(2007.01.09up / 2009.06.24update) Back

『漢詩閑話 他三篇』

中村竹陽著 1991.11 関市千疋メインスタンプ刊行 19cm 上製 299p \非売品

漢詩閑話 他三篇


 岐阜県図書館にゆくと二階の郷土資料コーナーで、美濃漢詩壇最後の血統を継ぐ、今はすでに物故された詩人たちの遺した編著書が細々とまとめられてゐるのに出会ふことができます。 しかしながらこれらは殆どが自費出版かつ貸出禁止で、書店・古書店で探してもみつからぬものが多いのです。不躾とは存じながら奥付に記載の発行者まで直接問ひ合はせてみると、 意外なことに非売品だが残部があり特別に頒けて頂ける場合があります。諦めずに何でも当たってみないとわからないものですね。
 さて、該書もそのやうな経緯で御寄贈に与りました一冊、地元漢詩人の遺文集『漢詩閑話他三篇』です。文壇ジャーナリズムと無縁の書といふ印象は、 丁寧にルビをふった二段組300頁の分量・装釘とともに、(内容は全然関係ないですが)『西洋の没落』の縮刷版を手にした時のことを思ひ出しました。

 内容は大きく三部に別れ、著者が晩年に初学者相手に語った平易な漢詩談話を主にまとめた本編著作部、故人を偲ぶ関係者の言葉と詩碑建立始末記、 そして遺族「編輯子」の手になる解説といふ、所謂「饅頭本」と呼ばれる典型的な構成ではあります。ではありますが、史跡調査に訪れた大学の先生に、

「私は今日、生きている村夫子というものをこの目で見た。」

 と云はしめた当人、竹陽中村先生による、漢詩を概説・鑑賞する行文の端々に表れた折り目正しい「漢学者の志」といったたたずまひに脱帽であります。

「祖先から継承した国語や国字を軽蔑する輩に、文化を口にできるような資格はありません。」
「漢文科を増設するためには、現行の英語授業を半分に減じ、その分を漢文に宛てればよろしい」(笑)
「素人に漢詩が読めないのは、第一には漢文の置き字の知識がないからです。第二には文字の多義性即ちその字がもつ別の意味、別のいろいろな読み方を知らないからです。 第三には是に関連し、異字同義の文字をたくさん知らぬからであります。」(うう。まことにそのとほり)

 そして次に、これがこの本の一番素晴らしいところなのですが、「編輯子」として黒子に徹した遺族正夫氏による巻末解説の、父親の逸話を語る、その語り口が実にすがすがしく、 この書物を再読愛蔵に足るものへと引き立ててゐる点です。さきに和本仕立ての遺稿詩集『竹陽詩鈔』に収められた解説「人間竹陽の生涯について」を読み、 身内びいきを避けたユーモアの筆致に感じ入ったばかりですが、翁の幼年期から説き起こしたこの巻末の長文「竹陽の時代」に録された逸話の数々も、 はっきり云ふと「読み物」としてみるなら本編より面白い(笑)。有名人でもない一地方の漢詩人の伝記がここまで面白く、感動をもって読めるのは、話の真実もさながら、 筆者の筆力に恃むところが大きいと思ひます。実に漢学精神一本槍に殉じた硬骨漢の生涯を伝へる読み物として、或は明治から大正昭和にかけての地方文化を活写した側面史として、 貴重かつ爽快、幸福な読後感に包まれました。

 さて掲示板にも記しましたが、旧臘これらの本を頂きにお伺ひした発行所が、村瀬藤城を語る際には有名な、あの水利権騒動に係はる調停場所であって、 泊り込んだ藤城のお世話をした当主が著者の祖父であり、その際遺された墨蹟についても、あらためてこの本のなかで鑑賞され、写真が添へられてゐる(※後掲↓)訳であります。 しかしながら驚くことはさらにありました。

 その巻末伝記のなかで、明治時代の小学校の先生との師弟愛や、大正時代の地方新聞社における記者気質(このエピソードも実に楽しい)が活写されたのち、 何と翁の三歳年長の従兄として、あの『天の鍵』の郷土詩人深尾贇之丞(ひろのすけ/ひろのじょう)のことが紹介されてゐるのです。 しかも学生時代には休暇のたびにやってきて、
「ぼくは一人ぼっちで兄弟もない。だからぼくの兄弟は従弟の君だと思っている。」
 と親しく文学談を交す仲であった由。裕福な旧家の一人息子であった贇之丞は三高在学時代、田舎学生だった竹陽青年に沢山の文芸書を贈ったと云ひます。 そして後に母校の小学校の代用教員となり、記念文庫をつくるべく設置趣意書をもって奔走した竹陽青年は、それらの本をおしみなく寄贈して蔵書の核となしたと云ひます。 いかに若かったとはいへ、大正の初めに村民の誰もが自由に本の借りられる図書館をつくるなど、先生、節を枉げぬ頑固者であったばかりでなく、自ら率先躬行の人であったこともわかります。 そして未亡人深尾須磨子の名声の影に隠れてしまってゐる贇之丞についてはその為人を伝へる、これは貴重な証言といってよいでせう(※※後掲↓)。

 自ら「閑話」と称し、古人に礼節を執りながら穏やかに説き進む、昔かたぎの行文によって漢詩の教へを受けるのはよいものです。竹のやうに真直ぐな道義と反骨の節を貫いたその実生活、 向日的な努力と感謝配慮にみちたその文業。漢学に培はれた詩人のその名に恥じぬ逸話を拝聴するほど、心の安らぐいやしはありません。
 世間とはかくも狭きものか、くすしき縁しのなせる偶然か、ゆくりなくも近世美濃漢詩壇重鎮の村瀬藤城と、近代口語詩の開拓者だった深尾贇之丞のふたりが私の中でつながったことも嬉しく、 も少しお話を詳しく伺ひたいところです。さても竹陽翁は関市千疋、深尾贇之丞は岐阜市太郎丸、ともに田園都市の境界地にある職場の、目と鼻の先の話にて。

竹陽青年
竹陽青年二十歳の肖像

p1   p2
※ 千疋中村家蔵 村瀬藤城掛幅 (撮影2009.6.23於中村邸)
「早起書感」    「宿千疋中村家」

写本 『四家詞藻』 (早稲田大学古典籍総合データベース) 収録の「藤翁詩巻(68-77までの画像)」に、自筆詩稿が存在する。(2009.05.28update)


※「名詩鑑賞34題」より抄出。117-118p (本文117-118p画像 1  2)

(22) 早起書感  村瀬藤城

早起衡門嗽暁川。鴨崖往事夢依然。浮嵐暖翠長相似。回首平安十七年。
 宿於千匹渡口中村氏家、早起書感、褧、自侍山陽翁於三本木及今十有七年矣、故云。
 [宿於中村氏家、朝々早起嗽流視山、緬然憶起、侍山陽翁於三樹菴時之事、及今十有七年矣、故云:「藤翁詩巻」存録稿]
 癸卯孟夏 褧

「早起門を衡(ひら)いて暁川に嗽ぐ、鴨崖往事、夢、依然たり。浮嵐、暖翠、長(とこしへ)に相似る。首(かうべ)を回(めぐら)せば平安十七年。
 千疋渡口中村氏の家に宿り、早起して感を書す。褧三本木に於て山陽翁に侍して自り今に及ぶ十有七年なり。故に云ふ。
 [中村氏の家に宿り、朝々早起して流れに嗽ぎ山を視る。緬然[はるかに]として憶起す、三樹菴に於て山陽翁に侍し時の事、今に及ぶ十有七年なり。故に云ふ。:「藤翁詩巻」存録稿]
 癸卯孟夏(天保14年旧暦4月) 褧(けい:藤城の名)」

「朝早く起き、門を開いて長良川の汀に下り、清例な暁の川で口を漱いだ。そして昔京都の加茂川の畔で暮らした頃のことが夢の如く思い出された。此処も背後の山緑が水に映じ、 加茂川の景色によく似ている。あの頃のことを振りかえってみれば、もう十七年も昔のことであるが、つい山陽先生のことが偲ばれてくる。
 千疋の渡船場口にある中村家に泊り、朝早く起きて所感を詩に書いた。思えば京の三本木で山陽先生に親しく仕えて以来、今日までにすでに十七年経っている。 故にそれを詩に誌したのである。
 天保十四年四月 褧」

 平声先韻の仄起式正格の七絶で、平灰も起式も整っています。叙景に優れ且つ懐旧の情が濃やかで、作者の人柄を示すような穏やかな詩であります。承句の「夢依然」は、 夢そのままの意、転句の「浮嵐暖翠」は漢詩に於ける慣用詞で、緑の濃い山の形容詞です。「長」には前句の夢に対して現実感を強めたもので深い意味はありません。

 藤城がこの詩を詠んだのは五十二才の時で師の山陽は十一年前に亡くなっています。京都三本木の山陽宅は山紫水明処と称した加茂川岸の茅屋で現在でも京都府の史蹟として保存されています。 藤城が山陽に親炙していた頃は、加茂川で朝の洗面をして東山の景色を眺めたものらしく、それらの思い出や山陽への思慕の念が詩になっています。詩の附記は、 この詩を書いた由来であり、これが題になっています。千匹は千疋のこと、この当時の渡船は私の家が私費で管理していました。馬一匹がやっとという小舟で、夜間は渡航禁止、 船頭は村民中の有志が交替で努め、その日の収入銭の中から若干銭を、門柱に掛けた竹筒の中へ入れて帰ったといいます。この上納銭が舟の修理費の一部に宛てられたらしく、 総体的には渡船経営は赤字で、一種の奉仕事業でありました。竹筒を掛けた門は平凡な長屋門で、昭和四年解体して今はありませんが、太い竹筒だけは残っています。

 さて藤城の筆蹟ですが、この行書体も枯淡な味のある巧い字であります。藤城は生前すでに「書は山陽に優る」といわれていました。 しかし山陽も一見稚筆とはいえ筆勢誠に奔放を極め、山陽流として珍重されています。

 序にここで、藤城と山陽の関係につき、もう少し話しておきたいと思います。 藤城は郷土の代表詩人でありますから、山陽との因縁を知っておくのも無益ではありません。これは美濃詩人と山陽一家の関係でもあります。

 山陽は史家としての著述に一代の精魂を賭した人ですが、交友面は広く当時の一流人物と親交がありました。しかし門弟の養成となると一齋や淡窓或いは星巌ほどには多人数の教育をしていません。 山陽の弟子で著名なのは森田節齋・藤井竹外・児玉旗山・岡鴨里・関藤藤陰らで、この他に師弟の礼をとった人は全国にかなりあります。以上の中でも最古参の直弟子が村瀬藤城で、 塾生として親炙した時代もあります。藤城の他に美濃人の門下生として、後藤松陰・牧百峰・江馬細香・村瀬泰乙らが山陽の教えをうけています。

 後藤松陰は安八郡森部の医家に生まれ、藤城と菱田毅齋に学んだ後に山陽塾に入門しています。後に大坂で塾を開き、山陽の世話で篠崎小竹の娘を娶っています。 山陽の死後は、児王旗山とともに八才の遺児頼三樹三郎の養育に当りました。この少年こそ後年の志士、安政大獄で吉田松陰とともに斬られた鴨p頼三樹三郎です。

 牧百峰は本巣郡文珠の人、山陽に師事してから京都に住み、後に禁裡学習院の教授となっています。山陽死後は遺児で二男の又二郎の養育を引受け、 その傍に山陽遺稿日本政記の編纂を完成しました。又二郎の教育は村瀬泰乙もまた手伝っています。この又二郎が頼家を嗣ぐ頼支峰です。支峰の号は牧百峰にあやかったのでしょう。

 藤城は上有地(こうずち)に居たので直接遺族の世話は手がけていませんが、長男餘一(聿庵)及び梨影未亡人の生活については、絶えず経済的援助を行って師恩に報いています。

 私は少年時代に、遺児三樹三郎を教育したのは川上東山であるという一連の物語を読んで、一途にそうとばかり思い込んでいたのですが、真相はどうも違っているようです。 川上東山も山陽門下で、京都北野に塾を開いていた人です。遺児の教育は誰かの創作講談らしく、実際に面倒を見たのは児玉旗山以外、みんな美濃出身の弟子達でありました。 私達美濃人はこの事実を大いに誇りたいと思うのであります。

 さて藤城は嘉永六年、旅先の城崎温泉で客死しています。このとき藤城の遺骨を護って美濃の実家へ送り届けたのが、当時二十八才の頼三樹三郎でありました。 あの志士三樹三郎が上有知の藤城家へ来たのであります。この感動すべき史実に、村瀬家と頼一家との交情の深さが充分に思いやられるのであります。

 頼家の三男三樹三郎は、山陽の血を最も多く受け継ぎ、尊王援夷運動の思想的指導者でありました。 安政の大獄に連坐し、吉田松陰・橋本左内・梅田雲浜等の一流人物に伍して小塚原刑場の露と消えています。


※「名詩鑑賞34題」より抄出。126-129p (本文画像126-129p 1 2)

藤城達金華。藤城[山]より金華に達す。
藍水三百曲。藍水[長良川]三百曲、
沿川好棲多。川に沿うて好棲[景色のよい住家]多けれども、
未有勝君屋。未だ君が屋に勝るもの有らず。
与君雖不知。君と知らずと雖も、
門外舟路熟。門外の舟路は熟[知]せり。[舟行久已熟。舟行久しく已に熟[知]せり。:「藤翁詩巻」存録稿]
詎図奇縁在。なんぞ図らん、奇縁在りて、
忽来頻信宿。忽ち来り頻りに信宿[連泊]するとは。

一事係釈紛。一事、釈紛[争議の解決]に係はり、
装訴人未服。褧(けい:藤城の自称)の訴人、未だ服せず。
二十七村長。二十七村長、
個個談弁黷。個個、談弁して黷(けがす:汚)す。
対此却諄諄。此れに対して却って諄諄[ねんごろに]、
遅其悟忠告。其の忠告を悟るを遅[待]つ。

此事時一倦。此の事、時に一たび倦めば、
門径[逕]去遊目。門径に去って目を遊ばしむ。
矗矗竹千竿。矗矗(ちくちく:まっすぐ)たる竹千竿、
迸出襍喬木。迸出(ほうしゅつ)して喬木に雑はる。
丹崖与屋連。丹崖、屋と連り、
老藤垂[繞]林麓。老藤、林麓に垂る。[繞る。:「藤翁詩巻」存録稿]
森鬱何古祠。森鬱[ひっそり]、何の古祠ぞ。
神嶺棲飛鵠。神嶺、飛鵠[大きな鳥]棲むは、
此其平生看。此れ其の平生に看る。
遡゙所停矚。遡゙[さかのぼり]して停矚[とどまり矚目]する所
川頭雨漲高。川頭、雨漲りて高く、
暎門鴨頭緑。門を暎[映]じて鴨頭緑なり。

前村未絶津。前村、未だ津[渡船]を絶たず。
賖酒走老僕。酒を賖(おぎのる:つけで買ふ)らんとして老僕を走らす。
日入大月昇。日入り、大月昇り、
清輝射菌褥。清輝、菌褥(いんじょく:しとね)を射る。
及彼天水違。彼の天水[用水]と違ふに及びて、
忍向盃樽楽。忍んで盃樽に向って楽しむ。
優待均吏尊。優待、吏尊[高官]に均し。
顔厚恬秉燭。顔厚[あつかましく]、恬(てん:平然)として燭を秉(と)り、
一酔詩乃成。一酔して詩乃ち成さん。
饒人咲蛇足。饒(ゆる)せ、人、蛇足と咲(わら)はんことを。

 千匹村中村儀兵[君]者、家回林臨川北連翠微。
 余毎舟行下藍[蘇]川、望而知為好棲遅也。[望而知為好棲遅也。余毎舟行下藍川、必過其門外徒欽羨耳:「藤翁詩巻」存録稿]
 近似 官命、有釈紛事、宿于此再矣。賦比紀実[云]。
 所謂 官命以、山縣通渠廿七村与広見三村長、争其渠口地、匝年不決也。
 [所謂 官命以、山縣通渠廿七村与広見三村長、争其渠口之地。官使褧輩諭之止訟焉也。天保癸卯孟夏。:「藤翁詩巻」存録稿]
 時天保癸卯孟夏 源褧併識

 千疋村中村儀兵君は、家は林を回らせ川に臨み、北は翠微[山緑]と連る。
 余、舟行して藍川を下る毎に、望んで好棲遅[良い住家]たるを知るなり。
 [望んで好棲遅[良い住家]たるを知るなり。余、舟行して藍川を下る毎に、必ず其の門外を過ぎり徒(いたず)らに欽羨するのみ:「藤翁詩巻」存録稿]
 近く官命を似[示]さる。釈紛の事有りて、此に宿すこと再びす。此を賦し、紀実す[して云ふ]。
 所謂(いはゆる)官命とは、山県(やまがた)通渠の廿七村長と広見三村長と其の渠口地を争ひて匝年(そうねん:3年程)決せざるを以てなり。
 [所謂官命とは、山県通渠の廿七村長と広見三村長と其の渠口之地を争ふを以て、官、褧輩をして、これを諭し、訟へを止ましむなり。:「藤翁詩巻」存録稿]
 時に天保癸卯孟夏(天保14年旧暦4月) 源(みなもとの)褧 併せ識す。

 附記 末部の「所謂」と「官命」の字間が一字分空白なのは、「官」の字に憚って空けたのです。また「廿七村」の下に点が打ってあり、 末尾の「孟夏」の下に点と「長」の字が書いてあるのは、「長」の字を脱落したからそれを入れて「廿七村長」と読めということです。この作法は誰の書にもよく見かけます。

 この詩には難字はありません。一寸読みにくいのは、詎なんぞ・黷とく・遅まつ・襍まじはる・賖おぎのる・饒ゆるす・咲わらふ・匝そう、 の諸字です。なお句として解り憎いのは「暎門鴨頭緑」で「門は水面に映じ、波頭が緑の鴨の頭の如く見える」ということです。 また「及彼天水違」は「用水間題についての村長達の非違を思えば」という意味であります。千匹は千疋、儀兵は儀兵衛の略、天保癸卯は天保十四年(一八四三)。 この詩は山県用水の争議の時、調停のために来た藤城が、私の家に逗留中に詠んだ詩で、前掲の「早起書感」とは別の日に書いています。五言三十六句から成る長い叙事・叙景詩ですが、 排韻・換韻・平仄すべて不規律で、完全な不定格古体詩であります。詞字は平易、叙述は綿密、詩風は枯淡の面白い長編であります。

 詩の初めは中村家に泊ることになった動機を記し、次に紛議の情況に触れ、転じて門外の風景の佳さを叙し、最後に逗留中の好遇を感謝しています。 そして附記では賦詠の由来を、さらに八十余字を費して入念に書いています。この附記がやはり詩の題を意味するもので、表題は私の仮定にすぎません。

 藤城が尾張藩の指示で仲裁に来たのは、地元の広見三村が尾州領であったからと思われます。争議は少し長引きましたが一応解決しています。この争議に於ける藤城の活躍は他に記録がないので、 その意味でこの詩は一つの郷土資料を提供しています。こうした例もよくあり、杜甫の詩なども史料的価値が多いといわれています。

 念のため詩の大意を述べておきます。

「上有知の藤城山から岐阜金華山に達するまで、長良川はいくつも屈曲して風景が佳く、沿岸には好棲の家が頗る多い。しかし中でも君の家に勝るような形勝地は他には無い。 君とは全く知らぬ仲であった。だが門外を流れている長良川だけは舟便で何度も下っているからよく知っていた。ところが奇しくも急に君の家に来て、何泊もつづけて宿ることになった。 それは山県用水の紛争事件が起き、藩命に依って私がその解決に当ることになったからである。私に提訴する者達はまだ私の意見に承服していない。 三十人の村長はみな勝手なことばかり言って肯(き)かず、その頑迷さを少しも恥としていない。しかし私は頭から叱りつけず、彼等を懇ろに諭して自分の非を悟るのを待つことにしている。
 会議が全く停滞し、私も坐に飽きた時は、家を出て門外を散歩し、附近の景色を眺めて目を楽しませることにした。真直に伸びた無数の淡竹(はちく)が樫や杉の大木にまじって、 迸るごとく空へ突き出ている。家屋は赤い崖に接し、大きな藤の木の枝が山麓の林端に垂れ下がっている。こんもりした静かな森の中には何の祠があるのであろうか。 その社の杜に大きな鳥が棲んでいるらしく、此処へ来てからいつも見ている。川岸をさか上り立停まって長良川を見渡すと、一面に雨水が高く漲って門影を映し、 緑色の波頭は鴨の頭のように見えている。
 前村へ渡る舟はまだ稼働している。そこで酒をつけで買おうとこの家の老使用人を走らせた。間もなく太陽は沈み大月が昇りはじめた。 その月の清い光は座敷の寝床にまで射しこんでいる。白分が扱っている用水闘題の紛議を思うと面白 くないが、これはとにかく我慢して、こんな時には酒を楽しむのに限る。この家の待遇は甚だよく、まるで身分の高い役人に対するような歓待である。そこで少 々厚釜しいかも知れぬが、一詩を認めんとして灯を引き寄せた。そして一酔の間にこの詩ができ上がった。こんな時によけいな事だと人は笑うだろう。だがどう か笑うことだけは勘弁して頂きたい。
 千疋村中村儀兵衛君の家は、周囲を木立で囲まれ、前には長良川が流れ後ろは翠山につづいている。私は舟便で長良川を下るたびに、いつもこの家の景色のよいのに感嘆してきた。 今回藩命に依って調停に当った事件があり、同家につづけて何泊もした。詩はこの事実を書いたものである。なお藩余というのはすでに山県用水に関係する二十七村長と広見三村長の間で、 用水取入口のことで紛争が起き、もう三年も未解決のままであった事件を調停せよと命ぜられたことである。 時に天保十四年四月 源褧併せ識す。

 藤城が山県用水事件の調停を命じられたのは、十年前の曽代用水間題解決の力量を買われたものと推察されます。そしてこの事件を無事落着させたのも、 藤城の手腕と人徳でありました。当時議場となった私の家も大騒ぎで、座敷は藤城の居間に宛て、座敷に続く六帖と八帖の二間に三十ヶ村の代表が詰めかけ、連日喧々轟々の有様、 家の者は半月以上も何もできなかったといいます。用水問題は農村の死活問題であり、詩の中にも田植えを目前にした農民達の、深刻な焦りが感じられます。

 また気晴しに戸外を散歩する藤域の観察眼も鋭く、往年の佳景を活写して余す所ありません。詩人としての藤城の本領を見るようであります。藤城五十一歳でした。


※※「竹陽の時代」巻末解説より抄出。275-277p

 (前略)
 竹陽の父系の従兄にも秀才があった。
 父の姉が近くの太郎丸村の旧家深尾家に嫁していた。幕末土佐藩家老で有名な深尾鼎と先祖は同族である。深尾家は近郷屈指の財産家であったが、家族が死に絶え贇之丞という子供が一人だけ残った。 そこで千疋の伯父中村嘉市が後見人となって財産を管理していた。伯父は県会議員に立候補して連統五回落選したが、六回目についに宿敵梅田英一を破って当選した人である。 この事は、「中村県議の六遍主義」といって県下でも評判になった。四十年後の終戦後県会選挙の時すら、新聞批評の記事に「中村嘉市翁の六遍主義」として詳述されたくらいである。 ところで嘉市伯父は自分の選挙費用を、深尾家の管理財産からひねり出したといわれた。政治性に富んだ管理人だから、そんな濡衣も多分に蒙ったに違いない。
 さて贇之丞の方である。

 彼は幼少から体質虚弱で学校をよく休んだ。だが学業の成績は抜群であった。岐阜中学から三高に入りさらに京大工科を出て、鉄道省の技官となった。生来文学的資質に恵まれ、 文科に進まなかったのを後悔したという。

 彼は竹陽より三才年長で、中学から大学までの学生時代は、休暇のたびに竹陽宅に来て、二人は兄弟の如く親しかった。贇之丞は竹陽と違って家が裕福だから、 欲しい書籍は自由に買い求めることができた。竹陽はこの従兄からたくさんの文芸書を貰った。特に三高時代の彼から寄宿舎宛に送って貰った本が多く、後に村の記念文庫に寄付した書物も、 大半が贇之丞から貰って大事にしていた文学本であった。本も有難かったが、もっと楽しかったのが、文学の話を聞くことで、竹陽の記憶によると贇之丞はこの頃、 外国文学に関心が高かったようである。

 贇之丞は京都帝国大学在校中に、丹波の没落地主萩野家の末娘須磨子と知り合って恋に落ち、就職後にすぐ結婚した。この新妻が後に女流歌人として売リ出した深尾須磨子である。

 深尾須磨子は有名人である。しかし知られていないこともあるので、少し書き残しておきたい。

 大正七年三月嘉市伯父が他界し、その葬式に贇之丞も参列した。この折に竹陽と一時間ほど会って話したが、これが最後となった。二年後の九年夏、贇之丞は急性肺炎を発し、 三十四才で惜しくも急逝した。彼には子供が無かったので、深尾家の全財産は未亡人須磨子の所有となった。彼女はこの財産を悉く売り払って金に換えた。親戚の者はこぞって反対したが、 嘉市伯父亡きいまは、才気煥発の未亡人を阻止できるものは誰もなかった。

 彼女はこの大金を握って上京した。そして一夜にして女流歌人に変身した。彼女には文学趣味があり、贇之丞生前にも二人で現代自由詩を研究していた。 その才能を生かしたのである。その後の生活は華やかで、文壇名士との交遊、ブルジョア的作詩活動、パリヘの洋行、そして帰朝するや忽ち花形詩人としてもてはやされた。

 彼女は才色の他に婚家の遺産たる莫大な財力に恵まれていた。従って詩人といっても、啄木や晶子や或いは林芙美子というような、庶民的苦悩を味わった文人の仲間ではない。 割り切り方の早い先端的現代女性であった。

 第二次大戦の末期、深尾須磨子はアッツ島守備隊激励の軍歌を作詞した。「肉を斬らせて骨を斬る云々」のこの歌は、玉砕寸前のアッツ島部隊に向けて放送された。
 ラジオでこの歌を聞いた竹陽は、
「深尾須磨子は幻想的な変な詩ばかり作ると思っていたが、今回は見直した。彼女も立派な愛国詩人である。従兄の霊もこれで安心するだろう」と言って欣んだ。

 ところが終戦後になって彼女は、
「戦争中に私は大きな過ちを犯した。私はこのことを深く懺悔している」と発表した。過ちとは勿論愛国軍歌を作って軍に協力したことである。深尾須磨子ばかりでなく、 当時はこうした懺悔を発表した有名人が他にもあったらしい。

 「詩歌はその人の信念の迸りである。与謝野晶子は日露戦争中に反戦歌に類するものを発表した。しかし戦争が勝利で終った後にも、少しも後悔などしていない。 毀誉褒貶は時代によって異なってゆくが、変節は永久の恥である。女流詩人は少々軽薄すぎた」
 竹陽はそう言って、従兄夫人のために悲しんだ。その後深尾須磨子は、昭和四十九年八十五才で他界した。

 贇之丞は学生の頃、
「ぼくは一人ぼっちで兄弟もない。だからぼくの兄弟は従弟の君だと思っている。」
 と言ったことがある。実際に贇之丞と親しかったのは竹陽一人で、他の弟たちは殆ど交際がなかった。竹陽との交際も高等学校と大学時代が最も濃密で、 以後は住所が遠隔のため会う機会も稀でしかなかった。(後略)


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