会を見に行く。上野は春日のように照っている。鉄斎というのは写真版などで見たかぎりでは自由自在な筆づかいに敬意を感じていたが、それほどのこともなかった。 よいものはごく稀である。尤も八十才を越えると急に進歩して一人の画家として大成して居る。色彩も晩年の沈んだものには感嘆すべきものがあるけれど、線などの使い方を全然知らない。 生田は人間が皆いい顔をしてると言ったけれど、私はこういう酒脱な顔を卑しいと思う。もっと水気があるのが美しい。山と水ばかり画いていたら私はもう少し尊敬したろう。 しかし忠君愛国の画題、楠公だとか、富士山だとかをいくつも並べているところを見ると、彼が単なる技芸師にすぎなかったことを教えられる。この点は芸術至上主義的傾向を有するすべてに共通する、 例えば今日の高村光太郎のごときがそれだ。彼らは技術だけを習っているが、現実に対して何らの正しい認識も有たないので、そういう現実に直面すると忽ち自分の馬脚をあらわす。 そういう自分の弱点を避ける賢ささえもっていないのである。高村光太郎は今月は蒋介石に与える詩を作っている。――とも角、鉄斎が五十か六十で死んだら彼は三流どころの画家であったろう。 八十以後にあのような発展をもつということは稀有でもあれば、驚異に値することでもある。いずれにせよ、私は未完成のまま限りない将来を偲ばせてやまない華山の方に遥かに遥かに敬礼する。 私は鉄斎の画だったらほんの二つか三つしか欲しくはないであろうが、華山のだったら断片零墨でも珍重するであろう。(後略)

昭和17年3月29日(日) 曇・時々小雨
 夢の中で立原に会った。数寄屋橋の上で、生きてるときと同じようにロバのような目をしていた。私は彼が死んでることを承知していた、だからどうしたのかたずねた、 「余りさびしいから迎えに来た」と立原は腕を引いた。「まだ早すぎるよ、だめだよ」と私は、別に少しもこわく感じないで答えた。「それじゃ仕方がないなあ」と立原は答えた。

きょうは立原の四回忌であった。昨夜一度水道橋で別れた寺島が、小田急か何かの連絡社線がなかったからと又もどって石井の室に寝ていた。明石と三人、昼飯を食ってもどると、 小山が待っていた。家から食パンと卵を送って来ていた。

 谷中に小山と着いたのは二時ごろだった。深沢紅子さん、水戸部さん、生田、小山、僕それに立原のお母さんと達夫さんだけで、のり巻が来るまで喋っていた。(後略)

昭和18年5月7日(金) 晴
(前略)
 いつぞやの日記にヘツセにならって「世界文学をどうよむか」考えたことがある、あれからどれだけたったか知らんが、今とは多少ちがっているであろう。後々の覚えのためにここに又記しておこう。(中略)

 東洋には作品はあるが、作者はない。「千一夜物語」は東洋人の織り上げた美しい巨大な夢だ。支那には孔子の「論語」が最も美しい。老子を私は部分的にしか理解しない、 荒踏にすぎる、それに比べると論語は一語々々金を伸べたようだ。思想家としては「墨子」。歴史は「左伝春秋」。「戦国策」。「史記」は諸侯の興廃を記したところで、 一般にいう列伝をそれほど高く買わない。「水滸伝」「三国史」はまだ読んだことがない。しかし一度読んだ「聊斎志異」の艶福な怪談は忘れがたい。けれど、 何といっても軟文学は「紅楼夢」に尽されるであろうか。近代では大魯迅が卓然として世界の水準を凌いだ。
国文学で必読の書は、「万葉集」「古事記」。「竹取」「源氏」「今昔物語」。「保元・平治物語」「金塊集」。「徒然草」、「歎異鈔」「一言芳談抄」「夢中問答」。西鶴。 芭蕉「俳句」及び「俳諸」、蕪村の一部。宣長「玉くしげ・秘本玉くしげ」。「五輪書」。江戸文学を一つというなら「浮世風呂」を加えよう。「能狂言」の極く少数のもの。「蘭学事始」。

 明治以後では、四迷の「浮雲」他二作。鴎外の全部。藤村詩集。子規の小説をのぞく全部。独歩。漱石の「猫」と「坊ちゃん」、荷風「おかめ笹」「腕くらべ」「あめりか物語」「江戸芸術論」「渥束椅謂」。 春夫「田園の憂欝」「都会の憂欝」及び初期短篇。有島武郎全部。志賀直哉「暗夜行路」。芥川「河童」以下晩年の作品。
歌は左千夫、茂吉。詩は萩原朔太郎。なほ福沢諭吉の文章、特に「自伝」と「文明論の概略」。

 歴史家では原勝郎のもの。又魯庵の随筆全部。

 現代では小林。中野。それから梶井。横光は「家族会議」以前。川端は「伊豆の踊子」に尽きる。
まだ書きおとしはあるが、ここでやめる。

昭和18年8月29日(日) 晴
(前略)
 きょうは弟は点呼だった。川口も軍医中尉の服に勲六等旭日章をつけて出かけると、俊介や千鶴子が「兵隊ちゃん、兵隊ちゃん」と言ってよろこぶ。芥川の言うとおり兵隊と子供とは同じ趣味だ。 竹槍、銃剣これが日本人の武器であり、絶えず少佐殿が主張しておられる決戦用の道具だ。まことにそれらは大和魂にふさわしい。竹槍と銃剣はノモンハンでソ連の戦車に千本一からげに幾十束がふみつぶされた、 竹矢来をふみにじるのと大差ないのだから。ソ連にもかなわぬし、況んやアメリカ兵に対してをや。それでは何のためになるかといえば、まず支那人に対して役に立つ。 次に満州人、朝鮮人、そして最後に最も重要なる任務として日本人の暴民に対して威力を発揮しうる。

 ともあれ銃剣がいかにはかないものであったか、アッツ島の悲劇が如実にこれを物語っている。きょうの新聞によれば二千五百四十余名が全減した。 それは悲壮ではあるけれど統帥の失敗による犬死の見本であるにすぎぬ。これがよき教訓として国民の生命を大切にするよすがとでもなればこの二千五百名は犬死ではない、 が同じ悲劇が南方でも繰返されるのをやめないであろう。成程アメリカ人は人間が貴重な生命をこんなにもそまつに扱えるものかとびっくり仰天したかもしれぬ。 丁度われわれが生蕃人の乱暴さに恐怖を感じるように。しかしそれにも拘らず、二千五百名が一人のこらず消え去ってアッツは結局悠々とアメリカ人の拠るところとなってしまった。 「アッツ島につづけ」という標語が出来上った。しかし行賞となると「勇士を代表して山崎部隊長」だけが「二級進級した」のである。

 職業軍人に対してのみひたすら恩賞が加重される、彼らはどんな勇敢な死に方をしようともそういう特別の賞与に値しないはずなのに。 もともと彼らはそういうふうに死ぬために平和なときから飼われてあるのだから。大佐から中将になれば遺族扶助料だけでも大したちがいだ。しかし一等兵が上等兵に、 或るは中尉が大尉になったところでそれは遺族に座布団一枚多く与えるがほどもない。(後略)


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